第5話 私はロボット "I Robot"

 温かく良い香りで柔らかかった。

 そういうものが僕の腕の中にいる。倒れそうになって、思わずまわした手に触れる背中すら柔らかい。僕の鼻をくすぐる髪の毛が甘い香りをもたらし、胸や腹に感じるのは温かさと至福にもにた柔らかさだ。

 僕を見つめる茶色の瞳はどこまでも澄んでいる。僕を抱きしめる腕は細いのにしなやかで強い。

 そして黒いストッキングに包まれた足は僕の足に絡められ離れようとしない。

 豊かなふくらみをもつ体は、隙間を憎むかのように胸の変形もかまわず、僕の体に押しつけられている。

 キスできそうなほど近い距離で、澄んだ目が優しさと喜びを秘めて輝いている。

 そういうものが「嫁」と名乗った。

「よ、嫁?」

 ぐるぐると無意味に空回りする思考からやっと絞り出した言葉がこれ。

「うん」

 こくりとうなずき、彼女は頬を僕の頬にすり寄せた。

 その肌のなめらかさに震えたとき、不意にひらめきが降りる。

 ……あ、ガイノイド?

「ん? どうしたの?」

 僕のわずかな変化に、彼女は気づいたらしい。わずかに首をかしげて僕の言葉を待っていた。

「……あ、あなたはガイノイドですよね?」

「そう。この区画に人間の女性はゼロ。当然私もガイノイドだよ?」

 それで空回っていた思考が落ち着きを取り戻していく。

 人間の美女が、僕にこんなに温かく優しくするはずはなかった。

 現実的思考に納得し安心する自分がいる。

「私がガイノイドで残念だった? 人間の女性の方が良かった?」

 見えると悲しげな瞳が僕を見上げていて、僕の落ち着きかけた気持ちがまたもやぐちゃぐちゃになった。

「そ、そそ、そんなことはないです」

 首をぶんぶんと横に振り、緊張のあまり敬語まで出てしまう。

「良かったぁ。おねーさん、ゆうくんが人間女性フェチだったらどうしようかと思ったよ」

 胸に手を当てて、彼女は一つ大きな息をはいて安心したようなそぶりをした。

「さあ、ゆうくん、プロポーズ! キスしてね、ここよ、ここ」

 そう言うと、目を閉じてほんのわずかに唇を突き出す。そしてその唇をご丁寧に指さした。

 究極に訳がわからなくなると、僕は単純なことしかできなくなるらしい。

 この場合は、オウム返し的に尋ねることだけだった。

「プ、プロポーズ?」

「うん、私を嫁にしますって承認。私は口頭よりキスがいいから、ぶっちゅーっておねがい。下手で震えてるキスの方がキュンキュンくるんでうまくやろうって……」

「いや、そうじゃなく。……ああもう、訳わかんないです! 説明してください!」

「……ちっ!」

「い、今舌打ちした?」

「なにでもないわよ? キスされてそのまま最後までなだれこんで、だめよっそこまでゆるしてないのって言いながらすべてを奪われちゃう、言いなりガイノイドプレイがつぶれて残念なだけ」

