第28話 開始の笛が鳴る迄に

大会の会場に行く迄のバスの中は、かなり賑やかで今日、対戦するチームが『決して勝てない相手ではない』と勝浦が言っていた事もあった。長井だけは違って『もしも勝ったら?』と考えると、とても笑ってはいられなかったので、随分と真面目さを振りまいた。

「ひょっとして、またバックの中にヤバイ雑誌でも入れてるんじゃないの?バレないかって、ヒヤヒヤしているんだろう?」

箕田は冷やかしたが、いつもなら滅多には喋らない彼の方が、長井に茶化されていたぐらいだった。すっかり今日は立場が逆になっていて、それだけ彼も部に浸透して来たのかも知れないが、反応は予想外のものだった。

「今、真剣にチームの心配をしているって言うのに!今日の試合、目をつぶってでも勝てると思ったら大間違いだからな!」

何をそんなに浮かれているのかという思いから一瞬、顔が強張ったが、怯んでしまった部員達の表情を伺った途端、冷静さを取り戻した。果たして『絶対に勝てない相手ではない』とは『絶対に自分達は勝てる』を意味するだろうかと、初めて全員に緊張感が走った。

「ゴメン、試合前だから緊張していただけなんだ。第一、どんな相手か分からないじゃないか…。」

長井が今、心に抱いている事をハンドルを握る勝浦は、自分の口から部員達に伝え様と思った。これは、言ってしまうとプレッシャーを与える結果になるので、あえて長井が胸に閉まっていた事だった。

「キャプテンが一番、心配しているのは今から行く試合じゃない。もし勝ったら次の試合は、どうしたらいいのかっていう、そっちの心配をしているんだと先生は思う。」

長井は、何より優先すべきは今日の試合だと考えたので、部員達が緊張感を忘れて、ふざけようが何をやろうが黙っているつもりだった。下手に不安感を抱かれて試合に影響したのでは、せっかくの勝てそうな試合の雲行きが、怪しくなるだけだった。

自身が抱く心配を不用意に、仲間にバラ撒く必要も無く取り合えず、今は目先の事だけを考えればいいと思った。今日、対戦するチームを『勝てない相手ではない』と言ったのは決して、みんなをぬるま湯に浸からせる為などではなかった。

『ふざけて掛かって行っても絶対に勝てるのか?』と、この世界では素人にも程がある勝浦に、聞かれる迄もない問いなので、勝てる自信があるのなら絶対に勝たなければならない。勝浦には珍しく今日、口数の少なかった長井の気持ちが、よく分かっていた。だからこそ、浮かれ気分でいる部員達を同様に心配し、墓穴を掘られたくもなかった。

今から大事な大会に出場しに行くという、当たり前の基本を、すっかり忘れていた様な気がした。それこそが最初に言っていた『実践を積む』事に繋がる筈で、部員達からは浮かれ気分が消え失せていた。

「そうだ、今から会場に着く迄、みんなで勝利の場面でも瞑想しようゼ!要所要所で、自分がファインプレーでもした所を、挿入するのもいいかも知れない。」

前田が言ったが、この狭いバス空間で試合に勝利する場面を、ストーリーの様に各々、妄想で組み立てて行こうという案だった。部員達は次の瞬間、目を閉じてブツブツと独り言を呟き始めたので、長井は何かが何処かで、ズレて伝わってしまった様に感じた。集団で、こんな危ない瞑想をする様に仕向けたつもりは、全くもって無かった。

緊張感は会場に着いてからも続き、試合の順番が回って来る迄の、軽い練習をしている間も解けなかった。それは中崎のチームに負けた直後の、ピリピリとした表情で練習していた時の、部員達の姿だった。勝浦には、その以前の練習風景が思い浮かんでいたが、自分は名目上は顧問であっても何のアドバイスもしてやれない、ただの素人だった。

部員達を立ち直らせる名監督でもないのに、さっきはバスの中で、偉そうな事を言い過ぎたかも知れないと、責任が取れない事はやらないに限るとさえ思った。しかし出番が回って来た途端、いつも通りを部員達は取り戻して、試合のペースは普段と何ら変わりは無く、お互いが出し合う掛け声には笑顔さえあった。

