第19話 謎を呼ぶ国語教師
「長井君…。」
昼休みに職員室に来てほしいと、廊下で根本から声を掛けられたので行ってみると、ある名簿を手渡された。
「ハイ、あなたの部の活動名簿よ。ずっと顧問の先生が休んでいたから、今迄は私が持っていたんだけれど、もう今日からは、自分で付けてね。」
部の活動には顧問の存在が必須なので、自分の部にも今迄いたんだと『えぇっ…!?』と今日になって初めて気が付かされた。
「あなたの部は、顧問の先生の顔も知らずに活動していたの?そうかぁ、ハハッ…。」
笑い事では済まされず顧問とは一体、誰なのか、そして何故こうなったのかというと…。
「今年から教員になった先生で、ちょっとした事故でケガをしてね、入学式の次の日から入院していたの。近い内に復帰する予定だっては聞いているんだけれど、その時は、部室の方にでも挨拶に行くと思うわ。」
そんな理由から、今迄は根本が臨時顧問として、陸上部と掛け持ちという形を取っていた。さすがに両立は難しいと思い始めた頃、その顧問の復帰が、近くなったと聞いた。そこで一日でも早く、今の状態を打ち切りたかったので、後は本来の部員である長井達に、任せてしまっても構わないだろうと思った。それで今日、キャプテン自らが記入する様にと、名簿を渡したのである。
「長い期間じゃないと思うから、それ迄なら、あなた達だけでもできるでしょう?」
陸上部と両立していたとは言っても、ただ名簿に部員の出席を付けていただけで、この程度の作業の、どこが大変だと言いたかった。事情を全く知らされていなかったのは不可抗力であり、臨時顧問と言いながら自分達の練習に、顔を出してくれた事は一度も無かった。
「あら、そんな事はないわよ。いつだって、あなた達が何かの事故にでも遭わないかって、見守っていたわ。」
「見守るも何も、こっちは、いつもジョギングぐらいしかやる事が…。えっ!?」
校外では、よく陸上部と鉢合わせる機会が多かった為、走る事ぐらいしかできない自分達に、心無い視線を浴びせる何かの嫌がらせかと思っていた。実際は根本は今迄、陸上部員全員の練習を、ジョギングに統一していた。
理由は言う迄も無く、長井達の監視とを一石二鳥にする為で、短距離専門の部員も否応無く付き合わされていたので、不満は募っていた。活動も限界に近付いた頃『本来の顧問が近日復帰』となった為、今回の話しを切り出す事にした。長井は顧問の存在も、根本が臨時で顧問をしてくれていた事実や配慮も、本当に知らないで過ごしていた。
「どう?練習の方は、うまく行ってる?」
『先生、自分の部の心配をしないと…。』
所詮は『かけっこ』であり、順調とか表現のしようは無いが、口には出さなかった。根本がグランドに不在の中、例外として槍投げや砲丸投げの練習は、バンバン行われていた。さすがにフィールド競技の部員迄、監視に付き合わせられなかったからなのだが、これで何かの事故が起きていたら…。
「別に何も起きなかったんだし、心配し出したらキリが無いのよ。」
平然と答えたものの、自分の担当の部を放り出して迄、無関係の部を気遣っていたのだった。根本にとって長井との関わりとは、常にリスクを背負わされる連続で、男子陸上部設立にと長井を起用したものの、ふとした手違いから水の泡となってしまった。
白紙になった最大の原因は、その構想を快く思わない上級生達の反発で、自ら手塩に掛けた教え子達に妨害されてしまった。それに、仮に長井を男子部に起用できていたとしても、翌年には去って行かれる運命にあった。かすかな望みは『男子陸上部』という、あらかじめ設定されている受け皿さえあれば、長井が去った後、後継部員が入る事が期待できた。
しかし男子部の人員を確保できなかった為、やはり今年も、新入部員を迎える事はできなかった。それに加えて、信頼を寄せていた藍子と千秋も、自分の前から去って行った。それでも、長井の部の臨時顧問を進んで申し出たのは、ずっと見守って行きたいと思ったからだった。