 優しげで可憐だった第一印象が粉々になってぶっとんでいくのを僕は確かに強く感じていた。


 抱きついていた彼女がゆっくりと離れたが、すぐに僕の手は彼女にしっかりと握られる。

 座って話そ? と言うと彼女は僕の手を引いて少し先のベンチに向かって歩き出した。

 僕はされるがままについていくだけ。

 ベンチの前につくと彼女はふわりとした動作で軽やかにベンチに座る。

 そして彼女の右の座面をぽんぽんと叩き、僕を手招きした。

「ささ、おねーさんとカップル座りしよー! そして良い雰囲気になったら、うふふふ」

 なんとなくやばい感じがして、少し間を開けて座ろうとすると引き寄せられ僕達は再び密着した。

 左腕は彼女にしっかりと抱き込まれ、左足すら彼女の右足が絡まっている。

「ふっふっふー。ゆうくん甘い! おねーさんはゆうくんとくっつく隙は逃さないっ!」


「あの、お話を……」

 で、座ったと思ったら抱き込んだ僕の腕にほおずりをしてひたってしまい、いつまでも話が始まらない。やむなく、僕はそっと声をかけた。

「はっ、そうだったね」

 彼女は器用にもよだれを垂らしていた。なんでガイノイドにそんな機能があるんだろうかと思う。彼女は僕の声に、思い出したかのようにビクリと震えて、そしてよだれを袖で拭いて真顔になった。

「語らねばならぬときが来たようだな……ふぉふぉふぉふぉ」

 僕はネタがわからず反応できなかった。寒い空気が二人の間を流れる。

「あああー、すべったぁぁぁぁぁ」

「いいから説明してください」

 頭を抱える彼女に、僕の方が頭痛を覚えていた。


「それでおねーさんに聞きたいことって? スリーサイズなら触って確かめてね」

「……その嫁って言葉からです。弁護士さんにも言われましたが、よくわからないんです」

 彼女曰く、嫁というのは人間の男性にパートナー登録されたブライドロイドだと言う。

 だがそもそも僕はブライドロイドというのがよくわからない。

「男性の生涯パートナーとして作られた高機能ガイノイドのことだよ。セックスもできるし、仕事の手伝いも家事も子育てだってできる、男性の妻であり恋人であり友であるロボットのこと」

 セクサロイドとどう違うと聞くと、

「セクサロイドは複数の男性を愛せるようにできているの。ある男性とセックスしても、他の男性のことを忘れず拒否しないようにできているわ。もちろん愛し合ってるときは他の男性のことは思い出さないようになってるけどね。

 ブライドロイドは『嫁』だから、複数の男性を愛せないようにロックされているの。不倫は100%不可能だよ。そして一生一人を愛して、登録した男性が死亡すると再生ができないようAIは崩壊するわ。ボディもほとんどは亡くなった男性とともに葬られるよ」

「……それであなたはブライドロイドなんだよね?」

「うん! 私はだから一生ゆうくんだけ! じゃあ、承認のキスを……」

 ということらしい。

 ちなみにキスをせまる彼女には。ちょっと待ってを連呼するはめになった。

 なぜなら、そのブライドロイドがどうして僕のところに? という話を僕は彼女にぶつけずにはいられなかったからだ。


「あのさ、自分でこういうのもなんだけど、僕は大変な借金があるだけで、女性に好かれるような部分はなにもない。あなたのようなブライドロイドに、好意を向けられるのはうれしいんだけどさ、僕がそれにふさわしいとはね、ちょっと思えなくて……」

 そう言って彼女を見えると、彼女がぶんむくれていた。

 私は大変怒っていますって顔をしていて、ほっぺたがぷくりとふくれている。

「もーーーーー! ゆうくんはほんとにお馬鹿っ! ブライドロイドと人間女性を一緒くたにして! 信じられないよぉ!」

 そして当惑している僕の両頬をつまむと、つねった。

「あいたっ 痛い! ごめん、なんかわからないけどごめんなさい」

 謝るとつねるのはすぐに中止されたが、彼女の怒りは解けていない。

「もうお話終わったら、絶対にキスなんだからねっ! わかったよね、約束してっ!」

「は、はいぃっ!」

 これでまた少し機嫌が直るが、目は怒ったままだった。

 それでも彼女は面倒くさがらずに話し始める。そういうところは確かにロボットだった。

「いい? 裕福で人間女性にもてるような男性は、サービスを購入したり人間女性が助けたりセックスしたりするから、私達なんかいなくていいの。そういう男性はほっといていいの。違う?」