試合が始まってしまえば結局、専門ではない自分なんかは、何も心配する必要はないのかも知れない。長井は、すぐ目の前の守備位置に立っている河野と箕田に、こう言った。

「もし今日の試合に勝ったら、次の二回戦は無理に出なくてもいい…。」

『何故に試合中に言うんだ?』

そう言い返されたとしても、とてもではないが今の自分達には、諦めとかの意味で言っているのではなく、この試合が限界だった。二年生がキャプテンを務める一年生チームなどでは、強豪とは渡り合う事はできないのは、一目瞭然だった。仮にも全国大会の切符を賭けた争奪戦なので、血走った優勝候補相手に、経験が浅い部員を出させたくはないという思いがあった。

『もし』ではなく、今日は絶対に勝つんだと決意していたせいか、長井達が優位のまま、前半は進んで行った。かなり相手のディフェンスは緩く予想以下で、このまま気を緩めずに今のペースを保ち続ければ、確かに勝てない相手ではない様に思えた。

「向こうは三年生は何人いるのかしらね?」

長井達は失点も無く、既に三〇点近く突き放していたせいか、前半が終わりに近付いた頃、ベンチにいる佳織が漏らした。

「マネージャーなら、そのぐらい把握していないと駄目じゃないか。」

そう勝浦は答えるとハーフタイムとなり、長井達は引き揚げて来たが、ただ息を切らしているだけで、誰も何も喋ろうとはしなかった。相手チームは控えも含めて全員が三年生で、それでも学年を下回る編制の長井達に、大差を付けられたのだから、本当に強くはないチームと言う事になる。

もはや勝利は確定的といった所ではあるが、後半で注意しなければならない事や反省点は、特に何も無い。とにかく今の調子を崩しさえしなければ、絶対に勝ちを拾えるが、表情は険しかった。この次が問題で、一回戦も終わらない内から、死闘が予想される強豪校への不安を先走り過ぎていた。

「あっ、ちょっとトイレに行って来る…。」

そんな中、場をブチ壊すかの様な長井の一言に、キャプテン自らがこうでは本当に、全員の調子が崩れかねないとさえ感じられた。

「あっ、俺も!」

しかも、星もつられて行ってしまった。

「キャプテンだから尚更、プレッシャーを感じて一番、緊張していたみたいね。きっと今頃になって緊張が解けて、ウン…。」

その先を言おうとした佳織を、藍子は持っていたメンバー表で、思いっきりブッ叩いた。

「バカな事、言ってんじゃないの!人がトイレに行くのに、いちいち干渉しないで!」

トイレは運悪く、男子用が工事中で使えなくなっていたので、やむなく張り紙で指示された女子の方に入ったが、空いている扉は一つしかない。先に入った長井は、無事に『夢の扉』に手を掛けられたが、後からやって来た星は、その後を待たねばならなくなった。

「何だ、お前もか?俺は先に行ってるからな、遅れるなよ。」

「あっ!そんな…。」

さっさと用を済ませると、入れ替わる様に扉に手を掛ける、星を見捨ててグランドに戻って行った。ハーフタイムは極短い為、果たして星は後半開始迄、間に合うのだろうかという窮地に追いやられ、つくづく薄情なキャプテンだった。長井は、向う途中の通路で後ろから声を掛けられた…。

「中々いい試合ね。勝てるんじゃない?」

『誰?』と慌てて周囲を見回したが、通路が薄暗いせいか姿は見えなかった。

「畜生ーっ!大事な後輩を見捨てて行って!有り得ない話しだ全く。」

一方で星はというと、今頃になって長井の薄情さに気付いていたが、グランドでは既に全員、守備位置に就いていた。間もなく後半が始まってしまうので、二人が戻り次第、すぐに始められる様にしておかなければならないからだった。

「何やってるのかしら?せっかくの勝てる試合も、棄権になっちゃうじゃないのよ。」

佳織が言っている最中、慌てて走って来る星の姿が現れ、走りながら答えると、そのまま立ち止まる事なく守備位置に就いた。

「トイレが工事中で待たされちゃった…。」

「早くしなさいよ!一体何やってたの!所で長井はどうしたのよ?」

「えっ?戻ってない?!確か先に出た筈なんだけど…。」

こんな短時間で、しかもグランドという限られたスペースの中、一体どこへ行ったというのか、全員に不安が走った。

「つまらない冗談なら辞めてくれよ、どうして俺なんかをからかうんだ?」

「別に…。ただ頑張って貰いたいから、応援しているだけなのよ。」

後半が始まってしまうので、もう行かないといけないが、その頃の長井は未だ『捕まったまま』だった。そんなやり取りの中、自分を呼ぶマネージャー達の声が聞こえて来ると、見えない声の相手は、こちらに段々と近付いて来るのを警戒し始めていた。

