一日目(2)

 朱矢はただの集落じゃあなかった。まあ普通に考えれば分かる話だが、あたしがここに住んでいる間に朱矢は、ある『因習』を持った集落であるということが古文書めいた本に書かれていたのだった。

 その因習とは、人喰らいの因習。

 正確に言えば、それは人喰らいというよりも、地元の人間からは『神に与えたもうた生命を神に返却する』といった事らしいのだが、それをすべてひっくるめてそう一言で収めることが出来る。

 朱矢は、人喰らいの因習が残る集落だった。そしてそれはあたしが二十代前半に一度朱矢を訪れた頃まで、続けられていたのだという。色々と噂は立っていた。けれどそれについて誰も答えを述べることは無かった。朱矢に関することはたとえインターネットでも噂程度にしか語られることは無く、それが真実であると知っているのは結局朱矢出身の人間だけに留まるばかりだった。

 朱矢。

 今はもう知り合いはいない。唯一連絡先を知っていた売れない作家に声をかけてみたが、缶詰状態だったのか連絡は繋がらなかった。まあ、作家ならこの話題を直ぐ作品に投射しそうなものだが、しないところを見ると彼もこの集落の事実にはたどり着いていないらしい。

 今でも朱矢は外に出ることを禁じられている。それは数年前、あたしが出逢ったとある少年から得た情報に基づいているものだ。古い朱矢を知っている人間であればあるほど、朱矢から外に出ようとしたがらない。火葬を嫌がり、土葬を好む。そして、死んだ後も神の身体に戻るのだと信じて疑わない。

 朱矢はある種、宗教によって生まれた集落だと言われている。調べたところで外部の資料を得ることは敵わないが、あたしの長年の経験と知識によって漸く一つの情報を得ることが出来た、というわけだ。

 朱矢は、かつて『朱矢』という人間が神の教えを説いた場所である。

 つまり、朱矢の名前の由来は、人の名前から取られたということなのだ。旅の巫女が朱矢になる場所を訪れ、名もなき村に居付き、そして神の教えを説いたのだという。それだけ聞けば普通の物語だが――その神はただの神では無かった。

 朱矢に住まう神は、人喰らいの神だった。朱矢の人間はその神から生まれたと信じ込まれており、そしてその神にやがて魂と肉体を戻す機会がやってくる。その為に朱矢から離れてはならない、という教えだ。

 そんな教えなんて、と何度も人間が朱矢から離れたことがあった。

 しかし、朱矢の神はそれを許しはしなかった。

 朱矢の神は呪い、その人間を殺した。報を聞くたびに巫女は泣いて喜んだという。朱矢の神は、『生んだモノを外へ出すこと』は許さない、と。

 しかして、朱矢の神も数百年すれば力が弱まったのか、今やその宗教を信じている人間は殆ど居ないという話しだ。そもそもあたしより若い世代が既に『因習』のことを知らなかったのだから、既にその因習は闇に閉ざしているのかもしれない。

 因習が闇に閉じているなら、それで問題ない。

 だが、あたしの聞いた話ならば、まだ因習は続いているはずなのだ。

 どこかの家で細々と続いているだけなのかもしれない。しかし、そうであったとしても、そんな因習があるということについては気にする必要があるし、そもそもあたしが被害を受ける可能性だってあるわけだったあの因習に、一度は向き合わなくてはならない、とそう思った次第だ。

 あたしは弱かった。弱いから故に、力をつけようと思った。

 柔道は黒帯を持っている。何かあったときのためにサバイバルナイフは常に持ち歩いている。格好も女性とあまり思われないようにジージャンとダメージジーンズといった格好になっている。うなじが蒸れることも想定して髪型はポニーテールにしている。

 この国は、女性にとって弱い国でありながら、女性優勢である国であることを、外に出て思い知らされた。

 こんな閉鎖的な集落では、外の情報など殆ど入ってきやしない。小学校で学んだ知識なんて基礎的なものだったし、中学校ではそれに嫌気をさして自分から外の情報を得ようと試みた。その結果がこれであるし、柊木家が朱矢から出る原因にもなった訳だから、あたし以外の大人をも巻き込んだ大騒動に繋がったといった訳だけれど。

 そもそも、朱矢の『旧家』で新しい方だった我が柊木家は簡単に外に出ることが出来た。そのとき巫女の血筋を引いていた大類家から『神の裁きがやってくるだろう』と戯言を話していたが、結局何も起こらなかった。神とはその程度のものなのか、と思ってしまうくらいだった。

 結局は神なんて存在していなかったわけだし、因習は既に機能していなかったのだと思う。因習を知ったのは中学のある時、自由研究に集落の歴史をテーマに書こうとした時に研究していた結果、偶然因習のことが記されていた書物を見つけただけに過ぎないのだが。

 図書委員というのは、運が良いのか悪いのか、そういった書物を見つけやすい。……まあ、あの少年はそれを見つけることが敵わなかったようだが。

 あたしはその時取って置いたコピーを取り出す。



 ――朱矢の神に取り込まるる、人と人の精神よ。



 その一節には、赤いマーカーが引かれている。何か重要なことが書かれているから、そこにマーカーを引いている訳だが、しかしそれを見ただけではなんのこっちゃということになるだろう。だが簡単に言ってしまうと、それに興味を持ってしまう人間が出てくることもある。噂に寄れば、中学校の旧校舎を撮影するために朱矢にやってきた学生が行方不明になったなんて噂もある。もしかしたらそれは、朱矢の神に食われたのかもしれない。

 朱矢の神は、朱矢の人間しか食べないはずでは無かったのか?

 そこであたしはそんなことを考えていた。

 もしかしたら、朱矢の因習はそんなことも守れないぐらいに、規模を縮小させているのではないか――ということに。

 既に中学校は廃校と化し、当時最後の卒業生も大学生や社会人になるなどすっかり朱矢のことを忘れてしまっていることだろう。しかし、あたしの知り合いである少年ももう大学生になっているが、未だに朱矢のことを忘れられないのだという。

 それはきっと、あたしと同じ道を歩んでいるに違いなかった。

 だから、あたしの代でこれをなんとかしなくてはならない――そう思っていた。

 朱矢。人喰らいの因習。その謎に迫る。

 その謎が暗黒よりも深く、そしてその闇に導かれているのだと言うことに気づいたのは、それから少し後の話になるわけだが。


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