第20話 捕手からコンバート

ほんの少しだけ部活動の時間内で、練習ができるグランドのスペースが、確保できる様になった。根本の配慮だが『狭い』というのは、やっぱり否めないので、みんな物足りなさを感じていた。やれる事といったら、ボールのパス回し程度で、その為か『ボールを高々と蹴り上げたい』という出来心に襲われる時が、たまにあった。

パスを受けた瞬間、思わずやってしまう部員が、一日に必ず何人かは出ていた。高々と蹴り上げられた後、他の部の陣地に落下し、当然の様に即クレームに繋がった。『絶対に蹴ってはいけない』という心構えが、かえって部員達の理性を崩してしまうのだった。

非常にぎこちない練習が日々続く中で、河野は少しずつ部の中に溶け込んで行ったが、ある日の帰り箕田に声を掛けられた。

「頑張っているみたいじゃないか。毎日、面白いのか?」

河野は『ロック』という、スクラムを組むポジションをやらされていた。中央部に位置する為、周りから取り囲まれてしまい、上からでも眺めないと姿が見えなくなってしまう。守備位置の中で言えば地味な所にあたるが、この面白さは実際やってみないと分からない。

近況を聞かされた箕田は、果たして本音で言っているのかどうか、耳を疑った。ただ、かつてはキャッチャーという、中心的なポジションをこなしていた過去を考慮すると、この現状に理解できなくはなかった。

河野は性格上、決してリーダーの道は選ばず、いつも陰で支える側に回ってしまっていた。自分が目立つ為なら、スタンドプレーをも平気で行う箕田とは、全くもって対照的だった。そんな二人の釣り合わない関係こそが、所属していた野球部を、強大させて行ったのは事実だった。それは次第に限界を迎え、河野の非常に醒め易い要因にもなっていたのが、何よりの致命傷だった。

「いつ迄、続けるんだ?どうせ、どんなに頑張ったって間違っても、リーダーなんかにはなれないんだ。いつも引き立て役ばっかりやっていた自分が、一番よく知っている事じゃないか?」

箕田は、あざ笑う様に言い捨てた。皮肉な話しだが、河野は目立たない裏方に回る事で、チームを優勢に立たせる名人に過ぎなかった。例えリーダー意識を持って、チームを引っ張ろうとしても、誰もついては来ないのである。

箕田派に在籍時、強い発言力がある立場にあったなら、派閥組に惨敗する事はなかった。原因は当時の仲間が、河野を心から頼れる存在だと認識はしていても、誰もリーダーだとは思っていない事にあった。『頼れる存在』である事と『リーダーやエース』という意味合いは、大きく違っていたのだった。

「そっちが何を考えていようと勝手だけれど、とにかく自分は、また野球をやるつもりはないから。第一、時期が来る迄は一切、口出しはしないって話しで、終わっている筈じゃなかったのか!」

河野は、さっきから不明確な目的で接近して来た、箕田の言動に痺れを切らした。

「練習疲れの所を呼び止めて、悪かったよ。どうせ応援なんかはしないから、とにかく頑張ったらいい。」

そう簡単に野球から別世界に移って、何でもポンポンとこなせる程、河野は器用ではない。昔からの付き合いがある箕田にとっては、先が読めていた話しだが今は、どこ迄、持続できるのか黙って見ているつもりでいた。

あのキャプテンが、どんなに『また野球ができる状態にしてやる』と言っても、どうせ河野自身が長続きなんかしないので、最初から無理な話しと心の中では笑っていた。ボール恐怖症の次は、今度はタックル恐怖症にでも掛かって、騒ぎ出すのが目に見えていた。

少し皮肉を込めた捨てゼリフを残して、立ち去ろうとしたが、ある事を言い忘れていた。まだ野球を捨てた訳ではない事情を、よく理解している河野には、既に何を言われるのかが分かっていた。

「言っておくけど、こっち迄、引き込もう何て考えは間違っても持つなよ。あのキャプテンとかが、もし企んでいたとしても絶対、有り得ない話しだからな!」

試合をする為には、部員が後一人足りないという話しを、チラホラとは聞いていた。だからといって、手っ取り早い手段にかこつけて自分を入部させ様など、河野と一緒にされたくはなかったので、まっぴらだった。

『また野球ができる状態になったら返してやるので、今は預かっているだけ。』

あのキャプテンの言葉はハッキリと覚えていたので、もし自分の所に勧誘の話しが来ようものなら『絶対に例の約束を果たして貰ってから』と言い返すつもりでいた。

ただ本当に約束が果たされたとすると、河野は期限通り今の部を離れ、自分の所に戻って来る事になる。その時には、もはや自分は勧誘に乗る必要が無くなり、黙っていれば向こうが勝手に事を運んでくれるという、非常に巧妙な展開になるのだった。