「先生…。今からでも、あの二人を陸上部に戻して上げられないかな?」
いつもジョギング程度しか活動できておらず、ハッキリ言えば別に、マネージャーなんていなくても何ら支障は無い状況だった。不満を出す素振りも無く、いつも楽しそうに彼女達は、自ら部員達と一緒に走っていた。かなりペースは緩い為、陸上部に在籍していた頃の実力は、とっくに失っている筈だった。
「彼女達は、自分の意思で辞めて行ったのよ。あなたが一番、知っている事じゃない?」
陸上部に残留していれば今頃、彼女達自身に、世話係りをしてくれる後輩達が、付いてくれている筈だった。そういった確約を知っていながら、戻りたいと言っているのを聞いた事は、一度も無かった。実力を大会に活かして脚光を浴びるのも、それを投げ出して迄、裏方や雑用係りに回るのも本人達の自由だった。根本は、陸上部に残して実力を向上させる事よりも、個人の自由意思を尊重したので、同情にかられる必要は無いと言った。
「もし彼女達が、退部した事で上級生から反感を買っているとしても、余計な心配はしなくてもいいのよ。おかしな行動に出る部員が出たら今後、私が責任を持つから。」
そう言った根本は、あえて自分が臨時の顧問だとさえ、名乗り出る事はしなかった。それをしたら、長井が不安感を抱くと思ったからこそ、そっと気付かれない様に、活動記録を付ける程度に留めていたのだった。
「あなた達が練習できるグランドのスペース、何とか考えておくわ。」
職員室を出ようとした時、投げ掛けられた言葉が、いつも自分を見えない所で支えてくれていたと思うと、かえって辛く感じた。
数日後、ある一騒動が起こり、いつも通りの外回りのジョギングを終えて、学校に戻って来た時だった。殆どの部の練習は終わっていたので、例の如く『ムッヒャッヒャッ』と空になったグランドに全員で、奇声を発しながら侵入しようとすると…。突然、理科室の方向から爆発音が聞こえたと、佳織が叫んだ。
「確かに聞こえたって!本当よ!あまり大きくはなかったけれど…。」
全員、半信半疑のまま真実を確かめるべく、音がした方へと向かうと、確かに理科室の窓ガラスが外に向って砕け散っていた。紛れも無く、ここで爆発が起きた形跡を物語っていて、佳織は得意がった様に現場を指差した。
「ほーらね、ほーらね!」
「子供みたいな事を言ってないで、誰か先生を呼んで来るのよ!」
慌てて千秋が呼びに行こうとすると、藍子と佳織も、後ろについて行った。
「中に入ってみよう。」
部員の林が言った。散乱した窓ガラスの箇所から入って行こうとすると、実験用の白衣を着た一人の若い教師が、埃まみれで現れた。
「あっ、驚かせちゃったみたいで…。ひょっとして君達はラグビー部?すっかり挨拶が遅れてしまって、ちょうど良かった。」
部員達は唖然として声が出なかったが、長井だけは、異様な迄に焦りを感じていた。まさか、この教員が根本の言っていた、我が部の顧問ではない事を願った。どうも相手の口調が『それ』を匂わせていたので否定はできなかったが、ことごとく期待は裏切られてしまった。全ては、この教員が自ら語り出した、自己紹介で明らかになった。
まず爆発騒動を起こしたのは、三年生の国語を担当している、勝浦博幸と言った。『担当』とはいっても昨日迄、入院していたので実質は今日が、赴任の初日となっていた。しかも、今年から教師になったばかりだとも言っていた為、ますます長井には焦りが募った。ここ迄の話しが、以前に根本から聞いていた内容と、著しく酷似していたからだった。
「なんだか、この部の顧問を今回、担当する事になっていたみたいで…。」
勝浦という教師は、遂に決定的な事実を突き付けて来た上、退院直後の昨日になって初めて、長井達の顧問になっていた事を知らされたと言った。本来なら入学式、当日にでも告知される事なのだが、長期に渡り入院してしまった為、機会を逃していたという非常に呆れたものだった。
