第2話 記録(データ)には残らない部
5月に入り、部室の窓から見える桜の木々にも若葉の緑が目立つようになった。授業も終わり、グラウンドでは運動部が活動を始めているのが見える。笹原は金沢に呼び出され、渋々と部室を訪れた。
「なんですか金沢さん」
部室奥にある、執行部長と書かれたデスクに腰かけている金沢に声を掛ける。笹原の声を聴いた金沢はディスプレイから顔をあげ、よくきたなと言いたげな笑みを浮かべた。
「やぁ笹原くん。今日は君に仕事をあげるために来てもらったんだ」
「仕事……ですか?」
「そうだ、体育祭へ向けた準備を手伝ってもらう」
技術学園では来月の第1で残り日曜日に体育祭を行うらしい。これに向けた様々な準備に参加する、というものだった。
体育祭については、以前笹原のクラスでも話題になっていた。しかし、技術学園にも体育祭があるとは笹原は知らなかった。てっきり催し物は技術や研究に関するものだけだと思っていたが、そうでもないらしい。
「手伝いって、どんなことをするんですか?」
「簡単な書類作成やポスター作り等のデスクワークから、当日に使う備品のチェック、それから競技のプレ試合等のフィールドワークまでいろいろだな」
笹原は率直に、仕事量が多いと感じた。体育祭の準備というから、てっきり備品のチェックくらいかと思っていたのだ。しかし、そんなものは準備の一部でしかった。
「執行部の仕事って、そんなに多いんですか?」
「確かに、他の高校と比べると格段に多いな」
金沢は苦笑いしながら、その理由をため息交じりに話しだした。
「技学園は、教育理念の一つに『自律した技術者の育成』を掲げていてなぁ。こういった行事なんかも学生が仕切る様になってるんだ」
「それにしても多すぎませんか?ポスターは美術部に任せるとか……」
「そうしたいのは山々なんだが、納期が守られる保証が無くてな。ポスターができたら学務課に提出して許可をもらわないといけないし、輪転機押さえないといけないし、インクと用紙の領収書切らないといけないし……でなんだかんだ貼りだすまで2週間かかるからな。……納期を反故にされたのはイタかったなぁ」
苦虫を噛み潰したような顔を浮かべながら、金沢がしみじみと頷く。相当大変なことが昔にあったのだろう。
「では、プレ試合ってなんですか?」
「体育祭で行う競技を実際に部員で行うことだ。ルールに穴がないかとか、競技時間や交代時間は適当かどうか、とかを確認するためだな」
そう言うと金沢は手元の資料を笹原に手渡す。体育祭計画書と書かれた表紙を持つ資料の中には、体育祭当日の全ての競技に関する計画書が挿まれていた。計画書には競技に必要な時間の概要と内訳から、使う備品とその用途、必要な人員数とその役割、最後に競技のルールについて事細かく記されていた。そして、どの競技の発行日時も今年の3月となっている。つまり、年度初めに新しく発行されたものだった。
「体育祭なんて毎年同じですよね? 去年のルールを使いまわせないんですか?」
「いや、去年とは大きく違う。内容は毎年変えてるからな」
そう言って金沢が引き出しから取り出した資料には、去年の日付が記されていた。昨年度の体育祭の計画書である。目次を今年度のものと比較すると、競技の数や内容が異なっていることが分かった。
「どうして昨年度のものをそのまま使わないんですか?」
新しく作り直すより、昨年度のものを用いた方が負担の少ないことは明らかだ。新しく考え直す手間を、昨年度のものの品質向上にあてた方が体育祭の質も上がる。
「昨年度のものを使用すると、学生たちが対抗策を講じてくるからな。使いまわせないんだよ」
「というと……?」
「学園生には頭の切れるヤツが多い。だから、前例があるとそいつを基に対抗策を講じてくる。例えば『ドッヂボールの球を自分たちで増やすことは禁止されていない』とかな」
他にも、バトンを投げて渡す、ゴールポストを動かす等々……。金沢は過去に起きたであろう事例をいくつも出して見せた。
「えぇ……、そんな奇天烈な……」
「ホントそれな……。それに、『競技が前年度と同じだと飽きる』って不満も噴出したことがあるらしくてなぁ……。それで、毎年競技が変わるってわけだ」
なんと理不尽な。学校側の作業の一部を担いながら、不満にも対処する必要があるのは考えるだけでも頭痛がする。
「学園祭とかハロウィンパーティーとかの行事も同じだから。体育祭に限ったことではない分、じきに慣れるさ」
金沢は、はっはっはと高笑いしながらそう言った。笹原はあまり納得できないながらも、はぁと愛想で相槌をうった。
「作業は一気に全部やってもらうわけではないからな、研修とでも思ってもらえればいい。まずは簡単な書類を作ってもらうので、総務課の広瀬のところに行ってくれ」
金沢にそう言い渡され、笹原はわかりましたと一言だけ告げると総務課のデスクに向かった。
――
「……こう、ですか?」
「そうそう、うまいねぇ」
笹原は金沢からの言いつけの通り総務課に向かうと、部室の一角で小山が男子学生に指示されながらパソコンを操作していた。
「あの、広瀬先輩ですか?」
「お、よく来たね笹原君」
彼は爽やかに笹原に向かって微笑み、事務椅子を差し出す。笹原がそれに腰かけると、彼は笹原と小山に向かって話し出した。
「結ちゃんには2回目になるけど、自己紹介しよう。総務課長の広瀬諒でーす」
広瀬は事務椅子に腰かけた2人に向かい、笑顔で手を振る。
「なにか質問があれば気軽にどうぞ」
しばらくの沈黙の後、笹原が手を挙げた。
「では……いいですか?」
「ん、なんだい」
「総務課はどんなことをしているんですか?」
「うーん……一口には言えないなー。総務課は他の課が受け持っていない仕事を手広ーく、って感じかな。それぞれの仕事を1係から4係に分かれてこなしてるよ」
「総務課の中でも分かれているんですね」
小山が頷きながら呟いた。一口に総務課と言っても、担当は異なるらしい。
「その通り。内容としては主に、1係が学園祭の展示の統括管理、2係が学園祭の模擬店の統括管理、3係が部内の備品の管理、4係がイベントの音響かな」
「ということは、行事の舞台裏……といったところでしょうか」
「そんなところだね。とてつもなく忙しくて厳しい舞台裏だけど」
笹原の的を射るような言葉に感心しながら広瀬が笑った。
「他にも、総務課全体の仕事だったり、所属に関係なく任意の執行部員に発行されるお仕事もあるけどそれはまだ知らなくても大丈夫だよ」
「いや、とっても気になるんですがーー」
笹原のその言葉を遮るように、広瀬が声を上げる。
「じゃぁ、早速2人にやってもらう仕事を発表しよう」
和やかなまま、話は仕事の内容に切り替わる。
「ところで、笹原はパソコンで書類を作った経験ある? レポートとか、表計算とか」
「あまりないです」
それを聞いた広瀬が頭を抱えた。
「となると、細かく教える必要があるのかー。作業で教えるよ」
広瀬は机の上からいくつかの紙を手に取り、2人に渡した。
「さて、2人には体育祭で使う書類を作ってもらう。片方には参加者名簿のテンプレート、もう片方には告知文書になるよ」
渡された資料は、本年度の体育祭の計画書と昨年度のテンプレート、昨年度の告知文書だった。
「基本的に、昨年度の資料を参考に本年度版を作ることになるよ。どっちがいい?」
広瀬が2人に問い掛ける。小山と笹原は暫く顔を見合わせる。
「では、僕はテンプレートを」
「じゃぁ、私は告知文書ですね」
どちらをとるかは案外すんなりと決まった。というか、どっちでもいい。たぶんそれは小山も同じだろう。そんな感じの顔をしてたし……。笹原がそんなことを思いながらも、とりあえず分担は決まった。
「よし、じゃあ笹原は2係長の高松んとこに行ってくれ。その仕事はアイツ担当だから」
「高松さん……ですか?」
「あれ、知らなかったっけ? 顔見知りだと思うんだけど」
「いえ、知らないですよ」
部室には笹原達しかおらず、高松らしい人はいなかった。しかも、笹原は高松という人物など一切知らず、仮に居たとしても分からなかった。その時、執行部の扉が開き、髪をボサつかせた男子学生が気怠そうに入ってきた。
「お疲れさまでーす」
「おぅ高松、笹原と仕事だぞ」
「まじか広瀬、さっそくペアで仕事か。よろしくなー笹原」
そう言って歩み寄ってくる男に、笹原は見覚えがあった。部活勧誘会のとき、執行部室へ笹原を仕向けた2人の学生の片割れだった。
「あんたは……!」
「な、顔見知りだっただろ?」
広瀬がふふん、と高らかに笹原に言った。
「顔見知りって……あのときここに来させた人じゃないですか!」
「そうだな! どうだ、馴染めたか?」
高松が荷物を棚に置きながらそう返す。高松は笑顔を浮かべ笹原へ近づいてゆくが、笹原はその対照的に高松を睨んでいた。
「そんな怖い顔するなよ。これから一緒に働く仲じゃないか」
「……よくいいますね」
高松は総務課2係のパソコンのうち1台の電源スイッチを押す。ハードデスクから起動したことを表す振動音が鳴りだしたのを確認すると、笹原の前へ近づいた。その顔の笑みは先ほどよりも薄くなり、2人の間は冷たく頬を切るようなに鋭い風が流れる程険しくなった。
「俺と働くのは嫌か?」
高松が切り出す。
「正直苦手ですね」
笹原が間髪入れずに真顔で返す。暫しの沈黙の後、高松が顔をあげながら深いため息をついた。ふー、と長い息をつくと、笹原の方を向いた。
「なら、自分のためにやると考えろ。今からやる作業は、実験結果を纏めるときとかレポートを書くときに必ず必要な技能の一つだ。今後の学園生活の為にも、習得しておきたいだろ?」
「まぁ……そうですけど」
少し口ごもりながらも笹原が答える。どこか納得いかないが、折合を付けなければならないのも明白でもあり、生真面目な笹原に仕事を放棄するという選択肢は無かった。
「よし、それなら早速はじめよう。そのパソコンに座ってくれ」
