小蠅

ナナシイ

小蠅

 私が自宅の湯に浸かり、ぼんやりと白い天井を眺めていた時の事である。

 私は天井の中に、小さな黒い点があるのを見つけた。

 私は初めそれが何であるか分からなかった。風呂から立ち上る湯気と、私自身の目の悪さが手伝って視界がぼやけてしまっていたのである。しかし、よくよく目を凝らしてみると、その黒い点は一つだけでないことが分かった。その黒い点は、白い天井の中の至る所に存在していたのである。

 私はそれが黒黴であろうと思った。

 座っていた私は立ち上がり、大きく背を伸ばしてその黒い点の方へと顔を近づけた。すると、その黒い点の正体がはっきりと見えてきた。

 それは黒黴なぞではなかった。

二枚の羽と小さく醜い肉体。その黒い点は小蠅の死骸であった。ざっと数えただけでも二、三十はある。天井のそこかしこに小蠅の死骸がべったりと張り付いていた。

 排水溝から出てきたのか、はたまた換気扇から出てきたのか。この浴室に迷い込んだ小蠅達は、風呂から立ち上る湯気の熱気に燻され死んでしまったのであろう。幾つもの死骸が立ち並ぶこの天井は、小蠅の墓場そのものとなっていた。

 私は薄気味悪くなって、すぐに風呂から上がった。


 私は体を拭き、寝間着を身に着け居間に向かった。

 居間では妻が本を読んでいた。

「おい。」

「何?」

「風呂場の天井、暫く見ずにいたか。」

「……ああ、そういえば見てないわね。それに私も風呂場じゃ視界が利かないもの。どうしたの。」

「いや天井にな、小蠅の死骸が張り付いていたんだ。それも一つじゃない、何十匹とだ。」

「まあ。」

 

私は妻を伴って再度風呂場に向かった。

 私は風呂場の扉を開け、天井を指差す。そこにはやはり小蠅の死骸がたむろしていた。

 妻はそれを見た瞬間、

「うわっ。」

とだけ言って口をぽっかりさせていた。

「驚いたか。」

「え、ええ。」

「天井は死角だったな。」

「ええ。」

「しかし、こいつら何処から入って来たんだろうな。」

「まあ、そんな事今はいいわ。取り敢えず掃除して頂戴。私じゃ手が届かないわ。」

「……そうだな。」


 私はスポンジと、浴室用の洗剤を持って風呂場に戻った。

 先程まで自分が浸かっていた湯を抜き、天井に向かって洗剤を浴びせ掛けた。

 暫く待ってから、私はスポンジで天井を磨き始めた。

 天井に張り付いていた小蠅の死骸達は、いとも容易く取り除かれていった。染みや黒ずみも残らない。スポンジで磨いた場所に、死骸の跡は何一つとして残らなかった。小蠅達は素直にスポンジの方へと移っていった。

 死骸を除き終えると、私は天井をさっとシャワーで洗い流した。洗剤の泡が消え、天井は真っ白な姿を取り戻した。

 最後に、私はスポンジを洗った。スポンジから黒い塵が落ち、排水溝の中へ水とともに吸い込まれていった。もう、ここに戻って来る事はないだろう。

 私は何となく、空しくなった。幾十もの命もこの程度かと思った。十分も掛からず、風呂場は清潔になってしまった。余りに呆気なかった。何の事件も起こらなかった。


 私は妻を呼び、小蠅のいない真っ白な天井を見せた。

「もうこんなに綺麗になったのね。」

 妻は痛く嬉しそうであった。

 私は少し、腹が立った。

「それだけか。」

「え?」

「それだけかと聞いたんだ。」

「え、ええ。何を怒ってらっしゃるの?」

「……そうか。」

 私はまた空しくなった。

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小蠅 ナナシイ @nanashii

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