第11話 無名の代表選手

いよいよ総体の日を迎えたが、予選会場の競技場迄は、各自で移動しなければならなかった。殆どの部員は自腹で路線バスを使ったが、それが勿体無いと思った長井は、自転車で向かった。その距離は予想以上で、片道二十キロの通学路よりも相当、長いものだった。

交通費を浮かせた為に、かなりの距離の自転車移動を、強いられるハメになった。これでは、本番前に疲れ切ってしまいかねないが、もう会場に着いたら、ウォーミングアップとかは必要無いと思った。この自転車での移動が既に、いい準備体操になっていた。

普通なら、どこの学校も貸切バスを使っているのだが、この陸上部は例外だった。学校側から大した期待を受けていない、という背景がある以上、移動手段を各々で確保しなければならないのは、避けられない現実だった。

顧問の根本の車には、三年生が乗って移動できるのが毎年の恒例になっていたが、軽自動車なので後、三人迄しか乗れない。部長は当然カウントされるので、後の枠は彼女と仲のいい、西尾と川崎という事になった。他の三年生はというと、後輩部員と同じく、路線バスを取らざるを得なかった。上級生の立場が皆、同じという訳ではなく、こういった特別な待遇は極、限られた部員だけだった。

「今年も、貸切バスは出なかったわね。」

助手席に座っている、大原が言った。

「『出なかった』じゃないのよ。それなりの成績が残せないんですもの、予算が組まれなくて当然よ。」

根本は、非常に冷めた返答をした。不甲斐ない成績しか残せない部の顧問である故、常に学校側からは、後ろ指を指されていた。

『いつも部員達には何を教えているのか?』

そう言われるぐらい、厳しい状況下での活動で、日頃から非難の対象にされていた。原因は当然、大原を始めとする部員達にあるので、その彼女達の移動手段の心配なんか、いちいちしていられなかった。まず今の部の予算で、貸切バス何か頼んでしまったら、今後は部員達が自腹で、部を運営して行かないといけなくなるのだった。

集合場所に時間通りに着いたのは、長井と、みんなより一本早いダイヤのバスで来た、藍子と千秋だけだった。根本の車は、それから少し後になってから到着した。

「先輩!他のみんなは全然来ないけれど、どうしちゃったのかな?でも先生、貸切バスでも使えば揃って会場に入れたのに。」

「きっと、バスに乗り遅れたのよ。」

自転車で来た疲れも忘れて陽気に言ったが、この時は、まだ陸上部の運営状況を知らなかったので、藍子がフォローする様に言った。

「みんな、俺みたいに自転車で来れば良かったんだよ。そうすれば、いい運動になって、ここに来てから準備体操なんかしなくて済むじゃないか。」

「あんまりバカな事は言わないで!」

これ以上、無知な同級生に勝手な事を喋られては困るからと、藍子は声を張り上げた。次から次に出て来る、無神経な喋りに歯止めを掛けないと、自分が大原達に白い目で見られてしまうのだった。彼女はクラスが同じというだけの理由で、大原達に勝手に、長井の保護者的立場を任命されてしまっていた。一応、管理役も兼ねているのだが、本人にとっては迷惑この上ない話しだった。

「路線バスを使えただけでも、今年の後輩達はラッキーなのよ。」

大原が過去の出来事みたいな話しを、ボソッと溢した。長井には『えっ?』と、よく意味が理解できなかったが、当時の事態を誰よりも知る根本が説明を始めた。

去年迄、路線バスを使って来ていたのは、顧問の車に乗り切れなかった、三年生のみに限られていた。それ以外の下級生部員は全員、強制的に自転車か、若しくは走っての移動を強いられた。例え自腹であっても、後輩なんかが交通手段を使うのは言語道断という、部の厳しい上下関係があったからだった。

ちなみに大原は、普段の態度が反発的だと判断された為、否応無く走って来させられていたらしかった。西尾と川崎も、彼女と仲が良かったというだけの理由で、同様の扱いを受けた。つい去年迄は自転車の使用さえ許されなかった、言葉では言い表せない苦い、しきたりがあった。

