地上の子

ナナシイ

地上の子

 岩倉少年は、厳格なるキリスト教信者の父によって育てられた。彼の母は、彼を生むと同時にこの世の人ではなくなっていた。また彼には兄弟もなかった。

 唯一の肉親である岩倉少年を、立派な人間に育てようと、父は彼にキリスト教の様々な教えを教え込んだ。しかし、にも関わらず少年は神の存在というものを信ずることが出来なかった。日の光の中にも、神の社の中にも、彼は神の御業というものを見ることが出来なかったのである。父の話す数多の聖人達の話は、彼には何らの効力をも持たなかった。彼は、眼前に神を見ることを欲したのである。そうでなければ、彼は神の存在を信じられなかったのである。

 故に彼は父に反発し、一人の悪童として育った。物は壊す。他の子供は苛める。ルールは守らない。当然、真面目に勉強するなどということもないから、彼は教師達からも疎まれる存在であった。

 このような風評を聞くと、ますます父は厳しくなる。あの聖人がお前の歳の時はとか、キリスト様はこんなことをおっしゃったとか、そんな話を事あるごとに岩倉少年にくどくどと説明する。彼はそれが尚更気に入らない。当然また彼は悪さをする。父はまた厳しくなる。止め処の無い繰り返しである。


 さて、夏の或る日、岩倉少年は級友らとともに野球をしていた。その時ばかりは特に悪さをすることなく、彼は大人しくルールに従って野球をしていた。

 しかし、彼が打席に立った時の事である。彼はピッチャーが放ったボールを、思い切り打ち返した。すると、彼が打ったボールは守備陣の遥か頭上を通り抜け、遠くの校舎へと向かった。そして、その勢いを保ったまま、校舎の窓ガラスに向かった。パリンと音が鳴り、ボールは窓ガラスを突き抜けた。ボールは教室の中に入って行った。

 わざとではない。事故である。野球をしていた子供達は暫しの間呆然としていた。

 直ぐに教師が一人走ってきた。若く、体格のしっかりした、男性教師であった。

 その教師はやって来るや否や、まず子供らに誰がやったのかと問うた。すると子供らは、岩倉少年を指差した。教師はまたお前かと呆れた顔をする。しかし、今度の場合わざとではない。岩倉少年は必至で弁明した。だが教師は彼を信じない。逆にわざとやったのだろ、正直に言えと彼に迫った。

 二人が押し問答をしていると、横合いから一人の少年が口を出した。彼は普段、岩倉少年にいじめられている子供の一人である。

「岩倉君、打つ前に校舎までかっ飛ばしてやるぜって小声で言ってました。」

 嘘である。しかし、この少年はキャッチャーであった。子供の野球であるから審判などいない。この少年は他の者が聞こえぬ声を、ただ一人聞くことが出来る位置にいたのである。岩倉少年を除き、誰もこの言葉に異議を挟まなかった。

 教師は彼の言葉を信じた。一人憤る岩倉少年を捕まえて、言った。

「やっぱりか。来い。」

教師は岩倉少年を職員室へと曳きたてて行った。


 職員室で岩倉少年を待っていたのは、要するに尋問である。

 岩倉少年を連れてきた先の教師と、後からやって来た岩倉少年の担任の二人に囲まれ、岩倉少年は自白を迫られた。担任も、若い男性教師であった。正直に言って謝れば許してやると、二人の教師はそんな事を言い始める。

 しかし、岩倉少年も頑固に頑張った。わざとではない、思い切り打ったら偶々校舎の方へ行ったのだと、つたない言葉で説明する。

 教師二人がどんな言葉で脅しつけようと、岩倉少年は引かない。ここまでくれば、お互い意地の張り合いである。これでは埒が明かない。教師達にも授業がある。悠長にしている訳にもいかない。

 やがて岩倉少年の父が呼ばれた。父は会社を早引けして、学校へとすっ飛んで来た。

 父親が職員室に現れると、二人の教師は彼に事情を話して授業へと向かった。代わりに、今度は父と、そばで話を聞いていた暇な校長先生が出てきて岩倉少年を囲んだ。

 さて先の若い二人の教師と違い、今度の二人はただ脅すだけではない。父の方は、やはり昔の聖人の話しを引き合いに出してくる。すると校長の方も、負けじと孔子様であるとか、お釈迦様であるとか、昔の貴人達の話を引き合いに出してくる。二人の話は最早尋問ではない。一種の説教であった。

 岩倉少年はこのような黴の生えた話を、耳にタコができるほど父から聞かされている。彼はもう、この二人の大人に対して弁明することを、最早無駄と、諦めてしまった。そして二人の話を黙って聞きながら、二人に対する苛立ちを、ふつふつと募らせていった。