「残念だったわね。まぁいいわ、もしかしたら、また会いに来るかも知れないから。」

その言葉を最後に、声の相手は足早に去って行ったが誰だったのか、同じ学校の女子生徒なのだろうかという疑問を残したまま、急ぐ足音は消えてしまった。それに干渉している暇はなかったので、急いでグランドに戻らなければならない。

「早く守備に就いて!もうホントは始まっている時間なのよ!」

藍子が叫ぶと、自分が守備位置に就かない内に、後半開始の笛は鳴ってしまった。本来ならば待ってはくれない開始時間が、長井一人の為だけに止められていたので、本人が現れた事が始まりの合図になったのである。開始以降も、声の主の正体が頭から離れる事はなく、自分達側のキックオフで始まっていたという事すら、気が付かなかった。

満足に没頭できていない間にも追加点が入り、それにより今度は相手サイドからの、キックオフになるというのにも関わらず、未だに上の空のままだった。そんな状態で、守備に就いていたのを狙ったかの様に、蹴り上げられたボールは…。

「おい、キャプテン!」

長井めがけて飛んで来たのだが、取ろうという姿勢は見られなかったので、橘が叫んだ。やっと気付いた時には、ボールは自分の手を弾き、大きく相手陣に跳ね返ってしまった後だった。本来ならばボールを前に落とした事で、ノックオンの反則を取られる所だが、笛は鳴らなかった。突進して来た相手選手に、ちょうど良いタイミングで拾われたので、アドバンテージを取られたからだった。

自分達のミスが原因で、敵側に有利性が働いたのは、これが初めてだった。結果的に、完璧に近かった今迄の一年生部員達の試合運びを、キャプテン自らが崩してしまった。

せっかくのチャンスに相手も焦っていた様で、やや前方気味の怪しげなパスを何度か繰り返した為、ようやく反則を継げる笛が鳴った。長井を除く部員達は、ホッとした表情を浮かべたが、展開は意外な方向に傾いていた。

反則を取られたのは自分達の方で、レフェリーは、さっきのノックオンを今更ながらに取ったのだった。ここに来て、キャプテンへの不信感が沸いて来てしまった部員達は、不満を漏らさずにはいられなくなっていた。

「何をボーッとしていたんだ!つまらないミスはするなって、日頃から言っていたのはキャプテンだろう!」

佐野が言い出すと他の部員達も責め立て始め、副将的な立場の仲里、そして江原と木下が必死に止めたが、仲間割れは収まらなかった。普段の長井なら絶対に有り得ないミスなだけに、みんな動揺していたせいもあったが、まだ後半開始から早々の出来事だった。

「今日のキャプテンはおかしい!第一、時間に遅れた事なんか一度もなかったじゃないか。相手チームが認めてくれなかったら、後半は十四人でやらなきゃいけなかったって、分かってんのかよ!」

及川の怒鳴り声は最もであり、やけに胸に引っ掛かっていた。本来なら自分は後半の開始時点で、守備位置に立っていなかったので、選手としては出場できない立場になっていた。それでもグランドに入れたのは、相手チームの承諾と理解があったからこそで、もし無かったら下手すればチーム自体が即、失格にもなりかねない所だった。

そう言えば藍子達が自分を呼びに来た時、見えない声の相手は去り際、確か『残念だった』と漏らしていた。もしかしたら自分を後半に出させない為の、策略か何かであったのではないだろうかと、それを思い出すとハッとして背筋が凍った。

『では誰が何の目的で…?』となるが真っ先に疑ったのは、その事で利益を得る相手チームで、仲間の女子生徒なら十分やりかねなかった。引き止めたつもりが、ギリギリの所で開始に間に合ってしまい『残念だった』と漏らしたと考えれば、つじつまが合う。

