第54話 敵地と言う名の決勝会場

もうすぐ試合開始の笛が鳴ろうとしていて、部を立ち上げてから約二年、色々な事が有り過ぎた様に感じたが、その結果を今が出す時なのかも知れない。開始前のウォーミングアップを念入りにして、緊張感が漂う長井達に対して相手チームは、それとは対照的だった。

余裕と言うより、まるで相手にならないとでも言いたい態度が、剥き出しに伝わって来た。掲示板には『電々工業高等学校対聖ドレミ学園』とあり、女子校丸出しの学校名に付け加え、ギリギリで勝ち進んで来た様なチームと肩を並べられる表示が、気に入らない様だった。確かに自分達は、今日の試合は勝てないかも知れない。

勝負が始まってもいない前から、そんなバカげた考えを持つチームは多分いないだろうが、その『バカげたチーム』だった。本当に勝てないにしても、タダで終わらせるつもりは更々無く、全国大会へのコマは譲っても、後遺症が残る様にしてやろうと野望があった。

『我が校の誇り高き名を、笑いたくば笑えばいい。そう言う、そっちの校名こそ電気屋みたいな名前そのものじゃないか。』

前向きにはなれない雰囲気から一転して、これから始まる大舞台への不安を一気に吹き飛ばす、不気味な笑みや決起が暗黙の了解で表れていた。相手チームの心無い挑発が原因とはいえ部員達は、もはや悪ノリに近い方向に走ろうとしていたが唯一、珍しく長井だけは同調していなかった。もっと別に気掛かりな事があったからで、何度かの練習試合では消し去れなかった、中崎との確執だった。

仲たがいを起こした中学卒業の間際、当時は何を考えていたのかは覚えていない。あれから、ちょうど三年経って今度は、高校卒業の直前に再び顔を合わせる事になった。

決勝戦がこういう形を迎えた事で、過去の因縁を清算させる機会が与えられたも同然になったが、今目の前にいる中崎の存在とは、優勝の二文字を競り合う相手チームの一人でしかない。過去の練習試合での私利私欲的な目的や都合は、神聖な決勝のグランドには持ち込めないが、そう考えれば考える程、ある疑問が浮かんだ。

『果たして優勝して当然とでも言いたげな、勝手なオーラを発している相手チームが、同じ様に、この決勝戦を神聖なものとして捉えているだろうか?』

仮にも同じラインで戦うべき自分達に対し、やっと勝ち上がって来た様な、瀕死の重傷チームとは同等に見られたくないという、好意的ではない態度を示しているぐらいだった。この間の卑劣な試合から、危機感を持って反省したかと思いきや、少しも成長していない。未だにグランドマナーが悪過ぎるのが明らかで、勝ってから文句を言えという話しだった。

すっかり長井も妄想にふけっていて、やはり良くない相手には、私利私欲が入り混じる試合をするしかない。そう考えると、他の部員達と同様に不気味な笑みが表れ始め、尋常ではない空気が蔓延してしまった。

「先生…、ちょっと注意しに行った方がいいんじゃない?みんな視線がバラバラよ?」

ベンチに迄、異様な空気を運んでしまっているのではないかと、心配した千秋が言った。各々が自分だけの世界で、勝手な妄想をかき立てている姿に、どうしようもなく嫌な予感がした。クールな態度で佳織が言い返した。

「放って置けばいいのよ。どうせ緊張のし過ぎで、おかしくなっているだけだから。」

間もなく開始される決勝戦は、自分達にとって凄惨極まる内容である事は間違いなく、泣いても笑っても逃れられるものではなかった。今更、何をしようと微々たる変わりは無いというのが、彼女の考えだった。

勝浦には、そこ迄の極端な考えは無かったが『これが部員達の不安を晴らす結果に繋ればいい』と、いささか同感だった…。この時点で、もう長井達に掛けてやれる言葉は見つからなかった。

