第33話 君はスパイだったのか?

林と橘と星の三人はクラスが一緒で、守備もファーストローと呼ばれる、スクラムの最前列を揃って務める、普段から仲のいい間柄でもあった。とある休み時間、三年生の国語の授業を終えて職員室に向かう勝浦と、三人は廊下でバッタリと出遭わせた。長井の教室の方から出て来た事もあり、三人の眼光が冴え渡ると目が合った途端、逃げる様に逆方向へ走り去ろうとしたので、慌てて呼び止めた。

「何故、逃げるんだ?!」

ようやく捕まえると、そう橘が問い詰めた。

「別に逃げて何かない。そっちが凄い剣幕で追い駆けて来るからビックリして…。」

ただの言い訳にもなっていなかったし、あれから練習らしい練習は、殆どできていないというのが現状だった。あの試合の後遺症が未だに残り、みんな本調子ではない事が最もの要因なのだが、決定的な理由が他にあった。

それは正式に部の活動停止令が、出された訳でもないのに顧問である勝浦が、一向に練習に参入していない事だった。試合の件が要因になってはいるだろうから、ある程度の活動の制約は覚悟していたが、何かの条件を付けられる様な、秩序を乱す行動は何一つやっていない。当然の様に肩身の狭い思いを強いられる現状は、どうしても納得できなかった。

まだ顔を出す訳には行かないので、分かってほしいという思いを、どう表現すればいいのか勝浦は迷った。部員達が学校の名誉と看板を背負って、激闘を切り抜けた事実に変わりはないが、いい評価が結果的には得られる事はなかった。そう至ったのは、やはり自分の指導力不足だと改めて実感した。

「みんなの努力が報われなかったのは、先生の力の無さだと思っている。でも、これからの練習っていうのは、また別の話しだ。今迄だって、先生がいなくても普通に練習は、こなせていたじゃないか?」

別に元々、その道で体を慣らしていた訳ではなく、専門の知識やルールを無理矢理、叩き込んで顧問になっただけの話しだった。そんな自分に、あまり期待しないでほしいと訴えたが、逃げ腰な態勢を彼等は許さなかった。

「どうしてだ!先生には早く戻って来て貰いたいって、みんなは待っている…。」

「長井がいるだろう?体は動かせなくても、みんなを指導するぐらいはできる筈だ。」

星の訴えに、何の経験も無い自分より、現役バリバリのキャプテンを頼るべきと促した。その肝心の長井は、あの日を境に全くと言っていい程、部室に立ち寄る事が無くなった。

来たとしても上の空で適当な所に座り込み、語り掛けても何の反応も無いばかりか、何かの妄想かと思うぐらいに時々、薄ら笑いを浮かべていた。やがては知らない内に帰ってしまっているので、もう明らかにキャプテンとしては機能しない、廃人同然の姿だった。

問題は他にも有り、完治していない部員は通院が必要な為、毎日全員は揃っていないのが現状だった。ここで気になるのが、そういう状態で、どの様な練習をこなしているのか、勝浦は大きな疑問を抱いた。自主的に練習しているのは、他の部の邪魔にならない程度に、校庭やそこら辺を『ジョギング』と称して走り回る極、何人かだけだった。

残りは運動を止められている者が多い為、前試合の反省点や今後について、どうしても悲観的に語り合ってしまう『ミーティング』が大半を占めていた。他にもラグビーマガジンや、今更ながらにルールブックを熟読する『読書』等、その『活動』内容は様々である。

狭い部室という名の空間で、十人十色な人間模様が展開されているのだが、これが果たして『部活動』と表現するに値するだろうかと言いたい。危険を伴うという性質上、顧問の付き添い無しでは思い切った行動や練習は、控えなければならなかった。

専用の練習場が無かった頃は、早朝の校庭に無許可で侵入して迄、グランドの感触に必死にむさぼり付いていた。それが確保できた途端、状況が大きく一転し、せっかくの羽が伸ばせなくなってしまった。環境が整った矢先、練習に支障をきたしたのは何とも皮肉な現実で、単に放課後になっても行く所が無い故、たむろしに来ているだけだった。