ただ証拠が無い以上、今の主張は通る筈もなく結果的に、自分が開始時間を遅らせた立場は否めない。これは、ただの自分の思い過ごしかも知れないので、さっきの出来事は胸に閉まって置くしかなかった。揉めていた長井達ではあったが、今は試合中なので、時間は待つ事が許されなかった。レフェリーから、得点差を維持する為に故意的に、試合を中断させていると警告を受けてしまった。

「なんか、雲行きが怪しいわね…。」

藍子が言ったが、もう持ち堪えて貰うしかないので得点差を最後迄、守るしかなかった。試合は再開されたものの、既にチームワークは噛み合わなくなっていて、普通ではない様子に勝浦は一番、不安を感じずにはいられなかった。予想は的中し、攻め込まれる場面が多くなり、すっかり前半との立場は入れ替わってしまった。

三〇点以上も突き放している得点差は、そう簡単には、ひっくり返せるものではない。外面上は攻められ続けている様には見えていても、失点だけは防いでいたが一つ言えるのは、今の部員達には前半の時の様な攻めは、できなくなっているという事だった。後半は始まったばかりだが、この先に追加点を入れるのは、まず無理な話しだった。

ラグビーの試合展開とは、基本的に選手達に委ねるしかなく、どんなに名監督であっても指示が出せるのは、開始前とハーフタイムのみである。いかに巧みなアドバイスをしてもゲームの展開次第では、想定外の場面に遭遇したりして、全く役に立たない場合もある。

上手くパスを繋いで行く内、相手陣地に抜け出す事ができたので、やがてボールは長井に回った。まだ吹っ切れないでいるせいか、左右にいる仲間の姿は、まるで見えていなかった。このまま単独で走り続けていると、敵に捕まってしまうのだが、必死にパスを求める声も聞こえてはいなかった。

案の定、振り切ろうと思えばできたタックルで、何故か簡単に倒される事となり、試合に集中していなかった当然の結果だった。

「やっぱり今日の彼は、どこかおかしいわ。何かあったんじゃないの?」

普段から、あっけらかんとしている佳織も、さすがに事態の深刻さを感じていた。互いに、中々得点が入らない後半戦は、異様な空気が流れるばかりだった。残り時間から言って、逃げ切り勝利は確定的ではあったものの『辛うじて相手からの追加点を抑えている』だけなので、頼りの綱は前半で獲得した、大量点という名の貯金を維持するのみだった。

事情を知らずに観戦している側にとってみれば、長井達のチームは前半の飛ばし過ぎによる、スタミナ切れを起こしていると受け取られても、仕方の無い流れになっていた。

その拍子にこぼれた球はゴールポストの手前迄、転がっていて、すかさず拾ったのが河野だった。ゴールラインに入り込もうとすると、相手の選手と揉み合う形になったが、タックルを食らいさえすればルール上、彼はボールを離さなければならなくなる。それで相手側は窮地を脱出できるのだが、やらずに単に掴み掛かるという行動は、大して鍛え上げられたチームではないとの、表れでもあった。

逆を言えば彼も経験が浅い故、どうすればいいのかが分からなくなっていた。ペナルティやアクシデントでも起きない限り、中断は無いという特性上、容易に周囲からの指示は仰げない。結局は、パスができそうな仲間を見極める事ができず、強引に振り切ってトライを狙うという、力技に走っていた。

彼の様な新米が場合によっては、キャプテンや監督の様に、動かなければならない時もある。長井はどうしていたかというと、肩から地面に叩き付けられた為、その場でうずくまっていた。その姿に誰も同情はしなかったばかりか、むしろトライが決まるかどうかという瀬戸際で、まるで無視されたかの様に、試合は中断無く続行されていた。

「先生、どうすればいいの?やっぱり長井君、おかしいわよ?」

最終的にはタックルというより、押し潰される様にボールを奪い取られ、ラインの外に蹴り出されてしまった。藍子が訴えたがグランド外の者には、どうする事もできず、そのプレーが合図となったかの様に試合は終わった。無失点を維持した事で、勝利に繋がったにも関わらず、誰も喜びはしなかった。

圧勝で終わった事には変わりないが、前半と比べて歴然と劣る後半の戦力には、大きな課題だけが残った。しかも最後は、決して名選手とは言えない河野に、キャプテンのミスが圧し掛かるという、頼んでもないおまけ付きとなった。いつも通りの集中力が欠けていたが為に、後輩一人に、数人の敵と立ち向かわせる場面を作ってしまった。