今は、もっと部員を増やしたいのかも知れないが、そんなに自分は、お人好しではなかった。逆に将来、そっちに行く筈の部員を頂いてやると、企んでいるぐらいだった。そんな中、高校総体が始まった。長井達は当然、出れる状況ではないのだが、せめて県予選を見学しに行こう、という話しが持ち上がった。

何故か勝浦は部室で勝手に決起すると、ヤケに張り切って飛び出して行った。一体、何をするつもりなのかと、部員達には不安が募った。段取りが決まった出発当日、一台の小型バスが異常な音を立てながら、校門の前にやって来た。正常な車であれば、まず発しない様な音にも聞こえ、かなりガタが来ているのは歴然としていた。

「まさか、これに乗って行くんじゃ…。」

千秋が心配そうに言うと、まさに『何これ?』が全員の答えで、運転席から降りて来たのは、なんとなく予想はしていたが勝浦だった。部費を少しでも浮かそうと、自らハンドルを握る事を決意したのだが、大型免許を持っていた迄は良かったが、肝心の出す車が無かった。幸い次の車検が来たら、潰そうと思っていたバスを所持していた、知人がいた…。

「先生!別に決意なんかしなくたって、よかったんだよ。それに幸いも何も、途中で事故にでも遭ったら、どうするんだ!?」

事情を話した所、厚意で借りる事ができたが、とても目的地迄、全員が無事に到着できそうな車ではない。真っ先に思った佐野が、狂った様に叫び散らすと、佳織が強い口調で言い返した。

「せっかく先生が出してくれた車でしょう?文句言わないで、さっさと乗るのよっ!」

仮にもスクラップ直前の車なんて、危なっかしくて誰も乗る気がしなかったが、部員の中では唯一、長井だけ潔く一切の反論をしなかった。一年生部員達は揃って、今日になって初めて、勝浦に不満を漏らし始めていると、今度は藍子が言った。

「アンタ達ね、クルマで移動できる有り難さを、少しは理解しなさいよ!」

どんなにイカれたバスだとしても、歩いて行くよりマシなのは明らかで、陸上部にいた頃と比べたら、よっぽど高待遇なのである。

「誰か足りなくない?」

千秋が言ったが、この場に村田と河野がいなかった。実は長井が、その二人に事前に、ある準備をしておく様に持ち掛けていた。事情を知らされていない他の部員達は、姿を現さない仲間に不安を抱きながらも、佳織の指示通り渋々とバスに乗り込んだ。かなり遅れて二人はやって来たが、何故か箕田も一緒で、明らかに無理矢理連れて来られた様子だった。

「絶対、面白いからっ!」

そう言いながら村田は、何とかしてバスに乗り込ませ様としていた。

「面白いって何がだ!部員全員が揃っているんだから、やる事って言ったら、試合ぐらいしかないじゃないか!」

すると長井が、バスの窓から顔を出した。

「なんだ何も聞いていなかったのか?今から、みんなでドライブに行くんだよ。ついでに、試合を観に行こうと思ってさ。今は総体の真っ最中でも、今の俺達が試合に出れる訳じゃないから。知っているだろう?」

まともに事前に理由なんか話したら、絶対ここ迄、連れ出して来るのは困難だった。だから二人には、事情を話さない様に仕向けていたので、理由を知らないのは当然だった。

「ドライブ?あぁ…、って逆じゃないか?試合を観に行くついでに、ドライブするんだろう?どうして俺が付き合う必要があるんだ!それにこんなバスで?」

危うく引っ掛かる所だったので、ようやく連れて来られた理由が分かると、さっきから掴まれていた手を振り解いて、立ち去ろうとした。必死で河野が引き止めたが、冷たい口調で言い返すのだった。

「好きな事をやるのは勝手でも、あんまり調子に乗るなよ。絶対、俺迄は巻き込むなって前に言ったじゃないか。何を浮かれ気分になっているんだ?」

「いいから早く乗れよ。帰りに何か、おごってやるからさ。もし後五秒以内に乗り込んでくれたら今なら特典として、焼きソバパンとコーヒー牛乳が付くんだけどなぁ。」

その直後の長井の一言で彼の態度は一変し、するとピタリと立ち止まり、無言でバスに乗り込むのだった。全員は、あまりの出来事に声が出なくなった。冷静沈着、無感情と思われていた彼が、まさか子供騙し同然の、こんなものに釣られるなんて…。

会場になっている、とある高校のグランドに着いたと同時に、なぜか救急車も到着していた。試合中に、負傷者が出たらしい。

「今年は出なくて、良かったよな。」

「まず出れる様になってから心配をしろ!」

林がボソッと言った後、及川が言った。やがて今日の日程が全て終わり、みんな雑談を始めていた中、箕田が長井に詰め寄った。別に今日の試合を観て、何も感動などしなかったし、入部の検討もしてはいないと、キッパリ言い切った。一体、何の目的で自分をこんな所に連れて来たのか?

