第9話 最後の審判
藍子に説得された根本は、長井の獲得を諦める事にした。これ以上、付きまとうのは迷惑な話しだと改めて感じ『やっぱり大会にも出たくない』と言われたら、それも引き止めたりはしないと約束した。何よりは大原達の怒りの矛先が、今度は藍子達に降り掛からないとは限らない。素直で可愛い一年生部員を、上級生達のプレッシャーにさらすのは、顧問としてやるべきではないと考えたからだった。
「良かった、でも先生が自分の考えを曲げてくれるなんて。」
「ごめんなさいね。私、自分の部の成績の事しか考えていなかったわ。」
そう藍子に弁解したが、ハッキリ言えば大原達が、もっと頼れる存在だったなら、何も長井に頼るという方法は採っていなかった。
毎年、大会の成績は落ち込む一方であり、とてもではないが今の彼女の代で、その歯止めを架ける事は期待できない。かと言って打開策を生み出す手段と引き換えに、彼女達の立場を、ないがしろにもできなかった。そうこう話しをしている内に、二人は部室に到着すると、そこには上級生達が待ち構えていた。
「先生?何だか私達の知らない内に、勝手な計画が進んでいる様だけれど…。あんまり、こういう事が続くのは、部長としても黙っていられないのよね。」
立ちはだかる様に、大原は言った。そのセリフは、さっきの昼休みに長井も言っていた、根本が起こした今回の件の発端だった。
「えっ、何?」
「すっ呆けないでよ!あの長井っていう一年生を、大会だけに出すつもりでいたんでしょう?言う迄もないけれど、初めっから選手として入って来た部員なんて、どこにもいやしないのよ!」
「先輩。その話しなら、もう…。」
その件を終わらせるべく、こうして今、根本とやって来た所だったので、藍子は割って入った。明らかな誤解だと説明しようとしたが、どうも根本には腑に落ちない、ある疑問が浮かんでいた。
「変ねぇ…。どうしてあなた達が、その話しを知っているの?」
すると威勢の良かった大原達は急に、うつむき出した。彼女達が追求した点は道理的に考えて、盗み聞きでもしない限りは、決して触れる事ができない領域だった。今迄なら、長井獲得の為に教師という立場でありながら、コソコソせざるを得なかったが、今の根本には彼女達の追及に屈する要因が無かった。
『勝手な計画が進んでいる…。』
今回『それ』を諦めた事で、ここで立場は逆転したのだが、大原だけは強気の姿勢を、そう簡単には取り崩さなかった。
「どこから情報を仕入れたか何て、ここでは関係ないわ。大会に出られるのはタダじゃないのよ!レギュラーの枠に入る為の潰し合いを彼は経験していないじゃない!私達にだって、上級生になったから大会に出れる何て保証は、どこにも無かったのよ。」
泣き出しそうな表情で、訴える様に言った。「ごめんなさい、その話しは…。」
上級生達の純粋な気持ちを、まるで考えていなかった自分の今迄の行動を、申し訳なく思った。だからこそ藍子に説得されて、気が付いたつもりではいたが、それは少し遅かったのかも知れない。興奮している彼女は聞き入れ様とはせず、これでは誤解を解こうにも、どうにもできなかった。
「当たり前だけど私達だって、去年迄は先輩達に散々いびられて来たわ。でも、そうやって実力を上げて、やっとキャプテンにもなれたのよ。」
「まぁ、それはそうなんだけれど…。とにかく聞いてちょうだい!私も、自分勝手な行動をしていたと十分、反省したわ。だから、彼を陸上部に引っ張る様な事はしないって、藍子と今、話していた所だったの。コソコソやってて、ごめんなさい。先生が全て悪かったのよ…。」
急に来た一年生なんかに、他人のふんどしで相撲を取られたくない気持ちは、良く分かった。みんな静まり返り、誰も口を開こうとはしなかったが、その抜群に悪いタイミングで、長井は登場してしまった。下校にあたって自転車置き場に向かう途中、たまたま通り掛ってしまったのである。
「あっ…。」
陸上部員全員の視線が、的の様に自分一点に集中し、目が合ってしまった。さすがに気まずさを感じて、ソーッと視線を反らす様に立ち去ろうとしたが…。
「ちょっと、こっちに来なさいよ!」
結局、大原に呼び止められてしまったが、別に逃げる理由も無いと思った。
「ねぇアンタ、自分の意思で入部はしないって言ったの?」
「ん?まぁバイトがあるから忙しくて…。」
大原の質問責めは、まだ続いた。
「そうじゃなくって!バイトとか上級生の視線が気になるとか、そういうのを抜きにして、どうなのかって聞いているのよ。」