危ない妄想が、緊張感を解くのではと察した事自体、彼も現状を理解できていなかった。相手チームが試合開始前に取った言動は、明らかに野次であり侮辱行為だった。それだけは監督の立場として、どうしても許せなかったが、安易に口を出すべきでもないと思った。

無傷のまま余裕で勝ち上がろうと、勝つか負けるかの瀬戸際の試合続きで勝ち上がろうと、どちらも決勝進出チームには変わりない。勝ち方の経緯は何の問題にもならないし、最終的には試合終了の笛が鳴った時点での、グランドで出た結果が全てだった。

分が悪い現実は否めないが、勝算が無い訳でもなかった。今から戦う中崎のチームが過去、勝てなかった相手を自分達は倒しているので、決して勝てない勝負ではないのである。前回の総体にしても準決勝では敗れたものの、下馬評を覆す好成績で少なくとも現時点で、成績は上回っているのは確かだった。

いつの間にかベンチには、口約通り大原が来ていたが、佳織と目線で火花を散らし合っていた。決勝に勝ち上がった自分達こそトップチームなので、もう『強豪』を恐れる必要は無いと、グランドでは相手ボールで試合が開始されるのを、長井達が守備位置に着いて待ち構えていた。相手チームは大方、それに気付いていたからこそハッタリでも掛けて、強気に野次を飛ばして来たに違いない。

『脅威』は『哀れみ』へと変わった事で闘争心に火が点いたが、果たして『強がりだけの可哀想なチーム』とは…。全てはノーサイドの後、明らかになり開始のホイッスルは遂に鳴った。今回も『聖ドレミ学園』の全校生徒が、こぞって応援に駆け付けていた。

「いつ迄、見つめ合っているの?もう始まっているわよ!」

藍子が、睨み合っていた佳織と大原に言った。互いに対する感情が高ぶる余り、その音が聞こえない程だった。仲間を応援したいという、本来の目的ばかりは共通していた様で、ようやく二人は慌ててグランドに目を向けた。

全国大会出場を懸けた勇姿を観る為、特例の休学扱いになっていたが、ここに盲点があった。そう迄して声援を送りに来ていた生徒の大半は、このグランドの空気の流れが全くといっていい程、理解できていなかった。

メンバー表を見ると向こうは、リザーブも含めて登録選手は全て三年生なのに対し、こちらはキャプテンだけが三年生で、残りは二年生での構成だった。リザーブに至っては全員、一年生なので比較が厳しかった。もしリザーブを使わざるを得ない場面が出て来れば、一年生に対して『死』を意味するに等しい…。

実質、後ろ盾は始めから絶たれており、それで勝ち進めたのかと周囲から思われる試合を毎回、繰り返していただけだった。だから連戦の度、トライを大量に奪われるのが当たり前ながら、僅差で何とか勝ったという結果しか残らなかった。向こうのチームはというと、ペナルティーゴールさえ許さない完封勝利を、一回戦から当然の様に続けていた。

自分達が記録できたトライが、仲里が瀕死の思いで入れた、たった一つだけだった事を考えると、その差は歴然としていた。ペナルティーゴールに頼らなければ勝てなかったチームと、ノートライで抑える試合結果を宿命にしていたチームが、同じフィールドに立つ事自体、有り得ないのかも知れない。

決勝に勝ち上がる迄に破って来たチームと、もう一度やれとなったら多分、勝てない試合が幾つか出て来る事になる。これを向こうのチームに当てはめたら『結果が同じなのでヤル事自体に意味が無い』の一言で終わってしまう。そのぐらいの説得力を有する、大量得点差で勝ち上がって来た相手だった。

とは言え、さすがに上位常連校ともなると、わざわざ全校生徒が応援に駆け付けたりなどはしていなかった。せいぜい応援団が声を出していた程度だが、実はグランド外でも、歴然とした差が生まれていた。

それは、どちらにも属さない純粋な観客の存在で、その大半は何度かの優勝経験のある、相手チームの勝利を確信して観戦に来ていた。間違っても何かの拍子で、あまり聞いた事がない学校が、全国大会に行く様な事があれば活躍が期待できない。何よりはテニスやバスケならいざ知らず、ラグビーというジャンルで『聖ドレミ学園』などという名を持つ学校に、全国大会に行かれる事が懸念されていた。