「こっちも別に、今すぐ入ってほしいなんて言ってない。ただ、河野が今からやろうとしている事を、見て貰いたかったんだ。」

正直言えば、やはり入部して貰いたいというのが、今日の目的ではあったが、単刀直入には伝えられなかった。当然その考えは筒抜けにはなっていたが、箕田は当初から割り切った上で、あえて誘いに乗って来たのだった。

その帰り、全員でレストランに寄った。長井は一人で、みんなにおごると言い出したが、勝浦が『あんまりバカ言うものじゃない』と、勘定を取り持った。そこで更に、顧問らしい一面を見せる話しを持ち掛けて来た。今の部員達の実力が、どれ程なのか自分は全く見当が付かないが、もし試合をやるとなったら、すぐにでも可能なのかというものだった。

唐突な話題の切り替えに全員、食事の手がピタリと止まった。誰もが『それ』を目指して毎日、練習をこなしている様なものなので、現実的な話しがあるのなら『できない』と言う部員など、いる訳がなかった。だが長井は、まるで関係無いかの様に、キャプテンでありながら一人で黙々と食べ続けていた。

「何か、そういう宛でも…?」

星が問い掛け、場の空気に入り込まないキャプテンなど度外視して、話しは進められた。

「今の所は無いし、都合のいい話しが急に降って来る訳ないじゃないか。」

長井を除く部員達が抱いた、膨らんだばかりの大きな期待感が、大穴が開いた様にしぼんで行ったが、これで話しは終わらなかった。今の時点では、何も行動を起こしていないだけで、すぐにでも試合をしたいと言うのなら、どこかの学校と交渉してみる事はできる。日程を組んでくれる学校が、必ず一校は見つかる筈だからと言うと、部員達の顔には、これ以上はない程の爽やかな笑顔が舞い降りた。

「先生、俺は先生を見直した!」

食べるのに夢中でいた長井には、今頃になって感動が伝わり、スクッと立ち上がった。

「いや、見直したって言われても…。」

確かに頼りない顧問なのかも知れないが、では今迄は、どう見ていたと言うのか?

「ねぇ、試合をしたい気持ちは分かるけれど、まともな練習って、そんなにはしていないわ。もし本当に、すぐ試合ってなったら大丈夫なの?人数が足りないんじゃない?」

心地良い雰囲気の中、佳織の意見が一瞬、余計なお世話にも思えたが、反論できない事実だった。中学時代から培って来た、基本が常に身に付いている自分達なら、例え十五人揃っていなくとも、明日にでも試合は可能だった。その為には必然的に、経験の浅い河野を外さないといけなくなるが、そんな薄情な行動に走って迄、急いで試合をする理由など自分達にはなかった。

色々な思惑が交差する中、河野は『やはり自分は場違いなのでは?』と考える様になり、それを真っ先に察した箕田は…。

「何も悩む必要なんかないんだ!この連中は結局、自分達の翼を広げる事しか考えていないんだから。全員『お荷物』が辞めてさえくれれば、気兼ね無く試合に出れるって顔をしている、全く薄情な集まりだよ。」

彼が場の雰囲気をブチ壊す目的で言っているのが、よく分かっていた部員達は、込み上げる怒りを必死で抑えた。

「約束通りご馳走して貰ったから、これ以上、文句は言わない。河野が、この部に入った事にも一切、口出しはしないって約束も守らないといけないし。ただ辞めるなら早い内がいい、いつでも待っているからな。」

『文句は言わない約束』をしている割には、よくも散々、言いたい放題の言葉を並べて彼は出て行った。部員達は出すに出せない怒りを再び抑え、勝浦は、まだ試合の話しは出すべきではなかったと、みんなに詫びを入れた。長井だけ、一人でズレた考えを持ち合わせ…。

「一人分ぐらいの穴埋めは心配するなって、十四人いるんだから何とかすればいい。」

それは明らかに、河野を始めから、頭数に入れて発言しているものだった。今、意見し合っていたのは、試合に出るには『一人分足りない守備の枠をどう補うか』ではなかった。河野が形式に馴染んでから出るべきか、それとも今件は、しばらくは見送るかなのである。まるで話しを聞いていない安易な考えに、部員達は先程の箕田の件、以上に大激怒した。