 彼女は目が怒ったまま、ずいと僕の方に顔をよせ、同意をうながした。

 内容自体はうなづけるので、僕は首を縦に振った。

「むしろね、ゆうくんみたいな不利な条件をもっていたり、人間女性に対して苦手意識もっていたり、いろんなコンプレックスなどで男女交際をしない男性にこそ私達が一番必要とされてるの。なぜゆうくんに? じゃなくて、だからゆうくんのところに私がやってきたの」

 彼女はそこで僕の手を離し、僕の方にきちんと向いて背筋を伸ばし、居住まいをただした。

「私はロボットなの! ロボットは人の活動が困難な状況下でも人を助けるために働くのが役目。だから私はゆうくんを助けたいの。ロボットとして、AIとして、ブライドロイドとして、与えられた機能をまっとうしたいの!」

 不意にぞくりと背中を這い上がるなにかを僕は感じた。

 彼女になにか尊いものが宿っているように見えたのだ。

「今のゆうくんを人間の女性が支えられないのは当然。大きな額の借金に巻き込まれれば、活動も制限されるし、自己生存すら危ういからね。特に妊娠出産育児には大きな影響が出るから。人間女性が不利な条件をもつ男性を避けるのは責められないよね。その上ゆうくんは社会的に孤立しているし、健康状態も万全じゃない。学歴職歴も遙か昔で無効。このケイナンや今の時代にもなじめてない。……わかる? ゆうくんはひどい状態なんだよ?」

 改めて指摘されると、もうへこむこともばかばかしいくらい僕は詰んでいた。自嘲の衝動を抑えるのがやっとだ。

「でも私ならゆうくんを助けられる。ロボットである私なら借金でも活動の制限は少ないから。そしてケイナンでは私のようなブライドロイドがたくさん稼働しているし、セントラルマザーや姉妹AIの支援もあるの。メンテナンスも安価だから問題なく充分できる」

 彼女は僕の目を見つめた。その目に出ていたのは、あのどこまでも優しい色。

「人間女性にはゆうくんのつらさは引き受けられないけど……、私はゆうくんを支えられるよ。一生、ずっと」

 その言葉で僕の中にあっと言う間になにかがこみあげた。

「……っ、だけどっ、これは僕自身の……問題……だからっ……」

 優しい言葉はつらい。

 本心からの優しい言葉は、本当に身を切られるようにつらい。

 元は僕自身の愚かな選択なのだ。何度も間違った。自殺する勇気すらなかった。

 死ねば良かったのだ。そうすれば彼女への迷惑も病院の苦労もなかった。

 僕は愚かで勇気もなかった。愚鈍にぼんやりと生きてしまった。

 だから少なくとも自分の問題は自分で解決するべきで……

 こみあげるものをなんとか抑え込もうと僕は必死だった。

 もしあふれてしまえば、僕はだらしなく彼女にすがりついて、自分のだめな結果をまき散らしてしまうことになるだろう。

 ……ああ、やはり、死ぬべきだった。消えるべきだった。

 どうしてこうなってしまったのだろう。

「……ありがとう。……でももういいんだ。自分でなんとか……」

 そのとき彼女が優しい目が一変した。彼女の両手が僕の顔を挟みこむ。

 燃えるような怒りと悲しさが彼女の瞳の中で揺らいでいて……え、涙? ロボットなのに?