高松に案内され、電源のついたパソコンの前に座る。幸先の悪い幕開けとなった。
点灯しているパソコンのディスプレイに、総務課2係と書かれたユーザ名がでかでかと映し出される。ユーザ名は、ティーカップのアカウント画像とパスワード入力画面を連れて表れた。
「パスワード……」
笹原が適当にパスワードを打ち込んでみる。しかし当たるはずはなく、再入力をお願いしますと何度もやり直させられる。痺れを切らした笹原が不機嫌そうに高松に声を向けた。
「先輩。俺、パスワードなんて聞いてないんですけど」
「そりゃ教えてないからな」
素知らぬ顔で高松が返す。その態度に笹原がむっとした表情を浮かべる。ログインできなければ仕事ができないのだから、笹原が知らないのならば先にパスワードを教えるのが正しい手順だろう。
「だったら教えてくださいよ」
「教えても何も、表示されてるじゃん」
そう言うと高松が、パスワード入力の少し下を指さす。そこに、先程までなかったはずのヒントが小さく顔を出していた。ヒントはログインのパスワードに関する単語や文章を登録しておくことで、忘れてしまったときに思い出しやすくするための機能だ。このヒントを指差して笹原が聞き返した。
「このヒントに書かれてる 「SOMU2ってヤツですか?」
「その通り。分かりやすいヒントだろ」
「まんまじゃないですか……」
入力欄にパスワードを入力するとディスプレイに「ようこそ」と表示され、トップ画面が開かれた。本当にログインできるとは……そう思いながら笹原は呆れを含んだため息をつく。
「これじゃ、誰でも入れるじゃないですか……」
「大丈夫だ。戸締まりはしっかりしてるからよ」
「そうじゃなくて……」
高松はケタケタと笑うと、金沢部長から渡された資料を差し出した。高松と洋介はディスプレイに頭を向ける。
「さてと、仕事に取り掛かるか」
「で、俺は何をしたらいいんですか?」
「例の書類を作ってもらおうか。エクセルは使ったことあるか?」
そう言いながら、高松はデスクトップのアイコンを開いた。すると、画面にたくさんの表が現れた。
「ありません」
「そうか。じゃあこの紙と同じように文字を打ち込んでみてくれ」
「それだけでいいんですか?」
笹原には作業内容の簡単さに思わず驚きが隠せなかった。
「習うより慣れたほうが早いからな」
そういうと、一言「終わったら声かけてくれ」と言い残して、高松は自分の机に腰かけた。
「うーん……まあ、やってみるか」
洋介はキーボードに長い指を静かにあてた。
2、30分経ったころだろうか、打ち込みを終えた洋介は長い息をついた。
「よし、こんなもんかな。高松さん、できました」
「おう、できたか」
声を掛けられた高松は、机に広げられた資料から目をあげると、洋介にそう返した。高松は資料をそのままに席を立つと、洋介の側へ移動し、洋介の打ち込んだ表をまじまじと眺める。ふんふん、と一通りの確認を終えた高松は満足そうだった。
「よくできてるじゃないか。じゃあエクセルの使い方をいくつか教えるか」
そう言うと、高松はどこをどうすれば何ができるか、簡単ではあるがエクセルの初歩を笹原に指南し始めた。罫線の引き方、フォントサイズの変え方、セルサイズの変え方、ショートカットキーの使い方など、笹原の知らなかったことばかりだった。
はっきりと高松が苦手だった笹原も、彼の知識とその教え方を、さすがだなと見直していた。
「じゃあ、次は罫線とかも付けてみるか」
「こうですか?」
高松が笹原に指示を振る。笹原は言われた通りに範囲を選択し、罫線を引く。そして、フォントサイズやセルサイズの調整の後、ショートカットで保存してみせた。
「おー、できるようになったな」
「言われてすぐですからね」
「よし、じゃあ今年の企画書の通りのテンプレートを作ってくれ」
高松は体育祭の企画書を手渡すと、自分のデスクに戻っていく。今までの作業はしいて言えばチュートリアルのようなものだったのだ。高松はお気に入りの紅茶をマグカップに注ぐと、自分のデスクに腰かけ、さっきまでの自分の作業を再開させた。
「なるほど、本番ということか……」
洋介はテンプレートを打ち込んでいく、まだまだ手本を見ながらの拙さが残っているが、それでも着実に作業をこなしていく。
「これでどうですか?」
さっきの資料と同じ形のものができた。最初は少し苦労したが、これならすぐにでもできそうな気がする。そう安堵しながら笹原は高松に声を掛けた。
「この幅だと名前が入りきらないぞ。それに罫線が飛び出してる。作り直し」
「そうですか……」
高松から言われた通り、幅も狭いし罫線も飛び出している箇所があった。まだまだ初心者だということを痛感する。しかし笹原はそれ以上のことを見逃していなかった。高松が資料を見るとき、その眼を一際険しくさせていたことに気付いたのだ。思わず笹原の返答も声が怖気づいた。さらに、高松は席に戻ろうとする洋介を引き留めた。
「笹原、これ去年のものと全く同じ形式だよな。なんでだ?」
「去年使えてたので、それでいいかなと」
その笹原からの一言を聞くと、高松は声を少し強めて笹原に言い聞かせた。
「去年のコピーを作るんなら、お前の必要はねえんだよ。自分で作るからには、何が必要か、どうやったらいいかを考えながら作れ」
「……」
思ったよりも厳しい指導に思わず笹原は伏し目がちになる。去年と同じものではいけないようだ。参考があるとはいえ一から作る必要があるとなると、その難易度は格段に跳ね上がる。先程までの安堵が覆った。
笹原は席に着くと、渡された資料をもう一度見直す。何が必要かは分かっている。あとは、これをどう表現するかだ。記入欄を増やすか? それとも罫線の種類を変えるか? 考えることはいくつか思いつく。
笹原は考えに考え、試行錯誤を繰り返し、一つの答えを導き出した。去年の資料にはなかった『ふりがな記入欄』を作ることだ。難解な名前の人物が増えている昨今、ふりがながあることはかなり重要なポイントなのではないだろうか。
「高松さん、できました」
「お、できたか」
高松が笹原の作ったテンプレートを見直す。罫線などのミスも直したし、指摘ももうないだろう。その笹原の考えは高松の一声で崩れた。
「これだと、一番上の表の長さが、名前を書くには足りないんじゃないか?」
「わかりました」
その後も指摘を受けては修正、指摘を受けては修正を繰り返した。気付けば時計は18時を指していた。
「高松さん、これでどうですか?」
「どうだ……」
高松が相変わらずの険しい眼でディスプレイを見る。笹原はその隣で緊張の表情を浮かべている。暫くすると、高松は顔をあげ、笑みを浮かべた。
「いいんじゃないか? 上出来、上出来!」
「あ、ありがとうございます!」
何度も指摘を受けた甲斐があり、書きやすいテンプレートが出来上がった。笹原もかなり疲れていたが、自分が仕事をやり遂げたことに対して、かなりの満足感を持っていた。洋介はまどから差し込む夕日の日差しが部室を照らしていることに気付き、もうそんなに時間が経っていたのかと驚いた。
「18時だー。みんな撤収するぞー」
部長の金沢が部室の全体に声を掛ける。その声を聴くや否や、部室にいた全員が片付け始め、帰る準備を整えだした。
なんだか、入学してから一番長かったように感じる。それだけ充実した日だったのだろう。そう考えながら荷物をまとめ終えた洋介に、広瀬課長が声を掛けてきた。
「やあ笹原君。どうだい仕事は?」
「難しいですね……高松さんにすっごい指摘を受けました」
やはり、最初の印象が悪かったせいで私怨を買ってしまったのだろうか。そんな不安を抱えた顔を浮かべてしまう。落ち着いてから考えると、先輩に対して少し失礼だったかもしれない、と洋介も反省する。広瀬もそんな笹原の不安を感じ取ったのだろう。
「総務課だからね、しかたないよ。じきに指摘も少なくなるさ」
「そんなもんですかね……」
「部内の人間だけが見るなら別にいいんだけどさ、学内にいる全員が見るとなるとしっかりとした校閲が必要なわけだよ。嫌われ役だけど、十分な経験者にしかできない大切な役割なんだ。だから、あんまり高松を嫌ってやらないであげて欲しいな」
広瀬のその言葉を聞き、洋介もはっと思い返す。今日の初めに目の当たりにしたように、執行部は複雑かつ理不尽な目に合う職場なのだ。それ故に、一挙手一投足すら慎重を期すべきなのは当然だ。そういう意味では校閲は最も重要でかつ最も知識が必要な役割と言える。しかし、その重要さに反比例するかのごとく、製作者からは嫌われやすいだろう。少なくとも洋介にはそう見えた。
「損な役割ですね」
「いや、そうでもないさ。ヒトの文書を校閲してると、自分の能力も上がるからな!」
「でも、校閲って嫌がられません?」
しかし、洋介の予想に反して、広瀬は笑顔で答えて見せた。
「ああ、そこは大丈夫さ。部員のみんなもその辺は理解してるからね。だから校閲を頼む人には、絶対の信頼を置いてるかな!」
なるほど、校閲の必要性をみんなが理解しているのか、と笹原は驚く。対外的にほぼ迫害ともいえる理不尽を負っているせいなのかはわからないが、部内での結束は高いようだ。
「……それは、いいですね」
「でしょ!」
そんな話をしながら洋介と広瀬は部室の外に出た。撤収もとい解散は各々自由らしい。部室前で立ち話をしているそんな2人に高松が近づいてきた。
「おう何の話してんだ?」
「お前が口うるさいって話だよ!」
笑いながら広瀬が答えると、「そんなことねーよ!」と高松が言い返した。この2人も軽口を飛ばしあってはいるが、本心では信頼し合ってるのがひしひしと伝わってくる。
その点だけでいえば、この部は入って正解かもしれない。
数日後ーー
5月も半ばになり、徐々に暑さが感じられるようになってきた。笹原が入部してから1ヶ月ほど経つ。月初めに金沢から言い渡されてから、笹原は小山と共に、総務課で書類の指導を受けていた。2人とも基礎技術を身に付けつつあったそんなある日、2人が総務課で作業をしているときだった。凛とした女子学生が部室に入ってきた。
