第16話 招かれざる新入部員
一つの運動部としての形は出来上がったものの、肝心の練習スペースは、全く確保できていなかった。他の部のテリトリーは既に決まっているので、陣地を譲って貰う事が、許されていなかったからだった。全ての運動部からの反感を買っている現状が大きく響き、覚悟はしていたものの、部を立ち上げる為に払った代償は、予想以上に大き過ぎていた。
練習は毎日が外回りのジョギングで、これ以外に、やれるものが思い当たらなかった。その中には何故か別に走らなくてもいい、藍子と千秋も交ざっていた。佳織はというと、一人だけ自転車に乗ってメガホン片手に、みんなの後をついて行っているだけだった。
「ホラ!もっとキビキビ走りなさいよ!」
「マネージャーで入ったんじゃなかったのかよ!コーチやるのも結構だけど、せめて自分の自転車ぐらい持って来いよ。いつも俺の自転車を使いやがって!」
すっかりコーチ気分な態度に、たまらず長井は言った。ただでさえ普段から傷みが激しい上、新聞配達と兼用しているので、余計な事に使われたくはなかった。
「電車通学だから、しょうがないじゃない。自転車、持っていないのよ。」
いつも通りの走っているさ中、部員の山元が、ある愚痴を溢した。
「いつ迄、こんな練習が続くんだ?」
「今に状況が変わるかも知れないから、それ迄は、みんな我慢しよう。しょうがないんだ、ウチは一番最後にできた部なんだから。昔から言うじゃないか?『郷に入っては郷に従え』って。」
「なんか意味が違くないか?」
長井の意味不明な諭しに、木下は言ったが、心の中では『こんな筈じゃなかった』と呟いていた。他の一年生部員全員も、これと同じ考えを抱きつつ、嫌々走らされていた。
後輩達の不満を、長井は一日でも早く、何とか解消してやりたいと考え始めた。その打開策として、部活動が終了する時間を見計い、チャンスタイムだとばかりに、一斉にグランドになだれ込んだ。さすがに、この時間になれば各部の、し烈なグランド陣地争いは存在しなくなる。もはや無人のノーガードとなるので、ほんの数分間ながら、独占使用できた。
『残り物にすがり付いている、まるでハイエナの様な部…。』
こんな行為に迄、クレームを付ける部はいなかったが、そう大半の生徒からは言われて、はやし立てられていた。藍子や千秋も、次第に同じ目線で見られる様になって行き、かつては将来を期待されたスプリンターというのも、もはや過去の肩書きになってしまった。
無理に背伸びをしたばっかりに、ほんの数日前迄と比べると、学校生活は全く変わってしまった。元の鞘に収まってさえいれば間違い無く、エリートコースまっしぐらでいられたのだが、全ては自らが選んだ道だった。
それにしても、校外でジョギングをしていると、よく陸上部と出くわす機会が多かった。向こうも当然、基本練習としてはするだろうが、あえてコースを、いつもこちらに合わせている様に思えてならなかった。勝手に部を離脱した二人に対する宛て付けにも受け取れ、彼女達にとっては出くわす度に、かつての仲間の視線を一斉に浴びせられている気がした。
「向こうは向こう、ウチはウチだから気にするなって。もし言い掛かりとか付けて来たら、その時は、みんなが許さない。」
「ちょっと!私も居るんだけど!」
二人は我が部の自慢のマネージャーだとばかりに、長井は高らかに言い放ったが、佳織は常に軽視された存在だった…。
ある日の練習が終わり部室に向かうと、一人の男子生徒が待ち構えていた。一体、何の用なのかと全員が、不思議そうな顔をしていると、向こうから話し出して来た。
『えっ…!?』
その途端、みんな唖然としてしまい、長井は信じられない言葉を、その生徒から聞いた。
「だから部員の募集って、まだやっているのかなと思って…。」
「あぁっ!入部したいんだ?さぁ入って!」