前回の直接対決の練習試合では敵地という、悪条件もあって屈辱的なジャッジに翻弄されてしまった。その結果が今大会のシード権が舞い降り、アンフェアな手段を用いた相手チームは、一回戦からの出場を余儀無くされた。

今回は打って変って、フェアな舞台に立っていると思いきや、予想外の事が起きていた。周囲から偏った目線を浴びせられている以上、この決勝に限っては、前回の敵地条件と何等、変わりの無い舞台に立たされていた。ここは名ばかりの『決勝戦会場』でしかなく、現実は相手チームのホームグランドも同然だった。

自分達には、中学時代から培っていた『基礎能力』という意地があるものの、圧倒的多数から持たれる先入観や偏見には、どうしても勝てないものがあった。全国大会という、その先の現実がある限り、無名校の奇跡の勝利は、理解を得るのが難しいのかも知れない。

身内以外からは応援される要素が無く、結局は相手チームから野次を飛ばされても、周りは同情などしてくれない。応援に来てくれた筈の身内達は、対照的な相手チームの輝かしい前歴さえ知らず、こんな事態を予想すらしていなかった。今迄の成果など何の問題にもならず、向こうも必死である様に、それを支持する純粋な観客達の存在があった。

始まって即、まるで前回の練習試合の時とは、力量が比べものにならない現実を思い知らされる事となった。タックルやスクラムにしても一発一発が重く開始、僅か十分足らずの内に三〇点近くも突き放されてしまい、全くと言っていい程、歯が立たなかった。

今日迄ありとあらゆる手段で、この相手チームには散々、低い評価を受け続けて来た。いつか見返してやる日を伺ってはいたが、最後の最後でも果たせる事無く、このまま終わってしまいそうだった。そんな不安にかられた長井は、ある導きが舞い降りたのを感じた。

『長井よ、心を無にした事で道が切り開けた、英語の記号選び形式の問題を思い出すのだ。まずは迷いを消し去れば、どんな難関をも突破できる、本来の我が見えて来る…。』

数学や社会の場合、分かりそうで分からない、曖昧な理解力が脳裏に焼き付いている為、記号選びが失敗してしまうケースが殆どだった。比べて分からない所は逆立ちしても、もはや分からない英語になると状況は急変する。

ヘタな迷いやグレーゾーンを払拭できる為、考えを無にする事で、正解の記号を抽出できる確率を高められるのだった。この試合にも、そのパターンを当てはめさえすれば『勝利』という二文字を抽出できる様になる。無理に敵の出方を予想したり、防御策を練る必要は無く、余計な事を考えなければ、こちらの戦法を読まれる心配が無くなるのである。

おかしな夢でも見て、怪しい方向に導かれているのではないだろうかと、ベンチから勝浦達が心配していた。場当たり的な回避法しか浮かばない、長井に降り注ぐ導きとは所詮、その程度のものだった。英語の答案を毎回、ただニヤニヤしながら埋めていたのでは、他校からも小バカにされるに決まっていた。

どう行動に移せばいいのかが具体的に、仲間に伝わらなかったが、こういった試合を積み重ねて来たのも事実だった。絶対、勝てないと思われる状況から今迄、逆転を拾って来た訳なので、その再現だと思えば割り切れる。最初から勝てると思って挑んだ試合は殆ど無く、この大会での唯一のトライも、こんな窮地の中で入れたものだった。

かなりの実力差が浮き彫りになったのは、消耗した体力が目立ち始めた、前半が終了する頃になってからだった。対して相手チームは、トライ時にできたと思われる、僅かなユニフォームの汚れがある程度で、一人も傷一つ負ってはいなかった。

『どうしようもなく可哀想なチーム』とは、やはり自分達の方なのかも知れない。あえて言うなら呼吸の乱れすら無く、初戦からの負傷箇所を抱える自分達とは、比べ様のない強さの証明を匂わせるものに程近かった。

