第12話 ダブルヘッダー

やがて長井は、例の同好会に夢中になり過ぎる余り、陸上部では、それ程目立った活動をしなくなった。一旦、退部届けを出し掛けた事があったものの、その理由を明確にするのが必須だと言い返され、受理されなかった。正直に言える訳は無いので、仕方なく最近になって休部扱いにして貰ったが、この行為こそ知らずに自分を、中途半端な立場に追いやる原因となってしまった。

この後、良くない問題を生み出す結果に繋がって行く事を、まだ予測できてはいなかった。新山が言った通り、今迄は週に一度あればいい方だった活動が、殆ど毎日になった。同好会からは、学校が違うという隔たりも無く、すっかり歓迎されていた。

「お疲れさーん!長井、明日も頼むな。」

練習が終わったある日、新山が声を掛けた。長井自身、同好会の活動は夢中になれる程、気に入った居場所であり、何よりは仲間達からウケが良かった。定時制のクラブ活動なので、いつも終わるのは夜の十時近かった為、毎日がこうだと、まるで次の日の授業には身が入らなくなっていた。ただでさえ訳の分からない授業が、もっと分からなくなって行き、しかも朝と夕方には新聞配達があるので、それをこなした上での同好会通いだった。

「さぁて、バイトの時間だ。」

今日の授業も終わり、自転車置き場に向かうと、そこで待っていたのは…。

「ねぇ、ちょっと…。そろそろ、真面目に走って貰わないと困るのよね。」

大原達だった。毎日のコソコソした行動に、いい加減、不信感を抱かれていた。日頃から、退部しようにも引き止められていた為、曖昧な態度を取る他なかった。

「朝刊だか夕刊だかは知らないけれど、肝心の練習には、さっぱり出てくれないじゃないのよ!一体いつ迄、休むつもりなの!」

大原が再び、痺れを切らした様に言った。復帰日が未定の休部の理由は、未だ明確にはしていないので、周りには『新聞配達に専念する』ぐらいにしか伝わっていなかった。

「いや、こんな時間に朝刊を配達する人なんて、いないと思う…。」

「どっちだっていいのよ!このままだったら、本当にクビにするからね!」

説教は延々と続いたが、一旦は辞めると言ったにも関わらず散々、引き止めた大原達にこそ非があった。今日に至る迄の経緯には、自分には責任が無いので、退部処分を警告される筋合いも無いと思った。むしろ本当にクビにして貰った方が有難いが、やはり周りは、自分の都合のいい様には動いてくれなかった。

「ひょっとして隣町の高校に毎日、ラグビーしに行っているんじゃないの?」

川崎が、そう唐突に言って来た。例の一件が、バレていたのだろうかと焦った所へ、根本がやって来た。

「彼は、生活が掛かってアルバイトしているだけだから、早く行かせてあげて。それに今の話しは本当なの?根拠が無いのなら勝手に人を疑うのは、やめましょうね。」

それは、女神の登場の様に思えた。何も聞き入れてはくれなかった大原達を、たった一言で黙らせてしまう説得力を兼ね備えていた。

「私は、あなたを信用しているわ。だから、自分に責任を持って行動してね。」

その時、もう隠し通すのは限界だという思いがした。ひょっとして根本には、ここ最近の行動を全て見通されていたのかも知れない。

「先生…。隣町の定時制に、ラグビーしに行っているって言うのは本当なんだ。隠していたのは、悪かったと思っている。」

『やっぱり抜け駆けしていたのね、この裏切り者!』

上級生達は揃って、そう口に出そうとしたが静止させたのは、やはり根本だった。事情を知っていた上で、あえて好きにやらせてくれていたらしく、いつか正直に言ってくれるのを待っていたのだった。

「こっちにだって選ぶ権利がある!陸上部を続けるかどうかなんて、そんなの自由じゃないか。元々は大会だけの参加だって約束した筈なのに、先輩達が『それ』を守ってくれないのは、どうしてなんだ?!」

最もだとばかりに言い放ったが実際は、単なる逆上に近いものがあった。

「あなたのやりたい事は、分からなくはないのよ。でも自分の学校を差し置いて、他の学校の為に尽くすっていうのはねぇ…。」

さすがに常に中立の立場を取る根本にも、感心できない行動と取られた様で、その勢いを借りる様に川崎が続けて言った。

「全くだわ!肝心の自分の学校を放り出して、隣町の愛好会とかに出向くなんて。」

「いや、正確には『同好会』ね…。」

「どっちだっていいのよ、そんなもの!意味は一緒じゃないのよ!」

言う迄もなく、この学校には、長井が熱中できるラグビー部は無かった。それに、どうしても陸上部が馴染めていないという現状も、全員が分かり切っていた。その上で本人の意思を無視し、乱暴だというのを承知で無理矢理、練習に引っ張り出していた。