「今日のキャプテンにはウンザリだ!さっきはバスの中で、色々と偉そうな事を言って。この試合は何々だ!開始時間迄、遅らせるなんて俺でもやった事がない!」

早坂が言い捨てると、続けて前田も言った。

「一番、浮かれ気分で試合をしていたのは誰なんだ!二回戦の心配なんか、している場合じゃないだろう?今日、勝てたのは俺達のお陰なんだからな!」

部員達の殆どは、長井に背中を向けてしまっていて、窮地を一人で防ごうとしていた河野に、同情が集まるという事態になっていた。

「キャプテン、自分が悪かったんだ…。」

河野が声を掛けて来たが、他にも江原と木下、そして仲里も賛同者だった。箕田は、肩を持つつもりはなかったが、一斉に一人の失敗を責めるのが嫌いだった。やがて全員、バスに乗り込んでいるというのに長井だけ、逆方向に向かっていた。

「どこへ行くんだ?」

「ちょっと…、トイレ。」

勝浦が呼び止めたが、向かって行く後姿が、右肩を固定して歩いている様に見えた。

「ケガしているんじゃないのか?」

終了際のタックルで痛めたのだろうかと、そう言いながら追い駆けたが、振り払われてしまった。ただ黙っているしかないと思うと、果たして次の試合は、成り立つのだろうかという不安だけが募った。

「あんなタックルでケガする方が悪いんだ!どうせボーッとしていたんだろう?痛いフリしたって誰も心配なんかしないから!」

バスの中から佐野が大声で叫んだが、さすがに、こればかりは弁解のしようがなかった。今回は何でもない対戦相手であったからこそ、チームワークの乱れに関係無く勝つ事はできたが、同じ事は二度は起こらないのが現実だった。ただでさえ二回戦は、抜群の連携を保ったとしても、勝利する確率は低いのである。

つい、この間迄は息の合っていた練習も、一回戦の試合を境にバラつきが目立つ様になり、あれから何日も経ってはいないが二回戦は明日に迫っていた。たった一日しかない貴重な期間だという事を、果たして頭に入れて、練習しているのだろうかといった不安が、ますます膨れ上がるかの様な光景だった。

いつもなら、まとめ役に徹しなければならない長井に、思い切った踏み込みが見られないのが、一番の原因だった。肩のケガを引きずっているせいもあるかも知れないが、動きに全くと言っていい程、キレが無かった。やがて、キャプテンは当てにならないと感じた、殆どの部員達が勝手に練習を始めていた。

長井を支持する仲里達五人は、それには交わらなかった立場を取った事が、派閥を作る要因にもなってしまっていた。佳織は、長井に反旗を翻す部員達を説得してはみたが、逆効果だった。キャプテンを支持しなくなった彼等には、何を言っても通用しないというのが、もはや答えになっていた。

みんなが、リーダーをリーダーだと思わなくなったら、もう全ては終わりだった。ある一つの出来事が要因で、こうも簡単にチームワークとは、バラバラになってしまうものなのかは信じ難い。たった一人の上級生が後輩達全員を、まとめるという設定自体に元々、限界があるのかも知れない。

勝浦が何となく予想していた最悪の事態が、今まさに目の前で起きていたのだが、何とかして外れた歯車だけは、元に戻さなければならなかった。みんなが帰った後、一人部室に残っていた長井は、勝浦から声を掛けられた。

「肩、痛むのか?」

「別に、痛くなんか…。」

軽く肩に手を置かれると、痛みを隠し切れない表情に変わったが、どこもケガなどしていないと言い切った。

「やっぱりだ。脱臼でもしているかも知れないから、今から病院に行こう。」

大事な試合を直前に控えている状況下で、致命的な結果を告げられるのを、どうしても避けたかったので頑なに拒んだが、それを見越していない筈はない勝浦だった。

「じゃあ、どうして肩に手を置いたぐらいで冷や汗をかくんだ?部員の、誰か一人にでも何かがあったら全部、顧問の責任になる。知ってて見過ごす訳には行かないんだ!」

「明日の試合は…、絶対に出ないといけない。後輩達だけで出させる訳には行かないんだ。だから先生には、目を瞑っててほしい。」

それだけ自分が重症だと自覚している証拠で、これから病院なんか行ったら、ドクターストップが掛かるのは間違い無かった。今日にしても、通常に練習をしていた事態が、とんでもない話しだった。押し通してでも出たいのは本当に、次の強豪チーム相手に、後輩達だけを危険に晒したくはないからだった。