「とにかく、まだ行く事はできないんだ。でも近い内に前田達が退院して来るだろうから、それ迄は待っててやってほしい。」

どうせ退院した所で、すぐに練習に復帰できる訳ではないし、しばらくは『ミーティング』や『読書』は続くだろうから、その時は賑やかに迎えてやってほしいと言うのが願いだった。そのまま職員室へと行ってしまい三人は、それ以上は追い駆ける事はしないで、大人しく部室へと向かった。

「そろそろ終わりにしよう。」

座り込みながら、今月号のラグビーマガジンを読み終えた江原が、そう言い放った。今日も、練習らしき集まりがあるにはあったが、あまり大した内容ではなかった。

「俺達、今来たばかりなんだけれど…。」

林が呟いたが、勝浦との対話は意外と長引いていた。ちなみに彼が眺めていた号には、自分達を完膚なき迄に叩きのめした、相手チームの特集ページが掲載されていた。最終的には決勝戦を勝ち進み、全国大会出場を果たした為、その焦点など内容が盛り沢山だった。

「そんな特集なんて見て、どうするんだ全く!お陰で俺達、ヒドイ目に遭わされたっていうのに!」

早坂が悔し紛れに言ったが、離れ過ぎていた実力差は大会史上、希に見る大量得点差をも生み出した。県大会を制覇したチームに大敗を喫したという、現実を考慮すれば、ある程度の割り切りはできる。結果的には県内で、あのチームに勝る学校はどこも無い事になり、別に後ろめたさを感じる必要も無かった。

『優勝したチームに負けたんだから、名誉な事であり是非、次は全国制覇を成し遂げて自分達の分迄、頑張って欲しい…。』

そうは思ってみたものの実際、労いを掛ける程の余裕は無く、あの試合が相手チームにとって、肩慣らしにもならなかった事は言う迄もない。何のステップにも経験値にも入る訳がなく、むしろ『あんな弱小校に予想以上にてこずった』と、校内から厳しい評価を受けているに違いなかった。

途中棄権で幕を終えた後、誰も口惜しいとは感じなかったばかりか、これに至った反省すら思い浮かばなかった。そんな状態が何日も続いた、ある日の放課後、今日もまた早目に『練習』が終わったが、校門に差し掛かった所で千秋が声を掛けて来た。

「ねぇ、長井君…。」

「えっ?練習なら終わったよ。一応、部室には顔を出したしサボって何かないから。」

「そうじゃなくて…、最近先輩に会った?」

『何故そんな事を聞いて来るのだろうか?』

そう言うよりは何故、知っているのかと表現した方が正しいかも知れない。

「昨日の学校帰りに近くで声を掛けられたの。長井君が元気でやっているか、とても心配していたわ。もしかしたら、今日も来ているかも知れないわよ。」

「来ているって、どの辺りに?」

「それは分からないけれど、最後に別れたのは、その先の公園…。」

絶対に今日も来ているに違いないと、確信を抱きつつ聞いた途端、一目散に校門を飛び出して行った。周辺を探し回ったが、どう考えても不自然な展開だった。

『大原先輩が公園で待っています…。』

まるで彼女が、そう始めから言っている様なもので、あえて言うなら呼び出し役にされているとも、受け取れなくもなかった。しばらくすると、遠くに大原らしき姿が見えたが、向こうもこちらに気付いたのか歩き去って行った。この時点で、明らかに何かの演出を臭わす行動だと、本来なら察しられる筈だった。

「待ってくれ!」

それでも追い駆けて行った長井は、興奮するあまり、正常な判断ができなくなっていた。行き着いた所は、やはり千秋が指していた公園で、のん気に大原はブランコに乗っていた。

「やっぱり来てくれたのね。」

「…!?」

ここで二人が出遭わせたのは、決して偶然などではなく、故意的に仕組まれたものだという事実は、その第一声が物語っていた。本当に何も気が付かない長井は、戸惑いを隠せなかったので自分が、ここに来るのをあらかじめ知っていたかの様な発言に、疑問を抱き続けるばかりだった。

「昨日も学校の近く迄、来ていたなら、俺にも声を掛けてくれれば良かったのに。」

「行ってないわよ。卒業してからは今日、初めて近くを通り掛かったんだから。それに『俺にも』って言われたって、千秋とも会ってはいないわ。」

ますます脳の内部では、混乱と破壊が進行して行く様な違和感を覚えた。まず会っていないのであれば、その事実自体を知る筈が無いので、わざわざ『会っていない』と、表現する必要がなかった。

