あまりにも透明な

三津凛

第1話

一緒に死んでくれる人、募集します。


腹を空かせた魚の群れに、餌を放り投げたように無数の人間が食らいついて来る。

みんなみんな、死にたがりばかりだ。

私は自分のことは棚に上げて心底思う。

私も死にたい。吐く思いで毎朝電車に乗って、学校へ行くのも飽きた。土気色を被ったつまらない大人たちの群れを見るのももう嫌だ。心底仕事に倦んだ未来を突きつけられるようで、泣きたくなった。進路指導のためのプリントはいくら急かされても白紙のままだった。やりたいこと、できること、やるべきことは哀しいほど重ならない。どの道を選んでもあの大人たちのようになってしまうのだろうか。

生きながら屍のようになるくらいなら、いっそのことまだいくらか生きている実感のある内に死んでしまいたい。


一緒に死んでくれる人、募集します。


私はそれほど重く考えずに文言を打って、ネットの海に投げた。絶えずメッセージは入って来る。冷やかしもいれば、本気で死にたがっている人もいる。こちらが女だと分かると、わいせつ目的に巧妙にシフトチェンジする輩もいる。

鼻で嗤う。生きている人間が一番醜い。腐乱死体なんかよりも、ずっと。


命は大切なものです。1人で悩まず誰かに相談しませんか?


唐突に割り込んできたメッセージと添付されたURLに私は冷めた心地になる。

馬鹿だな、分かってない。

大切なものだと分かっていても、その希少さが重みになるんだ。生き続けることで続いて行く現実と、そのための未来と、その堆積でできる過去に耐えきれないから全てを断つんだ。

これ以上、白紙のままの進路指導プリントなんか見たくもない。

私はそのメッセージの直後に送られてきたメッセージの送り主と自殺をすることに決めた。文面はろくに読まず、相手に言われるがまま場所と時間と方法を約束した。

寄ってたかって正論を叫んで心地好さそうにしている奴らの目の前で、その大切なものを足蹴にしてやりたかった。

何をされたって、もう知らない。死んでやるんだから。



指定された駅と目印に相手が被って来ると言っていた日傘を探して、人波をかき分ける。

「あっ」

思わず声が出た。普通の人たちに混じって、普通の顔をして、死にたがりがいたからだ。思いがけずそれは女性で、一目で仕事帰りと分かる格好をしていた。涼しげな日傘が、思い紺色のスーツと不釣り合いな印象だった。私はこれ以上ないほどの軽装で来てしまった自分を一瞬恥じた。それでも、もうすぐ死んでしまうのだから構うもんか、と開き直る。

「あの、由紀さんですか…」

間近に近寄って、恐る恐る聞く。相手は振り返って笑った。

「あ、ハナちゃん?」

もちろん偽名だった。

「はい」

「じゃあ、行こっか」

由紀さんは食事にでも行くように軽い調子で言って、私の手を引く。冷たい手だった。

やっぱり死にたがりは普通じゃない。巧妙に紛れているだけだ。私は由紀さんに手を引かれながら、まるで他人事のように思った。



由紀さんは私の歳は聞かなかった。私も言わなかった。そのまま由紀さんのアパートに連れていかれて、勧められるままにビールや酎ハイを飲んだ。脳が熱を持って膨張して行くような心地がする。不快ではなかった。不思議と愉快な気持ちになる。

「死にたい人って、多いみたい」

何の気なしに呟くと、由紀さんは嗤った。

「そうね、私とあなたも同じ。死にたくてたまらない。…でも、たった独りでは死ねない、何処にも行けやしない卑怯な臆病者よ」

私は顔を上げた。まるで呑気な酒盛りのようなテーブルを眺めると、急に全てがどうでもよくなった。このまま犯されたって構わない。どうせすぐに死んでしまうのだから。

「どうやって、死ぬの?練炭で?首吊り?オーバードーズ?」

私は熱に浮かされながら聞いた。

「どうやって、死にたい?」

由紀さんは逆に聞き返して来た。同じ量の酒を飲んでいるはずなのに、何処までも熱のない、抑揚の感じられない声色だった。

この人は既に魅入られている。

私は瞬きをして、笑った。

「痛くなければ、なんでも」

「ばーか、死ぬことが苦痛を伴わないわけ、ないじゃない」

由紀さんは私を不意に叩いた。痛くはなかった。じゃれ合うような、救いを求めるような、ふらつく叩き方だった。こんな瞬間に、隠された孤独と哀しさを感じる。

「ねぇ、どうして死にたいの?」

私は残った酎ハイを飲み干してから、応えた。

「つまらない大人になりたくないから」

「ふうん。私も似たようなものね」

由紀さんはそう言うと、突然まだ中身の残る缶ビールを部屋の隅に投げ捨てた。中身があぶくを吐きながら広がって行く。

「ねぇ、私って吐瀉物みたいだなって思わない?」

微妙に焦点の合わない視線を向けられる。

あぁ、この人は病んでいると私は思った。それでもこの病んだ人と抱き合って死んで行く自分も十分病んでいるだろう。

「私も、吐瀉物みたいなものだし」

私は笑った。由紀さんは私を睨みつける。据わった瞳を向けられて、不意に首を絞められた。

親指がちょうど首の真ん中に食い込んで、反射的に由紀さんの頰を殴った。

「ほら、やっぱりあなたはまだ生きたいのよ」

由紀さんは寂しげにしゃがんだ。私は訳が分からず、同じようにしゃがみ込んだ。同じ行動をしても一度空いた穴は塞がるほど易しくはないだろうけれど、何かが私の膝を折らせる。瞳を覗き込むと、淀んだフローリングが映っていた。

この人の闇は深い。

「命は大切」

由紀さんが不意に呟く。私は不躾に割り込んで来たメッセージを思い出した。

「そんなことを何万回と言われるよりも、たった一度だけでも、あなたのことが大切って言われる方がマシだとは思わない?」

私は無言で頷いた。

「でももう、遅いの」


死にたがり、死にたがり。この死にたがりめ!


何かが私たちを嘲笑う。

それから真っ白なラムネのような錠剤を適当に奥歯で噛み潰して、酒で胃の中に流し込んだ。

視界が踊る。

苦味と吐き気が込み上げてくる。唾液と一緒に飲み込んで、意識が離れて行くのを私はひたすら待った。

由紀さんはふらふらとしながら浴槽に湯を張った。私はそれを深く考えもせずただ眺めた。


あぁ、幸せってなんだろうな。

命って、なんだろうな。


今更になって、過去を懐かしむみたいにそんなことがさっきの流れていったビールのあぶくのように浮かんで来る。

自分から望んで、針の突き立てられた板の上を裸足で歩いて、血塗れの足を前にして泣き叫んでいるような、弱さをどこかで感じた。

社会が悪い、学校が悪い、大人が悪い、親が悪い、でも一番悪いのは私だ。こんなに醜い人間は見たことがない。これからも見ることはないだろう!

あぁ、それに耐えられない。

気がつくと私は笑っていた。由紀さんは服を着たまま湯船に浸かって音楽を流し始めた。手にはいつの間にか刺身包丁がお守りのように握られている。流れる音楽は森山良子の歌う「今日の日はさようなら」だった。こんなに寂しい歌だったのか、と思う。

蛇口からは湯が溢れ続ける。私は浴槽の傍に座り込んで、水の流れを虚しく見つめた。由紀さんは自分の手首を重そうに持ち上げて、痛がる素振りもなく刺身包丁で切った。蛇の舌のような血の条が流れる。

「綺麗ね…」

私はそう言って由紀さんを見た。

「こんな茶番で、本当に人間は死ねると思う?」

私は頷いた。私も、由紀さんの手から刺身包丁を取って、同じように手首を切った。思ったよりも浅い手応えだった。

「今日の日はさようなら」

由紀さんは刺身包丁を私の手から取ると、両手に握り直した。

それから、自分の首を切った。刃を躊躇うことなく皮膚にめり込ませて、そのまま勢いよく引いた。血が割れる。

「手首を切ったくらいじゃ、人は死ねないわ。本当に死にたいならね、首を切ればいいのよ…」

由紀さんは目を閉じた。刺身包丁が湯船に浮かぶ。血は溢れ続ける。

「ねぇ、いつまでも絶えることなく、こんな所に居たいって思える?」

私は自分が置いていかれることを予感した。森山良子は相変わらず歌い続ける。さようなら、さようなら、さようなら…今日の日はさようなら…。

由紀さんは目を閉じたまま、被せるように言い続ける。

「友達や恋人や家族を続けたいなんて…自分自身のままで在り続けたいなんて、本当に思える?」

私は本当に死にたがっている人間を目の当たりにして、自分の傷口の浅さを知った。さっき手首を切った時だって、一瞬の痛さに怖気ついてそれ以上深くは切れなかった。

刺身包丁は漂ったままだ。本当に死にたければ、このまま首を切ればいい。それが嫌ならまだいくらか残った錠剤を一粒残らず飲み干せばいい。

「私は先に降りるわ。ここからさようなら…さようなら、ここから」

由紀さんは笑みさえ浮かべて呟いた。



血潮で染まっていくはずの湯船は、どこまでも澄んでいった。由紀さんが望んだように、どこまでも透明な、あまりにも透明な面を晒していった。作り物のような柔肌が黄金色に見える。首筋の傷口が揺れる。まるで、笑っているみたいにそれは美しかった。

私はもう応えない由紀さんの肩に爪を立てて揺さぶる。

「ねぇ、戻って来て!戻って来て!戻って来て!独りにしないで!」

怖かった。

私は今度こそ独りになる、それでも、今更死ねない。

緩やかに事切れていく由紀さんを、私は茫然として見送った。


「今日の日はさようなら」が、延々と流れ続ける。


今日の日はさようなら。

また会う日まで、また会う日まで……。


あまりにも透明な命が湯に消えていった。

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あまりにも透明な 三津凛 @mitsurin12

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