「俺は…。」
「あなたは?」
根本は、心配そうに気遣って来た。
「あんまり先生がしつこいから、大会だけなら出てもいいって言っただけだ。自分の意思でなら、出たいなんても思わない。だから、そういう曖昧な自分の行動が、先輩達の気に障っていたっていうのなら謝る。」
自分に関わる事で今、話しが揉めているというのは間違いなかったので、下手な事は言えないと思った。根本には、これが本当に本人の正直な、気持ちなのだろうかという疑問が湧いていたが、その件に触れるのは避けなければならなかった。事態を少しでも早く収めないと、藍子との今したばかりの約束を、投げ出してしまう事になるのである。
「キャプテン?納得行かない所があるとは思うけれど、こう彼は言っているから、この話しは、もう終わりにしましょう?」
しかし今度は、大原達が腑に落ちないと言わんばかりだった。これだけ騒ぎが大きくなったにも関わらず、あまりにも呆気ない終わり方に、簡単には引き下がれなくなっていた。
「言っておくけれど、こっちは何も悪い事はしていない。自分の振る舞いとかが気に入らなかったって言うのは、もう、どうしようもないから。」
その何気ない言葉は、せっかく収まり掛けた場の雰囲気を、徐々に悪化させて行く引き金になってしまっていた。
「そうね、確かに何も悪くないわ。周りが勝手に、そう動かしただけなんだから。でもね、これで分かったでしょう?確かに、少しは足が速いかも知れないけれど、それだけでは選手としては十分じゃないのよ。」
長井の捨てゼリフに対抗するかの様に、大原も、皮肉の込められた捨てゼリフを吐いた。それが、せっかく沈下し掛けた火ぶたを切る、着火剤となった。
「今の言葉、否定はしないけれど、とっても残念だ。先輩が、そこ迄、人を見る目が無いとは思わなかった。」
そんな先輩でも、部長を務められる陸上部だからこそ、いつ迄経っても大会で実績が残せていない。どうして陽の目を浴びれないのかが、その言葉で、よく分かった。日頃、大原達が長井に不満を持っていた様に、長井自身にも、彼女達に対して相当な不満が溜まっていた。だからこそ、あえて拍車を掛けて、ケンカを売る言動に出たのだった。
「何よ今のは!ふざけんじゃないわよっ!」
「ふざけてなきゃ、こんな事言えるかよ!」
川崎に、そう言い返した。
『あー、何て余計な事を…。』
根本は、そう心の中で呟いていた。せっかく丸く収まる筈の事態を、台無しにする形となったのだが、ここ迄本人を追い詰めた原因を作ったのは、元を辿れば全て彼女にあった。
「何よ、やるの!」
「やってやるよ!」
西尾にも挑発され、かなりの乗り気になったが、これは下克上だった。その行動に出た代償は大きく、すっかり四面楚歌となってしまった。ここ迄来ると、さすがに藍子や千秋は身の危険を感じて、自分に加勢はしてくれなくなった。特に藍子は、前に排斥され掛けた経緯があるので尚更、これ以上は首を突っ込めなかった。やはり部を、末永く続けて行きたいという願望があるので、我が身の可愛さを優先せざるを得なかった。
「じゃあ何?アンタが入部したら、この陸上部は、レベルが上がるとでも言う訳?」
大原が、そう聞いて来た。
「先輩達が俺を入れたくないのは、活躍されるのが怖いからだっていうのは、よーっく知っている。『選手になる為の潰し合いをしていない』何て言うのは、ただのこじ付けだよ。だから答えは自分が、よく分かっている筈だ。先生、ハッキリ言ってやったらいいじゃないか?」
「バッカじゃないの!」
川崎が言った。その問い掛けに根本は答える事はできず、終始うつむいたままだった。
「もっとハッキリ言うと、日頃から藍子や千秋に、追い越されるのが怖いと思っているんだろう?そんな考えだから、部の活性化もないまま毎年、予選大会出場校で終わっているんだよ!」
長井にとって今迄、抑えていた感情が、ここで一気に爆発していた。
「いい加減にしなさいよ!こっちが黙って喋らせていれば、いい気になって。」
川崎が言い返すと、何故か大原が制止に入り、あえて長井を喋らせ続けたのだった。
「ごまかしたってダメだ!先輩達は、自分の部の後輩達を、ちゃんと評価していないじゃないか。どうしてかって言ったら、まともに競り合って練習したら、すぐにでも追い越されてしまうからだよ。」
藍子と千秋が大原達の域に達するのは、もう時間の問題だった。本人達は『それ』に薄々感付いていたからこそ、上級生という立場を使って後輩達の実力を無理矢理、抑え付けていたに過ぎなかった。恐れていたのは何も、長井が大会出場を果たす話題性だけではなく、実は、もっと身近な後輩達の脅威的な存在だった。本当なら、とっくの前から言いたかったし、例え自分が端を発しなくても、みんなが分かり切っていた事だった。
では誰も口には出さなかったのは、まず根本は、上級生の立場の尊重を最優先させていた。一年生部員達は、単に『そんな事で自分の身が守れるなら』と思っていたからだった。
「長井君、それ以上は、もう…。」
小声で辛そうに、根本は言った。歴然とした現実を、これ以上は喋られたくはなかったが、顧問が率先して年功序列な考えを、定着させていたからこそ部は向上しなかった。この先も、変わらない体制を取り続けて行くなら、藍子達が三年生になった時、同じ事が繰り返されるに違いない。
長井は今日迄、誰もが口にはしなかった、そんなタブーをあえて指摘したのだった。勿論、こんな事を言われて黙っている上級生達ではなく、また川崎が言って来た。
「入ったばかりのアンタに、何が分かるっていうのよ!」
「だったら上級生になりさえすれば、勝手に部室の壁に穴開けて、下級生を監視してもいいって言うのかよ!」
そう言い返された大原達は、途端に黙りこくってしまい再び、うつむき出した。度が過ぎた行為は、さすがにバレていたのだった。
「いつの間に妙な穴開けやがって!気が付かないとでも思ったのかよ!誰がやったか知らないけれど、本当なら器物破損で停学だ。そうだよな先生!」
『そんな話し、私に振られても困ります。』
そう言わんばかりの表情を浮かべて、根本は黙ったままだった。肝心な場面での、あまりの頼り無さから、大原に向かって言った。
「下手に密告した事で、藍子とかに八つ当たりされたくはないから、この事は学校には黙っておく。その代わり…。」
大原達は一体、何を迫られるのかと息を呑み、卑屈になった。それは長井の前では初めて見せた、弱気な一面だった。部室を損壊させた件を極秘にする代替えとして、もう一度、自分と勝負して決着を付けてほしいとの、提案を出した。やはり、お互い再び競い合う事で、キッチリ勝負を付ける必要があった。
大原にとっては前回、危な気ない勝ち方を収めたが為に、周囲から不信感を持たれた形で終わっていた。その経緯から、再戦の機会を何気に伺っていた所なので、彼女にとっての『この提案』とは好都合だった。自ら、赤っ恥をかく領域に踏み込んでくれる、まさに飛んで火に入る夏の虫でしかなかった。
「わざわざ部長が出なくたってね、私が勝負を付けてやるわよ!」
しかし西尾が、自分の獲物だと言わんばかりに言い出すと、川崎も自分が受けて立つと言い出して、二人は言い争いを始めた。
「悪いけど、その先輩二人じゃ、どっちとやっても相手にはならないな。」
『どう言う意味!?』と二人は口を揃えた。
「そういうのを『すっとこどっこい』って言うからなんだよ!第一、本当なら部の活動を止められている筈なんだからな!」
もはや西尾と川崎の挑発如きは、相手にはしていなかった。本来なら上級生達は、顧問の目の前で悪態の事実を暴露された事で、停学さえ免れられない状況にあった。それを自分のお陰で、こうして今グランドに立てているのだから、その厚意に対して、むしろ感謝して貰いたいぐらいだった。とは言え更に拍車を掛けた様な、売り言葉には変わりなかったので、二人は食って掛かって来た。
それを制止したのは、またしても大原だった。いつの間にか落ち着いた態度に変わり、さっきから、まるで怒りの場面だけを、この二人に任せているかの様だった。長井は陸上部と関わる様になってからの、この数週間で、上級生達の中に出来上がっている暗黙の人間関係が大体、理解できる様になっていた。
今回の件で言うなら『穴を開ける策を真っ先に思い付いたのは大原』というのは間違いなく、では誰にやらせたのかというと常に、そのキャプテンの威勢を借りずには行動できない、西尾や川崎だった。
この事から仮に誰かに密告されたとしても、さほど自身の立場には影響はしない。恐れられている存在だからこそ直接、手は汚さない。それが彼女のやり方だった。
「私と、やりたいんでしょう?いいわよ。でも負けたら、タダでは済まない事ぐらいは知っているわよね?何をしてくれるの?」
「今度こそグランドの真ん中に行って、土下座以上の事をしてやるよ。でも、こっちが勝ったら今後は藍子達の前で、威圧する様な態度は取らないと約束してほしい。」
「面白いのね、アンタ。」
結局は、自分の得にはならない道を選ぶ長井が、ただのバカに思えてならなかった。そして前回同様、女子の視線も何のそので、その場で豪快に制服を脱ぎ始めた。いつも通り、中には体操着を着込んでいたのだが、その姿に大原は、ますますバカさを感じた。
「じゃ、前に藍子と勝負した、八百メートルでいいかな?」
「何でもいいけど、自信はあるの?」
「それは、やってみないと分からない。その為の勝負だから。」
彼女は、尚一層のバカさを確信した。散々大きな口を叩かれた挙句、実に中身の無い勝負を挑まれたかと思うと、呆れて声が出なかった。この間の様な油断さえしなければ、歴然とした差を付けて勝つのは簡単なので、今回こそ大恥をかかせてやろうと決意していた。
「本当にいいの?もしアンタが勝っても、何のメリットも無いのよ?」
絶対に勝てると思っている彼女は、スタートラインに着いた途端、余裕を見せた。
「何も要らない!そっちが負けたら本当に、二度と藍子達の前で、デカイ態度を取らないって約束さえしてくれれば…。ただ、もし破ったら、あの『穴』から先輩達が着替えているシーンを盗み撮りして、新聞部にタレ込んでやるからな!」
「そういう事はね…、勝ってから言いなさいよっ!第一この学校で、そんな記事貼って一体、誰が喜ぶって言うの!?」
実質は女子校なので、あまり意味がないタレ込みだった。『その気』がある生徒がいるとは思えないし、自分も女子から好かれる趣味は無かった。一瞬だけ取り乱したものの、よくよく考えると長井が、どうしようもないバカの領域を越えた、とんでもないキングバカに思えて来た。
こういった、曖昧で理解不能なイメージを振り撒く言動は、実はハッタリだった。不明確な目的で、勝負を挑んで来たかの様に思わせる態度を、装っていたに過ぎなかった。あえて、八百メートル走を指定して挑戦状を叩き付けたのは、ある理由からだった。彼女は本来、中距離選手ではなく、根っからのマラソンランナーなのである。
勿論、事前に知っていたので、これが『勝てる勝負』だと確信していた。仮にも部長であるなら、例え自分の専門コースではなくても、素人の要望を拒む筈が無い。絶対に負けないという自信を持っているので、その心理に付け込んだのだった。この間は自分の計画が狂ってしまったが今度、見事に計画が狂いそうなのは、大原の方に傾いていた。
「なんで、こうなるのかしらね…。」
この策略を見抜いていた根本は、今回の勝負によって、せっかく収まり掛けた事態が一転して、また一騒動が起きる事を予感していた。絶対勝利の予測や自信が無ければ、陸上部のキャプテンなんかに、まともに勝負を挑んだりはしない。ラグビーといった大集団球技で慣らした足なら、勝算は十分にあった。大原が、それを自覚してくれていればいいのだが、一騒動は既に幕を開けていた。
スタートは鳴り、大原が僅かの差を付けて一周目が過ぎ、展開は藍子と勝負した時と同じだった。予想通りだとばかりに彼女は、気を抜く事無くスパートをかけて、更に差を広げ様と試みたが実際は、どんどんと差は逆に縮まって行った。
片道二十キロの通学路を毎日、自転車で通っているのは伊達ではなかった。それに加えて朝と夕方の新聞配達と何よりは、ラグビーで培っていた体力が元々、備わっていた。そんな持久力には、彼女の上級生としてのキャリアと、部のキャプテンというプライドを打ち破るのに、十分過ぎる効力があった。
残り五十メートルの所で、とうとう追い越す事に成功した。日頃、練習らしい練習をしていなくても、陽の目を見た事が無い陸上部のエースのレベルには、匹敵していた。そのままリードを保ってゴールしたので、彼女の野望は、ここで打ち砕かれる事となった。
部員でもない一年生に負けてしまったので『男子を相手にしていた』といった理由は言い訳にはならない。ゴール直前迄のリードを、もうちょっとだけ維持できるだけの体力を、彼女は持ち合わせていなかった。圧勝とは行かなくとも、力の無さという限界を思い知らされた結果こそ、勝負の後に出た答えだった。
「先輩…。」
スタートを鳴らした藍子は、泣きながら駆け寄って行った。千秋と他の一年生部員や、上級生達も、みんな大原の元に集まった。
『散々、自分達を苦しめた張本人だっていうのに何故?どうして?』