「まだ分からないの?在学中は、あなたを散々バカ呼ばわりして悪かったって思ったけれど、やっぱり本当にバカなのね!」

次第に、ようやく自分が、ここへ意図的に呼び出された現状に気が付かされた。だとすると大原は、陰で千秋の手を糸の様に引いていた事になる。あれだけ決別を誓い、膨大なリスクを背負って迄、陸上部を撤退したのが、自分が知る限りでの今日迄の経緯だった。

それ以上は何も無い筈だが以降、千秋とは、何等かの口裏合わせが存在していた様だった。どうして心機一転を計ったにも関わらず、その糸は切れていなかったのだろうか?

「じゃあ、この辺にでも座ろうか?さっさと始めちゃおうゼ。」

その頃、公園の反対側の入口から何故か箕田がやって来て、一緒に、スーパーの袋を持った親友の河野の姿もあった。実は搬送された仲間達より一足早く、ついさっき精密検査を済ませて来たので、異常無しが判明し、二人だけで快気祝いをやろうとしていた。

「あれ、キャプテンじゃないか?一体、誰と話しているんだ?」

弁当や飲み物をベンチに広げ出している中、ようやく長井の存在に気付いた河野が言った。言う迄もなく二人は、擦れ違いで卒業して行った大原の存在は知らなかった。最も長井自身にトラウマがあり、話題にも出た事がないので単に『知らされていない』だけなのだが、在学していた当時は嫌な思い出しかなかった。

「ちょうどいいから、こっちに来て貰おう。二人で食べ切るには買い過ぎた量だ。」

河野が近付いて行こうとしたが、遠くにいるので声は聞こえなくとも、異様な会話の深刻さだけが伝わって来たので、しばらく二人は黙って見ている事にした。

「私の事を恨んではいないの?この間の大切な試合をメチャメチャにしたのよ?」

突然の問い掛けに『…!?』と声が出なかったが、確かに年に一度の県予選で、しかも初出場の大会だった。彼女に引き止められさえしなければ、試合開始に遅れる事なく、当然の結果として、部員達から不信感を募られる事もなかった。もしかしたら、あれだけの退場者も出ずに済んでいたかも知れない。

全てが台無しにされたと言えば否定はしないが、もはや終わった話しで誰も恨んではいないし、むしろ自分の不甲斐なさを発見する、いい機会を与えてくれたとさえ思っていた。

「練習大変そうね、ケガ迄しているのに。」

「どうして、そんな心配をして来るんだ?全部、先輩の思い通りになったんだから十分、満足しているんだろう?」

当初、要求されていた自分の部の撤退にしても、そうしなければならないかの決意の以前に、今は体が動かせない状態だった。部員全員の完治にも相当な日数を要する為、まともな練習の再開は全くと言って言い程、経ってはいなかった。今となっては本当に辞めるか辞めないかを、別に悩む必要すらなかった。

つまりは、たった一人の卒業生の手によって、一つの部が不必要に窮地に追い込まれた挙句、壊滅状態に陥らされた事になる。それだけの大計画を大原は『見事にヤッてしまった』ので、お陰で今の部の中は、とても冷え切った状態だった。もはや自分が、キャプテンとして何かできるのかという状況も、無くなった様に感じて来た。

せめて全員が回復して、今迄通りの練習が始められる様になる迄は、名ばかりながらキャプテンでいようと思った。後輩達だけで一致団結できる日の到来こそが、引き際であり退部するつもりなので、もう未練や迷いは無く今更、上辺だけの同情など要らなかった。