見た目は、かなりスマートで額縁に近いメガネを掛けていて、いかにも『私は理系文系の専門です』と出張しているかの様な容姿だった。どう見てもラグビーの様なスポーツとは、縁の無さそうな教師だった。
「国語を教えている先生が、どうして実験なんかやっていたんだ?それに、ラグビーの経験って…。」
部員の橘が聞いたが、返って来た答えは、あまりにも長井達を落胆させるものだった。
「無い。スポーツは、どっちかって言うと苦手なんだ。」
「へぇー、そうなんだ…。って、いやこっちは、そんな事を聞きたいんじゃなくて!」
『ひょっとして説明は終わったのか?』と、疑うしかない橘は再び言った。
「答えになってない?しょうがないなぁ。」
勝浦は渋々と語り出した。元々、自分は理化学系専攻ながら、最終的には国語の免許しか取れなかった。未練があって理事に掛け合い、放課後なら理科室を自由に使用してもいいと許可が得られた。
「そう言えば君達は普段、練習するスペースが中々取れなくて、クラブ活動が終わった時間に、グランドを使っているとか聞いた。境遇が、なんだか似ているよなぁ。」
『一緒にするな!』
長井は内心、そう叫んでやりたかったが口には出さなかった。誰も居なくなる頃を見計らおうとする行為を、同類に受け取られた事が、口惜しくてならなかった。
そこへ、藍子達に呼び出される様に連れて来られた、根本が到着した。クラブ活動の時間は終わっており、職員室には他に教員がいなかったが、勝浦の爆発姿を見るなり…。
「また先生、おかしな実験をやっていたの!?今度、事故を起こして入院したら保険は利かないって、散々言われていたじゃないッ!ホント、懲りない人ね!」
この騒動は、今回が初めてではなかった。入院する事になった原因というのも、新学期の開始である入学式が終わった後に、自らが引き起こした、化学実験の失敗だった。
『貴殿を、ラグビー部の顧問に任命…。』
そういう辞令を受け取る前に、病院送りになったのである。その分野では無免許にも関わらず、普段から趣味で度々、校内を脅威に晒すといった危険、極まりない存在だった。
試行錯誤で、様々な薬品を混ぜ合わせる事によって起きる、化学反応を試すのが、どうしても辞められない性分にあった。最終的に、正しい方程式も解けないまま無謀な実験に挑めば『まともに入学式さえ終われない』という、悲しい末路が待ち構えているだけだった。
「根本先生!こういう先生が俺達の顧問って、どういう事なんだよ!」
長井は責め立てる様に聞いたが、落ち着きを取り戻して、こう答えた。
「ラグビー部は、本当に急な話しだったから、空いている先生がいなかったのよ。」
「冗談じゃない!顧問なんていうのは大概、経験者が担当になるものじゃないか。第一、免許も無いのに訳の分からない実験をして、こんな大事故を起こしている。それで入院して、学校を休む先生なんかに、危なっかしくて任せられるかよ!」
「幾等何でも、せっかく顧問を引き受けてくれた、この先生に失礼なんじゃないの?」
根本は促してはみたが、今の長井には何の効力も無かった。今日迄、必死で築き上げて来たものを、こんな新米教師に、仕切られる訳には行かないという思いが駆け巡っていた。
「失礼なのはどっちだ!趣味にかこつけて、あちこちで爆発を起こす、ただの常習者じゃないか。まともな方程式が解けない教師が、まともに入学式を終えられないのは当然だろう!なぁみんな!?」
部員達は返答に困ったが今日迄、脅威の校内を、何も知らずに過ごしていたのかと思うと、身震いがして来てならなかった。
「でもね、こればっかりは、どうにもならないのよ。あなた達の顧問は勝浦先生に決まっていたし、気に入らないって言うのなら、これ以上の活動は認められなくなるわ。」
活動できなくなる事態を回避できるのなら、別に担当の顧問は誰であろうと、抵抗は無かった。他の部員達には今の現実が十分、呑み込めていたが長井だけは違った。