同好会に参加する様になってから、疲労と寝不足は祟っているものの、当然ながら学校で遅刻や早退は一切していない。それに総体の出場だけという、陸上部との約束も守った。やるべき事は果たした上での参加なので、本来なら誰も文句は言えない筈だった。

「別に同好会は、大会とか目指してやっている集まりじゃないから。趣味だよ趣味!」

どんなに頑張っても所詮は、正規のメンバーでも無いという割り切りがあった。

「当ったり前じゃないの!趣味と自分の学校、どっちが大事だと思っているのよ。」

今度は西尾が言ったが、その挑発に乗る事無く、平然とした態度を保ち続けた。

「もし呼ばれれば、また大会とかには出ようとは考えているよ。でも多分、そんなふざけた奴の手助けは要らないって、言われるだろうから何も言わないけど。」

「じゃあキチンと両立できるの?そっちに参加するのは自由だけれど大会に呼ばれたら、絶対に出てくれる?それなら認めてあげるから、ここで約束してよ。」

「それは先輩達が、そういう考えを持っているのなら…。」

そう言ったのは大原で、普段の性格からして、あまりにも意外で、らしくない問い掛けだった。ちょっと想像が付かない事を聞かれたので、背筋が凍る思いがしていたが、根本が心配そうに、こう念を押して来た。

「遅刻はしていないっては言っても…。毎朝、目を真っ赤に染めて授業は上の空だっていう話しを、色々な先生から聞いているわ。もし向こうの参加が手いっぱいで、やっぱりできませんっていう時は早目に言ってね。みんなに迷惑になるだけだから。」

「ハイ分かりました、これからは自分の行動に責任を持ちます。それでは!」

そう言うなり急いで自転車で去って行ったが、ヤケにフラフラ運転で明らかに、完全な寝不足状態から来ているものだった。

「先生、中々言うじゃない?」

長井がいなくなった後、大原が言った。

「あなたこそ、まさか、あんな言葉が出るなんて凄く意外だったわ。ただね…。」

「ただ?」

「彼は、好きで陸上部に入った訳じゃない。他に夢中になれる別な居場所があるのなら、自由にやらせて上げたいと思うの。それで、やっぱり両立できないってなったら、その時は仕方ないわ。もしそうなっても、また責めたりしちゃダメよ。」

すると突然、西尾が激しく責め立て始めた。

「ちょっとキャプテン!ろくに練習にも顔を出さない一年生を使おうっていうの!一体、何考えてんのよ!」

彼女だけに限らず、殆どの上級生が、今の話しの展開に納得できないでいた。その怒りの矛先が、勝手な独断で話しを進めた、大原一人に向けられ始めていたのである。仮にも、今迄は長井が、この部に足を踏み入れるのを、阻止しようと一致団結していたぐらいだった。率先していたのが大原であったので、珍しく上級生達は、ここに来て初めて内部分裂を起こし掛けていた。

「アンタ達、よく分かっていないわね。」

あくまで部長としての威厳を振り撒くのを、それでも絶やす事は無かった。その一言で他の上級生達は『…!?』と、何も言葉が出なくなっていた。

「同好会だか何だかで、汗水を流してくれてさえいれば、それで大会迄の練習は十分なのよ。それとも、普通に陸上の練習をしていない相手には、絶対に負けないっていう自信でもあるの?じゃあ、この間の大会の成績は何なのよっ!彼は私達よりも、まともな結果を残しているんだからね!少しは身の程、わきまえなさいって言うのよ!」

上級生達は、もう何も言い返せず、素直に受け止めるしかなかった。藍子達は以前よりも増して、ますます大原に、キャプテンらしさと信頼を強く感じて行った。彼女が長井に向けた、非常に聞き慣れない『意外な言葉』は、予想も付かないドラマを生んでいた。

らしくない『意外な言葉』を発したのには、ある理由があり、以前の八百メートル走で負かされた口惜しさが忘れられないので、そのまま勝ち逃げされたくはなかったからだった。

彼女は未だに、本来のマラソンで勝負する機会を伺っていて、何としてでも自分が卒業する迄には、その舞台を設定しておく必要があった。あくまで自らの手で打ち下して、力の差を見せ付けた上で、強制的に辞めさせなければ、説得力に欠けるからだった。つまりは、その間に勝手に退部されてしまうと、勝負する理由が無くなってしまうのである。

さっきは綺麗事を散々叩いたが、それは表向きで、やはり長井を排除するという企みは、捨て切れないでいた。内心は後輩想いという思わせ振りは、あくまで部員である藍子達に対してでてあって、そうではない部外者には、とことん冷たかった。長井の様に領域を侵して来る様な存在には、制裁を加えた上で締め出さないと、気が済まなかった。彼女の抱く野望は、今は休火山にしか過ぎないのである。

「さぁみんな、さっさと練習よ!次の大会迄、まだまだ期間があるなんて思っちゃ、いけないんだからね!」

その夜、長井はいつも通り新山の高校に向かったが、部室を覗くと誰もいなかった。そーっと入って大人しく座っていると、やがて授業を終えた新山が入って来たのだが、こんな事を聞かれた。夕刊配達を終えてから、遅く迄ここで練習した後、次の日の朝には学校が始まる。果たして満足に、授業は受けられているのだろうかと、疑問を投げ掛けていた。

「いつも思うんだけど疲れないか?」

「授業なんか、殆ど居眠りだ。そっちだって、朝早くから仕事しているじゃないか。」

登校前には朝刊配達もあり、かなりある通学距離も考えると、日の出と共に目覚める様な生活だった。全ては有意義に過ごす為とはいえ、必然的に削られるは、睡眠時間だった。そんな肝心の勉学を全く重要視していない生活振りを、ひどく新山は心配していた。自分が誘ったが為に、本人の学力とかが更に落ちる様な事にでもなれば、責任が取れなくなる。

「余計な心配かも知れないけれど、やっぱり学校って、勉強しに行く所だと思うんだよ。それに陸上部の方だって、本当はキチンと辞めていないんじゃないのか?」

「それは同好会を『辞めろ』って意味で?」

「いや、そうじゃなくて…。」

もし同じ学校の部員同士であるなら何も、こんな気遣いはされなかったが、他校生である以上は事情が違って来る。ここでは、どんなに頑張っても趣味の延長線上でしかない為、正式なメンバーにはなれなかった。所詮は同好会なので、何の大会にも出れないのである。

それを承知で新山の誘いに乗ったのは、やはり夢中になれる居場所を確保したいという、一心からだった。学校生活は勿論、私生活の乱れ、何よりは陸上部の活動に支障が出るという現状を、あまり深くは考えていなかった。

「だから、安心しろって何回も言っているじゃないか。陸上部の方には、休部扱いにして貰っているから。」

『自分の為に、とんだお騒がせを…。』

少なくとも本来は、そういった低姿勢を取らなければならない筈だった。それに比べて誘った本人にとっては、今になってみれば考えが軽率であったと、気が気ではなかった。『そうだったのか…?』と新山は、冷や汗をかきながら落ち着かない返事をしたが、こうも二人の観点は対照的だった。

「ちゃんと授業にも出ているし、陸上部には迷惑とか掛けていないから心配は要らない。俺自身の事なんだから、そっちが心配する事じゃない。」

幾等、誘われている立場とはいっても、押し掛けで練習に参加させて貰っている事に変わりなく、こう言い切っている長井の方が図々しかった。新山には、他校生を引っ張り出しているという後ろめたさがあり、何よりは長井が抜けた為、影響を受けてしまった陸上部の件が気掛かりになっていた。

今の同好会が軌道に乗れているのは、すっかり中心人物となった、長井の存在を無くしては考えられなくなっていた。それに歯止めを掛けたくはないし、手放したくもなかった。もし、本当に友人の身を考えるのなら、元の鞘に戻って貰った方が、いいのかも知れない。

そうなると、せっかく勢いの付いた歯車は再び止まってしまい、綺麗事だけの現実の為に、それを止める訳には行かないという裏腹な欲もあった。同好会の存続と同時に親友の、行動スケジュールをも鋭く把握していた新山は、ある事を聞いた。

「そう言えば大会が始まるんじゃないか?」

陸上部の方から、そろそろ大会が近いので、専門の練習を始めてほしいと言われる様になった。同好会の練習がイコール、陸上の練習にも匹敵すると穏便に取り計らった大原だが、さすがに限度があった。本番が目前に迫っている以上、出場種目の練習に入ろうとしない選手は、選手としては認められないのである。

夕刊配達と同好会の活動の間に、陸上部の練習を入れるのは、幾等何でも無理があった。もはや睡眠時間の他に削れる物は無く『両立する』とは言っても、結局は、どちらかを選ばなければならなくなった。そして彼の気遣いを重く感じた長井は、情に打たれて、あるとんでもない事態を引き起こしてしまった。

「実は、今度の大会は出ない事になった。」

「えーっ!?」

「最近、目立った活動をしていなかったから、もう出なくていいって周りに言われて。」

「それは本当か?」

新山を安心させる為にと、とっさに、とんでもない嘘を言っただけだった。どちらを選ぶかとは言っても、陸上部を選ばなかったら、非難を浴びるのは言う迄もない。道理的に考えて、趣味で参加している他校の同好会と、大会を控えた我が校の陸上部では、どちらが重いかを天秤に掛ける迄もなかった。

一時的に休会という形を取って、陸上の大会が終わってから復帰するという手も無くはないが、目先を考えずに言葉を発してしまう、自分の軽率さを呪った。時既に遅く、まるで、もう一人の自分がいるかの様に、次から次へと勝手な言葉が口から出てしまっていた。

「ただの体力作りのつもりで、元々やっていただけなんだ。一応、部員扱いにはさせて貰っていたけれど。」

すると新山は、同好会への参加のせいで肝心の、陸上の方を投げやりにさせてしまったみたいだと、弁解して来た。

「いいって、どうせ自分のせいだから。」

苦笑いしながら、自分の発言の無責任さを一層、後悔していた。見渡すと、いつの間にか集まっていた、他のメンバー全員に笑顔が溢れていたので、ますます引き返せなくなったと思った。自分以外が穏やかな雰囲気になった所で、新山が、トドメを刺すかの様な話しを切り出して来た。

「実はさ、試合の話しが出ているんだよ。」

「嘘ーっ!?」

「みんなには話していたんだけれど長井には、陸上の大会に出るものだと思っていたから、まだ言ってなかったんだ。」

というよりは断ろうと思っていたと言い、もはや、後戻りできない状況に陥った事を悟った。陸上部には、同好会は趣味程度と言ってあるので『実は練習試合にも出るんです』何て話しは尚更、通らなかった。

「でもメンバーの先輩達には悪いけれど、自分達は試合できる程じゃない…。」

『その心配は要らないらしい』と四年生の副部長が言い、ちなみに来年始めに二十歳になる人で、新山が入る迄はキャプテンだった。

「『ないらしい』って…。」

自分達と互角に、いや互角に戦ってくれるチームなんて、いないのではないだろうか?いや『いるんだよそれが』と新山が言った。

「どこに?どこの高校?」

「いや高校じゃない、道草中学校だ。」

「道草中学校、どこかで聞い…。えっ!?」

それは自分の出身中学校で、あまりの唐突な事態は、普通の記憶さえも麻痺させていた。今回の練習試合が決まる迄の経緯は、新山が先日、仲里にバッタリ会い、長井が同好会に入った話題を話した事から始まった。

試合ができる学校は、中学では中々いないのは言う迄もなく、お互いの実力の理解も有り、対抗戦という思惑が一致した。すぐに学校の許可も取れたが今回の件は、長井が参加するならという前提で締結されたものなので、本人の都合が悪いと流れてしまう話しだった。

『何だって、しなくてもいい話しをするんだろう…。別に自分がいなくたって、やれるじゃないか。』

そうは嘆いたが全てが後の祭りで、新山一人では戦力が揃わないので、試合の形にはならない。長井がメンバーに入って初めて、試合らしい試合になるからこそ、この話しが出来上がったのだった。

「で、いつ頃に…。」

恐る恐る尋ねると、決行日は来月の最終土曜日だと聞かされた。メンバーには普段の仕事があるので、その日に参加できなければ全員、都合が付かなくなるのだった。舞台も日程も決定している為、後は長井ただ一人から、返事を貰うだけとなっていた。

その日は皮肉にも、陸上部の地区予選出場の日、つまりは大会だった。状況は、ますます現実に、そして危うい方向に進んで行った。絶対に決行日は動かせないので、本当に、どちらかを選ばなければならない。やはり陸上部を取るのが無難に思えたが、それを選ぶと、せっかく親友や仲間が組んでくれた段取りを、流してしまう事になる。

陸上部は除名されたと堂々と吐いた以上、他の言い訳を作って、新山達に説明する必要があった。身から出た錆のせいで、とても自分一人では抱え切れない様な、選択をしなければならなくなった。その日は結局、あまり練習には身が入らず、メンバーが気が付かない内に、視線を反らす様に抜け出して行った。

『友情を選ぶか自分の学校を選ぶか?どうしようかなぁ…。』

帰り道、のん気に呟いていた。『その日』は確実に迫っており、後一ヶ月余りの猶予の間で、決断しなければならなかった。これは勿論、誰にも相談できる訳も無く…。

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