「おはようございます」
「あ、木更津さん。おはようございます」
彼女の挨拶に小山が返す。しかし、笹原は初対面だったため、挨拶が遅れてしまった。――正確には『初対面』ではなかった。あの勧誘会の時、高松と共に笹原を執行部へ誘った、もう1人の女子執行部員だった。
「あー、……お久しぶりです」
思い出した笹原が会釈する。
「笹原君ね。勧誘会以来かしら? 3係の木更津よ。よろしくね」
すると、木更津は一転して不思議そうな表情を浮かべた。
「あら、聞いてたより柔らかいじゃない。高松からは、結構噛みつくぞって聞いてたんだけど」
しまった、高松さんから伝わっていたのか。噛みついてしまったという自覚があっただけに、笹原にとってその話は少々恥ずかしいものだった。
「そりゃ、ほぼ詐欺まがいに入部させられた訳ですし」
「じゃあ、私にも噛みつくの?」
そう言って、木更津がほくそ笑む。年上だからか、それともこの人だからなのかは分からないが、どうやら木更津先輩の方が笹原よりも一枚以上上手なようだ。部長や課長といい、執行部には癖の強い人が多いようだ。
「さすがに慣れましたよ」
「本当にー?」
「もう、やめてくださいよ先輩ー」
笹原が音をあげる。木更津はご機嫌そうに大きく笑いながら、自身の鞄を机に置いた。どさっという重たそうな音が響く。隣でふくれている笹原を尻目に小山が尋ねる。
「木更津先輩、授業終わりですか?」
「ええ、そうよ。5年生なだけあって、教科書が重いわ」
「にしても、先輩を部室で見るの久しぶりな気がします」
笹原が木更津を見たことがないのも無理はない。木更津はここ最近部室に顔を出していなかったのだ。そもそも知らなかった笹原は疑問に思っていなかったが、以前から面識のある小山にとっては不思議だった。
「昨日まで、外で備品チェックしてたから来なかったのよ。ちゃんと仕事してたのよ?」
「なら今日はどうして部室に?」
「いい質問ね」
木更津が部室に来たのには理由があった。もっとも、ここに来る人間は大抵理由があるものだが。彼女が部室に来たのは、笹原達に関するものだった。
「今日は、2人にも備品チェックを手伝ってもらおうと思って来たの」
備品チェック……笹原が金沢部長から言われていた仕事の1つだ。高松の下で書類作成を学んだ次は、この木更津の下で備品チェックというわけだ。
「備品チェックって、何をするんですか?」
まだ詳しい話を聞いたことがない笹原が、木更津に質問する。一方の小山も耳を傾けている。そこで木更津は仕事の内容を説明しだした。
「備品の数や種類がそろっているかとか、備品が壊れていないかどうかを確認するのよ」
「どんな備品があるんですか?」
「大きく分けると、『競技備品』と『運営備品』の2種類があるわ。『競技備品』は競技に使うバトンやタスキ等、『運営備品』は運営関係で使うスターターやテント等のことよ」
普通の学生ならば、触ったことがない競技備品もあるのではないだろうか。一方の運営備品など、普通の人生を送る分には手にすることはさらに少ないだろう。そんな運営備品のチェックが入部最初の仕事に入っていることからも、執行部の特殊性がうかがえる。
「さて、早速チェックに行きましょうか。2人ともついて来て」
木更津はそういうと、笹原と小山の2人を引き連れて、部室から出て行った。
部室から数分ほど歩いて講義棟の外に出ると、グラウンド近くにある建物に到着した。「ここは……?」
入学して間もない笹原が質問する。広い敷地を有する学園には数多くの数多くの施設があり、笹原にはまだ全てを把握しきれていなかった。その数は、全ての施設を訪れる学園生の方がはるかに少ないほどだからなおさらである。
「『新棟』よ。講義が開かれる場所というより、文化部の活動場所ね」
確かに、上の階からかすかに吹奏楽の音が聞こえる。通り過ぎた入口からは、カメラを抱えた学生数人が出てきた。木更津は、講義棟とは異なる簡素な外観をしたこの建物の1階隅に2人を案内する。そして、木更津達は新棟の裏手に回ると、目の前に大きなシャッターが現れた。
「さ、ここが『執行部倉庫』よ。ここに備品の一部がしまわれてるわ」
木更津はそう言い、シャッターの鍵を取り出す。執行部から離れた新棟の一角に執行部の倉庫がある。シャッターを開けると、種々雑多な備品が整然と収納されていた。
「たくさんありますね」
「でも、少し埃っぽいです……」
笹原と小山が眉をしかめる。長い間放置されていたのかハウスダストの類が充満していた。木更津が壁のボタンを押して電灯を点けると、劣化した蛍光灯が鈍い音を立てて薄暗く光り始めた。
「そうねー。滅多に人なんて来ない場所だからね」
そう言いながら木更津が1台のカーゴを引張り出した。中には大きな布や金属の棒など、一見、用途の分からないものばかりだ。
「それじゃ、この中から『玉入れの道具』を探し出すわよー」
「玉入れの道具ですか?」
「そうよ、具体的には『カゴ』と『玉』の2種類ね」
未だ疑問そうな笹原に、意気揚々とした木更津が答える。玉入れと言えば、小学校や中学校の運動会で定番の、地面から高くにある小さな籠にこれまた小さな玉を下から投げ入れるという競技だ。しかし、これの定番は小中学校だ。成長期をとうに過ぎ、中には成人している学生も一定数居る学園で、この競技に意味があるのだろうか。
「学園生で玉入れ、ですか」
「なんか、不思議ですね」
普通に考えれば、笹原と小山の言うとおりに、やること自体が不思議な競技だ。その競技の備品がここにある。そのことが、2人には疑問に思えた。しかし、木更津はその顔を見ると、鼻高々に得意げな顔を向けた。
「ふっふっふ……甘いよ2人とも。ここは学園だよ? ただの玉入れなわけないじゃないわ」
木更津は体育祭企画書の1ページを取り出した。そこには見たことも聞いたこともない競技名が大きく記載されていた。
「『トーテム攻城戦』??」
「なんですかそれ」
もう訳が分からない。意味が分からない。そんな顔で新入りの2人が首を傾げる。木更津はふっふっふと笑いながら、概要を言ってみせた。
「普通の玉入れは、制限時間にどれだけ自分の色の玉を自分の籠に入れられるか、の勝負でしょう? でも、これは違うのよ」
「というと?」
「ずばり! 玉を入れるのは相手の籠よ! 相手の籠に自分のチームの玉を入れると2ポイント! 自分の籠に自分のチームの玉を入れると、マイナス1ポイント!」
「じゃあ、相手の玉を相手の籠に入れたらどうなるんですか?」
「もちろん、相手チームのポイントがマイナス1されるわ!」
思いつきそうではあるが、なかなかに実践されない楽しそうな競技に変わっている。そのことに笹原と小山も沸き立っていた。しかし、木更津の持つ秘策はこれだけではなかったのだ。
「でも、それだけじゃありきたりじゃない?」
「いや、十分ありきたりじゃないと思いますけど」
笹原が突く。しかし、ここまででも十分ありきたりと言える、それほどの自信を持ちながら木更津は続ける。
「今回は、籠を守る『ディフェンス役』が存在するのよ! この役は2人1組で、肩車をすることで襲い掛かる玉から籠をカバーすることができるわ!」
「なるほど、だから『トーテム』なんですね」
「その通り、『トー・テム・ポール』にしては一人足りなかったから「トーテム」なのよ」
小山の核心をつく答えに、木更津が満足げに答える。笹原と小山も、先ほどまでの疑問はなくなり、感心したように頷いていた。木更津はそれを見て、さらにほほ笑む。
「にしても、先輩よくルール覚えてますね」
「だって私が発案した競技だもの」
笹原の質問に、木更津がこれまた鼻高々に返す。
「あ、そうでしたね。木更津さんが説明してましたね」
「そっか、小山ちゃんは企画会議参加してたんだっけ」
笹原と小山は2人とも入部してから間もないが、笹原は勧誘会後から、小山は勧誘会より前からと期間に若干の差があった。その間に企画の会議があったのだろう。
「と、このように、1つの使い方に凝り固まらず、様々な使い方を見出すことが重要なのよ」
木更津のその言葉に、笹原は学園生に秘められた力を実感する。『自分の籠に自分の玉を入れる』という固定観念にとらわれずに、様々な可能性を模索することは簡単なことではない。それを易々とこなす程には、学園生は只者ではない。
「っと、話し込んじゃったね。いい加減作業を始めましょうか。笹原は籠を組み立てて。小山ちゃんは使える玉を数えて頂戴」
木更津の指示がかかると、2人は分かりましたと一言返答し、作業を始めた。小山は玉入れの玉を1つひとつ、穴が開いていないか確認していく。一方の笹原はカーゴに入っていた金属の棒を組み合わせ、籠を作っていく。中には穴の開いた玉や歪んだ金属の棒などがあり、それらは除外していく。すると、手元にはある程度の備品がそろった。
「木更津先輩、籠作り終わりました。4つくらい使えそうです」
「玉入れの玉は、白色が18個、赤色が15個ありました」
笹原と小山が報告する。しかし、あたりに木更津はいなかった。奥から何かを引きずる音が聞こえる。もしかしたら木更津先輩だろうか、そう考えながら笹原が奥に進む。
「……先輩?」
笹原が奥を覗き込むと、木更津が何やら大きな備品を転がしていた。
「ああ、2人とも作業終わった?」
「はい、終わりました」
「じゃあ、結果を聞かせてもらえる?」
2人が作業の結果を木更津に伝える。木更津はバインダーに結果をメモしていく。1通りまとめ終えると、木更津が難しそうな顔を浮かべた。
「あっちゃー、結構ダメになってるね。これは追加で買わないと」
「特に何が足りないんですか?」
「赤色の玉が10個、白色の玉が7個、あと籠が1本必要ね」
さらさら、とバインダーに記入を終えると、木更津は一転して悪戯好きの子どもが新しい遊びを思いついたときと同じような表情を浮かべた。