「それをみんなは望んではいない筈よ。前も言ったでしょう?そばにいてあげてよ。」

「辞めるって一体、どういう事なんだ?」

河野は、かすかに聞こえる対話のやりとりに、必死で耳を傾けていた。キャプテンが先日の試合に遅れて来た理由や、後の一連の経緯を今、二人は初めて知ったのだった。

「その責任を取って辞めるだって?何、バカ言ってやがるんだ!」

箕田は、かなり大きな声を張り上げたが、まだ長井達には気付かれていなかった様で、すると千秋が必死の形相で走ってやって来た。

「遅いわよ千秋!それに随分と呼吸が乱れて、かなり体力が落ちたんじゃない?」

大原の言葉には何も言い返せない中、すぐ後を追う様に藍子と佳織も公園に入って来た。

「随分、賑やかになって来たんじゃない?」

箕田が言ったが、未だに二人は誰からも気付かれていなかった。長井は、これだけの主要メンバーが揃いも揃った事に、まるで狐につままれた思いがしてならなかった。

「ゴメンなさいね、さっきから訳の分からない事ばっかり続いて。でも最初に言った筈よ。あなたは千秋に嘘を吐いて貰って、ここに呼び出されたのよ。」

色々困惑させたのは悪かったと思っているが、いい加減、状況ぐらいは呑み込んでほしいと、大原は言いたかった。ただ、仲間を心配しての事とは思うが、藍子迄が現れたのは、本当に予定外だった。彼女にとっての千秋とは、将来を託したスプリンターと表現しても、過言ではなかった。自身が卒業する時は、二年生ながら次期部長をも考えていたが、あくまで『続けていたら』の話しだった。

実体が知れない新設部のマネージャーに徹する道を選び、自ら表舞台に立つ事を断ち切ってしまった深層心理が、どうしても理解できなかった結果、引き込んだ長井に対して執着心を抱く様になった。

「今迄の事を彼に全部、話してあげて。未だに理解できていなくて困っているのよ!」

「そんなに息を切らして慌てて来たアンタに、言われたくはないわよ。学校からここ迄、一体どのぐらいの距離があるっていうの?肝心の陸上部の練習もしないで、マネージャー業なんかに徹しているからよ。」

何かを知っているらしい藍子が促したが、反応は冷たく二人は逆らえない様子で、部を離れて卒業した今でも、先輩の立場は絶対的な存在だった。こんな間柄を見ていると、千秋が取らざるを得なかった不可解な行動は、別に不思議ではないのかも知れない。反論できない故、仕方なく踊らされていたんだと信じたかった。

「ちょっと!私には何か言う事はないの?」

そう割って入ったのは佳織で、二人とは違って大原には何も恩は無かったので、面と向かって言いたい事は何でも言えた。

「別に無いわよ。それ以前に『アンタ誰?』って、こっちが聞きたいわ!」

どうせアカの他人だと無関係を主張できるからこそ、毅然とした態度で振る舞えるのだが、それが返って仇になった。長井や藍子と千秋が、大原に引け目を感じて頭が上がらないのは、過去の複雑な人間模様から来るものだった。その追い風を受けた事が無い佳織が、同等の立ち位置を主張するのは、かなりの無理がある。ましてや対等の目線で渡り合おうなどと、実に都合のいい話しでしかなかった。

「『マネージャー業』って随分バカにした言い回しして、卒業生には言われたくないわ。いつ迄も、ウチのキャプテンに付きまとわないで!勝手な約束迄させたらしいけれど、絶対に辞めさせたりはしないからね!」

長井への個人的な感情は全く無いが、どうしても土足で他人の領域に入り込む姿勢が、許せなかったので必死で食らい続けたが、大原にとって訴えは嘲笑の対象でしかなかった。

「勝手に言っていればいいわ!私は千秋に期待していたから、こんな事をする姿は望んではいなかったわ。でも好きで選んだ道だって言うのなら、否定はしないけどね。」

「しっかり分かっているんじゃないの!尚更、往生際の悪い事は辞めて貰えない?」

「そうだ、佳織の言う通りだ。確かに『こんな事』かも知れないけれど、藍子も千秋も、自分で選んで入ったんだ。卒業して行った先輩が、今どうこう言う事じゃない。」

珍しく長井は、佳織と意見が合致した。

「もう何も言ってないわよ。大人しい後輩を使って、おかしな事をやろうとした私がバカだったわ。」

意外な程に大原は素直だったが、今日は始めから、そういう姿勢でここへ現れたのかも知れない。あの県予選で起きた長井とのやりとりは、千秋が事前に仕組んだもので、部を解散させるといった無理難題の条件を突き付ける為、どうしても長井に接近する必要があった。卒業した今となっては普段の行動や日程を、大原に程細かく把握する手立てが無い。