ある程度なら部を立ち上げた時に、こらえなければならない事が、幾つかは出て来ると覚悟はしていた。だから元来は女子高であった学校の、即興で出来上がった部に、その道の経験がある教師が急に赴任して来るとは、確かに思えなかった。しかも、ただでさえ自分の部は、校内では風当たりが冷たかった。
常に付いて回る妥協心にも限界があり、面白半分に実験をして、平気で爆発事件を起こす様な教師を、どうしても顧問として迎え入れる事ができなかった。
「とにかく、決まった事なのよ。キャプテンが、いつ迄も駄々をこねている様では、後輩達に示しが付かないんじゃないの?」
「先生が言った通り、これは決まった事だから、もう終わりにしよう。下手に抵抗して、部が活動できなくなったら、それこそ取り返しが付かなくなるじゃないか?」
部員の、星が言った。他の後輩達からも必死で説得されたが、それでも、どうにも収まりが付かなかった。
「絶対に認めないからな!担当の顧問は昨日迄、入院していたって今日、聞かされたんだ。しかも原因が、ふざけた実験の失敗だなんて。これは一回二回の話しではないって言うじゃないか!」
顧問が宛がわれていた事自体、知らされてはいなかったし、やっと目の前に現れたのは、あまりにも期待を裏切る姿だった。
もし始めから担当の顧問が居てくれたなら、グランドが少しは使える様に、交渉できたに違いなかった。ジョギングしか術が無い練習も、早期に改善できたかも知れない。
例え新人教師であっても、そのぐらいの権限は持ち合わせている筈だが、比べて自分の立場とは、一人の生徒でしかなかった。周りの部の反感を買っていた事もあって、何も言い返せずに、ひっそりと活動する他無かった。
現実は、とても『練習』とは表現できない活動で精一杯という毎日だった。自分を信じて追随してくれた後輩達、そして藍子達には、いつも後ろめたさを感じていた。
「いい加減にしてくれよ!もう、そんな話しは聞きたくないんだ。」
木下は言った。この学校を選んだのは各個人の意思なので、キャプテンには、一人で責任を買い被られたくはないと思っていた。もし彼等が予定通り、あの中崎と同じ高校に入っていたら、こんな事態には巻き込まれていなかった。今頃、いい先輩達に鍛え上げられて、整った環境で練習していたに違いない。
藍子と千秋にしても、陸上部を続けてさえいれば、難無く大会へ出場して、好記録でも残していた筈だった。これからという時に全員、進む道を自分の歩幅に合わせてしまった。
先が見えない道に入り込んだ為に、本来なら背負わなくてもよかったリスクを、自ら背負う羽目になっていた。佳織は…。元々帰宅部であり気が付いたら、知らない内に勝手に棲み付いていただけなので、彼女には唯一、後ろめたさは感じていなかった。
「もし、この先生が顧問を降りるって言ったら、あなたの部は活動できなくなるのよ。それでもいいの?」
脅し文句と言われ様とも、とにかく根本にとっては、この場は納得して貰うしかないと思った。せめて、練習するグランドの確保だけでも、何とか早い内から手を打っておけばよかったのだが、中々手が回らないでいた。結局、二つの部の顧問を掛け持つだけで、手いっぱいのまま今日を迎えてしまった。
勝浦を顧問とは認めたくない気持ちは分かるが、自分がしてやれるのは、ここ迄だった。後は本人が今、突き付けられた現状を素直に理解してくれる他、解決策はなかった。
「それなら解散だ!決まった事だか何だか知らないけれど、誰が従うかって言うんだ!辞めてやるよ!」
決断を迫られた長井は、こういった意外な行動に出ると、怒鳴り散らして何処かへと走り去って行ってしまった。
「えっ、解散って…。終わり?」
「部を始めたばっかりなのに…。」
村田と前田が言うと、事態は予想しなかった展開を迎えつつあり、山元が全員に訴えた。
「のん気に言っている場合じゃない。キャプテンを追い駆けるんだ!」
『まさか、そっちの道に走るなんて…。』