顧問の車という、大原達だけに与えられたと思われる高待遇は、あくまで三年生故の今年、一回切りの話しだった。本人達にしてみれば過去の扱いと比べると、かなりの天と地の差があり、ごう慢な今の態度からして、全く想像が付かなかった。自分でさえ、幾らかのバス代を浮かせて来た事を、後悔したぐらいの距離だった。てっきり何かの悪い冗談だと、笑いながら聞き直したが大原の答えは…。

「笑い事じゃないのよ。」

「ええっ!?まさか…。」

「そう、まさかよ。」

大切な本番前に、度を過ぎた要らぬジョギングなんかに、肝心の体力を使ってしまっていた。毎年、大した成績を収められない、確たる原因だったのは言う迄もなく、厳しい上下関係は出る杭さえ深く打ち付けていた。学年の隔たり無く、後輩達とは友達の様に接するのが一番いい、やり方だと信じていた。そう強く思う自分の脳裏に、絶対に存在しないルールが、そこにはあった。

今年から、そういった古い体制や風習を率先して打ち砕いたのは、部長である大原本人だった。つまらない上下関係よりも、とにかく、いい成績を残す事を優先しようと考えた。過去に受けた先輩からの理不尽な圧力こそが、満足な実力が出せずに終わるという事態に繋がる、何よりの悪循環だった。

肝心の大会直前に、もはや準備運動を通り越した、余計な体力を使ってしまっては当然、いい結果は生まれない。実は長井の存在こそが、こうも彼女を変えてしまった要因で、それらを指摘された時は、さすがに否定できなかった。自分は後輩達をいたぶる事に、部の活動の悦びを感じているのではないし、キャプテンという絶対的立場を勝ち取る為に、年功序列体制を乗り切って来た訳でもなかった。

レギュラーの座を奪い合う為の潰し合いは、確かに必要でも、これから成長する後輩達を、悪戯に潰してはいけない。どこかの代で、部の立て直しを計らないといけない事を、いつかの長井との勝負で、口惜しいが教えられた気がした。本当は内心は結構、後輩思いなのだが、自ら経験した風当たりの冷たい中を駆け抜けて来たので、どうしても普段は威圧感を出してしまうのだった。

ただ、これからも決して優しい先輩と思われたくはなく、怖い存在という表面迄は変える気は無かった。そんな訳で、今年から下級生達の移動手段は自由になり、当たり前ながら、交通機関か自転車かを選べる様になった。かなりの距離があるので、まず間違いなく全員、路線バスを使うと読んでいたのだが…。

『自宅から、ここ迄の距離が、どれ程か分からなかった訳ではない筈なのに…。そう迄して節約しないと生活できないのか、それともやはり、ただのバカなのだろうか?』

ある意味、自分より怖い存在だと思えてならなかったというか、あえて自転車を選んだ長井には、身震いさえ感じていた。

競技は始まったが誰一人、初戦を勝ち進めない状況で、部員達は次々と、まるで面白い様に消えて行った。一段落着いた所で根本が、みんなを集めてミーティングを開いたが、とは言え勝って駒を進めた部員はいない為、これは実質『解散会』になっていた。

「あまり期待はしていなかったんだけれど、やっぱり酷過ぎるわね。今年も、また午前中で会場を去る事になるのかしらね…。」

それは部長に対する、宛て付けの様にも取れたが、その大原自身に至っては、千メートル走の予選でビリから二位で終わっていた。本番前の後輩達に負担を掛けさせない様にと、移動時の交通機関、完全自由化を出したのは良かったが結果には、何も反映されなかった。

「あれ、長井君は?」

「そういえば…、どこに行ったのかしら?」

全員、まともに顔を上げられない中、千秋が言うと藍子が言い返した。ひょっとして、今から走るのではないかと全員、慌てて競技場内に引き返した。すると、その通り長井の出番は、これからで男子八百メートル予選の、最終組に組まれていたのだった。

「長井ーっ、頑張ってぇ!もうアンタしかいないのよーっ!」

遥か向こうで叫ぶ、根本の羞恥心のない下品な声援はスタートラインに迄、届いていた。この時点で女子陸上部員は全滅しており、残っているのは本当に、唯一の男子部員である、長井だけだった。それだけに根本から掛けられる期待は、尋常ではない程に大きかったが、次第にスタートライン周辺には、別な意味での緊張感が漂い始めた。長井の、ユニフォームに書かれている校名から、絶え間無く狂った様に叫び続けている、根本との関連性が察しられつつあった。