やがて父が神の話を引き合いに出した瞬間、岩倉少年の内に溜まった苛立ち、その矛先がすぐさま神に向けられた。何故正直に言っているのに神は助けてくれないのか。何故僕の前には奇跡が起きないのか。岩倉少年はそう思ったのである。

そして、岩倉少年の中に一つの衝動が芽生えた。今すぐ先の問いを、神に対して直接投げかけたいと思ったのである。

衝動に身を任せ、少年は走りだした。彼を止めようとする二人の大人を振り切り、彼は職員室を出た。そして廊下を駆け抜け、校舎を出、校門をくぐって外に出た。そして彼は、近くの教会へと向かったのである。

暑い日のことである。アスファルトから日の光が照り返す。少年の頬は真っ赤に染まり、その体中から玉のような汗が吹き出ていた。

少年は走りながら思った。まるで地獄のような暑さである、やはりこの地上に神などいないのだろうと。

 やがて少年は教会の前に辿り着いた。

 岩倉少年は扉を開き、中に入って行った。

 教会の中では、神父が唯一人、キリスト像に向かって祈りを捧げていた。

 神父は息を切らしながら入って来た少年に気付くと、彼に向かってどうしたのかと尋ねた。すると少年は問い返した。

「やい神父、ここは神の家なんだな。」

「そうだとも。」

「じゃあここは神に近い場所なんだよな。」

「それは違う。少年よ、主は何処にでもおられるのだ。神に近い場所も、遠い場所も、ありはせぬのだ。」

「ふん、そんな難しい話はいいよ。直接神に聞くから。」

「少年よ、主に問うては……。」

 しかし、岩倉少年は神父の制止を無視して大きく息を吸い込み、そして叫んだ。

「神よ。お前は一体何処にいるんだ。僕が正直に言っても、大人達は全く信じちゃくれなかった。いつも通り僕にお説教するだけだった。正直にしても、何もいいことないじゃないか。何でお前は僕を助けてくれない。何で嘘を言ったアイツに何もしない。おかしいじゃないか。偉そうに雲の上でふんぞり返っているだけなのか。この地上に、降りてきてはくれないのか。」

 少年の叫びは教会の中に響き渡った。だがその反響が止むと、後には静寂が訪れた。神は沈黙したのだ。

 少年は、ステンドグラスを通して降り注ぐ、穏やかなる光を見た。しかし、その内に神の存在を認めることは出来なかった。

 暫く経ってから、神父が口を開いた。

「少年よ、祈りなさい。さすれば、救われるでしょう。」

 しかし、少年は納得しなかった。

 岩倉少年は教会を後にした。


 その後、少年は街の中をさまよい歩いた。しかし、彼がよく行く駄菓子屋にも、彼がよく遊ぶ公園にも、彼が求めるものはなかった。

 やがて少年は大きな川に辿り着いた。疲れてきていた彼は、川岸に腰を下ろした。

 彼は座ったまま、自分の近くにある小石を拾い、川に向かって投げ始めた。ボチャリと音が立ち、小さなしぶきが上がる。

少年は何も考えずに、石を放り投げた。何度も、何度も。その度にしぶきが上がり、灰色の小石が川底へと沈んでいった。

やがて少年の周りには手頃な石が無くなってしまった。それに気が付くと、少年は大きくはぁ、と溜息をついた。

少年は腰を上げた。そして今度はもっと石の多そうなな場所に座ろうと、辺りを見回した。

すると彼は、ある場所に灰色の石に混じって、一つ、黒い石があるのを見つけた。

不思議に思い、彼はその石の方へと近づいて行った。そして、彼はその黒い石を拾い挙げた。

その石は、吸い込まれるようなきれいな黒色をしていた。石を覗き込むと、少年自身の顔が映っているのが見えた。

少年はその石を太陽にかざした。すると、その黒色は、光の中で一層映え、輝いて見えた。

あのような事をした後である。これは神による何かの啓示かと少年は訝しんだ。だが、やはり彼はこの石の中に神の存在を認めはしなかった。少年にとってその石は、ただの綺麗な石なのであった。

しかし、少年は石を握りしめながら、こうも思った。

(この石は僕の手の中にある。この石は僕の手の中にあるんだ。もしかしたら、この石を寄越したのは神様なのかもしれない。だけど、石を掴んだのは僕だ。僕なんだ。)

 少年はその石をポケットに滑り込ませた。

 そして、岩倉少年は学校へと帰って行った。


 爾来、岩倉少年に少し変化があった。依然として、父や教師に反抗的なのは変わらない。だがしかし、勉強だけは真面目にするようになったのである。

 またこんな事もあった。例の如く、彼は父親から説教を受けていた。すると、少年は話の途中で父にこう問うたのである。

「光を掴むのは、誰?」


2016/10/12

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

地上の子 ナナシイ @nanashii

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