特に根本は、まず間違い無く部の存続を選ぶと読んでいたので、そう思わずにはいられなかった。多分、部室の方に向かったに違いないと予測した部員達は、総出でドアを全開した。『キャプテン!』と一斉に声を揃えると、やはり部室内には、さっさと帰ろうとしていた長井が、ちょうどジャージを脱ぎ捨てている真っ最中だった。
「ギャーッ!まだ開けないでーッ!」
既に、パンツ一丁に迄なっていた所を、根本や藍子達にも見られてしまった為、断末魔の様に叫ぶのだっだ。必死の部員達にとっては、素っ裸姿など大した問題にはならず…。
「待ってくれよ!辞めてどうするんだ!」
「待ってくれって、こっちが言いたいんだよ。せめて着替えぐらいはさせてくれ!」
「嫌だ!着替え終わったら、さっさと帰っちゃうんだろう?!絶対に帰さないからな!みんなも手伝うんだ!」
村田と山元が、それぞれ言いながら抱き付いて来ると、他の部員達は一斉に身包みを奪いに掛かった。
「離せーッ!キモチが悪いんだよーッ!」
ただでさえ真っ裸状態の長井にとって、手にしていた服を奪われるのは、たまったものではない。それでも押し寄せる部員達の数に、抵抗のしようが無く、その場には異様な光景が広がっていた。汗だくの男達が揉みくちゃになりながら、抱擁と着衣の奪い合いをしているのである。とても加担できない根本達は、ただ唖然として見ているだけだった。
「取り合えず一番、接近している、山元とキャプテンを引き離させた方がいい。」
冷静でいた仲里が、みんなに呼び掛けた。素直に着替え終わるのを待った方が、無難なのは言う迄もない事で渋々と全員、部室から出て行った。着替え終わった長井は声を掛けて、みんなを中に入れた。早速、これからどうするのかを問いただされたが、出した結論は、あまりにも単刀直入なものだった。
「後の事は知らない。みんなで考えろ!」
「答えになっていないよ。みんな、ついて行きたいと思ったから、この学校に入ったんだ。キャプテンが降りるって言うのなら、俺達は、どうすればいいんだ?!」
木下の訴えは、ほんの一瞬だけ自分を立ち止まらせた。これから、どう出るかで部員達が行き場を失ってしまうのか否かが、決まってしまう。今更、発言を撤回したからといって状況が変わる訳でもなく、部を存続させる為には『三度のメシより実験好き』の先生を、顧問として迎え入れなければならない。
進路を変えて迄、後を追って来てくれた後輩達には悪いが、既に自分には、やる気が失せていた。どんなに説得されても気持ちは変わらないので、決意を固めて部室を出て行こうとしたが、やはり部員達に止められた。
「離してくれ!もう俺は帰るんだ!」
そうは言っても、十人以上に引き止められては、出て行こうにも中々、出られなかった。そこへ根本が中に割って入り、目を合わせて来ると、何かを言いたげな素振りを見せたが、ためらっている様にも取れた。
「俺達に、こんな顧問を宛がったのは先生だろう!やっぱり藍子と千秋を手放した事を、恨んでいるんだ!」
痺れを切らした長井が、先に口を開いた。根本は気持ちを抑えるかの様に、体を震わせていたが、よく見ると目には涙を浮べていた。
「いつ迄も、自分のわがままが通るとは思わないでね…。」
現場は静まり返り、部員達は一斉に長井から手を振り解いた。
「私は別に、どう思われたって構わないわ。あなたの一存で解散させるのも、この部を辞めるって言うのも、自由なのよ。どうせ、あなたがいなかったら存在しなかったんだから。この一年生達が、あなたを追い駆けて来たっては言っても、結局は道を選んだ本人達の責任よ。藍子と千秋にしたって自分の意思で、ここに入ったんだから、あなたの為に陸上部を辞めただなんて更々、思っていないでしょうね。だったらいいんじゃない?無理なルールに従わなくても。」
「あの、アタシもいるんだけど…。」
佳織は、マネージャー第一号で入ったというのに、何故か数には入れられていなかった。
「でもね、本当にいいの?せっかく作り上げたものを全部、捨ててしまうのよ?試合をしたいんでしょ?大会にも出たいんじゃなかったの?」