泣いても笑っても、これから約三〇分後には、ノーサイドの笛の音が響き渡る事になる。もし、その時点で自分達が勝利チームでいられたなら、今度は全国大会で、再び試合開始のホイッスルを聞く事ができる。ただ、この試合開始時に聞いたものが、既に最後になっていたに違いなかったので、とても現実味の無い考えだった。

前半のスコアだけで三十五対ゼロという、引っ繰り返すには、かなり厳しい点の開きがあった。疲労と困憊の上、これで後半戦に挑まなければならないのかと思うと、余計に立ち眩みさえ感じるのだった。ハーフタイムとなり、グランドから引き揚げてベンチへ向かうと、木下が奮起する様に言った。

「この得点差がなんだ!相手が全員三年生っていう、それだけの事じゃないか。取られた分は取り返せばいいと確かキャプテンに、教えられた事がある…。」

それ迄、暗雲漂う表情しかなかった部員達に、隙間から陽が差し込んだ様に明るい闘志が、みなぎり始めた。前半開始早々、トライを五つも立て続けに奪われたなら今度は、こっちが後半に五つ奪い返せばいい。やがては、三十五点という差も跳ね返せる筈だし、相手にできて自分達にできない訳がない。

『えっ誰が?そんな事を?』

戸惑う長井は、記憶が喪失しそうになった。取られた分は、そのまま取り返せばいいといった、乱暴な理論を推し通そうとして前回、周囲を翻弄させた事があった。そんな場当たり的な思い付き論を、過去に後輩達の前で示してしまったが為に、これ以上は無いという不安感を抱き始めていた。

今出たのは、これを模範にした全く同じ意見であり、できもしない計算で出した自らの考案に、今度は悩まされ様としていた。時既に遅く全員、一丸となって決起し始め、休憩の規定時間が終わらない内に、守備位置に走り出してしまった。思い付きとはいえ後悔は、後輩達の闘志にかき消されてしまったが、この瞬間でさえ誰もが『勝てない試合』である現実を理解していた筈だった。

『みんな冗談言っちゃいけないよ…。』

これだけ大差を付けられていて、奪われた分は取り返せばいいという考えが、どれだけ不可能に近いかは本人達が一番、知っている。『それ』に触れてしまえば先が進めなくなってしまうので一切、考えたくはなかった。

何かの結果を残す事が出場目的であったとはいえ、初戦から『善戦さえすればいい』という考えが常に全員にあったのは確かだった。気が付いたら、ここ迄、勝ち上がっていたのだから、また善戦程度の試合をこなせばいい。

そう思いつつ今日を迎えたが、全員がユニフォームを着て、一つのボールを追い駆けなければならない状況がある限り、やはり現実からは逃れられなかった。というより、どうしてもグランドに触れていたいから、どんな危険な道にでも入り込んでしまうのである。

その後の試合展開は、自分達の意志とは正反対の、まるでコントロールが効かないものだった。開始早々、立て続けにトライを奪われたのは、またしても自分達の方だった。

それでも相手は『まだヤリ足りない』とでも言いた気で、前半での力量の差は相当あったにも関わらず今は、それ以上のものを感じさせられた。残りの後半三〇分で、雲の隙間から本当に陽が差し込むのは…。

更なる漠然とした得点差を求めているのか、さっき迄のは、あのレベルでも『ただのお遊び』とでも言わんばかりで、本気で潰しに掛かって来ている様だった。それとも単に、こちらの力量が気力と共に落ち始めているので、相手を先程より強く感じているだけなのか…。

次々に積み重ねられて行く得点に、もう誰も抑える事も、ついて行く事もできなくなって行った。そんな場面に立たされている内に、もはや長井は自分が、キャプテンとしては機能できなくなったと感じた。やがて、その辛さからか今日迄の出来事が走馬灯の様に、色々と駆け巡るのだった。