率直な私利私欲を言えば単に、先日の試合の汚名を晴らしたいだけでもあったので、それを指摘されれば否定はできない。どちらにしても明日は、絶対に万全な状態でないと出れない試合で、名誉挽回の場にしては相手が悪過ぎるのである。

「多分…、診断結果が怖いんだろう?残念だけど尚更、明日の試合は無理だ。」

「明日の対戦相手が、どれだけの強さなのかは先生が一番、知っているだろう?俺抜きで、試合はできないんだ…。」

後輩達はさっき、やれるだけの練習をやり終えると、さっさと無言で帰って行った。どうせ今日は、勝てない試合の為の練習であったと一人一人、思っていたに違いない。そう長くはなかった練習期間だというのに、自分は何もできずにいた無念を残して、諦め切れる訳が無かった。

「だから目を瞑れって言うのか?自分の負傷箇所を補うのがやっとの状態で、失った後輩達からの信頼をどうやって補うんだ?」

全ては、弱小チームを物語る故の嘆願に過ぎず、今の滅茶苦茶のチームワーク状態で挑むのを、試合とは言わない。いい結果など出る訳が無いのは明らかで、であれば長井個人でなくチーム自体が、棄権した方がいいというのが勝浦の見解だった。ケガを引きずって迄、出場するキャプテンが、みんなをまとめられる程、生易しいものではない。

確かに今の状態を考えると、自分達が大会に出場し続けるのは、あまり意味が無いのかも知れない。諦めるしかないのは、素人の勝浦にだって分かる事であり、連携や信頼を無くしてチームプレーは有り得なかった。

もしかすると『せっかくの出場権が…。』という現実に惑わされていた様な気もしていて、せっかく二回戦にコマを進めたのだから、権利を使わなければ確かに勿体無い。惨敗という確定的な結果と、それに伴う身体的なリスクは否めず、これからを考えれば権利の放棄といった回避策は、正当な手段なのである。

長井は、それ以上は反論しなくなったので、あまりの謙虚な変貌振りに勝浦は、戸惑いを感じて同情へと変わって行った。

「何か気になる事があるんじゃないのか?昨日の対戦相手には悪い言い方だけれど、あんな大した事が無いタックルで倒されて、肩を痛めるなんて、らしくないじゃないか。開始に遅れたのはどうしてなんだ?その事と何か関係があるんだろう?」

きっと何かがあって足止めを食い、試合に集中できなくなってしまったに違いないので、時間が守れなかったのは、本人の意思によるものでない事は明らかだった。そこ迄は推測はできるが問題は、グランドに遅れて入って来る迄の空白の時間で、長井本人から口に出すしか知る術は無かった。あの時は本当に唐突な出来事であった為、何から説明したらいいのか、とっさには言葉が出なかった。

「言いたくないなら、別に話さなくたっていい。明日の試合、無理はするなよ。」

どうしても今は答えられなかったが、そう言うと部室を出て行ったので、という事は…。

当然ながらチームワークは、取り戻せないままではあるが次の日、長井は無事に二回戦を迎える事はできた。今迄、対戦して来た相手とは訳が違う現実は今更、語る迄も無い。

そのせいか移動中も会場に着いてからも、誰も口を開かなかったので、この十五人で無事に試合終了を迎えられる事だけを、勝浦は心の中で願った。もうすぐグランドに、整列しなければならない時間になったというのに、長井だけが見当たらなかった。