真っ先に反応した長井が早速、招き入れた。彼は河野俊之と言ったが、緊張しているのか、あまり喋らず、かなり表情は暗かった。
「ラグビーは高校から始めるのが普通だから、経験あるか無いか何て、今は関係ないよ。二組?山元とクラスが一緒じゃないか、色々教えてやれよ。」
いい雰囲気を与える為、優しく語り掛けた。
「みんな、自分達は経験者だからって言って、この河野クンをしごいたりしたら、俺が承知しないからな!」
特別扱い丸出しの、ヤケに新入部員想いな発言に、不満の声が上がった。
「ウチの部は勧誘は一切しないって、上級生達に言ってあるんだよ。そんな事情くらい知っているだろう!それが頼みもしないのに『入れて下さい』って、わざわざ自分の方から言って来ているんだ。今年中に試合をするのが目標じゃなかったのか?叶える為には、どうしても頭数は必要なんだ。」
確かにそうだが、あまりにも強引策だった。
「だったら、これから入って来る新入部員は、言ってみればお客さんだ。お客様は何とかです、って言うじゃないか?」
「それも、ちょっと意味が違うんじゃ…?」
また木下が言った様に、さっきから長井が発する言葉の例えは、全てがズレていた。とにかく自分達はマネージャーを入れても、やっと十五人という状況なので、メンバー確保こそ重要だった。ただでさえ勧誘という方法が取れないのだから、増員させるには、こうやって志願者を確実に捕まえるしかなかった。
もしかしたら、ただ見学に来ただけなのかも知れないので、勝手に入部と決め付けていいのだろうかと、部員達は長井に言い寄った。
「近い内に本当に試合となったとしても、まだ彼が出れるレベルではなかったら、その時は残った十三人で頑張ればいい。だから、つまらない心配はするんじゃない。」
釣った魚は絶対に逃さないと、自分なりに将来に迄、目を向けた奥深い考えのつもりで説得させ様としたのだが、あまりにも的外れな返答だった。
「誰か、入りたいっていう仲間がいたら是非、紹介して欲しい。」
全員に呆れられた事にも気付かずに、更に河野が帰る際『友達紹介キャンペーン』迄、促していた。勧誘ができないという現状が焦りを生んでいるのか、それとも部員を増やそうとするあまり、狂ってしまっているだけなのか。どちらにしても、今日来たばかりの新入部員に言うべきではない事を、ベラベラと喋り続けていた。
「バッカじゃないの?試合の話しなんかしてんじゃないわよ!ヘタにプレッシャー与えて、逃げられたらどうするの?入部するとは、まだ決まっていないのよ!?」
代表して佳織が言った。長井はキャプテンとして、部員達の不信感を買いかねない言動を、取りつつあった。それとは別にクラスが同じというだけで、強制的に世話係りにされてしまった山元は、新入部員の取り逃がし防止策を取らなければならなかった。
どんなにキャプテンに不信感を抱いていたとしても、逆らう事はできないので、これは中学時代から三六五日崩れる事が無かった、暗黙のルールだった。長井は結局、藍子や千秋を理不尽極まる態度で散々束縛した、かつての大原と大して変わらなかった。
上級生であるという絶対的な立場を、彼女と同様『部の運用』と称して悪用していた。仕方なく山元は、同じく部員の江原と及川を誘って、下校した河野に近付く事にした。
「どうして入りたいと思ったかなんて聞かないから、話しだけ付き合って貰いたい。」
彼は黙って、大人しくうなずいてくれた。
「キャプテンは、あんな事を言っていたけど、別に間に受ける必要はないよ。どうせ、すぐに試合なんて話しは有り得ないから。じっくり見学でもして、それから入るかどうかを決めればいいんだ。」