「ま、必要な備品はあとで考えるとして──2人には面白い備品を点検してもらおうかしら」
「なんですか?」
「それは──これよ!」
すると、木更津先輩の後ろに大きなロール状の何かが現れた。古びた大きな……これは、綱だろうか。
「綱、ですか?」
「そのとおり! 『綱引き』の大綱だよ!」
笹原の読みに、木更津が答える。そう、目の前にあるのは、ロール状にまかれた大綱だったのだ。これこそ、管理者以外で見たことの少ない備品だろう。
「大綱って、こうやって保管されてるんですね! 知りませんでした!」
小山が驚きを隠せない様子で盛り上がる。確かに、中々見ない大物備品の姿にどこか心が躍っている自分がいる、そう笹原も考えていた。しかし、大綱の何を点検するというのか。その笹原の疑問への解答も、木更津はしっかりと持っていた。
「ところで、何をどうやって点検するんですか?」
「綱が切れていないか、危ない切れ端がないかを確認するの。方法は簡単、3人で綱を引くだけよ」
「それだけですか?」
拍子抜けた内容に、小山も驚く。
「だって面倒だし、3人で引いて切れるか切れないか、切れそうなところはあるかを確認するだけだしね」
「まあそれもそうですね」
「よし! そうと決れば、2人とも私の後ろで綱を持って!」
木更津に言われた通り、笹原と小山も木更津の後に続く。3人が綱を持ち1列に並んだ。
「2人とも持ったかしら。……それじゃあ行くわよ!」
一呼吸置くと、木更津は腰を入れて綱を引き始めた。
「オーエス! オーエス!」
「木更津さん、掛け声それですか!」
突然の木更津の掛け声に、小山が笑い声をあげる。笹原も笑い声を堪えきれず漏らしていた。
「ほら、2人とも! ちゃんと引かないと駄目よ! さ、オーエス!」
「オーエス! オーエス!」
3人が定番の掛け声をあげながら大綱を引く。ロールに幾重にも巻きつけられているため、ただ引っ張るだけでも力が必要になる。しかし、3人とあれば徐々に綱は引かれていった。少し、また少しと大綱が解かれていき、遂に全ての綱が解かれた。
「け、結構力がかかりましたね……」
「小山さんには、キツかったかもしれませんね……」
「なに2人ともヘバってるのよ。だらしないわね」
げっそりしている笹原と小山を前に、ピンピンしている木更津が呆れ顔で立っていた。
「まあ、新入りだし仕方ないわね」
「先輩は大丈夫なんですね……」
木更津は綱を端から端へと眺め、破損状況を確認していた。
「まあね、じゃあ2人とも、今回の状況を先に広瀬へ報告しておいてちょうだい」
木更津が笹原にバインダーを渡す。そこには高松から習ったエクセルの表が並んでおり、手書きで情報が追記されていた。
「これを、広瀬さんに渡せばいいんですか?」
「そうよ、広瀬だったら渡せばわかるわ」
「分かりました」
さすが総務課長ということだろうか。とりあえず、笹原と小山は渡されたバインダーを持ち執行部室へ戻ることにする。
「木更津さんはどうするんですか?」
「私はもう一仕事終えてから帰るわ」
小山が気に掛けると、木更津は一言そう伝え、黙々と作業を始めた。それを見届けると、笹原と小山も部室へ足を進めた。
執行部室へ戻ると、他の部員が賑やかに作業をしていた。その一角で、高松と話し合っている広瀬課長を見つけた。
「お、2人とも備品チェックお疲れ様」
近づいてきた笹原と小山に、広瀬がねぎらいの言葉を掛ける。
「どうだった? 見たことない備品もあっただろ」
「そうですね、なかなか見ない物が見れました。木更津先輩からこれを渡すよう言われました」
笹原がバインダーを広瀬に渡す。広瀬はバインダーの資料をパラパラとめくると、眉をひそめた。
「やっぱり、いくつか使えなくなってるか……買ってからだいぶ経ってるしなー」
木更津と同じ懸念をしている。やはり、木更津の言う様に見ただけでわかるようだった。さすが総務課長といったところか。
「どれくらい経つんですか?」
「記録だと、もう8年近く前だったと思うよ? よくもったほうだね」
広瀬はバインダーを持ってデスクに座った。データの管理ソフトを立ち上げると、データを打ち込み始めた。
「そういえば木更津は?」
横に立っていた高松が尋ねる。笹原が、一仕事終えてから帰ると言っていたことを伝えると、一言そうかと言った。
「あの、私たちは何をすればいいですか?」
小山が指示を仰ぐ。備品チェックが終わった今、笹原と小山に仕事は無かった。
「なら、『放送原稿』を作ってもらおうかな」
「『放送原稿』?」
「言葉の通り、放送の原稿だよ。ほら、たまに昼休みとかに流れてるでしょ? 『執行部より、連絡しますー』ってやつ」
小山が、あーそれですかと感嘆する。入学したてだが、笹原にも聞き覚えがあった。学生の招集は提出書類の案内など、その内容は様々だったことを記憶している。
「今回は、この書類の提出期限が来週の水曜だぞ! ……って内容の放送を入れてほしい」
そう言うと、広瀬が資料を1枚取り出す。以前、笹原が作った名簿だった。
「これ、俺が前に作ったヤツですか?」
「その通り、これを今日の晩に各クラスへ配布するから、ちゃんと提出するようにっていう放送をかけるんだ。放送するのは明日のお昼だよ」
自分の作った書類が、実際に人の手に渡るその間際だった。書類の存在を周知させるために放送をかけるというものだった。
「作り方は誰に聞けばいいですか?」
とはいえ、さすがに笹原と小山だけでできる作業ではない。2人とも放送なんてしたことがないからだ。学園生の中でも昼休みの校内放送をしたことがある人なんて少ないのではないだろうか。
すると、広瀬は意外な人物を勧めた。
「俺は忙しいからねー。金沢に聞いたらいいんじゃないかな」
「金沢部長ですか?」
小山が驚く。真面目で無骨な金沢部長が放送に長けているとは意外だった。
「部長が、放送をしてたんですか?」
「ほら、アイツ今は部長だけど、その前は渉外課所属だから。元は放送を何回もかけてたよ」
「そうだったんですね」
1年目から部長なわけがなかった。部長になる前は渉外課にいたのなら、放送もお手の物だろう。そこで、2人は勧められた通り、金沢部長に指示を仰ぐことにした。
……
部室の一角に、執行部長専用のデスクが置かれている。そこでは金沢部長が、パソコンに向かっていた。金沢は他のデスクと比べて圧倒的に多くの資料に囲まれながら、スケジュールとにらみ合っていた。そこに笹原と小山の2人が訪れる。
「金沢部長、今いいですか?」
「ん? 何か用か?」
笹原に声を掛けられた金沢が、部長デスクから振り向く。その反応を見て、笹原が要件を伝えた。
「広瀬先輩から、部長に放送原稿の作り方を教えてもらえ、と言われて来ました」
「なるほど、放送原稿か」
笹原の言葉に金沢が頷いた。
「金沢さんは、渉外課に居たって聞きました! 放送もされてたと聞いて意外です!」
「ああ。去年までは渉外一本だったな。放送は他の課員も使うが……まあ、いいだろう。しかし、何から教えるかな」
すると金沢はパソコンのディスプレイにメモ帳を表示した。メモ帳には、「放送原稿のポイント!」とタイトルがふられている。すると、金沢がディスプレイを笹原と小山に向け、口を開いた。
「そうだな……原稿に必要なことがいくつかある。なにがあると思う?」
「うーん……俺はよくわからないです」
「まず、執行部からの連絡であること。次に、どこへ向けての連絡であるかということ。そして何を、いつまでに、どうするかということ。最後に、これら全てが簡潔で分かりやすいこと。この4つが必要だ」
校内放送は、様々な団体や個人が使用する。その宛先も当然多種多様になる。そのため、発信の源と先が明確にわからなければならない。もし、これが不明慮ならば、本来の相手が情報に気付かないだけでなく、関係のない人を混乱させてしまうだろう。これらが分かったところで、内容がわからなければ相手を困惑させてしまうだろう。
「それじゃ、2人とも一度原稿を書いてみるか」
そう言って、金沢が紙とペンを2人に渡した。
「早速ですか」
突然の実践に、笹原が驚く。
「よく言うだろ? 『習うより慣れろ』だ」
金沢は依然として、紙とペンを差し出している。2人は受け取ると、悩みながらもペンを走らせた。
悩みながらも、”簡潔に”というだけあって、数分ともしないうちに2人とも各々の原稿文を書き上げた。金沢はその様子を見ると、原稿を見せてみるよう言った。先手を打ったのは笹原だった。
「では……『執行部から各クラスへ、書類を配布したので来週の水曜日までに提出しなさい』ーーこんな感じです」
「なるほどな。小山はどんな文章を作ったんだ?」
金沢に促され、小山も自身の文章を披露する。
「私は『執行部総務課から各クラスへ連絡します。書類を配布したので、来週に提出してください』……といった風になりました」
2人の文章を聞いた金沢が、うんうんと小さく頷く。すると金沢は口元に手をあて、2人へのコメントを考え始めた。2人は固唾を飲んだ。数秒と経たずに、金沢が2人に語りかける。
「まあ、最初はこんなもんだろ。まずは、笹原からコメントするか」
「お願いします」
「注意するべきは2点だな。まず、話す速度が速い。放送はゆっくりしたほうがいいからな、もう少し速度を落とすべきだ。次に、口調が上からだな。『~しなさい』は絶対に使ったら駄目だ。『~してください』にするべきだな」
「速いですか? 普通ぐらいの速さで読んだつもりなんですが」
「そうだな。だが、『放送としては』速すぎるぞ。顔を合わせている時とは違って、相手は自分に対して話されてるとは思わないからな」
金沢の言うとおり、普段の放送を聞く時に、最初から自分が当てはまると意識して聞いたことは少ない。それなのに、笹原は普段話すときと同じ速さで読んでいた。ここは笹原の思いもよらなかった指摘だった。
「口調は強いと駄目なんですか? 立場はこっちの方が上なのでは?」
放送の聞こえやすさとは違い、これは相手とこちらの立場の違いによるものである。指示を出すのだから、執行部の方が立場上高いのは目に見えている。なのに語気を強めてはいけないことが、笹原には分からなかった。
「あくまで、協力要請だからな。どっちが上というわけでもないんだ。早い話が『国民感情』ってやつだ」
確かに、ただでさえ風当たりの強い執行部が、笹原の原稿のように強い口調で放送をすれば、それこを周りの心証を悪化させるに違いない。金沢の説明を受け、笹原もそう思い直した。ただでさえ風当たりの強い執行部が、これでは今後の活動に支障がでるのは、火を見るより明らかだ。
「次に、小山だな。小山は情報の過不足の差が激しいな」
金沢は、小山に視線を向けるとそう言った。
「情報の過不足、ですか?」
「そうだ。『執行部総務課から』は多すぎる、一般学生はどの部署から出されたものかなんて関係ないからな、『執行部から』で十分だな。それとは反対に、『来週までに提出』では情報が少なすぎる。『来週の水曜日までに提出』くらいは欲しい」
「なるほど」
必要な情報と必要でない情報の取捨選択は慎重に行わなければならない。その点でいえば、小山の原稿はここを大きく誤っていたのだ。これ、必要でない情報は伝わるが必要な情報は伝わらず、放送の意義を成さない。
「俺が作るなら……そうだな」
2人の指摘を終えた金沢が、パソコンと向き合う。そしてパソコンのメモ帳を立ち上げると、キーボードを軽やかに弾く。笹原達とは比べ物にならない速さで文字を打ち込むと、突然笹原の方を向いた。
「笹原、この書類の名前と提出時間はいつだ?」
「書類の名前と提出時間……?」
「何を出すのか言わないとわからないだろ? それに、来週の水曜日提出と言っても、昼までなのか日付が変わるまでなのかで随分違うだろ?」
「その通りですね」
金沢の言うとおりだ。しかし、笹原も小山も、共に書類の名前も提出時間も聞いていなかった。聞いていなければ知る由もない。
「すいません、聞いてないです」
「そうか。それはすまない」
すると、金沢は再びパソコンに向かい、小さくつぶやいた。
「これは、あとで広瀬にお灸をすえないとな」
金沢スペースキーを何回か押す。おそらく書類の名前と提出時間を書き込む場所に空白を設けているのだろう。すると金沢が、ある程度原稿ができたらしく笹原達に読み上げてみせた。
「さて、できたぞ。俺ならこう書くな。『学友会執行部より各クラスの体育祭委員に連絡します。クラスポストに( )を配布しました。必要事項を記入の上、来週水曜日の( )までに直接執行部へ提出してください。繰り返しますーー』」
「繰り返すんですか?」
笹原が驚いた顔をする。笹原と小山は、放送を繰り返すことなど全く考えていなかった。
「ああそうだ。繰り返せば、1度目に聞き逃した相手も聞き取れるからな。1度目に聞こえた相手も、情報の再確認をできるしいいことづくめだ。まあ、繰り返すと言っても、あわせて2回しか言わないけどな」
より正確に、そして確実に情報を伝えるための保護方策なのだろう。こうしておけば、ある程度の人間であれば情報を汲み取ることができるはずだ。笹原と小山も、なるほど思いつかなかったと小さく頷く。
すると、金沢が先ほどの原稿をプリントアウトし、2人に差し出す。金沢は2人に、今回はこの原稿を使うように、と指示すると、丁度部室に帰ってきた広瀬を指さした。
「その2ヶ所の空欄は、広瀬に聞いて書き込むんだぞ、いいな」
「分かりました」
笹原と小山が、金沢から差し出された原稿を受け取る。しかし、笹原は広瀬のもとへ行く前に、ひとつ気になったことがあった。
「部長、その放送の技術は、どこで身に付けたんですか?」
恐らくはこの執行部での技術だろう。ここまで放送の技術が必要なところは、放送部等以外に、笹原には思い浮かばなかった。しかし、それでも笹原は一度聞いてみたかったのだ。
「もちろん、先輩からの受け売りだ。俺も配属当初はみっちり指導されたもんだ。それに比べたら、2人の方がセンスいいかもしれないな!」
金沢が、ガハハハと大きく笑う。まったく、豪傑な人だなと笹原と小山は思い直す。2人は金沢に一礼すると、総務課のデスクに戻った。
広瀬はいつの間にか部室を出ていたらしい。先程、金沢から指導を受けていた際に、広瀬が部室に戻ってくるところを、笹原達も見とめていた。広瀬はその手に、かなりの枚数の紙を抱えていた。
「広瀬さん、金沢さんから放送原稿教えてもらいました……なんですかその紙?」
「笹原が作った書類、全クラス分だよ。今印刷してきたところだ」
そう言って、広瀬が書類をパラパラとめくる。すべてが同じ物だった。広瀬が机の上に20数枚の書類を置く。机に厚く積み重ねられたそれを見て、笹原も目を丸くする。
「じゃ、早速配布しに行こうか!」
「あの……広瀬先輩、質問があるんですけど」
広瀬が2人を連れ出そうとしたそのとき、小山が彼を引き留めた。広瀬がきょとんとした顔で小山を見る。広瀬には留められる理由が分からなかった。
「どうしたんだい?」
「この書類の名前と、提出する時間を教えてもらってもいいですか? ……金沢さんから放送原稿に必要だから聞くよう言われまして」
「ああ! 言ってなかったか。書類の名前は出場者名簿、提出時間は水曜日の18時だよ」
小山が、ありがとうございますと広瀬に返しながらペンを走らせる。笹原も同じく、金沢から渡された原稿の空欄を埋めていった。広瀬は、ふと金沢のデスクに視線を移す。視線の先にいる金沢は睨んだ目で広瀬を見ながら、口元を微笑ませていた。広瀬はそれを見て、これは後で金沢からのカミナリだな……と苦笑いを浮かべた。
「さ、さあ。早くしないと、撤収に間に合わなくなるよ!」
「は、はい」
広瀬が2人を急かす。2人は焦りながら出ていく広瀬を不思議そうに見ながら、部室から廊下に出た。
3人は執行部室のある講義棟の2階から、1階へと降りる。すると、階段の目の前に
レターボックスが置かれている。
「2人とも詳しくは初めてだろうね。これがクラスポストだよ」
広瀬が2人にレターボックスを指さす。クラスポストの各投函口には、それぞれクラスの番号が書かれている。それぞれが各クラス専用の投函口のようだ。広瀬の説明は続く。
「ここに各クラスへの書類を入れると、それをクラスの人が取っていくっていう仕組みなんだ。執行部以外にも先生やクラブ委員会なんかも使ってるね」
「なるほど、ここに書類を入れるんですね」
笹原は、初めて真剣に見るクラスポストをまじまじと眺める。小山も聞いたことはあったが、しっかりと見たことはなかったので、同じくクラスポストを眺ていた。
「では、入れていきましょうか」
「そうだな、手分けして入れていこう」
小山が2人に声を掛けると、広瀬が俺と小山に書類の束を渡した。小山が低学年のクラスポストに投函をはじめると、広瀬は高学年のポストに名簿を入れ始める。笹原も負けじと、真ん中である3年生のポストから攻め始めた。全クラスに1枚ずつ入れる必要があり、その量は多く見えたが、3人で手分けすると意外と早く済ますことができた。
「3人いるだけあって、直ぐに終わりましたね」
一番下の段に投かんを終えた笹原が、立ち上がりながら言う。
「そうだね、じゃあ部室に荷物を取りに行こうか」
「わ、もう18時なんですね」
広瀬の指示を聞いた小山が、時計を見て驚く。部室ではおそらく、撤収の号令がかかっている時間だった。部室が閉まる前に戻らなければならないということで、3人は急いで階段を駆け上がる。
部室からは徐々に部員が出てきている最中だった。帰路に着いた部員達に、お疲れ様でしたと挨拶をしながら3人も部室に入る。すると、金沢が1人だけ片付けをしていた。
「おう、ご苦労様」
金沢が部長デスクから3人を出迎えた。
「お疲れ様です、部長」
広瀬がそう言うと、笹原と小山も「お疲れ様です」と挨拶した。笹原と小山は総務課のデスクに置いた荷物を手に取る。広瀬も総務課長のデスクから荷物を取ると、2人を連れて部室の扉を開けた。
「それでは失礼します」
「お疲れ様でした」
「ああ、お疲れ様」
笹原と小山は一言挨拶すると、扉の外へ足を進めた。金沢もそれをにこやかに見送る。しかし、広瀬が出るときになると、その雰囲気を大きく変えた。
「か、金沢もさっさと帰れよー」
「いや、その必要はない」
笹原と小山の2人が疑問そうな顔で金沢を見る。金沢は笑顔なのだが、どこか恐ろしいオーラが出ているように感じた。一方の広瀬は、体中に嫌な汗を感じていた。
「広瀬、お前もちょっと残ってけよ。な」
金沢が広瀬に威圧を掛ける。しかし、後輩が2人もいる前だからだろうか、それ以上のことには及ばなかった。すると、動かない広瀬にしびれを切らしたのか、金沢が新入部員の2人に声を掛ける。
「2人も疲れただろう。今日はもう帰っていいよ」
「わかりました。そうします」
「明日は、お昼休みが始まったらすぐに部室に来るんだよ」
「はい、わかりました」
何かを察したのか、笹原達はそう言うと部室を後にし、講義棟の階段を下りて行った。心なしか部室から、待ってくれええという広瀬の断末魔が聞こえたような気がした。
──翌日。
午前の授業が終わり、笹原が執行部室を訪れた。
「こんな時間に、部室に誰か居るのか……?」
扉の磨りガラスから灯りは射しておらず、日頃の騒がしさも聞こえない。いつもと違う扉の雰囲気に、笹原が首を傾げる。
笹原が昼休みに部室を訪れたのは、初めてだった。基本的に、部活動は放課後に行われる。学園では、昼は校内の学食で食べたり、購買で買った昼食を教室で食べたりして過ごすのが一般的だ。そのため、この時間に部室の扉を開けることは珍しかった。
すると、笹原の背後にある階段から、小山が降りてきた。
「あ、お疲れ様です」
小山が肩からさげた鞄の紐を直しながら笹原に近づく。何日かか一緒に仕事をしていることもあり、お互い接し方が柔らかくなってきていた。
「部室閉まってるの?」
「いや、俺も今来たところ」
「なーんだ。 なんで入らないの?」
「いや、静かだなーって思ってただけ」
笹原は扉に目を向ける。部室からは物音ひとつしない。
「確かに静かだね」
「とりあえず入ってみるか。ここにつっ立ってても仕方がないし」
「そうだね」
笹原が扉をノックし、部室の扉を開ける。
「失礼します」
「おー、いらっしゃい。よくきたね」
2人が部室に入ると、広瀬が手を振った。外から感じられた閑散さとは裏腹に、部室中央の会議机には、4人の人物が座っている。どうやら、トランプの大富豪に勤しんでいるようだ。
「なかなか早く来たな」
金沢は購買で買った弁当を口に運んでいる。
「そういえば、いっこ下の世代がここに来るのは珍しいわね。……はい」
木更津が手元のカードを机に出す。
「そうくるか……。ええぇっと、確か笹原世代って、『S18世代』だっけ?」
広瀬が食事の片手間に、自分のカードを机の束の上に滑らせる。
「そうだな。俺らは『S17世代』だからな」
山場に現れたハートの9を見て、高松が自身の手札を物色しながらそう言った。
「S……世代?」
その会話を聞いていた笹原が頭に疑問符を浮かべる。それを、口に入れたパンを飲み下した木更津が説明して見せる。
「学籍番号のことよ。学園生は留年だったりで、年齢と学年が一致しないどころか、同級生が下級生になったりするから学年で分けづらいの。だから、学年じゃなくて世代で区別する文化があるのよ」
広瀬や金沢達の学籍番号は「S17」から始まり、その次の笹原や小山たちの世代は「S18」の学籍番号を持っていた。
「そんなに留年しやすいんですか……?」
入学したての笹原が、木更津の教えを聞いて恐れる。
「そうねぇ。学科や世代にもよるけれど、多い時で3分の1くらい居なくなったことがあるわね」
「そ、そんなに多かったんですか……!?」
笹原が絶句している隣で、小山も驚きを隠せないようだった。
「……よし、これでどうだ! Jバック!」
そんな3人をよそに、高松が勢いよく、カードを叩きつける。どうだ、と得意げな顔をする高松だが、木更津と広瀬は拍子抜けといった顔をしていた。
「え……じゃあ俺は6」
「んな!」
「私は3出して、ジョーカーももういないから流れて……4を2枚出してあがりね」
「はあ!? ペア持ってないぞ!」
「まじか高松……俺、7のペア出してあがりだぞ」
「……」
広瀬が驚いた顔で高松を見る。高松は先ほどの威勢はどこへいったのか、重い雰囲気で遠くを見つめていた。木更津と金沢は声を上げて大きく笑っていた。
「お前は、本当に大富豪弱いな!」
「この前はババ抜きで惨敗してたわね」
「うっせーよ!」
会議机を囲みながら4人が盛り上がっている。4人が向かい合っているように座っていたので、笹原と小山もそれと混じるように向かい合わせで、会議机の空いてる席に腰掛けた。
「なにされてるんですか?」
小山が鞄を机の上に出しながら声をかける。
「トランプだよ。昼休みは、何故かよくわからないんだけど、ここで集まってしてるんだ」
広瀬がトランプをまとめながら答える。
「にしても、電気を消しながらってどうなんですか?」
笹原が、来る途中に購買で買ったパンの袋を開けながら顔をしかめる。扉の外から見たとおり、部室の明かりは点いていない。唯一の光源は、窓から差し込む日差しだった。
「窓からの明かりで十分だからね。電灯点けると勿体ないし」
木更津が弁当箱を片付けながら窓を指す。真昼ということもあり、青空が広がっている。
「もちろん、曇りとか雨の日はさすがに電気つけるわよ?」
木更津は水筒の蓋を捻りながら、笑顔を2人に向けた。2人はそれに頷きながら昼食を口にする。少し食べたところで、広瀬から声がかかった。
「よし、2人も来たし、ご飯の前に放送終わらせようか!」
「あ、すいません、ちょっと食べちゃいました」
笹原が申し訳なさそうにパンを袋にしまう。小山も購買で買ってきた弁当の蓋を戻した。
「ああごめん! 見てなかった。タイミング悪くてごめんね」
広瀬が申し訳なさそうな顔を2人に向けた。
「じゃ、悪いけど早速行こうか。原稿は持ってるかい?」
「あ、机の上です」
笹原が、立ち上がり総務課の机に駆け寄る。デスクの上に置かれた原稿を手に取ると、会議机のそばに戻った。小山も立ち上がり、出発の準備を整えていた。
「よし、じゃあ学生課に行くよ」
靴を履き、部室の扉を開ける広瀬の後に、笹原と小山も続く。
「なんで学生課なんですか?」
笹原が靴を履きながら笹原に尋ねる。
「ああ、放送は学生課のマイクを使うんだ」
なるほど、と笹原がうなずく。それを確認した広瀬は、笹原と小山を連れて部室を出た。
「では、放送に行ってきまーす」
部室からそう離れていない場所に、学生課の部屋があった。同じ階にあるだけに、少し歩いただけで扉の前につくことができた。
「失礼します」
広瀬が扉を2、3回ノックし、学生課に入る。中では何人もの大人が忙しそうに、あるいは暇そうに昼休みを過ごしていた。
「あらーいらっしゃい執行部サン。どういったご用件で?」
少し年配の女性が受付から声をかける。口ぶりやしぐさから、広瀬と知り合いであろうことがうかがい知れた。
「放送お借りしてもよろしいですか?」
「放送ねー。ちょっと待って」
そういうと女性は後ろを向き、学生課全体に向けて声をかけた。
「放送してもいいですかー?」
「はーい」
すると、部屋にいる多くの人から素っ気ない回答が返ってきた。とにかく、放送ができる手続きは整ったらしい。受付の女性が席を立ちながら、壁に掛けられたマイクを指差す。
「はい、じゃあマイク使っていいわよ」
「ありがとうございます」
「使ったら電源切ってね」
「もちろん」
女性が元いた席に帰っていく。広瀬は笑顔で手を振ると、笹原と小山をマイクへ案内した。
「放送はこうやってするから覚えておいてね。ここの電源をONに設定してから、この大きなボタンを一度押す。すると『ぴんぽんぱんぽーん』ってなるから、そのあと一呼吸おいてゆっくり話し出すんだよ」
壁に掛けられた放送機材を指さしながら広瀬が説明する。笹原と小山は、初めて見る設備に感心しながら使い方を頭に書き込んだ。
「さて、今日はどっちが放送しようか」
「そういえば聞いてませんでしたね」
笹原が思い出したように広瀬のほうを見る。
「んーそうだな。なら、今日のところは小山ちゃんにお願いしようかな」
「な、なんで私ですか!?」
「直感かな」
広瀬の気まぐれに、小山が驚き声を出す。
「ま、笹原には同じ内容の放送を後日してもらうし、逆でも結局いつかやるのは同じだよ」
「そうですか……わかりました。では……」
突然の指名に緊張しながらも、小山は放送の電源をゆっくりと入れる。広瀬に言われた通り、チャイム音のボタンを押すと、校内中のスピーカーからアナウンスの音が流れた。学生課のスピーカーから、その音が流れ終えたのを確認すると、小山は深く深呼吸した。そして、耳にかかった髪をかき上げると、マイクにそっと口を近づけた。
「学友会執行部より各クラスの体育祭委員に連絡します──」
小山の透き通った声がマイクを通して校内に響き渡る。しかし、笹原の前にいる小山の顔はその声とは大きく異なり、緊張で強張っていた。
一言一言、丁寧にマイクに吹き込む。
原稿を読み上げ終わると、終わりのチャイム音を鳴らし、マイクの電源をゆっくりと切った。
「ふぅ……終わりました」
疲れの色を見せながら、小山は少し笑って見せた。
「初めてにしては上出来だったよ!」
「すっごく、聞きやすかった」
広瀬と笹原は小山を褒めた。小山自身にも、初々しくもしっかりと伝えられた、という手応えはあった。
「そ、そうですか。ありがとうございます」
小山が、えへへと照れ笑いを見せた。
「よし、それじゃ戻ってゴハン食べるか」
「そうですね」
「緊張でお腹空きましたよー」
広瀬が学生課に対して、放送が終わった旨を伝える。先程の女性が会釈したのにあわせて、広瀬達も軽く頭を下げ、学生課を後にした。
「ただいま戻りましたー」
広瀬が部室の扉を開け、3人が中に入る。すると、部屋にいた木更津、金沢、高松が拍手で出迎えた。
「お疲れ様ー!」
「さっきの放送は小山か?」
「なかなか良かったぞ」
先輩方の誉め言葉に、小山が赤くなる。その様子を見た他の5人が笑い、拍手が止む。小山と笹原は会議机に腰を掛けた。
「もう……おおげさですよ」
小山が恥ずかしそうに俯く。大袈裟なまでに持ち上げられたことに、少し頬を膨らませながら反論した。
「初めて入ってきた部員が通る道が、この放送だ。だから、1つの関所を越えたとして、盛大に迎えるのがここの習慣なんだ」
金沢が優しそうに微笑みを返す。周りの広瀬や木更津も頷く。
「ま、そうは言いながらも、ただ初々しい新入生を茶化したいだけなんだけどね」
「木更津、それ言ったら金沢のいい話が台無しじゃん!」
広瀬が吹き出しながら放った言葉に、部屋にいた全員が腹を抱えた。笹原と小山は自身の笑いを落ち着かせ、昼食を素早く取り始めた。色々なことがあり、体感していたよりもずっと多くの時間が経っていた。昼休みも残り15分になっていた。
しばらく談笑しながら、昼食を取り終える。2人が食べ終わると同時に、4限の予鈴が鳴った。
「あら、もうそんな時間なのね」
「時間が経つのは早いな」
木更津と金沢各々の荷物を手にすると、席を立った。
「やべ! 次の授業、移動授業だ!」
「なにやってんだ。早くしないと遅れるぞ」
広瀬と高松も部室の外に出る。特に広瀬は、足早に階段を上がっていった。
「俺らも教室に戻るか」
「そうだね」
先輩達に続いて、笹原と小山も部室を後にする。2人が外に出ると、金沢が部室の鍵を閉めた。
「先輩方は、いつもここにいらっしゃるんですか?」