同じ事は二度は起こらないだろうと、みんなは思ったものの一抹の不安が走って『まさか…。』と、前回は後半戦からではあったが、今回は初っ端から行方不明になっていた。

「どこ行ってんのかしらね、全く。」

「いつもの事だよ。緊張し易いもんだから今頃、トイレでチン…。」

藍子の心配を逆撫でする様に、早坂が言い掛けている途中、彼女はそばにあったボールを、思いっきり顔面に目がけてブン投げた。

「どうして、バカな事しか言えないのよ!」

ひょっとしたら肩の負傷が癒えずに、どこかでうずくまっているのかも知れないと思った勝浦は、ハッとして探しに行こうとした。

「まさか探しに行こうとしているんじゃ?」

「大事な試合の直前に、フラフラーっと消え失せるキャプテンなんて、かえって居ない方がいいんだよ。それより先生こそ、ここにいて貰わないと。」

村田と前田にも、そう促されると尚更、行き辛くなってしまった。もはや本人が戻って来るのを待つしかないが、こう何度も同じ事が起きるのであれば、本当に長井には放浪癖があるのかも知れない。

その本人は本当にトイレで指摘通り、痛みが引かず姿を誰かに見られたくなかった為、一時的に人目に付かない場所へと雲隠れしていた。ようやく治まって来たので、とっくに本来ならグランドに向う筈が、またしても例の声に呼び止められていた。立ち止まって見回したが、やっぱり姿は見えなかった。

「結局は勝っちゃったのね。」

「またか!誰なんだ一体!この間の負けた対戦相手の回し者か、それとも今から対戦する学校の…。とにかく俺を試合に、出させないつもりなんだろうけれど前みたいに、いつ迄も付き合ったりはしないからな!」

相手にしないで、そう言って早々と場を立ち去れば済む話しなのだが、すっかり挑発に乗ってしまっていた…。

「どっちでもないわよ。ただ、からかっているだけだから。」

「冗談じゃない、どうして顔も知らない相手から…。恨みがあってかどうかは分からないけれど、姿を見せるのなら話しを付けてやってもいい。さっさと出て来いよ!」

「恨み?別に無いけれど、言いたい事は沢山あるわ。」

やれやれと振り返り、後ろから顔を見合わせた瞬間、愕然としたというか、例えるなら体中の力が抜ける感覚が走った。今迄、闇から聞こえる程度でしかなかった、やっと姿を現して来た声の主の正体は…。

その頃グランドでは、当然ながら整列する様に指示が出ていたので、キャプテン抜きで試合に出ようと言う部員達と、もう暫くは様子を見ようとする仲里達が対立していた。

「整列する時間だっていうのに、たった一人に構っていられないだろう!」

「十四人でやるつもりか?相手は全員、三年生なんだぞ!」

早坂の異議に木下が言い返すと、佳織が割って入った。

「ケンカしてる場合じゃないのよ!所で千秋、さっきから何も言わないけれど心配じゃないの?アンタも何とか言ってやってよ。」

長井の失踪騒動が起こる度、全員が血走っている中で確かに彼女だけは、いつも口を閉ざしていた。何か特別な理由でもあるのだろうかと疑ったが、本当に彼女が意見を述べた所で、事態が解決するという訳でもなかった。

「取り合えず整列するんだ!開始の笛が鳴る迄に長井が戻って来なかったら、その時は一年生達だけで出るんだ。従わないと、チーム自体が失格になってしまうんだ…。」

勝浦は必死の思いで叫んだので、仲里達も、これ以上は自分達の主張は通らないと感じた。やむなくグランドに向かったが、整列した時点で、試合は始まってしまうのである。『開始の笛が鳴る迄に…。』が勝浦の出した、許容範囲内での指示の限界だが、実際は選手の整列が合図となり笛が鳴る為、ラインに並んだ後に猶予の時間がある訳ではない。

つまり整列した時点でアウトなので、もはや長井の選手抹消は確定的ながら、このまま戻って来て欲しくないというのが、勝浦の本心でもあった。いい加減、ケガ人は試合に出るべきではないので、これで良かったのだと思えばいいが、そうなった場合の残された部員達の運命は…。

本来の出場選手数に満たない十四人の一年生達を、全員が三年生の、しかも優勝候補チームと戦わせる事になる。これは分が悪いとか、彼等への試練だとかいう生易しい言葉では、片付けられない現状だった。どうせ勝てる訳が無い事は承知した上で、挑む試合なら尚更、キャプテンがいてもいなくても、結果は同じかも知れない。

勝算が無い現実からか、不思議と恐怖心は失せていたのは、ある意味で悪条件、極まりなかった。これは果たして単なる開き直りなのか、それとも、ただの強がりかは、試合開始と同時に明らかになる事だった。

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