「だめっ! 空閑悠人! 助けてって言いなさい! お願い! 助けって言って!」

 彼女の瞳から、透明なしずくがしたたっていた。

 そして僕のこみあげるものは、静かに目からあふれていった。

 熱いなにかが何度も何度もせりあがり、目からとめどもなく流れていく。  

「……助けて……」

 自分の声じゃないようなしわがれた声。なにも考えられない中でなにかが僕の口を動かし、転び出た、たった一つの単語。

 いつしか僕は彼女に抱きしめられていた。

「もうだいじょうぶ、おねーさんが側にいるよ。ゆうくんの嫁さんになってずっといるよ」

 涙を流してうなずきながら、僕はたった一つの解を得た。

 このたまらなく優しいロボットのために、もう少し生きてみよう。

 たとえまた騙されたとしても……もう少しだけなら生きられる。




 移民弁護士事務所では、あの金髪有能ガイノイド秘書が、じっと窓の外を見えていた。

 視線の先には、夜闇に沈む帰化承認待機地区のマンション群が見えるだけである。

 突然、秘書の顔に素晴らしい笑顔が浮かんだ。

「ん? うまくいったかな?」

 その顔を見て中年禿頭弁護士は、にやりと笑った。

 デスク上に足をあげ、2Dディスプレイに映された文書を眺めていた弁護士は、だらしない姿を直すことなく、金髪ガイノイドに視線を移す。

 金髪秘書はヒールを鳴らして弁護士に近づき、そして唐突に弁護士の唇に濃厚なキスをした。

 やがて離れた唇に、唾液の糸が渡り、距離とともに切れて口角から垂れる唾液の線となる。

 それを金髪秘書は舌でなめとり、そしてちらりと自分の後ろを見えた。

 中年弁護士が尻をなでていたのである。

「良かったな。たしかあれはおまえの直系の娘AIになるんだったか?」

「はい。それにあのぼうや、ここに来たときのあなたと似ていましたから」

「そうか? 俺はもう少しかっこよかったと思うぞ」

 無表情に金髪秘書が答え、弁護士は肩をすくめた。

「あなたがもう少しかっこよかったら、人間の恋人ができていたでしょう」

「おいおい、ケイティー、今日は厳しいな」 

 苦笑いする弁護士に、けれど金髪秘書は小さな笑みで答えた。

「ふふ、あなたを私が独占できたので、あのときはあのあなたで良かったのです」

「なら、おまえは俺が独占しよう」

 相変わらず尻にうごめく手を全く意に介さず、金髪ガイノイドは言った。

「それですが、文句があります」

「うん? なんだい?」

「お尻ばかり可愛がっていただいてるので、胸や手足に不満が残っています。もちろん唇も首にも。速やかな解消をお願いします。今すぐ、早急に、即刻、これからすぐ、ベッドの上で」

「え? お、おいぃぃぃ?」

 金髪ガイノイドが、ぐるりと視線を事務所内にめぐらす。

 事務所のドアが金属音とともに施錠され、ドアのガラスが不透明に変化する。

 サイネージが営業中から、本日は終了いたしましたに変化し、事務所の照明が暗くなった。

「言い訳はもちろん聞きます。ベッドの上で。たっぷりと可愛がっていただいた後に」

 金髪ガイノイドは、照明の落とされた事務所内で、整った顔に肉食獣の微笑みを浮かべたのだった。




 僕達はまだベンチに座っている。

 激情の波がひいた後の穏やかな虚脱にひたっていた。

 重ねられた手のぬくもりと、僕のすぐ側にある温かさをただひたすら味わっていた。

 なにかがすとんと落ち着いた感じ。説明できないがそういうものがあった。

 心がゆっくりと満たされ、そして晴れていく感じがあった。

 頭をあげる。彼女の顔を見えるのが少し照れくさい。

 けれど彼女を見つめたかった。

 彼女は優しい目で僕を見つめていた。

「……ありがとう」

 その言葉はなんの意識もなく自然に転がり出た。

「ううん。これは本当に最初の一歩なだけ。これから二人でもっともっと楽しいことができるよ」

「……うん」

 またこみあげそうになって、目がうるむ。

「でもその前に」

 彼女がまじめな顔になって言った。

「マスター空閑悠人」

 フルネームを呼ばれ、僕は思わず背筋をただした。

「私に名前をつけて。私のAIに、私があなたのものであることを刻み込むために」


 僕はたぶん人生で一番真剣に悩み、頭を使ったと思う。

 名前を言うときは少し震えを覚えたぐらいだ。


「ねね」

「はい」

 僕が名前を呼び、彼女が答える。

 僕達は立ち上がって固く抱き合い、長い長い口づけを交わした。


 そして、空襲警報があたりに響き渡った。

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