このまま投げ出してしまうと、自分が掲げた構想に賛同してくれた仲間達を、見捨てる事になる。今迄、寄せられていた信頼は当然、崩れてしまうのだった。河野を、また野球ができる状態にするという約束さえ、自らが果たさないまま、終わらせてしまう事になる…。
現実を受け入れて妥協するか、それとも、あくまで主張を通して部を解散させてしまうのか、部員達と藍子達にも詰め寄られた。
「今日迄の、あなたの実績は認めるわ。たった一人で、こんなに部員をかき集めて、よっぽど信頼されていないと、できない事ね。ただ練習する場所が取れなくて、辛かったでしょうけれど…。」
勝浦が復帰する迄の間、顧問を掛け持ちしていたとは言え、やはり心のどこかでは自分の部を優先していた。何の慰みにもならないのは分かっていたが、それだけは申し訳なく思い、今の自分が長井を責める事など、できる立場ではないと感じ始めていた。さっきは言い過ぎたので、何とか考えを入れ替えてはくれないかと、今度は切実に願うのだった。
ラグビー部は、いわば長井自身が、この学校に刻んだ歴史も同然だった。たかだか二年生になったばかりではあるが、どれだけの学校生活を送って来たかを示す、バロメーターだと言ってもいい。それだけ思い入れがあればこそ、どこの馬の骨とも知れない新米教師に、現場を仕切られたくはないという気持ちも、分からなくはなかった。
結論は、部を作ったのが長井なら崩壊させる力を持っているのも、本人という答えに辿り着く事になる。長井の離脱後、残った一年生部員で部が維持できるとは到底、思えなかった。これからも陰で長井を支えて行きたいが、このまま本人が部を去るならば、できなくなる根本は、最悪の事態を覚悟していた。
そうなったとしても、本人の決断なので善悪を付ける事はできないが、長井の出した決断は…。突然、無言のまま再びジャージに着替え出した後、訴える様に叫ぶのだった。
「みんな聞いてほしい…、これからも黙って俺を信じて、ついて来ればいいんだ。行くぞーっ!」
ちょうど部室の入り口に差し掛かる、真っ赤な夕日に向って、一人で飛び出して行った。全員、姿を唖然として眺めていただけで、誰も本当については行かなかった。爆発騒ぎが起こった時点で既に、クラブ活動の時間は終わっていたからで、今時間になって、沈む夕日を目指して走る気など更々無かった。ただ、この行動は、これからも部を存続させて行きたいと示す、姿勢である事に間違いなかった。
事態が収まった所で、やっと勝浦は口を開いた。これでも入院中は、ルールブックとかを読みあさっていたと言い、勿論これからも、もっと勉強するとの事だった。
「それじゃ困る、みんなを指導して貰うぐらいじゃないと…。」
佐野が言うと勝浦は、迷惑を掛けていた今迄のお詫びにと、今から全員にラーメンをおごると言い出した。ただでさえ安月給の上、爆発事件を起こした際の始末書と入院が響いて、懐は厳しいのだが…。
部員達は、まだ夕日に向かって青春気分、真っ只中の長井を差し置いて、浮かれ気分で部室を後にした。とんだ茶番劇に見えなくもなく、こんな怪しい事態の解決に呆れた根本は、さっさと背中を向けて去って行った。果たして、これで本当に解決したと言えるのかどうか、とても不安でならなかった。
結局、長井は完全に忘れられた存在となり、誰からも呼び戻される事なく、延々と夕日を追い駆け続けていた。すぐ自分の後ろを、後輩達や藍子達が走って来てくれていると、すっかり信じ込んだまま…。
そんな一部始終を陰から、ずっと箕田が眺めていた。河野を、また野球ができる様にするという約束を、あのキャプテンなら、きっと果たしてくれるに違いないと思った。随分と泣かす事をやってくれてはいたが、彼は心から感謝などしていないのが現状で、長井は未だ、信頼感を得られてはいなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます