第10話 昭和の香りがするミッション
ある日の放課後、下校しようとしていた長井の前に、藍子と千秋を始めとする、陸上部の一年生達が立ちはだかった。
「えっ、何?」
すると藍子が冷たい口調で、こう答えた。
「練習よ、練習!」
「いや、そんなの聞いてないって。えっ?」
否応無く両脇を固められて連行されてしまい、実は入部が勝手に決まって初めて今日、この強硬手段で知らされた。
「おい!入部届けなんか書いた覚えないぞ!聞いてんのかよ!」
「そんなモノ、部室に着いてから書けばいいのよ!」
千秋が言うと、必死で抵抗を続けたものの、聞き入れられなかった。幾等、女子が相手とはいっても大人数で取り掛かられると、どうにもならないものがあった。そして次の日も、その翌日も藍子や千秋達から、強制的に部室に連れて行かれる日が続いた。やがて一週間が経った頃には、いい加減に観念して、自主的に練習に加わる様になっていた。その情報は、次第に隣町の学校にも流れて行った。
『今年から共学になった女子校に、たった一人しか入らなかった男子生徒…。』
長井の存在は元々、そういった触れ込みで、この辺の地域では有名な話しになっていた。隣町の学校とは電々工業高等学校の事で、あの中崎恭一が毎日、素知らぬ顔で通っていた。長井にとって彼の存在とは、非常に許し難いと表現する他無く『腐れ縁』とでも言えれば、まだマシなぐらいだった。
お互いの関係は中学を卒業してから、今日に至る迄の僅か数ヶ月の間で、既に修復が不可能な程、腐り切っていた。今となっては、かつては同じ釜の飯を食った仲であるという思い出は、微塵も感じられなかった。中崎は、念願通りラグビー部に所属して、充実した高校生活を送っていた。
本人にとって、決して触れられたくはない過去の実態が、その噂話しと同時に流れ出していた。いつもの練習を終えて部室で着替えていた時、同じ一年生部員が彼に声を掛けて来た。それは聖ドレミ学園を受験した後、決まった合格を取り消していた過去を、指摘する内容だった。
「どうして、それを…?」
合格発表は受験番号表示制なので、名前が漏れている筈はなく、同じ中学ではない仲間の部員が何故、事実を知っているのかと彼は焦った。当時の状況を知る者が口外していれば話しは別だが、特に思い当たらないので、なんとか『知らない』の一点張りで押し通せば済むと思った。しかし確信を持っている相手に対して、ごまかし続け様とする頑なな態度を取るには、限界があった。
今、話題が持ち上がっている聖ドレミ学園を受験した男子は、後にも最初にも、たった二人だけだった。これも有名な話しになっているので、この辺で知らない人はいない。その内の一人が自分だという事は、この学校に入ってから今日迄、漏らした事はなかった。
日頃から、うっかり口が滑るのを警戒しているぐらい、誰にも話したくない過去だった。日々の学校生活は充実していても唯一、公になるのを恐れていたのだが、かつての親友を裏切っておいて、無事に済まされる筈がない。いつか、きっと倍返しが来るといった現実が、まさに降り掛かろうとしていた。
「陸上部だってぇ?しぶとい生き残り方を考えたな…。」
近い内、脅威的な存在になるかも知れない。忘れた頃に沈黙を破って、着実に動き出そうとしているのだと感じずにはいられなかった。同じ頃、長井にとっての今でも親友の一人が、とあるクリーニング屋で仕事に励んでいた。それは新山龍利で、夜は中崎と同じ高校の定時制に通っていた。
入学以来、一度も顔を会わせた事はなく、むしろ彼の存在なんかは別に、どうでもいいといった感覚でしかなかった。実際は、長井の事だけが気掛かりでいたのだが、自分は仕事と勉強の両立に忙しい毎日を送っていた。いつも会いたいとは思っても到底、無理な話しで終わっていたが、今日に限って幸運が舞い降りた。
それ程に忙しくはないので、早目に切り上げて構わないというもので、日頃から勤務態度の真面目さを買われていたからこそだった。予定外の自由時間ができたものの、まだ登校するには時間があった。ここは、やはり少し遠いが、長井の学校に行ってみようと思った。
「まだ、いるかな…。」
着いたのはいいが、どこにいるのか分からなかった上、もしかしたら帰ってしまっているのかも知れない。何気にグランドを覗くと、一人の男子生徒が、懸命に走り込んでいる姿が目に飛び込んだ。
『あれは…?』と遠くからなので、よく顔は見えないが、この学校の男子生徒は一人しかいないので、長井に間違いなかった。声を掛け様にも届きそうにはない程、離れており、かといって近く迄、行こうとすると他校のグランドに足を踏み入れる事になる。それにしても、どうして一人で走っているのか?
一体、何の練習なのかと疑問を持ち始めていた。彼が今、見ているのは八百メートル走に出場する選手として、長井が毎日、一人で練習している姿だった。何故に孤独な練習をしているのかと言えば男子故、一緒に走ってくれる相手がいないという、ただそれだけの理由だった。彼は、接点の無い日々を送っているあまり、一切の事情を知らなかった。
「ちょっとアンタ、何やっているの?」
やがて色々と考え込み、ウロウロし始め出している内、突然、後ろから女子生徒に声を掛けられてしまった。実質は女子校なので柵越しに覗いたり、周辺を徘徊していたりすると、変質者に見間違えられかねなかった。
「て、偵察に…。」
「偵察?どうして男子が、ここに来る必要があるのよ。それに本当に高校生なの?」
とっさに口から出たものの、下手なごまかしは通用しそうになく、彼は高校一年生の割には、そうは見えない外見だった。うっかり私服のまま来ていた為、変質者と見間違えられる要素を、ますます拡大させていた。
「怪しいわね…。」
そう言いながら、女子生徒が顔を覗き込んで来た瞬間、お互いの表情が止まった。
「新山君?!どうしたの、こんな所に?」
その相手は千秋で、長井もそうだった様に、彼も中学時代は全くと言っていい程、彼女とは面識が無かった。じっくりと顔を見合わせる迄は、互いに誰かは認識できなかった。
「ちょっと、長井に会いに来たんだけれど、忙しいみたいだから…。」
「長井君ね、今度インターハイに出るのよ。練習が終わる迄、待っていたら?」
千秋が、今日に至る迄の経緯を話し出した事で、この時、やっと事情を理解できた。ただ練習が終わるのを待っていると、学校に遅れてしまう為、メモを書き始めた。
「陸上部か…、しぶとい生き残り方を色々と考えたんだな。」
練習後に渡してほしいと千秋に頼んだ後、去り際、中崎と似た様な事を呟いていた。やがて練習を終えた長井に、メモが手渡された。
「新山から?」
『今日の夜、もし来れたら例の公園に来てほしい…。』
それだけが書かれていたが勿論、行かずにはいられないので、夕刊配達を急いで終わらせた。全速力で自転車を走らせて公園に着くと、彼は待っていた。ここは、中崎の抜け駆け受験の件を追及した場所であり、その日の出来事は今でも鮮明に覚えていた。
三人の間では『公園』と言えば、この場所を指すという、暗黙の了解があった程だった。あの一件があった日を最後に、三人揃って会う事も、公園に立ち寄る事も無くなっていた。新山から、陸上部の事や、大会に向けた練習は厳しくはないかと聞かれた。
「いやぁ、全然。働きながら学校に行くのと比べたら、何も辛くない。」
『何も、無理に誉めなくたっていいのに…。見え透いた下手なお世辞だ。』
そう呟いた新山は、定時制にはラグビー同好会みたいなものがあり、自分は所属しているという話しをして来た。正確には『部』なのだが、あえて『同好会みたいな』と表現しているのは、活動の現状によるものだった。大した練習はやっていないし、それも週に一度あるかどうかなので、いつの間にか『同好会』に変わってしまったらしい。
しかも今年に入ってからは、実質の活動がストップしてしまい『同好会』程度でも機能しない状態になってしまった。メンバーの普段の仕事が忙しくなり、学業後の運動など身が入らなくなった、というのが理由だった。
やがて『部』から『同好会』に変わったばかりか、オマケで『みたいな』が付いてしまう様になった。そんな年に入った事で『中学の時にやっていた』の理由だけで、新入部員にして会長に任命されてしまった。正確には『部長』と呼ぶべきなのだが、校内では、その表現を通り越して『名誉会長』扱いだった。
呼び名は伊達ではなく、彼は最上級生である四年生部員達よりも数倍、上手かった。実際は、決して上手とは言えない部員達の中では、どうしても一際目立つ存在なのである。全員、趣味程度にしかやっていない事が『同好会』と付いた由来なぐらいなので、結果的には押し付け同然で、長を任されたのだった。
「凄いね、入った年から会長なんて。」
「別に、誉められたくはない…。」
順当に行けば卒業する迄、四期連続で会長を務める事になるのだが、あまり自慢できる話しではなかった。それ迄、この同好会が存在しているかどうかが不明確だった。自分に匹敵するか、一番いい手は、それ以上の実力がある新会員の獲得が、まずは必要だった。
「良かったら一緒にやってみないか?お前が入ってくれると、かなり練習が盛り上がるんだけどなぁ。週一から、もっと増えるかも知れないし。」
一瞬チャンスとは思ったが、部外者である自分に入れる余地がある訳が無いと、そういった心配をしていると…。
「大丈夫だって!どうせ先生の殆どは、授業が終われば、さっさと帰っているんだし。後は顧問だか、どうだか分からない様なコーチが一人いるだけだ。その程度の練習が、週に一回あればいいっていう状態なんだよ。そんな同好会を、助けて欲しいんだ。みんな多分、歓迎してくれると思うから。」
まるで、自分を救世主にでもするかの様に、入部を勧めて来るのはいいが、どこ迄が本当なのかが疑問だった。第一、本気で言っているのだろうか?
「冗談で言うかよ、こんな話し。いつも練習は真夜中だけど、ナイター設備万全だ!」
本来は、野球部の為の設備だったらしいが、同好会と同様、名ばかりで活動の実態が殆ど無かった。そこで、せっかくだからと勝手に使わせて貰っていた。あまりに出来過ぎる話しながら、気が晴れるのはラグビーしかなく、乗らない理由は無いと思った。
但し自分は総体に出場する選手という前提で、今は陸上部に籍を置いていたので、そうなってしまうと二束のわらじを履く事になる。当然、大原達上級生を差し置いて、勝手な行動は取れない状況にあった。
「それじゃあ総体が終わったら、その話しを受けさせて貰うよ。」
「勿論、いつでも待っているから。」
取り合えず終わるものが終わってしまえば、後は何をやっても問題は無いと思った。断るには勿体無い話しなので、同好会には時期をみて参加しようと思った。
「よぉし!『X作戦』復活だぁ!」
長井は、かつての自分の必殺技を叫んだ。
「懐かしいなぁ…。」
『X作戦』とは果たして…。例え負けると分かっていても、0点で終わる訳には行かない時や、勝つか負けるかというロスタイム土壇場などで活用していた、秘密兵器だった。どんなものかと言うと、敵も味方もクタクタになっている終盤、キャプテンである長井が、それを遂行できる機会をまず伺う。
『X作戦だぁ!』
可能な場面だと判断したら、そう自ら叫び、作戦開始の旨を仲間に伝えた。合図が掛かった瞬間、仲間はどうにかして最終的には長井にボールが回る様に、パスワークを組んで行った。ボールを渡すのに成功したら後は一人任せで、全てを委ねられた長井は、敵から逃げ惑う様に、独走でゴールポストを目指した。
敵を振り切りながら、グランドを四方八方駆けずり回り、一か八かのトライを狙った。『バクチ的な』と言うよりは、ほぼバクチ同然の大技だが、あえて敵と衝突しながら前進するのが、ラグビーの本来のスタイルだった。逃げ惑いながらゴールに向かって行く姿は、あまりにも、その精神に反していた。
まず作戦かどうかも疑わしいものが果たして、スポーツマンシップに相当するのかどうかと聞かれたら、やはり『かけ離れている』と表現する他なかった。ただ当時、中学生チームだった長井達には、同じ立場の対戦相手が少なかった。結局は、あまり強くない高校生チームとの機会が多かったのだが、それでも体格差から来る実力の開きは、歴然としたものがあった。
これは弁解にしかならないが、この作戦法は、そんな切羽詰った状況から生み出された打開策だった。むしろ『成長期の体で高校生相手に頑張っていますね』と、そういった風に周りの同情を買っていたぐらいだった。一応『秘密兵器』ではあったものの、あまり成功しなかったのも否めないが、それを承知で全員、長井にヤラセていた。
実際、十回やった内の八回は失敗しており、こんな事前に練習のしようのない苦し紛れの作戦は、半分の確率ですら成功しなかった。乱用し過ぎていた為に、殆どのチームには知れ渡っており『秘密』にすらなっていなかったが、それなりの効力はあった。
ノーサイドになるかどうかの瀬戸際といったら、敵も味方も、体力を消耗し掛かかっているに決まっていた。その状況下で作戦名を今更、叫んだ所で誰が一体、一目散に駆けずり回る長井を、止める事ができるだろうか?
一度走り出したら、捕獲されない限りは止まらないので、敵も味方も翻弄させた。不可解なものを『X』と表現さえすれば、ミステリアスになるだろうとの、単純な考えから命名した作戦とは、まさに昭和の香りが漂っていた…。気が付くと、もう陽は沈んでいた。
「そろそろ帰ろうか?」
長井は言い、二人は家路に向かった。総体が終わりさえすれば、いい事が待っていると自分に言い聞かせていたら、次の日から以前よりも活気付いて練習に入った。
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