そこで、かつての後輩に偵察させるという、どんでもない計画を企てた。実は最初は藍子に試みたものの、少し気が強かった為か真っ向から断られた。今更、先輩の立場を逆手に取った卑劣とも取れる、依頼は聞き入れたくないと思われたのは、言う迄もなかった。

皮肉にも最終的には、千秋に非常に悪い白羽の矢が、立つ結果を生み出してしまった。彼女には自分に期待を掛けてくれていた、大原の手を振り払った過去があり、退部という形で裏切った罪悪感が未だに拭えないでいた。

『一緒に同じ道を歩きたい…。』

そう言って彼女は、部を始めたばかりの頃の長井の前に現れた。何も後悔は無いと言ってはいたが、本音であったかと言えば今日迄の経緯から、どうしても疑わざるを得ない。

元々同じ中学の出身者同士とは言っても、当時は交友などは全くもって無く、今でこそ同じ部で活動はしているものの、それは最近になってからの話しだった。ハッキリ言えば決して『根っからの友達』ではなかった経緯からか、彼女の頭の中の天秤は、長井の方が重くは感じられなかった様だった。

藍子は自分が断った時点で悪態が防止され、全てが片付いたと認識していたが、その続きがあった事実は、ここに来る途中で初めて聞かされた。無情にも、同じ釜の飯を食った親友への審判は厳しいものだった。

「人が良過ぎるとかいう、簡単な言葉では片付けられないわ。断れないのは、あなたの悪い性格なのよ!」

今回の件が『ノー』とハッキリ言える、自分の性格が招いた悲劇だとは思わないし、断ろうと思えばできた筈であり、結果的に何等かの報復を受けるのも考え辛かった。卒業した今となっては、在学中の先輩という立場の効力も、すっかり失せているからだった。

今更、どこかで出くわした所で『ムダに先輩風を吹き回している』と表現するしか値しない存在だが、千秋には藍子の様な毅然とした振る舞いができなかった。間違い無く言えるのは長井と大原に、歴然とした優先順位を付けていたというのが、行き着く結論だった。

高校ラグビーの県予選の開催日程が、事前に地方紙などで大きく取り上げられる事など、殆ど無かった。ようやく決勝で記事になるかという程度であり、ましてやシード校の登場前の初戦となると、ノーピープルマッチに等しい。当事者でなければ前もって開始時間を把握するのは、まず不可能といっていいので、ここが開催あれば誰もが群がる高校野球やサッカーとは、大きく違う厳しい現状だった。

だから日程だけを把握しても、大原が必ず長井と接触できるとは限らないので、認めたくはなかったが千秋はスパイだった。時間が合わなければ当然、現場に出向いても擦れ違いで終わってしまい、ましてや試合が始まってしまえば、声を掛ける事さえできなくなる。

試合開始直前という、いつもタイミング良く現れる事ができたのは、彼女の働きかけ以外、何物でもなかった。日頃から、部の活動状況や近況なども報告させていたらしく、それは二人が今でも、密接な関係を保っている証しでもあった。揺るぎない関係の維持に、長井は絶好の材料にされ続けていた事になり、かつての恩師への服従こそが、身勝手な行動を起こした自分への償いだと割り切った。

やがては歪んだ正論は、スパイの片棒を担ぐといった行動に駆り立てられて行ったが、次第に仕組んだ大原自身に、悪意が無くなって行った事は周知の通りである。

「話しは全部、聞かせて貰った!」

沈黙の間を見計らったかの様に、河野と箕田は声を揃えて、唐突に現れた。

『なんだって二人揃って、こんな所に!?』

長井は、河野の完治を知らされていなかった事もそうだが到底、出くわす筈のない場面であっただけに、頭の中がパニックになった。

「俺達に内緒で約束なんか、させられていたのか?それに試合に遅れた本当の理由を、どうして話してくれなかったんだ?」

卒業してから今頃になって現れた先輩なんかを、どうしても無視できなかったせいで、大事な試合が二回も、取り返しの付かない結果で終わってしまった。キャプテン自ら最後の最後で体を張って、不協和音を吹き飛ばしはしたが、未だ誤解は晴れないままだった。

今迄の行動が水臭かったとばかりに、箕田が歩み寄ったが、仲間内の関係は完全には修復できておらず、キャプテンとしての立場も失いつつあった。かつての恩師の手を振り払った千秋、そして大事な後輩を奪ったという、長井は事実を突き付けられた。