笹原が思い出したように、金沢達に問いかける。すると、木更津が腕を組んで答えた。
「そうね。よくよく考えたら、このメンツは毎日いるわね」
「クラスメイトに友達がいない面々だからな」
高松が笑いながら皮肉る。
「そんなことないわよ。私なんていっつも囲まれてるわよ」
「嘘つけ! こんなクセモノ、相手にできないだろ」
「ほらほら、早く戻らないと授業始まるぞ」
金沢からの鶴の一言で、木更津と高松も階段へと消えていった。金沢の言う通り、あと数分で授業が始まってしまう。笹原と小山も階段へと足を進めた。
「それじゃ、また放課後に」
「うん、それじゃ」
教室のスピーカーから、午後の授業の終わりを告げるチャイムが鳴る。笹原は級友としばらく談笑すると、荷物をまとめて教室から出た。すると、丁度小山も教室を後にしたらしく、笹原に駆け寄った。
「笹原君も、授業終わり?」
「ああ、そっちもこの後は部室?」
「うん、そうだよ」
2人は階段を降り、部室の扉を開けた。中では、まばらではあったが部員が既に活動していた。
「お、2人ともいらっしゃい」
広瀬が総務課長のデスクで手を振る。笹原と小山は、お疲れ様ですと会釈すると総務デスクに座る。
「広瀬さん、今日は何をするんですか?」
小山がデスクから顔を出す。すると、広瀬が楽しそうな表情を向けた。
「今日は、みんなでプレ試合をやるぞ」
プレ試合といえば、笹原が今月の初めに金沢から説明を受けた内容に含まれていたものだ。
「プレ試合と言えば確か、体育祭の前に部員で一度試しにやってみることでしたよね?」
笹原が金沢の言葉を思い出しながら答える。
「ああその通りだよ。事前にやってみて、当日に備えようっていうイベントだね」
体育祭の競技は、企画段階で大まかな動きを想定する。しかし、これはあくまで大まかでかつ理論上のものだ。理論と実際は大きく異なるのが世の常である。勿論、企画段階で考えられるものは考えるが、それでも、様々な不確定要素や、やってみなければ分からない懸念事項など、机上の空論では想定の及ばないことが多々ある。そこで、実際に競技を行い、その不確定要素を見つけよう、というものが必要なのだ。
「あれ? それって2ヶ月前くらいにやってませんでした?」
小山が不思議そうに広瀬に尋ねる。笹原が入部する前、競技の企画があらかた決まったときに、一度プレ試合をやっていたのだ。小山はその時に参加していた。
「うん、やったね」
「なのにもう1回するんですか?」
プレ試合では競技を一通り行う。そのため、時間的にも体力的にも部員を拘束することになる。不測の事態へ対処するためにも訓練は多い方が望ましいが、それで日々の活動が制限されてしまっては仕方がない。それでも、なぜもう一度プレ試合を行うのか、新人の2人には理解ができなかった。
「今回は、最終チェックの意味合いが強いかな。本番も近いことだし、もう一度しておこうってところだね」
広瀬はそう言うと、2人に近づくよう手招きしてこっそりと耳打ちするように言った。
「ま、ただ遊びたいだけなんだけどな!」
広瀬が歯を見せて笑う。
「なんですかそれ……」
思わず笹原が呆れ声を出す。小山も隣で苦笑いを浮かべていた。しかし、広瀬は、にししと笑っていた。
「と、いうわけで、今日の活動はグラウンド中心になるからヨロシクね!」
「はーい」
2人は広瀬に返答すると、荷物を置いて入ってきたばかりの入り口へ戻っていった。
5月も中旬に差し掛かり、最近はそこそこに暑かった。しかし、今日はその反動か、いつにもまして涼しく、過ごしやすい環境になっていた。さらに晴天と、絶好の運動日和である。
グラウンドには、手空きだった部員が集められていた。集められたといっても、堅苦しい整列などはなく、各々が軽いノリで出てきていた。
「今日の面子はこんなところか」
広瀬が部員を見渡しながら呟く。手には体育祭の企画書を持ち、何の競技をしようかと考えていた。他方、集められた面々は指示があるまで雑談にふけっていた。
「あら、小山ちゃんに笹原も来たのね」
「あ、木更津さん」
「お疲れ様です。先輩」
木更津が2人に近付く。その横には、見慣れない男子部員を連れていた。
「……」
「木更津先輩、そちらは?」
「あれ? 知らないの?」
木更津が呆気に取られた顔をする。戸惑う3人を他所に、当の本人は明後日の方向を見ていた。
「宇部君、この2人と知り合いじゃないの?」
「んー……知ってはいるけど、知り合いじゃないです」
「え?」
「笹原とは同じクラスですし」
木更津の問いに、謎の部員が答える。その答えに笹原が驚いた声を上げた。
「ええっ!? 同じクラス!?」
まさか、こっちは知らない相手が自分を知っていて、しかも同じクラスだとは夢にも思わなかった。
「名前は、なんていうんだ?」
「宇部」
「う、宇部か。よろしく」
この状況を飲み込めないままに、笹原は宇部の名前を初めて知ることになった。するとそのとき、金沢から部員たちへ向けて声がかけられた。
「よーし。今回はいるメンバーを考慮して、サッカーをするぞ」
その金沢の言葉に、周りの部員が軽く沸き立つ。日頃は業務詰めなので、目いっぱい体を動かせるのは部員にとっていい刺激だった。さらに、授業や部活のように、少しでも出来ないと野次を飛ばすような学生も居ない。そのため、ノビノビと楽しくできるサッカーということで、誰の顔を明るかった。
「チーム分けは、『総務・広報チーム』と『経理・工務チーム』で試合を行うぞ」
金沢はそういうと、笹原達に色の付いた服を渡した。
「なんですか、これ?」
笹原が、渡された服を見ながら尋ねる。その反応に木更津が返す。
「あれ? 見たことない?」
「体育の授業とかでみたことありますね」
「私も。でも名前は知らないです」
小山も笹原の隣で同ような顔をしていた。
「これは『ビブス』っていうの。団体戦の競技では必要になるから覚えておきなさいね」
木更津が、そのビブスに袖を通しながらそう口にした。笹原と小山の2人も、その名前を頭に入れながらビブスを被った。
しかし、同じ総務課の広瀬はビブスを着ていないようだった。総務課の面々はこうして集まっているが、広瀬だけは他の部員達に混じっていた。
「木更津さん、広瀬さんはこっちに来ないんですか?」
笹原がその様子を見ながら質問する。広瀬はサボるような人ではない。短い付き合いながらもそう感じていた笹原には、向こうで何が起こっているのか不思議だったのだ。
「ああ、あれね。あそこの部員は、サッカーのスタッフを担当する部員たちよ。彼らは審判役と統括役として参加するわ。広瀬もその1人だから、こっちに参加しないのよ」
「なるほど、そうなんですね」
プレ試合は、あくまでスタッフ側のトレーニングを行うことが目的だ。そのため、当日に該当競技でスタッフに指定されている部員は、プレ試合では競技に参加せずにスタッフとして動く。広瀬はそのスタッフの中でも、ある程度古参にあたる、統括役に指定されていた。いわば、現場の最高責任者といったところだ。
笹原もビブスを着て、総務課の面々はサッカーコートの片面に集まった。向こう側には、対戦相手の部員が揃っている。プロの真剣勝負……ではないが、『試合』と名のつく以上、笹原もどこか闘志を燃やしていた。
そこに、2人の男女が歩いてきた。
「今日は総務とチームかー」
「サッカーなんて久しぶりだね」
2人は笹原たちと同じ色のビブスをつけ、談笑しながら近づいてきた。
「広報課も来たわね」
「こんにちは、木更津さん」
木更津とやって来た女子部員が挨拶する。
「お? 総務の人数、また増えたっすか?」
もう一方の男子部員が、笹原達を見ながら木更津に声をかける。
「そうなのよ。初対面だったかしら?」
「そっすねー。体育祭では、総務とか広報とかであんまり交わらねーっすから」
「じゃあ、今回はチームなわけだし、自己紹介しときましょうか」
木更津がそう言ったのを合図に、笹原と小山が2人の部員に向かい合い、軽く会釈した。
「総務課の笹原です。よろしくお願いします」
「総務課の小山です」
相手の部員の2人も、笹原と小山のほうを向きそれぞれの自己紹介する。
「広報課の大島っす。今日はよろしくな!」
「同じく広報の石川です」
2人はやはりというべきか、今回チームを組む広報課のメンバーだった。その後ろからも広報課や総務課の部員たちが集まり、本来のサッカーを行うに足る人数が集まった。
「よーし、準備は整ったなー」
広瀬がボールを1つ運んでくると、そういいながらコートの中心に置いた。それぞれのコートで話し合っていた競技参加部員達が、広瀬達スタッフに注目する。広瀬は視線が集まったのを確認すると、ルールの説明を始めた。
「じゃあルールを説明するぞ。今回は体育祭で実際に使用するルールでやってみる。競技時間は5分、オフサイドはなし、じゃんけんで勝った方が先攻、もちろん点数を多く取ったチームが勝ちだよ。敵チームの人間に直接触れたらファールとし、同じ人間が2回ファールをしたら退場とする。キーパー以外が手でボールに触れた場合は、その場所から相手チームのフリーキックで再スタートする。……何か質問あるかい?」
サッカーコート上に静寂が広がる。部員たちから質問がないことを確認すると、広瀬が2チームに、誰か代表がじゃんけんしに来いと指示を出す。
「笹原、いってきなさい! 勝たないと承知しないわよ!」
「おっしゃ! 笹原行ってこい!」
木更津と大島が笹原に発破をかけると、周りからも、そうだそうだ、と笑い声が上がった。その圧に押され、笹原が苦笑いしながらコートの真ん中に足を進めた。
向こう側から、背が低く長い髪で顔が隠れた男子部員が歩いてくる。経理・工務チームの代表者だろう。笹原とその彼は広瀬の前で対峙した。
「最初はグーでいくよ。恨みっこなしだからな」
広瀬が2人に目配せする。2人を軽い緊張感が覆う。広瀬が音頭をとった。
最初はグー、じゃんけんポン!
