第三日目~第四日目

 第三日目


 そういや、話は変わるが現代人はみんなある病を患っているのではないかと考えている。

その名は


 愛されたい症候群


症候群と書いてシンドロームとよんだらかっこいいと思っている。

かっこよさはこの際どうでも良くはないが、良いということにしよう。

この愛されたい症候群は現代人の全ての根源にあると私は思ってる。

具体的な症状などない。

しいて言えば、幼少期に受けていたあの無償の愛をいまだに欲しってしまうことだろう。

例外はなく、私もかかっている。

私の場合、愛されていることと認められるということがいつの間かすりかわってしまった。

愛されていれば、存在を認められている。

これは普通のことだ。

しかし、私は認められなければ愛されない。

愛されなければ、存在価値を認められない。

存在価値を認められなければ愛されない。

このループにはまってしまった。

そのためループから抜け出せなくなり、道から外れたのだ。

君たちの中にもこのループにはまっている人はいるのではないか?

でも、普通はそうではないか?

愛されるためには存在を認識してもらう必要があるだろう?

存在が相手に認識されたなんて、どうやってわかる?

まぁ、普通はわかるだろうだが。

しかし、私は分からなくなってしまった。

きっとここで、私はもう一度道を外したのだろう。

認識されないと思い込み、いつまでも認識されてないと思う。

ここで思い込みという言葉を使ったのは多分、思い込んでいるからであって実際はそうではないと信じたいが、信じられないからである。

そのため、過度な行動にでる。

それが功を奏したのか、なんなのか、友達のなかでお笑いキャラのようなもので定着した。

認識されたい、認められたいの根源には愛されたいという感情があるのではないか?

どうやったら愛される?

もう幼少期のような無償の愛は受けられないというのに。

有償の愛で満足する?

そもそも、満足しない?

無償の愛を探す?

もう諦める?

私はその中、無償の愛を探している。

それをとある人に言ったらそれは自己肯定感が低いからだよと言われた。

これに大変納得した反面、凄く衝撃を受けた。

今日はこれぐらいにしとこう。

書き始めると案外止まらないものなのだな。



 僕は誰もそんな病気にかかってないと思ってるよ。

だって、みんなはお互いに支えあって、認めあって生きているんだよ。

ついでに君は神様を信じてないかもしないけど、神様は全員の存在を認めているんだよ。

昔、僕の友達が言ってた説があってね。

それはね、僕らの自然発生説ってやつでね。

ルイ・パスツールが否定した自然発生説とは全然似て非なるものだけどね。

その内容はね。

僕らはみんな、神様が作って神様の計画の上にいるからみんな神様に愛されて認められてるんだって話。

だからね、その計画を邪魔するようなことはしちゃダメだよ。

話は変わるけど、僕は君の存在をちゃんと認めてるよ。

君はこの日記の中に存在するよ。



 第四日目


話は昨日の続きだ。

自己肯定感なんてどうやって生まれる?

そもそも、自己肯定って何だ?

これは愚問だったな。

自分を自分で肯定すること、それが自己肯定。

では、質問に戻ろう。

そんなものはない、それに尽きると思う。

もし、それがある人がいるのなら私はその人に会ってみたい。

自己肯定なんて、今の現代人が作った幻であるのだと私は考える。

色々都合よく解釈するための。

自分を自分で肯定してもそこには自分は存在しない。

肯定している自分はまだ肯定されていない。

肯定された自分はまだ肯定されていない自分に肯定されている。

肯定されていない自分に肯定されたところで自分は肯定されているか?

いや、否だ。

よって、他人に肯定されなければ自分は存在しないという結論にたどり着いた。

ただ、これは自己肯定ができない私の戯言だ。

これを読んで君はこんなことを思わないでくれ。

この世界を生きづらくなってしまう。

真実は単純に、人間が物質的に豊かになってしまって、心が貧しくなって、それを無理やり埋めるために作った、なんて感じだろう。

今、私たちは心が貧しい、貧相だなどなど言われている。

これを私たちはどう受けとる?

今の私たちにはどうすることもできないと言って、諦める?

物質的に豊かであっても、心は豊かになると言って無駄な努力をする?

努力をしている人にこのような表現をして、申し訳ない。

これは私が努力をしていない人で、努力をしている人を妬む感情だ。

例え、現代人の心は貧しかったとしても努力は素晴らしいことだ。

努力が報われなかったとしても。

凄く皮肉ってしまったな。

ただ一つ、これだけは真実であると思うことがある。

努力は人をつくる。

かっこよくまとめたが、私はこれができない。

つまり、私はつくられてない。

これもまた、いつか話そう。

努力はできるなのか?するものなのか?はたまた、努力してできるものなのか?

定義をちゃんとして欲しいものだ。

それは、人によって臨機応変にするのだ。

なんて、言う人もいる。

そんな事、私たちは分からない。

自分で言うのもなんなのだが、真面目な方だ。

真面目な人の方がこういうの分かりにくいと思わないかい?

真面目な人は周囲の期待に答えようとするのものだ。

(これまた、違う人がいたら申し訳ない。)

周囲の期待とは理不尽で向こうにとって都合がよくて、私たちを壊しにかかる。

周囲の期待は色々ある。

いい成績、良い会社、社会貢献、人望、いい子などなど色々ある。

それの根本にあるものは努力だと口々に言う。

努力って言葉はある意味、人を縛る。

あぁもう、夜が明ける。

これの続きはまた明日。



 自己肯定感はみんな持ってる。

低い人もいれば、高い人もいる。

それは個性であって、世界や社会の押し付けじゃないよ。

それに君は心が豊かじゃないわけないじゃないか。

こんなにも色々感じて、考えられるのだから。

それに努力だってしてる。

君が真面目なのは文章を通して分かるよ。

それで周りに潰されそうになってるってことも。

でも、それは周りが君のことを思ってるからなんだよ。

大事にされてるから。

考えてもらえてるから。

それに君はこの文章で読んでる僕のことを心配してくれている。

優しさにも溢れてるじゃないか。

君は一体何に悩んでるだい?

君は何に憂いてる?

もう一度僕は君に言おう。

そして、届け。

この世界は案外きれいかもしれないよ、ってね。

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