右も左も分からなかった入学当時、そして陸上競技大会に出た後、今の部を立ち上げた。楽しかった時間の方が多かったかと聞かれれば、それは微妙だが全ては、かけがえのない思い出ばかりだった。もしも後輩達や河野と箕田が、この学校を選んでいなかったら、今のラグビー部は有り得なかった。

自分は多分、今日の試合を観客席から眺めていたに違いないし、この場で決勝を競り合うチームも、大きく変っていた筈だった。そういった呟きや思い出も全て、もうすぐ終わりを迎え様としている。

『この試合が、もっと早く終ってくれたなら、どんなに楽になれるだろう…。』

現実逃避から考えてはいけない妄想に襲われていたが、逃れたい窮地を思い出話しにでも擦り換えなければ、極限値に達してしまう。いつもなら、こんな時こそ威勢を張り上げる、裏部長的存在の箕田も既に勝機を失っていた。

彼のリーダーシップとは元々、反撃の要素があってこそであり、今回ばかりは絶望的だった。こういった窮地から逆転できたケースは過去、何度とあるにはあった。嫌と言う程、差を思い知らされた今の流れから、とっくに見い出す機会は逃していると全員が悟った。

それを自分達で作るのが勝負だとは分かっていても、駄目元で行動に移せる程、体力は残っていなかった。相手チームが積み重ねて行く追加点は、とめどなく続いた。

周囲の観客は当然の展開という目線でいる為、無抵抗も同然の長井達には、同情の声援の一つも送られる事はなかった。やがて授業を一斉に打ち切って迄、応援に来ていた筈の身内達からは、ざわめきが消えた。

あまりの凄惨さからか授業ばかりではなく、本来の送るべき声援さえ打ち切ってしまった。全国大会を懸けた決勝戦という華やかな舞台は、試合時間が残り五分を切った所で、異常な静けさだけが支配する様になった。

ある場面に差し掛かった所で、客席は総立ちになった。相手チームがパスのミスで取り溢したボールを、近くにいた仲里が拾い上げ、独走してハーフラインを越えたのだった。この試合が始まって以来、相手チームが犯した、初めての『反則』と呼ばれる行為だった。

得点を上げた以外は、ホイッスルが鳴る機会が無いという、稀にみる異様な展開が続いていた為『反則』という言葉が、とても新鮮に聞こえるぐらいだった。

本来ならボールを前に落とした事で、ノックオンになるのだが、自分達にとってチャンスボールとみなされ、アドバンテージが取られていた。試合は中断される事無く続行され、反撃の機会が訪れたが仮に、このチャンスを活かしたとしても、時間的に言って勝算には結び付かない。ほぼ負けは決定していたが、活かさなければ本当にゼロで終わってしまう。

自力では反撃の機会を作る事が困難なだけに、見事に拾った仲里は死に物狂いで走った。あえなく走るペースがダウンした所を狙われて、後ろからジャージを掴まれてしまった。必死に振り解こうとしたが相手は中々、離してはくれないので、それでも何とか前進して振り切ろうと、走る姿勢を崩さなかった。

パスで繋いでいる訳ではなかったので、独走だと自分が走り疲れるか、捕まった時点で終わりになる。もうすぐ試合は終わりを迎え、楽にもなれるので今更、得点を一つ狙った所で、どうにかなるものではない事は分かっていた。最初で最後の攻撃の場面だというのに、長井は、キャプテンらしからぬ発言で呟いた。

『何だってそんなに走っていられるんだ?』

グランドに漂う静けさ以上に、そんな囁きにさえ、他の部員達も支配される様になっていた。本来なら、しなければならない援護を拒否した形になり、あえて全員が、仲間を見殺しにする手段を選んだ事になった。彼は本当に孤立無援となり、長井達は、何も行動に移せない自分達の非力さを呪った。

『こっちだ!』と河野が援護すべく、すぐ近くへ走って来た迄は良かったが、その叫びも虚しく彼にボールがパスされる事はなかった。既に掴まれた相手に、グルグルと綺麗な円を描く様に回されてしまっていて、勢いが有り過ぎてボールは手から離れてしまった。

これが初戦ではトライに繋がったが、既に知れ渡っていた決勝戦では訳が違った。得点に結び付いたのは過去であり、手の内がネタバレしている戦法は二度と、ましてや勝ち進んでいる強豪には通用しなかった。結局はトライを奪われる引き金となり、またしても、追加点を告げるホイッスルを聞く事となった。

一番、実力が見劣りすると思われるメンバーが、フォローしようと機転を利かせたが、来るのが遅過ぎた。回される力量が前回と違い過ぎた事が大きかったが、本人の体力の消耗も激しく、あまり長くは踏ん張れなかった。

仲里の脳裏にあったのは『試合とは最後迄やり通すもの』という概念に違いなかったからこそ、長井の『三途の川への手招き』ではない。信頼できる仲間へのパスを選ぼうとしたが現実は、まだまだ相手のゴールラインは遠くの存在であると、実感せざるを得なかった。勝負を意識した本能だけでは、どうしても厚い壁は打ち破れないものだった。

勝浦は何もしてやれない自分を悔やみ、辛くなっていたグランドに視線を向ける事が、してやれるせめてもの『声援』だと思った。こらえ切れずに藍子と千秋は、お互い泣き崩れていて、大原は表情を露にする事は無かったが、ひたすら目からは涙が溢れていた。

『今だけ、一分が六十秒も経たない内に終わってほしい。そして早く、彼等を楽にしてあげたい…。』

得点差は七十点を超えていたが、試合時間が過ぎる迄は、ただ傍観しているしかないと思うと、そう声には出さずに願うしかなかった。彼女は、口惜しさの余り泣いた事は幾度とあり、かつて長井に陸上部が脅威に晒された事は、その確たるものだった。

要は、自分の悲しさの為にしか泣いた事が無く、他人の為の涙は流さないのが性分だった。今更、確執を消し去った相手の為に涙している表情など、周りに伝えたくないというのが本音だった。佳織はというと…。

『勝負は諦めても本当に三途の川は渡ってはいけない、まだ数分残っているから…。』

慰みにもならない言葉を発していたが、別に泣いているのではなく、かといって涙をこらえている訳でもない。至ってクールなだけで、その間の僅か数分間が、長井達の記憶からは空白となった。歴然とした差を示す得点板さえ眼中に入らない程で、余りの辛さから、あえて視線を外していた訳ではなく、本当に見ていなかった。

「もう三〇分経ったかな…?」

「えぇ、ちょうど三〇分…。」

勝浦が聞くと、藍子は涙ながらにストップウォッチを確認した。いつ迄も泣き崩れている訳には行かず、マネージャーの任務として、今日の試合経過は活動日誌に記さなければならなかった。長井達が、数分間ばかりの空白の記憶から覚めたのは、異様に長いホイッスルが鳴り響いた瞬間だった。

試合が終わった事実を知ったと同時に、辛さから逃げたい一心で無得点のまま、勝負を捨ててしまった決勝戦であった事に、改めて気が付かされた。終盤の粘りや目立ったプレーも無かった為、ロスタイムに入る事無く、ちょうど三〇分で終了したのだった。

本来なら、この後ハーフラインに整列しなくてはならないのだが、それどころではなく、全員その場に力尽きて倒れ込んでしまった。しばらく立ち上がるのは不可能と判断されたのか、試合終了後の整列は割愛となった。呆れた様に相手チームの面々は退散して行き、中崎の姿も、その中に消えて行った。

戦いが終われば、味方も敵陣も無くなるという意味での『ノーサイド』だが、肝心の整列ができない自分達こそ、グランドマナーに欠けていた。一つのチームが、本当の意味での強豪になる為には、それなりの年月や期間を要するものだった。偶然から生まれる秘密兵器的な作戦は、そう長くは維持できないし、選手個人の長所や短所の改善さえ必要だった。

中学からの延長でやっていた程度では、あまりにも歴史が浅過ぎたが、それでも勝ち進めたのは本当に『基礎能力』無くしては有り得なかった。長井は自分の力がキャプテンとして、もう少し何か足りていたならと改めて思うと、息を切らしながら訴えた。

「自分にとっては終わりだけれどみんなには、また同じ舞台に立ってほしい。その時こそ、きっと全国大会に行ける筈だから。みんなには自分をここ迄、連れて来てくれて本当に感謝している。俺、絶対に観に来るから。来年、全国大会出場を果たす試合を…。」

かすかな希望を乗せたパスポートの有効期限は、今ここで切れた。でも来年は、そんなものに頼らずに、自らの実力と実績で手に入れたシード権で、果たせなかった夢が叶えられる筈だった。二年生で、ここ迄は来れたのだから来年、優勝できない訳がない。

この期に及んで、キャプテン風を吹かせるつもりはないが、せめて後輩達に目標を委ねる事ぐらいは、許される範囲だと思った。あの最後のホイッスルは、とてもではないが強豪らしくない勝ち進み方をして来た、自分達への警告だった…。

得点表には『七十七対ゼロ』とありトライが、ちょうど十一回も取られた結果となった。一回戦とかならまだしも決勝戦では稀に見る、とても有り得ない点の開きだった。多分、準決勝で自分達に敗れたチームが、この場に代わって出場していたなら、もっとスコアは接戦になっていたに違いなかった。

率直に今日の結果が口惜しいかと言えば、後悔はあっても、それは無かった。絶対に勝つという目標を掲げていなかった以上、善戦で乗り切るしかなかった。やっとの思いでグランドを引き揚げると、準決勝を終えた時と同様、全校生徒に歓迎された。負けたとはいえ、責められる様な内容でない事は言う迄もなかった。

「よく頑張った、みんな!こんな事を言ったら勘に障るかも知れないけれど、とにかく準優勝おめでとう!」

その中に交じって、何故か新山の姿があった。今日は確か、どうしても仕事が抜け出せないとか言って、観に来る予定はないと聞いていた。定時制との違いはあるが、仮にも自分の学校が全国大会出場を果たしたのだから、そっちに『おめでとう』と行くべきだった…。

「なんだってここに…。それに労いの言葉を掛けるなら場所を間違っているんじゃ?」

「校舎が同じなだけで実際は、定時制と全日制には厚い隔たりがあるから、別学校も同然だって前にも話したじゃないか。」

それが彼の言い分で、おまけに場を仕切り出して要らぬ心配迄して来た。自分は定時制なので後一年、高校生活がある為、残った後輩達の面倒を引き受けるというものだった。

「とにかく後は俺が、この後輩達を見てやるから、安心して卒業すればいいんだ。さぁ、みんなも一緒に!」

河野と箕田を除けば、かつて同じ釜の飯を食った仲間なのだが単に、恩着せがましく余計なお世話にしかなっていなかった。過去、臨時コーチをして貰ったとはいえ、あえて敵対しているチームに、こうして出向いて来る事も無いと思った。長井と後輩達は口には出さず、それぞれ意思の疎通を図り合っていた。

『いや、別に心配なんかしていないって。先生に任せればいいだけの事だし。』

『僕達も、そう思います。』

やるべき事が終わった今、すっかり緊張感から解放されて全員に笑顔が戻った。今回の試合は県内の決勝戦では過去、最高の得点差ゲームとして記録され、不名誉なレコードホルダー所持校となった。それを知ったのは翌日になってからの事だが、ちょっとした学校の話題になった程度で収まった。

大原は自分の入る余地が全くと言っていい程、無くなった為、誰にも気付かれる事無く場を引き揚げた。もう、この学校での総番長的な存在の効力は、自分には無い事を悟った。常に後輩達に威圧感を与え続け、かつては長井を執拗に追い駆け回していた彼女は、もはやいなかった。

古くから存在していた年功序列という体制は、ちょうど彼女の代で廃れてしまった形になり、そして長井の代から、ここは女子校ではなくなった。何よりは、どの部も成し得なかった『決勝進出』という実績を作った事で、この学校の体制は大きく変わったのである。

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