江原が言った。せっかく、同じ道を歩いてくれようとしている仲間がいるので、できる事なら手放したくはない。長井に限らず部員全員が願っていたが、下手な行動に出れば、逃げられるのは目に見えていた。彼等は、新入部員の獲得に欲がくらんだ長井とは違って、慎重に入部を促そうとしていた。
中学の時の話しを聞くと、この学校には一緒に入った男子生徒が、もう一人いると聞かされた。必然的に『その友達も誘ってみればいい』という方向に、話しが進んで行った…。
「駄目なんだ。多分、入らないと思う。」
「何故?」
ふと及川が聞いた時、目の前に同じ学校の男子生徒が一人、こちらに向かって来た。
「明日、駅で待っている。部活が終わってからでいいから絶対に来いよ!」
まるで警戒するかの様に、山元達にチラチラと目線をやりながら、そう河野に念を押すのだった。言うだけ言うと一旦、背中を向けた後、再び振り返った。
「あんまり昔の事はベラベラ喋るなよ!」
そう言い残すと、ようやく去って行った。
「何々だあいつは!感じ悪いな!」
山元は愚痴を溢した後、一瞬ある事実を察したが、江原と及川も同じ予感を抱いていて、それは見事に的中していた。
「分かったとは思うけど、今のが、同じ中学から一緒に入った友達なんだ。」
初めて顔を合わせたに過ぎないにも関わらず、河野と一緒に居合わせていただけの理由で、異様な迄に警戒心を持たれたのが、山元達には不愉快でならなかった。ただ河野と、友達だといった今の男子生徒との間には、込み入った深い事情があるのは間違いなかった。
確かに何かがあるからこそ、不穏な空気が流れたが故、向こうは言い掛けた何かを明日へ回したのだった。自分達が居たのでは話せなかった、その内容こそ、まだ露になっていない彼の過去に違いない。
次の日から河野は練習に出る様になったが、どうせジョギングしかないので、一緒にやる事に対しては、何の支障も無かった。やがて彼が帰ろうと部室を出ようとした所を、昨日のメンバーの山元達が呼び止めたが、一人で帰るからと、呆気無く断られてしまった。
「じゃあ、俺も先に帰らせて貰うから。後は、しっかり頼むからな!」
長井は言うと、肩をポンと叩いた。そんな、すがすがしささえ感じる姿に山元は、とてつもない、恐怖心を感じずにはいられなかった。
「誰か、河野と同じ中学校を出ている男子生徒、知らないか?口数が、あまり多そうには見えない奴なんだけれど…。」
この中に誰か一人ぐらい、クラスが同じだという部員がいても、おかしくはなかった。河野が、昨日の友人との待ち合わせの約束を果たす為に、自分の誘いを断ったのは分かっていたが、その『中学時代からの友人』が誰なのかが未だに謎だった。もし何の情報も得られないまま辞められでもしたら、自分がキャプテンに責められるのは、目に見えていた。
『えっ、辞めちゃったって?河野が?君は一体、何をしていたんだ?』
きっと、そんなすっ呆けた口調で、しまいには怒り狂うに違いない。そうならない為にも、少しでも何らかを情報を、今の内に拾っておかなければならなかった。
「それなら俺、知ってるよ。クラスが一緒だから、箕田智夫って言うんだ。」
そう答えてくれたのは村田で、確かに喋っている姿は、一度も見た事がないらしかった。山元は、河野が今、その箕田に呼び出されている事情を話した。こうしている間にも、もしかしたら何かの勢いで、部を辞め様とする話しが出ているかも知れない。
昨日の口調からして、どう考えてもただ事ではなく、二人の過去や経緯を全く知らないだけに、不安が募った。そこで一秒でも早く、河野を追い駆けて行こうと、村田と共に部室を飛び出して行った。互いに河野と箕田の、それぞれのクラスメートだけに、早く解決策が見つかるかも知れないと思ったからだった。
その後を、江原と及川が追った。やがて、待ち合わせの場所と思われる駅の途中で、河野を発見したが、既に箕田も一緒だった。遠くからなので、よく分からないが何だか、河野が責められている様子だった。一体、何を揉めているのかと迷わず山元は、仲裁に入るべく二人に歩み寄ろうとしたが、それを後ろから江原と及川が引き止めた。
「どうしてここに!?」
「どうしてじゃないよ。ひょっとして今、仲裁にでも入ろうとしたんじゃないのか?」
江原が言ったが、そうしている間にも河野達は、どこかへ移動し始めた。次第に、彼のそばに立つ、自分達と同じ学校の制服を着た、女子生徒の存在に気付いた。
「なんだ、二人だけじゃなかったのか。」
そう山元が言いながら、こっそりと後をつけ始めると他の三人も、その後を追った。すると藍子達を始めとする、部員全員と鉢合わせになってしまった。
「どうしたっていうんだ、みんな揃って。帰りの方向、違うんじゃないのか?」
村田が言ったが実は、江原と及川が飛び出して行った後を、佳織が追い駆けていた。更に『何かあったのか?』と怪しく思った全員が、その後をついて行ってしまったのだった。
こんな大人数でバレやしないかと呟きつつ、尾行している内に、着いた先は人気のない駅裏だった。タイミング悪く、そこには鋭い目を光らせている、高校生達と思われる集団が、こぞってたむろしていた。やがて河野と目が合った途端、一斉に彼一人を取り囲んで、寄ってたかって何かを言い始めていた。
金をせびられているのではないにしても、とにかく一方的に責め立てられている様子で、タチの悪い連中ではなさそうだったが、決して友好的にも見えない光景だった。
「止めに入った方が、いいんじゃないか?」
山元は言ったが、江原が頑なに、このままの姿勢を取り続け様と言った。
「もうちょっと、様子を見るんだ。下手に飛び出して問題でも起こしたら、部の活動に影響する…。」
状況から言って河野達は、この決して友好的には見えない連中と始めから、ここで待ち合わせをしていたに違いない。一見、手荒な扱いを受けている様には見えるが、面識が無ければ有り得ない接し方だった。別に殴り合いに発展する訳でもない様なので、慌てて飛び出す必要はないと、江原は判断したのだが、その読みは徐々に外れつつあった。
「ちょっとぉ!もう、いい加減にしてよ。そのぐらい言えば気が済んだでしょう?これ以上、付きまとわれると、ただの目障りなのよっ!あっ、何するの!」
一緒にいた女子生徒が色々言い返した為か、それが事態に火を付けた様だった。彼女は肩を掴まれ、河野は襟首を掴まれるという、まさに乱闘直前になっていた。
「誰だ?絶対に殴り合いにはならない何て言ったのは?」
「いや、だからぁ。まだ何も起こってないって…。殴り合いにでもなったら、その時は考えるさ。」
「もう、十分なっているって…。」
頼り無い江原に、木下が再三、言い返した所で事態は思いがけない展開を見せた。千秋が、河野の立つ方向を指して叫ぶと全員『!?』という表情で、一斉に視線を向けた。
「あっ!あれあれ!」
「離してやれって言っているんだよっ!」
そう言いながら河野は、自分の首に掛けられていた手を振り解くと、女子生徒に絡んでいた一人を、ブッ飛ばしてしまった。だが向こうは十人近くいるので、一人を殴ったぐらいでは、どうにもならなかった。彼の行為は、かえって立場を危うくしただけになっていて、多勢に無勢で返り討ちに遭う羽目になった。
「いい加減、マズイんじゃないか?」
本当に殴り合いに発展してしまった事で、山元は江原に促す様に言った。どうするべきか、みんな迷っている内に、遂に箕田が応戦を始めた。一人で何人も相手にする、その勢いといったら、目にも止まらない程に凄まじかった。
「あいつ結構、強いじゃないか。」
早坂が感心した様に、のん気に言っていると、みんなに向って佳織は訴えた。
「何ボーッと見ているのよ!助けて上げて!みんなで戦うのよ!」