やがて互いは言うがままに踊らされ、自滅の一途を辿ったが、二人に共通するのは『大原に弱みを握られていた』事だった。落ち着いて考える迄もなく、第三者的な立場から見れば、やはり『理解できなかった行動』としか言い様が無い。断れば良かったの一言に尽きるが何故か二人共、情が厚過ぎたので、そう陥らせる程のズル賢さが、大原に備わっていたのも事実ではある。

「なんか続々と、お仲間が増えて来ている様だけれどアンタ達、一体何なの?」

河野と箕田にとっては、この一部始終を目撃した事によって、触り程度ながら『かつて長井が恐れた存在』が把握できていた。逆に大原にとっても、二人は一度も会話にすら出て来なかった為、顔も知らないのは必然的な事だった。同時期に在学していた佳織に『アンタ誰?』と表現したぐらいなので、その一年下となれば今度は『アンタら誰?』と言う程度の存在でしかないのである。

「分からないのも無理は無いだろうから、教えてやるよ。俺達は、こういう者だ!」

箕田は叫ぶと、河野と共に学生証の顔写真ページを開き、揃って突き出す様に公開した。

「カワノ?ミノタ?知らないわねぇ…。そんな後輩が、ウチの学校にいたのかしら?」

警察手帳とでも言いたかったかの様な二人の行動は、勘違いにも程があり、間近で見入った大原の反応は、非常に冷たいものだった。

「一番、間違われたくない読み方しやがって。っていうか、ワザと読んだんだろう!?」

勝手に『後輩』呼ばわりされる覚えも無く、普段は物静かな河野が、珍しく取り乱した。

『長井には頭のキレが良かった印象は決して無かったけれど、その後輩は更に、磨きを掛けてアタマの回転が悪いわ!』

藍子と千秋が学校生活をどう過ごすのかに、別に何も言うつもりはないが、長井や佳織の様なバカさだけは絶対に、つられないでほしいという事を切実に願った。彼等の怒りの叫びなど耳には届いておらず、むしろ手塩に掛けた後輩達の行く末だけが心配だった。

実に自分に都合のいい解釈しかしないからこそ、こういった事態に発展するのも事実で、何より許せないのは、そんな彼女が用いた非情な手段だった。まず試合直前の、緊張感で不安定であった長井を、襲撃も同然で狙った。

もはや過ぎ去った出来事を、卒業生ならではの経験から来る知識で丸め込みさえすば、指摘された側は自分に非がある錯覚に支配される。見事に隙を突かれた結果『負けたら即、部の解散』を約束させられてしまった。

勿論、目的が果たされない想定というのも、ちゃっかり彼女は考えていた。仮に呑んで貰えなかった場合、何等かの形で試合時間に遅れる様、千秋に手配を仕組んでいた。いずれの二試合共、自らの手で長井に遅刻を生じさせた為、千秋自身が手を汚す事は無かった。

弱者の立場を逆手に取って、自分に都合のいい行動を取り過ぎている様にしか、どうしても受け取れなかった。果たして反発できなかった千秋は、悲劇のヒロインに含まれるのだろうかというのが、大きな疑問だった。

「やり方が汚過ぎる。こんなの、男の世界の風上にもおけない。」

「失礼ね、あたし女よ!それに今迄やって来た事が正しいだなんて、心から思ってはいないわ。ちょっとだけヤケになって、歯止めを掛けるのが遅くなったみたいなの。」

箕田は吐き捨てたが、そんな反論を誰が信じるだろうかと言いたいし、どこかで歯止めは掛けられた筈であり『遅くなっちゃったみたい』では済まされなかった。本当に自分の不満や、憤りを解消する為だけの目的にしては、余りにも周囲を巻き込み過ぎる。

『暴走を止める奴はいなかったのか?』

疑問が思い浮かぶが唯一、機会を伺えたのは千秋以外にはいなかったので、最終的には大原が一方的に進めた部の解散の遂行に加担し、共に歪んだ歯車を回し続けた。それは余りにも『優しさ』と表現するには大きくかけ離れており、単なる無責任の一言に尽きるものだった。あの日の出来事は全部、本当に仕組まれたものであったのだろうか…。

「俺には、未だに信じられないんだ。千秋が、仲間を売る様な真似をするなんて…。」

長井の他、この場にいる河野を始めとして、殆どの部員が負傷したが、精神面の衝撃の方が響いた。どうしても確認したい事があって、これから千秋自身が取るべき道だった。

「お互い、過去は捨てて今の部に入った筈よ。それが、解散だとか撤退なんていうバカバカしい手助けに率先するなんて一体、何を考えていたの!?」

藍子は遂行を図った張本人よりも、自分の意思を貫けなかった親友を責めたが、すると千秋は何も言い返せず、そのままふさぎ込んだ。別に、かつての恩師を重視すると言っても、それが彼女なりの正しい答えであり一向に構わない。今の仲間達を選ぶ事が、必ずしも最善の道だとは思えなかった。

誰に対して誠意を抱くかは、本人の勝手だと割り切るしかなく、誰も責める事はできないのである。それでも、まだ自分達を選んでくれると言うのなら、過去は全て水に流そうと思った。何が正しく、どれが間違っていたかなど存在しないのだから、いつでも受け入れる心構えや準備はあった。

「本当のあなたが戻って来るのを、いつでも待ってる。でも、やっぱり昔の先輩から離れられないのなら、それは仕方ないと思うわ。ただね、その時は学校で挨拶する程度の友達でしか無くなるのよ…。」

誰を選び、どんな道を歩くのかと言う事に、善も悪も無いが最終的には仲間を大きく傷付け、裏切る結果を生み出した事実に相違無かった。戻って来るのは大歓迎だが、引き起こした事の重大さは認識してほしいと、藍子は促した。ただ仮に、こちらを選んでおきながら今度も、こういう事を起こされるのは困る。

「卒業生だか何だか知らないけれど、先輩後輩なんて言い合っていたのは過去の話しだ。いつ迄もガキ大将の延長みたいな事してないで、将来や進路でも考えてろって!」

再び箕田は言い捨てたが、こうも簡単な一言で長井も千秋も突き放せていたら、こんなにも事態は長引かずに済んでいた。後悔していたが全ては、大きく立ちはだかった『罪悪感』と言う名の壁だった。

「さっきから本当に失礼ね!どうして初めて会った男子から、友達口調を受けなきゃならないの?仮にも私の方が年上なのよ!」

「だから俺達はアンタを知らないんだよ!それが答えだ!」

そう言い返した河野も同じく何の恩も、ましてや弱みを握られる様な接点など、全くもって無かった。つまらない企てなど無ければ、試合開始早々に失神する程のタックルを食らい、退場せずに済んでいたと言いたかった。

大原が元々、どういった存在かを二人は本当に知らなかったので、長井や千秋とは違って強気の姿勢が維持できるのは、ここから来ていた。印籠を見せ付けても、その価値を相手が知らなければ、返り討ちに遭ってしまうだけだった。恐れを知らない連中程、厄介で手強いものは無いのである。

「まぁ色々あったけれど、これからも頑張って続けてね。それが私の願いなのよ。」

さすがに少しばかりの身震いを感じた大原は、これ以上、踏み止まるのは危険と察した。何かに怯えていたかの様な声で言い捨てると、その場から立ち去って行ったが、明らかに長井と千秋に対しての促しに取れた。

「ふざけた事を言って!周りを散々かき回して、おかしな問題を起こしたのは誰だ!」

個人的な恨み感情を抱く河野が、呼び止める様に叫んだが、振り返る事はなかったというよりは応えたら最期だった。今度は男の腕力で制裁を加えられかねないので、薄笑いするフリをして逃げ出すしかなかった。

大切なキャプテンが過去に受けたパワーハラスメントを、今こそ同ハラスメントで晴らすべきと思ったが、せっかく嵐が去ったのだからと、不必要なぶり返しを藍子によって制止された。しばらく異常なぐらいの無言状態が続いた後、千秋が初めて口を開いた。

「許されない言い訳だけれど今迄、自分が何をして来たのか、よく覚えていないのよ。とにかく、逆らえなかった…。」

「気が付いてやれなかった全員に責任がある。それに、みんなに何かの隙があったから、こういう事が起きたんじゃないのか?」

この際、誰が悪かったかとか、一人に責任が科されるといった、話しは無しにしたかったと箕田は言った。

「どうして、そんな事が言えるの?悪いのは私一人なのよ。大事な試合を台無しにしてしまったわ…。」

チームを支えるべき立場の筈が、破滅へ導く主導者と化した経緯に言い訳のしようは無く、張本人が目の前にいるにも関わらず何故、救いの手を差し伸べ様とするのかが逆に辛かった。ここにいる河野の他、あの日の退場者は自分が負傷させたも同然であり、どうしても拭えそうにない後悔があった。

「もう誰も恨んでなんかいない、自分達に力が無かっただけだ。」

チーム内で自分の非力さは否めない現実であり、仮に無事に試合が始まっていたとしても、負傷退場は免れなかったかも知れないと、河野は答えた。元々相手チームとの実力差は明らかであり、下馬評を覆す試合展開を自分達に求めるなど、始めから無理な話しだった。

何も無かったとしても、途中棄権は時間の問題であったとしか言い様がない。ボールを追い駆ける血気盛んな部員達が、か弱い小悪魔の糸に陰で操られ、知らずの内に破滅に負い込まれたなど、大袈裟な表現でしかなった。

「じゃあ、これで決まりね。また一緒に頑張りましょう!もし降りようなんて考えていても卒業する迄、続けて貰うわよ。」

未だに千秋自身が自分をスパイとか、小悪魔だと感じているなら単なる被害妄想でしかないので、今迄以上にチームの支えでいてくれる事こそが、罪滅ぼしになると藍子は言いたかった。大原が、こうして後輩達に付きまとい、先輩風を吹き回しているのは、きっと自分の居場所を探しているからに違いない。

そういう今でも現実が受け入れられない所が、ちょっと気の毒にも思えた。それにしても今回の一件は、河野と箕田という強靭な存在無くしては、こうも急速な事態の終了は迎えられなかった。もし彼等が、揃って副キャプテンなんかやってくれたら、どんなに楽だろうかと思わずにはいられなくなった。

「なぁ、君達…。」

ハッキリ言えば慎重さなどを持ち合わせていない、単に恐れ知らずな行動が当って、意向を伝え様とはしたが佳織が割って入った。

「調子いい事言ってんじゃないわよ!元を辿ればアンタが頼り無いからじゃないの!」

「ギャアァッ!」

そう発した途端に長井は、公園中を鬼ごっこの如く追い駆け回される事となり、他人を気の毒と表現する以前に、やはり可哀想なのは自分自身だった。その光景を大原は公園の片隅で、そっと眺めていた。

この先、どんな展開になるのかが気になり、完全に立ち去った訳ではなかった。今日は自分の正直な気持ちを分かって貰うべく、事前に千秋と打ち合わせを済ませた上で、巧妙な段取りを組んだつもりだった。結局は自分のプライド優先が先行してしまい、かえって念を入れた執拗な演出が仇となった上、後輩達の介入といった予想外の事態もあり、肝心な点は何も伝え切れない内に終わってしまった。

もう過去の因縁や確執など何も無く、今迄の自分のやり方は、かなり度が過ぎていたとは思ったものの、再び長井達の所には行ってはいけない。『一度引き下がった以上』と言うより、側近がウヨウヨと待ち構えている為、安易には近付けないのだった。

『まだ何か文句でも?』と言われてしまうと、今となっては支えてくれる仲間がいない、自分一人では太刀打ちできなかった。黙って立ち去るしかないので、これが女王気取りで好き勝手に過ごして来た、自分への報いかも知れない。このまま長井が後輩達からの信頼を取り戻せるのなら、悪役の仮面を被ったままでもいいと思った。

「さぁ、そろそろ帰りましょうか。」

公園では藍子が、みんなに促した。

「あの先輩、大人しく帰った所を見ると、ちょっと可愛いトコあるわね。アンタが慕っていたのも、理解できなくはないわよ。」

佳織は足を休めて言った直後、再び長井を追い駆け始めたが、確かに千秋には最後は、黙って去って行った大原の本意が理解できていた。最終的には逃げるかの様に、あえて暴走して憎まれ役を演じ切ったに違いないが、河野と箕田に恐れをなして逃げ出したのも確かだった。元を辿れば騒動の火付け役であった事から、同情の余地は全くもって無かった。

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