案山子
葵 一
案山子
空と大地をじっと眺めていた。たった一人で周囲には誰も見当たらない。一人でただ静かに同じ景色を眺めている。
麦わら帽子を深く被り、顔の表面はかさかさに乾いている。袖の短い服が細い腕を露わにしている。なのに、軍手はしていた。七分丈のような裾から見える部分も同じようなものだった。靴は履いていない。
じっ…と、その目に焼付けるように一点を見つめ続ける。その先からやってくるものを待ち望んでいるのか、あるいはその光景が単に好きだから眺めているのか……。
数羽のスズメが何の警戒心も抱かずに頭の天辺や肩、腕に止まった。その場で羽の手入れや会話らしい鳴き声、そして遊ぶように両足で軽く跳ね回る。やがて遊びに飽きたスズメたちは、挨拶をすることもなく再び空に帰って行った。
一本の線で区切られた大地と空。深緑のはずの山は、彼からは遠いせいでくすんだ緑に見えていた。その山の上で鳶が、くるり、くるり、と大きく何度も旋回していた。甲高い鳴き声が不規則に聞こえる。青い空を右へ左へと往復し、獲物を探し続ける鳶。彼はその小さい点を視界の中で山と大地と空と一緒に眺める。
しばらくすると鳶は青い空と視界からいなくなり、また静かで何も変わらない景色に戻った。
緩やかな風が吹き始め、空に散っていた緩慢な雲が動き始める。青い穂が風に撫でられ順番に頭を揺らす。雲同士が間隔を保ったまま動いていると徐々に風が強さを増し、雲もその速度を上げていった。しばらくすると東のほうから間隔が詰まっていく。西から流れてくる雲はやがて灰色に姿を変え、空一面を覆いつくした。
一際強い風が吹き抜けると、立っていた彼を簡単に倒してしまった。受身も取ることはせず、背中から地面に倒れこんだ。視線がそのまま水平線から空に移る。深く被っていた麦わら帽子の後頭部側のつばはひしゃげ、そのせいで脱げかかった。
灰色の空から滴がひとつ、ふたつ・・・やがてそれは瞬く間に大粒の数え切れない滴となり、大地と彼に容赦なく降り注いでいく。激しく自身を打ち付ける無数の落水。彼の目線から捉える雨は、まるで己が落下している錯覚にも陥りそうな光景だった。強く吹く風と雨。それによって跳ねる泥水で彼も服も麦わら帽子も、すでに汚れてしまっている。地面全体が水溜りのような状態になり、わずかに濡れないでいた背中もすぐ他の箇所と変わらなくなった。冷たい水が全身を余すところなく浸しても、それでも尚、彼は無言のまま動こうとしない。
服を打つ音。
帽子を打つ音。
地面を打つ音。
水溜りを打つ音。
それらを聞き入るようにじっとしている。
滝のように降りしきっていた雨も雨雲から搾りつくしたのか、ピタリと止んだ。灰色の雲は速度を変えないまま流れている。
風が弱まっていく。ひとつにまとまっていた雲に隙間が出来てくる。灰色も少しずつ薄くなり、隙間から日が差し込んできた。空から伸びるいくつもの光のラインが地面をスポットライトのように照らし、彼も僅かな間そのライトを浴びた。
隙間が広がり、空が再びはっきりと見える頃には、青だったものが暖かなオレンジへと変化していた。破片となって流れ続ける雲が、白と紫、そして朱色に染まる。西は明るく燃えており、対照的に東からは冷たい紺色が伸びてきている。空が次第に混ざり合っていた白から紺色へ、そして水平線に重なる山に夕日が隠れると、周囲が黒くなっていった。
彼の腕に近い場所から最初の鈴虫が鳴き始めると、待ち構えていたのか他の鈴虫たちも一斉に声を響かせだした。そこへ雨蛙や牛蛙も混じり、昼間よりも賑やかかもしれない。
時間が経つに連れ、真っ黒い空に散らばった小さな光が浮かび上がりだした。月の姿は見えない。
変わらぬ姿勢で星空を見上げていると、鈴虫が一匹、胸の上に飛び乗りそこで体を震わせた。幾度か震わせては少し止み、また体を震わせ幾度か鳴く。鈴虫は気の済むまでその壇上で演奏を続けていたが、ピタリと動きを止めたかと思うと勢いよく跳ねて、近くの草むらに消えていった。
蛙の低音と鈴虫の高音で奏でられる音楽、そして黒い天井に燦然と輝く星のシャンデリア。シャンデリアの中に赤、黄、青、赤・・・と点滅を繰り返すものが幾つも混じっていた。人間の打ち上げた観測用の衛星などである。何故か同じように輝いているはずが、星と人工物では及ばないほど美しさがまるで違った。
星は静かにそれぞれが輝き続ける。いつしか、蛙も鈴虫も鳴き止み、風の吹き抜ける音とそれに揺られて擦れる穂や草の音だけになっていた。しばし、強い光も音もない暗い静寂が訪れる。
世界が停止したかのような錯覚。
停止していた世界がおぼろげな形を浮かばせ始める。形の境界線が見えることもなかったものたちが、形を取り戻していく。黒だった視界が濃いねずみ色へ、濃い紺へ、そして薄い紺色から青に変化すると薄紫に染まってきた。
カラスが鳴きながらどこかへ飛んでいく。一度はいなくなったスズメが再び鳴声を響かせて彼の側へ戻ってきた。
山の頂から明るさが増して行き、その付近は白みがかっている。そこからゆっ……くりと宝石が顔を覗かせた。止まりはしない。だが、勿体ぶって少しずつしか出てこない。
太陽という宝石がようやく半分ほど姿を見せた頃、遠くから草とぬかるんだ土を交互に踏む足音が聞こえてきた。すり足に似た力のない足音だ。徐々に遠かった足音が彼に近づいてくる。
彼の真横で足音は止まった。そして、彼の顔を覗き込んできた。
覗き込んできたのは顔が皮が弛んでシワだらけの老人だった。老人は寝転がって微動だにしない彼の肩と腰を掴むと、徐に立ち上がらせる。彼の足元を固めると起こす時に脱げた麦わら帽子を被せ直し、顎のところでしっかりと紐を結んだ。
彼は起こしてもらったことにも帽子を被せてもらったことにも礼は言わない。老人に向かって顔を向けるわけでもなく、今までと同じように正面をじっと見つめたままでいる。
老人は彼の前に並んで頭を垂れている穂を幾つか触って何かを確かめると、無言でまたゆっくりとすり足で立ち去っていった。
今日も再び、彼の景色を眺め続ける一日が始まった。
案山子 葵 一 @aoihajime
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