西尾や川崎ならともかく、一年生部員が大原に感情移入するなど、まず有り得ないと長井は疑問にかられていた。言う迄も無く常に先輩風を吹き回しているあまり、日頃より後輩達からは、好感を持たれていないという理由からだった。この時ばかりは、そんな先輩が敗れた現実を、誰も喜んだりはしなかった。この勝敗により陸上部の長としての威厳が、もろくも崩れ去ったという、歴然とした事実だけが残ってしまったからだった。
根本はホッと溜息を吐くと、少しだけ笑みを浮かべながら、しばらく光景を眺めていた。危機感が薄かった今迄の陸上部にとっては、ある意味で、いい結果に思えてならなかった。このまま何も起こらずに、事が終ってくれればいいと、そう願っていた。
一方で長井は、口約通り上級生の絶対上位体制を、自らの手で終わらせてやったにも関わらず、未だ立場を度外視され続けていた。藍子達にとっては多分、この改革は、それ程に必要とはされていなかったのかも知れない。
相変わらず、こちらに背中を向けている姿勢から、本人達は救って貰ったという意識は、持っていないと察するしかなかった。もしかしたら大原のプライドだけではなく、陸上部の存在そのものを、自分は打ち砕いてしまったのかも知れない。
「先輩!一応、俺の勝ちだけれど、約束を守るかどうかは先輩次第だから。それと千秋、藍子…。余計な事して悪かった!」
こんな結果が面白い訳が無いが、どうやら自分は『やってしまった』様だった。そこで、何とか場を和ませる気の利いたセリフを言わなければと、必死になった。この二人には色々と親切にして貰ったが、しばらくは口をきいて貰えそうにはない。
恩返しをしたつもりが、裏目に出た結果とはなったが、これで良かったとも思った。結局、この二人を始めとする一年生部員達は、心の何処かで大原を、キャプテンとして慕っていたに違いない。それを再認識させるキッカケを、自分が作ったも同然だった。
「勝手に仲良くやってろよ!そんなに先輩を愛しているなら、これからも好きなだけイビられ続けるといい。俺は、そんな集団とは関わりたくはないからな!あーっ、入部できなくて良かったっ!」
今度は捨てゼリフの様に言い残すと、そそくさと立ち去ろうとした。やるべき事はやり尽くして、わだかまりも無くなったので、自分にとっては、十分な結果を残したと思った。
『待って!』と突然、大原の呼び止める声が後ろから響いたが、振り返る必要は無いと思い、構わず背を向けたまま素知らぬ振りで歩き続けた。仕方なく大原は、諦めたのか連呼はせず、代わりに藍子に言うのだった。
「明日から練習には顔を出す様に、彼に伝えておいてね。」
『それは何を意味するのだろうか?』と一年生部員は勿論、上級生達さえも驚きを隠せない中、根本が勝手な解釈を始めていた。
「そうかぁ!彼の入部を認めるのね。さすがキャプテンだわ!」
すっかり部員達は、それを間に受けてしまっていた。男子部設立の容認を匂わす発言に取れたが、まさか、とうとう…。
「本気なの?じゃあ今迄、一体何の為に苦労して来たって言うのよ!」
西尾が訴えると、上級生達の不満は高まっていたが、それに対して大原が応える事は無かった。余計な言葉を発しない潔い態度に、一年生部員達は、ますますキャプテンらしさを感じて行った。負けた相手を気遣うなど中々できる事ではないし、負け惜しみを口にしないどころか、改めた考えをもって引き止め様とさえした行動に、強く惹かれたのだった。
しかしそれは、そうあって欲しいと後輩達や顧問が勝手に願う、あくまで大原の理想像でしかなかった。実際、本人が抱いていた意味合いのものとは、程遠いものだった。
『負けたのは自分の専門競技ではなかったから…。今度は得意のマラソンで、もう一度、勝負してくれれば絶対に負けないから!』
本当は、そう言ってやりたかったが、言わなくて良かった。そんな往生際の悪い発言をしたら、それこそ部長としての信用を、失ってしまう所だった。周りは勝手な妄想をかき立てている様なので、それなら、その流れに乗ってしまった方が得策かも知れない。
「とにかくね…、彼にはポテンシャルが感じられるのよ。だから、それに賭けてみたいの。ねっ、先生。」
知らない内に、心にも無い発言をしていた。
「あなたが、そう考えているのなら…。」
元々は、それが望みであった根本にとって、彼女の意向を拒む理由は無かった。自分が去った後の出来事を知る筈もない長井は、これから今日も、夕刊配達に励むのだった。
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