「冗談だろう!まだタックルの練習だってしていないのに、試合なんか出させたら、ケガするのが目に見えているじゃないか。」

「そうだ!こっちが大事な話しをしている時に、いつ迄も食っているから脳ミソが鈍って、そんな事を言う様になるんだ!」

星と早坂が、そう言って反論した。

「そうかぁ、やっぱり箕田も入れないとダメみたいだな。おい箕田!」

「さっき一人で怒って勝手に帰って行ったじゃない!気付かなかったぐらい夢中になって食べていた訳!?」

「じゃあ、誰か呼び戻しに…。」

藍子の促しも効力が無く、あくまでも人数を揃えて試合を実現させたい考えに、もはや誰も、怒り口調を浴びせる気がしなくなった。

「いや、だからッ!人数を増やせば、いいってもんじゃないんだよ!」

林が言ったが、どうやら試合をやりたい一心から、正常な判断ができなくなっているらしかった。そこへ勝浦は再提案を出し、仮に今から対戦校を模索した所で、どうせすぐには見つからない。日程の調整もしなければならず、話しが出てから試合を決行する迄、余裕を見ても一ヶ月は要するのを、想定しなければならなかった。そこで期間を有効に使って、きっちりと河野に練習させればいい。

それだけの猶予があれば、かなりコンディションも変わっているに違いない、という考えに辿り着いた。とっさに先を見越した、中々いい案だと、長井を除く部員全員が思った。勝浦という顧問は、自分本位で行動を起こすキャプテンとは違って、別な意味で、頼りになる一面を持っていると感じられた。

その案には実は、ある問題が生じる事となり『きっちり』の練習が一体、どこ迄できるのかという指摘だった。根本の取り計らいで使える様になった、グランドのスペースは極限られている上、ただでさえ、ゴールポストが無い場所での練習だった。

使用できる時間にも制限があり、あまり長くは独占できない状況を強いられていた。しかも普段から『グランド』と呼んではいるが、実質は、そう言うには程遠い、ただの校庭なのである。ラグビースパイクを履いてしまえば、たちまち、立ち入り禁止の領域と化してしまうのだった。

一番の問題は、もし話しが上手くまとまり、試合日程が想定より早く決まってしまった時の事だった。本当に、一ヶ月も猶予期間があればいいが『即来週』とかいう事態になると、対処のしようがなかった。こちらから申し込む限りは、ある程度、相手の都合に合わせる必要があった。

『チーム力を付ける為に後、数週間待って下さい…。』

そんな理由は当然、通用しないので逆に何も行動を起こさなければ、試合の話しさえ降っては来ない。部を立ち上げて間もない、何の実績も無い自分達に、わざわざ申し込んで来てくれる物好きな学校など、中々いるものではなかった。やはり試合を申し込むのは、一つのチームとして、まとまってからにした方が良さそうだった。

全ては河野の早期の上達次第と言い切るのは、試合をしたいが為に焦っている、自分達の勝手な自己都合だった。練習体制が整わないまま、強引に日程を組んだりしたら、本人も快くは思わないだけであり、下手すると辞められかねなかった。勝浦は更に考えを練り、当たり前だが学校や地域によって『実力差』というものが存在している点に、目を付けた。

言い方を悪くすると、決して強くはないチームは必ずいるので、そういった学校を調べてあたってみる、というものだった。但し十五人揃っていない事情でも、構わないと言ってくれる相手を、探さなければならない。

そういう条件を呑んでくれる対戦校は、かなり限られて来る為、そう迄して、今すぐ試合をする意味は無いのかも知れない。それでも実現したい気持ちに押されたのは、普段からボールに接する機会が殆ど無かったからで、日課の様に続くジョギングだけでは、終わりたくなかった。

河野は、この場から発せられるオーラの様なものを、強く受けまくっていた。プレッシャーになりかねなかったが、ここ迄来て足を引っ張る訳には行かず、決意に応えなければいけないとも思った。各自、色々な考えにふけり過ぎ、すっかり場は静まり返っていた。

勝浦は、まず最初に部員達の不安を、解消しなければならないとも考えた。試合が決まっても決まらなくても、近い内に練習できるグランドを確保しておくので、どうか安心して今後に励んでほしい、というものだった。やはり一番、気掛かりなのはグランドの件なので、全員に再び笑顔が舞い降りた。

「でも、どうやって?」

学校以外の場所になるという事かと、橘が聞いたが、ちょっとしたあてが有ると言った。果たして『あて』とは何なのか、本当に期待できるものなのだろうか…。単に場を和ませるだけの、薮から棒な発言ではない事を願いながら、部員達は思いを募らせた。

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