『自分は知らない。あの向こうで、はしゃいでいる人物が交じっている集団とは一切、関係が無い…。』

そういった素振りをして何とかごまかして、競技だけに集中したかった。危な気ない結果ではあったものの見事、二位に僅差ながら一位でゴールを果たし、これで何とか部の面目は保てた事となり、部員達の元へと向かった。

「さすが私が見込んだだけの事はあるわ!」

根本は女子部全滅を目の当たりにした時とは打って変わって、すっかり上機嫌になった。

「まだ一回、勝っただけだから。それに、組み合わせが良かっただけかも知れない。」

長井は歓迎に応える事は無く、それだけ言い残すと、どこかへ消えて行った。

「なんか、顔が引きつっていたわね。具合でも悪かったのかしら?」

千秋が言った。

「みんな分からないの?本人にとっては、十分な結果じゃなかったのよ。二位とは大した差が無かったし、勝って笑えるかどうかは、これからなのよ。下から二番で終わった私が偉そうには言えないけれど、それに気が付かない様じゃ先生もまだまだね。」

大原が真剣な面持ちで言うと、根本と部員達からは笑顔が消えたが、これでも結構、無理して長井を盛り立てていた。何も本番でも、かつて自分に勝負を挑んだ八百メートル走に、皮肉の様に、出場しなくてもいいだろうとの思いがあった。所で、さっきの長井の、課題を残すかの様な言動の裏には…。

実は予想外の結果に嬉しさが止まらず、笑いを必死で、こらえていただけだった。余裕の表情を出しておいて、次に惨敗したのではシャレにもならないので、素直には喜べないといった態度を無理矢理、頑なに保っていた。

確かに初戦を突破したに過ぎず、勝って笑えるかどうかは大原が言った通り、これからに掛かっていた。始めから捨て勝負のつもりで挑んだので、余計なプレッシャーも無く、まさかの結果に繋がった。千秋が『顔が引きつっていた』と言ったのは、表情を抑えていた為、顔がケイレンを起こしていたのだった。

志願して入部した訳では無いので、常に周囲の思い描く期待とは裏腹な行動を取ったが、そのお陰で陸上部は、この後の決勝の待機選手を確保できた。初戦で散った大原達は、男子部員一人の活躍を見守る為だけに、全員このまま競技場に残るので、毎年恒例の午前中解散は免れる事となった。

「休んで観に来たんだ。これに勝ったら次は県大会じゃないか!」

突然、声を掛けて来たのは、本来なら仕事時間の為、ここに来れる筈のない新山だった。午後に差し掛かり、徐々に出番が近付いて来た。もし突破したとすると次は県大会に進めるのだが、そういった有り得ない現実は、期待するべきではないと思った。

陸上部員としての練習を、それ程こなしていない自分が、そう上手く一等賞ばかりを取れるものではなかった。ただ、ここ迄来たなら、もう捨て勝負では終わらせたくはない。

大原にとっては、これから目の前で起こるであろう出来事は、迫り来る現実そのものだった。自分は勿論、かつての先輩達が成し得なかった実績を一世一代で、やり遂げられ様としていた。正直言えば、別に見なくてもいいと言われれば、見たくはなかった。叶わなかった夢を、後輩が達成して脚光を浴びる姿なんて、目を覆いたかった。

スタートが鳴ったが、さすがに決勝ともなると、周囲が寄せる期待通りには行かず、早々から最下位争いをする形になった。結局、順位は挽回できないまま終わったのだった。

ガックリと肩を落としながら、根本達の元へと向かった。途中で、また新山に声を掛けられるのを期待したが、彼の姿はなかった。

「残念ね。でも一年生で、ここ迄来れたのは凄い!先生、それだけで嬉しいのよ。」

よくよく考えれば、競い合った選手の殆どは三年生ばかりの上、陸上競技の出場自体、初めての経験だった。条件が悪い中で、最下位でも十分な結果は残せた様に思えたし、こういった考えは決して甘えではないと、見ていた側も分かってくれるに違いない。一つだけ甘えがあったとすれば、ここではラグビーで鍛えた足は、それ程に通用するものではなかったという、過信だったのかも知れない。

「あんまり、気を落とさないでね。これから頑張る機会は、幾等でもあるんだから。」

「幾等でも…?」

励ましのつもりで藍子は言ったが、それは途端に、良からぬ考えに走らせる要因になった。何を思ったか突然、今日の責任を感じて、もう練習には参加できないと言い出した。これには裏があり、既に頭の中は例の同好会に参加したい一心で、いっぱいになっていた。

元々陸上に対しては、あまり情熱を持っていないので、今回の結果は、別に口惜しいとは思っていなかった。大した練習を積んでいない一年の自分が、三年生に交じって決勝を走ったので、これは肝心の部員である大原達よりは遥かに、まともな結果だった。県予選突破はならなかったものの、文句の言われ様がない実績は残したので、練習を積もうなんて気は更々無かった。根本の期待にも応える形となったので、自分なりに一区切り付いた。

『体力の限界…、辞めて責任を取ります。』

そこで、このままうつむき加減のフリをして、こっそり理由でも付けて逃げ出しさえすれば、難無く同好会が満喫できると考えた。あえて裏も表も無い立場を取る大原とは逆に、上辺だけの純粋さを演じ様としていた。あまりにも自己都合な解釈を、勝手に思い浮かばせてはいたが、そうは問屋が卸さなかった。

「アンタねぇ、一年生のクセに買い被り過ぎているのよ。この中では一番いい結果だったじゃない?もっと伸びるんだから、藍子に言われた通り頑張りなさいよ。」

大原が、促す様に言うのだった。最後の綱が絶たれた事で、認めたくはない現実には至らなかったものの、結果は部員全員、その長井を上回れなかった。これが今の部の現状なら、いつかは認めないといけなくなるが、そんな事態にはなりたくないと思っても、全ては文句の付け様がない実績が物語っていた。

そこで部長としての立場上、今日の成績にひがんだりはせず、もっと活躍して欲しいと訴えたのだった。そうは言われても、もう次の計画が出来上がっているので、今更ラブコールは、ただの迷惑だった。ギクシャクした雰囲気を察したのか、こう根本が言った。

「さぁ、そろそろ帰りましょう!」

ここで揉めて、本当に長井に離れられてしまっては、元も子もない。取り合えず、この場だけは解放させた方が無難だと考えた。

「みんなには今迄、世話になった…。」

「ちょっと待ちなさいよ!」

解散の合図を待っていたかの様に、足早に去って行くと、まだ話しは終わっていないと、大原が引き止め様とした。

「いいのよ。これから、じっくり幾等でも話し合う機会はあるんだから。」

また根本が言った。長井は、まだ新山が、この会場に残っているかも知れないと思った。すると、出口の方に向かっている姿を見つけたので、慌てて駆けて行った。

「どうして黙って帰っちゃうんだよ!探していたんだからな!」

さっきの決勝で惨敗した事から多分、精神的に落ち込んでいるに違いないと思い、そこで顔を合わせない方が無難だと察して、あえて声を掛けなかったのだった。

「つまらない気は使うなよ!この間の話し、ヨロシク頼むからな!」

「この間?」

「同好会だよ!入れて貰えるんだろう?」

「そっちが良ければ、それはいつでも…。でも陸上部の練習はどうするんだ?」

「今日で終わった。今、辞めて来たんだ。」

「えぇっ!?」

「安心してくれ、自分で決めたんだから。よーし明日から張り切らないと!」

行き当たりばったり的な行動パターンを、よく知る彼には『安心』という言葉自体が不安だった。陸上部の方には、まだ何も相談していないという事実さえ、見越されていた。

顧問や上級生達には、結果をもって十分に納得させはしたが、この強引な持って行き方には、大原以上の腹黒さがあった。これで果たして、やるべき事は終わったと、言えるのだろうかとの疑問が残った。

『自分の為だけに行動し本当に、やりたい事をやってこその青春だ!』

どう思われ様と、陸上部と同好会の二束のわらじを履いてやって行くなんて、まっぴらだった。これは、せっかく自分に信頼を置きつつある大原達を、後ろ足で蹴るかの様な軽率な行動だった。こんな安易な身勝手さが次第に、とてつもない大きさの見返りとなって、後々降り掛かって来る事になる。

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