傍観するのは罪悪感があるが、割って入って問題を起こす事の方が、もっと問題であり、安易な行動は取れなかった。飛び出して行くのは簡単でも全員に、この後に自分達に降り掛かる、最悪の事態が怖かったのだった。
『もう、黙って見てはいられない…。』
だが江原だけは、一番の責任を感じたのか、飛び出して行った。それを合図にするかの様に、山元と村田も加勢しに向かった。残った部員達は一瞬、戸惑ったもののヤケになって、先の三人に続いて一気になだれ込んだ。現場は大乱闘寸前になり、突然の乱入者に河野に箕田、そして相手の集団は思わず手を休めてしまった。その隙に江原は、敵を少しでも怯ませ様と、こんな事を大声で張り上げた。
「いいか、よーっく聞けよ!そっちはかなりの大人数で、いい気になっているのかも知れないけれど、こっちの人数が上なんだからな!それでもやるのか?いざとなったら、こっそり抜け出してチクリに行ける、女子生徒もオマケで付いているんだぞ!」
できれば何の揉め事も無いまま、この連中が大人しく去ってくれる事を願ったが、その様子は微塵も感じられず、今にも火花が飛び散りそうな一触即発の雰囲気だった。やはり、最悪の手段を取るしかないという状況下からは、抜け出せそうにはなかった。更に、そこへ追い討ちを掛けるかの様に、段々と近付くサイレンの音が聞こえて来た。
「マズイ、逃げろ!」
そう相手の連中の誰かが言うなり、とてつもない速さの逃げ足で、綺麗さっぱりと去って行ってしまった。
「ありがとう、みんな。」
「礼なんて言っている場合じゃない、もう終わりだ…。」
河野の気遣いに、江原は気まずい顔を隠せなかった。サイレンの音は、すぐ後ろに迄、近付いていた。どうしても避けたかった最悪の事態が迫るのは、もはや時間の問題だった。
しかし音は急に『チャリンチャリン』という、自転車のベルの様な音に変わってしまい、一体どうなっているんだと、全員が辺りをキョロキョロし始めると…。
「君達、ケンカでもしていたのか?道草なんて食ってないで、さっさと帰らなきゃダメじゃないか。」
そう言いながらやって来たのは、長井だった。自転車に、おもちゃのパトランプを点灯させて、サイレンの音を鳴らしていただけだった。悪ふざけにしては度が過ぎる登場の仕方に、さっき迄の緊張感が解けてしまったからか、全員フラフラと地べたに倒れ込んだ。
「あいつら、バッカだよなぁ。これ救急車用のサイレンなのに、パトカーと間違えて、逃げて行っちまいやがって。」
「そう言うキャプテンは一体、何をやってたんだ!?」
「見て分からないか?こんなに新聞を詰め込んでいるんだから、新聞配達に決まっているじゃないか。冗談キツイよ。」
佐野が聞いたが、実に笑えないキツイ冗談を演じて見せたのは、この長井本人だった。
「とにかく、ありがとう。助かったわ。」
「いや、別に何もやってないって。でも、この辺りは物騒だから配達中は、よくいたずらされたりするんだ。百円ショップでサイレン買って、狙われない様に防止策を取ったんだけれど、間違えて救急車用のを買っちゃった。でも逃げて行った連中の反応からすると、買い直す必要はないみたいだ。みんなはどう思う?」
千秋が礼を言ったが、こういった間の抜けている所が、いかにも本人らしいと思った。自転車にまたがると、更に去り際に言った。
「明日からの練習に差し支えるから、河野には、あんまり無茶はさせるなよ。」
それは中学時代から付き合いのある後輩達にさえ、発した事がなく、よほど河野に期待感を抱かない限りは、決して出なかったセリフだった。その場の落ち着きは取り戻したものの、まだ問題は解決していなかった。
箕田は河野に一体、何の話しがあったのかという、その内容こそが河野自身の過去に関わる答えだった。河野との関係をも示すものに違いなく、それが知りたかったが為に部員達は、ここ迄、追い駆けて来たのだった。