両者が手を振り下ろすと、笹原はパーを相手はグーを出していた。笹原の勝ちだった。
「よし、総務・広報チームの先攻で始めるぞ」
すると、広瀬がボールを笹原に渡す。笹原と相手の男子部員はそれぞれの陣営へ戻り、試合開始の合図を待った。
チームメイト達が、それぞれの思い思いに散らばる。サッカーの知識など毛ほども知らない面々、ミッドフィルダ―やディフェンスなどの戦術知識を持っているはずがなく、皆が好きなように散らばっていた。
コートの真ん中に味方と敵の部員が2人ずつ集まる。味方の1人がボールに足を乗せた。両チームの間に入っていた広瀬が、試合開始のホイッスルを鳴らした。
ボールを受け取った味方が、敵ゴールに向かって走り出す。それを止めるために、相手選手たちが一斉に群がった。おそらく、敵チームの大多数が1人の選手に立ちはだかる。
耐えかねたその味方は、後ろにボールを蹴り上げた。そこに、完全にフリーとなった大島が駆け上がる。大島はボールを受け取ると、そのままの勢いでゴールまで攻め進む。その速さは、相手のメンバーが呆気にとられ追いつけない程だった。大島がゴール目前まで迫る。敵のゴールキーパーが、迫ってくる大島にあわてた様子で構える。総務課と広報課のメンバーも相手ゴールまで攻め上がる。
「おっしゃああ! いっけええ!」
大島が叫ぶと、ボールを強く蹴りつけた。ボールは勢いをつけて飛び抜ける。しかし、思ったようには飛ばず、地面に一度大きくぶつかると、明後日の方向に飛んで行ってしまった。
審判のホイッスルが鳴り、スローインに移る。相手の1人がコート外にボールを受け取りに行った。
「あっちゃー。惜しかったんだけどなぁ」
ゴール近くで大島が息を荒げている。
「お前、いいところまで行ってたのに」
そこへ、笹原が笑いながら近づく。端から見ても可笑しいくらいのボールの弾み方だった。
「あそこまで行って見事に外すかね」
「はっはっは! 面目ない!」
大島が高らかに笑った。それを見ていたらしく、石川も笑みを浮かべながら歩いてきた。
「大島君って足は速いんだけど、球技のスキルは壊滅的に悪いもんね」
「そうなのか? まあ、見てたらわかるけど」
大島が、石川を制止するような仕草を見せる。しかし、そんなことお構いなしに石川は続けた。
「トラック競技は陸上部でもトップクラスだったのに、球技がてんでダメなの未だによく分からないんだよね。野球、テニス、サッカー、バスケットボール…… どれも全然ダメなんだもん」
「だってよぉ、ボールが思った方向にいかねーんだ」
「確かに、さっきのドリブルもずいぶんとフラついてたな」
笹原と石川が大きく笑う。一方の大島はバツの悪そうな顔をしていた。スローインは、投げ出す位置で少し揉めているようだった。すると、石川が自慢げに大島の肩を叩いた。
「言った通り、大島君は球技がド下手くそだけどね──」
「ド下手くそって言うなよ……」
「──広報課のチームワークは侮らないでよー!」
石川が笹原の鼻元に、笑いながら指を突きつける。眼鏡の向こうには、石川の満足気な目が笑っていた。
スローインの準備ができたらしく、審判のホイッスルが鳴る。相手の選手が両手でボールを投げる仕草をみせた。その目の前には、先ほどと同じく敵味方のほとんどが集まった。入り乱れた状況の中、スローインのボールが高く投げられる。そのボールは、集まった群れのさらに奥、人の少なくなったフリースペースにいる相手の選手に向かって行った。
「しまった! 完全にフリーじゃねーか!」
味方のビブスを付けた男が叫ぶ。周りにはその相手以外に誰もいない。ここでボールを取られれば、あとはゴールへ一直線だ。
他の連中がボールにめがけて動き出そうとしたその時、大島が颯爽と現れた。ボールを胸で捕らえると、そのままゴールに向かう。
「うおりゃあああ!」
「大島、お前下手くそだろ!」
「任せとけ!」
そういうと、おぼろな足取りでゴール……ではなく、その左側へ向かって行った。
「何するつもりだ……?」
笹原が状況を理解しきれていない。すると、石川がいつの間にか相手ゴールの前に1人陣取っていた。その時だった。
「大島君! パス!」
「はいよー!」
石川の叫びに呼応して、大島がボールを蹴り飛ばす。その方向は、少し外れながらも石川の方向へ飛んで行った。
「シュート!」
大島から受け取ったボールを、石川は見事に相手のゴールに打ち込んだ。
「今のは……?」
「すごい……」
呆気に取られている笹原と小山のもとへ、石川と大島が自慢げにやってくる。
「どう? 1点先取よ」
「石川は、やっぱり球技上手いなー」
笹原と小山は2人とハイタッチを交わす。笹原達にとっては石川のゴールも意外だったが、2人のコンビネーションにも驚かされたのだった。
「2人ともなかなかやるな」
笹原が2人を迎える。2人のプレーは、素人ではあったものの、なかなかに息の合った動きだった。
「まあな! 伊達に長い付き合いじゃねーってことだ!」
「ちょっと、大島君……!」
大島が自慢げに大きく笑う。それを見て小山が不思議そうにしていた。一方の石川はどこか焦ったような表情で、小山と笹原を見ていた。
「あれ? 大島君達って、去年の夏くらいから入部したんじゃなかったっけ?」
小山が言うには、大島と石川の2人も途中入部していたらしい。小山は以前、広報課がしていたそんな話を耳にしたことがあったのだ。であるとすれば2人の期間は、活動を始めてから半年が経つかどうかといったところだ。大島が言った長い付き合いとは、そこまで長くなかったということになる。
「なーんだ、そういうこと……」
先ほどとは一転して、石川が落ち着いたような呆れたように軽くため息をついた。
「私と大島君は元々陸上部員だったんだ。それが去年、ひょんな事から執行部に転部してきたんだよ」
「どれくらい陸上部にいたんだ?」
「そうだねー……入学してからだから、だいたい3年だね」
「我ながら、そこそこ長い付き合いなんだな!」
そんな話をしていると、ボールが相手のゴールキーパーの足元に置かれた。
「あれ? コートの真ん中からスタートじゃないのか?」
笹原がボールの置かれる様子を見ながら言う。先程の石川のシュートは、相手のゴールに入っていた。であれば、試合再開はコートの中央からのはずだ。しかし、もちろんこれも策の1つである。大島達はその理由を知っていた。
「あー、あれな。あれの方がいいって結論になったからな」
「何で?」
「毎回ボールを真ん中まで持っていくのも時間掛かるし、何より『早く蹴らせろ』って学生が煩いからな」
「そうだったのか」
なるほど、合理的といえばそうなるが……果たしてサッカーと言えるのか? そんな疑問を得ながらも、笹原は納得することができた。
ホイッスルが鳴り、相手のゴールキーパーが大きくボールを蹴りあげる。そのボールは高く、遠く飛び、味方のゴール寄りの地面を弾いてコートの外へと出ていった。
再びのスローインに、スタッフがボールを追いかけていった。ボールが大きく離れていく。このしばらく空いた間に、石川が新しい情報を出した。
「そういえばなんだけど、コートも少し小さくなってるよ」
「え? そうなの!? 気付かなかった」
小山が驚くのも無理はない。素人はサッカーのコートのサイズなど知らないし、目の前にあるコートの小ささなどすぐには感じられないだろう。
「サイズとしては、フットサルのコートくらいだよ」
「どうして小さめなの?」
「日頃からデスクワークに追われて運動不足な学園生に、突然フルでサッカーしろなんて言ったら、死人が出るからね」
石川の説明に、4人全員が「それはそうだ」と笑い声をあげた。
スローインが始まるらしく、ボールを持った選手がコート際に立つ。ほぼ全ての選手が彼の眼下に集まる。
勢いよく放たれたボールが飛ぶ。そのボールは選手たちの間に入っていく。
群衆のなかでボールを受け止めたのは、試合開始の時、笹原と対峙した長髪の彼だった。彼はボールを胸で受け取ると、一呼吸置いてから鋭いシュートを打つ。周りの選手達が対応する間もなく、こちらのゴールネットが揺れた。向こうのチームが盛り上がる、これで1対1の同点だ。
一喜一憂する周囲をよそに、キーパー役をしていた高松がボールを持ち上げると、大きく叫んだ。
「笹原! 広報ばっかりに、いいカオさせてんじゃねーぞ!」
高松がボールを軽く宙に手放すと、地面に着く直前に強く蹴り上げた。勢いよく放たれたボールは、笹原めがけて放物線を描いていく。笹原は、ゴールを決められたスローインの群れには参加していなかったのだ。あれだけいれば問題ないし、むしろフリーになっておいた方がいいだろう、という考えからそう動いていたのだ。
守りの薄くなっている自陣に突然切り込まれ、相手チームの面々に焦りが見える。しかし、相手も無策なバカではない。3人がディフェンスに構えていた。彼らが一斉に笹原に肉薄する。力及ばず、笹原はコート端に追いやられてしまった。
考えろ……。何か策があるはずだ……。
笹原がゴールポスト前に目を向ける。そして、1つに託すことにした。
「小山! ゴール決めろ!」
笹原が、ボールを投げるように足をすくい上げる。相手のディフェンスや駆け付けた選手を飛び越え、ゴールポストの傍に近づく。そこには小山が立っていた。スローインは群れの勢いに圧倒され、笹原が攻め上がっている間は駆け戻る相手選手に追いやられて、しぶしぶここに立っていたのだ。
「ええっ! 私!? どどどどどーすれば……!?」
小山がおろおろと慌てふためく。ゴールに蹴るべきか、他の味方へ渡すべきか、そもそも蹴らないほうがいいのか……? 様々な思考が小山の頭を駆け巡る。しかし、放り上げられたボールは、何の意思もなく小山へ降りる。どうすれば、どうすればと考えを巡らせる小山。しかし、無情にもボールの高度は落ちていく。
「ええ……えいっ!」
覚悟を決めた小山が、頭を空に突き上げる。目を瞑り、僅かに飛び上がった。しかし、その当たりは少し外れてしまった。頭はボールに当たったものの、真ん中を獲ず、ボールの外れを掠めた。
小山の見事……なヘディングを受けたボールは軌道を変えゆっくりと宙を漂い始めた。安定しない軌道は、その場にいた一同を惑わせる。そして、あれよあれよという間にゴールネットを撫でていた。
「ごーる!」
木更津の嬉々とした一声をあげた。
ピピーッ
そのとき、審判役のホイッスルが高々と鳴った。10分間に及ぶ短い激闘が幕を下ろした瞬間だった。結果は2対1で総務・広報チームの勝利だった。数字だけ見れば短いものだが、実際に経験してみると、運動不足の体には沁みるものだった。しかし、他の部員たちは、額に汗を見せながらも、爽やかに勝敗を談笑していた。
「先輩方は元気ですね……」
思わず笹原が声を漏らす。編入生の笹原や日頃から運動の要素の少ない一般学園生だった小山は、息を荒げていた。
「それはもちろん、実戦経験豊富だからね」
木更津が微笑みながら、軽くそう返す。実戦経験とは何のことなのか、笹原達にはわからなかった。
「お前たち、そんなんで来週の当日大丈夫なのか?」
高松が不安そうに肩をすくめる。確かに、このグラウンドにいる人間の中で、一番ダメージを受けているのは笹原と小山の2人に違いなかった。この2人にとって、来週の体育祭が初めてのイベントであった。
「お疲れ様ー。やってみた感じはどうだった?」
広瀬が笑顔で歩み寄る。先ほどまで、スタッフ陣で試合の結果得られた改善点などを話し合っていたようだ。
「個人的には短く感じたけど、一般学園生的には丁度いいんじゃないか?」
「そうね、この2人の様子がいい証拠ね」
高松と木更津が軽口を飛ばす。笹原と小山も「そう言わないでくださいよ」と応対した。広瀬はその他にも様々なことを皆から聞き出し、メモにまとめていった。
ある程度まとまったらしく、広瀬がバインダーにペンを収める。そして全体に解散を告げた。皆は各々で部室に戻り始めた。
「これで、当日には何とかなるか?」
総務課の面々も帰路についたとき、高松がそう言った。それに対する広瀬の答えを聞き、笹原と小山は先輩方に聞こうとしていた先程までの謎を解くことができた。
「そうだなー。あとは『実戦』でどうなるかだね」
実戦──木更津や広瀬が口にしていたこの言葉は、いうなれば『本番』ということなのだろう。しかし、なぜ実戦なのか。
「そういえば、なんで『本番』とかじゃなくて、『実戦』なんですか?」
その笹原の疑問に、先輩部員たちが思い出したかのような笑みを浮かべた。そんななか木更津が口を開いた。
「当日はトラブルだらけで、私たちの職場は戦場と化すのよ。こればっかりは、実際に見てみないとわからないわ」
彼女は、それに付け加えるように、「楽しみにしてなさい」と微笑んだ。
笹原と小山の初めての実戦まで、あと7日を切ろうとしていた。
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