「他人が口を出すのは、悪いとは思うんだけれど…。」
江原が、長井が完全に去ったのを確認した上で、箕田に問い掛けた。さっきの様な予想ができない悪ふざけで、この場を台無しにされては、せっかく慎重に進めて来た段取りが、全て崩れてしまうからだった。
「本当に悪い、触れられたくは無いから。」
返答は、これ迄の苦労を見事に水に流す、あまりにも素っ気無いものだった。元々、彼が河野に対して何かを責めていた事から、今回の騒動は始まっていた。さっきの連中とは、どういう関係があるのかも聞きたかった。
「助けて貰って礼の一つも言わずに、それはないんじゃないか?確かに、頼んだ覚えは無いって言いたい気持ちは分かる…。」
木下が強気に出ると、今度は、少しだけ心を開いた様な一面を見せて来た。
「みんなが河野を心配してくれているっていうのは、よく分かったし、友達を助けてくれた事には感謝している。でも俺は、だからって身の上話しをベラベラと喋ったりはしない。何でも話してくれるから聞きたい事は全部、河野に聞いてくれよ。」
口調こそ冷たいが、それは彼なりの素直な返答だった。その時、河野自身は口を開こうとはしなかったので、更に話しを続けた。
「昔の事をベラベラ喋るなって前に言ったのは、あれはもうナシだ。聞かれた事は、何でも答えてやってほしい…。」
それが、今日の件の礼の代わりとでも言いたげだった。河野は、どこ迄が話して構わない許容範囲なのかに、不安を感じていた為、中々口を開けないでいた。もう自分の表情は伺わなくてもいいという、箕田の意思がハッキリ伝わった事で、その不安は無くなった。これで全てが丸く収まるかと全員がホッした、その時だった。
「元を辿れば、全部アンタのせいなのよ!お陰で、こんな上手く話しがまとまらずに終わって…。第一、ケンカができないなら、先に手を出すもんじゃないわ!」
さっきから一言も発する事の無かった、同行していた女子生徒が、急に河野を責め立て始めると、箕田が言い返した。
「いい加減にしろよ!自信のある奴がケンカをするのは簡単でも、勝てないって分かっていたのに、河野は向かって行ったんだ。お前を助ける為だろう!精一杯やった立場を、どうして分かってやれないんだ?」
「別に、ケンカが強い男がカッコいいだなんて、そんな事を言っているんじゃないのよ。できもしないのに突っ込んで行くのは、無謀だって言っているの!いつも、こっちは迷惑ばかり掛けられていたわ。野球部の件がいい例よ!アンタだって、それで悩まされ続けた張本人じゃない!どうして今頃になって謙虚な態度が取れるのよ!」
「野球っ!?」
会話の内容から察するに、この女子生徒は、河野と同じ中学を卒業している様だった。当時、何かがあって、その事で今になって揉めているに違いないと、江原は思った。
「中学の時…、野球やってたんだ?」
何気なく箕田に問い掛けてはみたが、鋭い視線を返されて、無視されただけだった。少しだけ心を開いてくれたとはいっても、こればかりは本当に、触れられたくはないラインらしかった。
「今日は色々と邪魔が入ったけれど近い内に、また話し合う時間は取るから。それ迄は何していようと、どうこう言わないから。」
それだけ言い残すと、駅の階段口へと去って行き、女子生徒も慌てて後について行った。
「邪魔とは何だ邪魔とは!せっかく助けてやったっていうのに!」
実に愛想の無い箕田の態度に、及川を始め、みんなは不満を露にしていた。それにしても気になるのは、河野の中学時代の過去と、引き離さずには考えられない、箕田と女子生徒の立ち位置だった。さっきの手荒な連中達とも深い関わりがあるのは、ほぼ間違いなく一体、何があったのか…。
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