第8話 ジェラシー
「ねぇ、良かったら一緒に食堂行かない?」
昼休み開始のチャイムが鳴ると、藍子が誘って来た。わざわざ隣りの教室からやって来た、千秋も一緒だった。
「ゴメン、昼はパンしか食べないんだ。」
そう言ってごまかすと、あっさり断ったが、今度は千秋が言って来た。
「でも、それじゃ体力は付かないわよ。きちんと放課後、走れるの?」
「放課後って…?」
「だって陸上部でしょ?」
唐突に、身に覚えの無い事を言われたので、目が仰天した。誰が、そんなガセネタを振り撒いたのかは知らないが、入る何て一言も言っていないので、勝手な話しは進めないでほしかった。この間の一件で全ては終わった筈であり、それでも尚、そういった話しが浮上するのは迷惑、極まりなかった。すると再び千秋が、こんな事を聞いて来た。
「ねぇ、どうして入りたくないの?」
「どうしてって、着替えるのが面倒だし…。あぁっ!」
突然、何かを思い出し、せっかく宛がわれていた部室を掃除するのを、すっかり忘れていた。慌てて教室を飛び出すと『着替え』で思い出した部室に直行した。最近、本当に色々あって、いつかやろうと思うばかりでいた。家を出る時から、制服の中にジャージを着込むのが習慣になっていたので、場所を確保する必要も無くなり部室の事は忘れがちだった。
埃だらけの部室の前迄、来たものの掃除用具を持って来るのを忘れてしまった。大急ぎで取りに行こうとした時、隣りの部室のドアが若干、空いているのが、ふと目に止まった。この学校の部室は全て校舎からは離れていて、六つの部屋で一つのブロックになっていた。
長井が与えられた部室のブロックは、どれも使われていない。男子だから女子生徒と、くっ付ける訳には行かないと、根本が考えた上で宛がってくれたに違いないが、ある疑問が浮かんだ。ここのブロックの部室は以前、何の部で使用されていたのかという事だった。興味本位ながら恐る恐る、その隣りのドアを開けてみる事にしたが、そっと中を覗くと…。
「出たあぁっー!」
何者かが、中に立ちすくんでいたのだった。
「何が『出た』のよ!失礼ね。」
それは、根本の姿だった。電気も取り付けられていなかったので、暗くて見えなかった。
「先生!ビックリさせないでくれよ。」
「あぁ、ゴメンなさいね…。って何で、こっちが謝らなきゃならないのよ。あなたが勝手に入って来たんでしょう!こっちがビックリしたじゃないの!そうそう私も、あなたを探していたのよ。藍子に、ここに来ているかも知れないって聞いたから。でもあなたの部室って、隣りじゃなかった?」
「いや…、何かドアが開いていたからフラーッと…。所で先生、俺に用があるって?」
「えっ?部室を掃除しに来たんでしょう?私も一緒に手伝おうかなぁなんて思って。」
お互いがコソコソしていた為、ぎこちない会話がしばらく続いたが、それに終止符を打ったのが、こんな一言だった。
「先生?俺が入部するとか、勝手な話しが進んでいる様だけど、こっちは知らないから。先生が勝手に決めた計画を、みんなに吹き込んでいるんだろう!俺がさっき、その話しを聞いて逃げたと思って、それで慌てて、ここに…。」
「違うのよ!本当にお掃除の手伝いに…。」
どう考えても、勧誘という目的以外には考えられず、それは絶対に嘘に決まっていた。
「この部室の件は有難いんだけど、先生の気持ちには応えられないんだ。何されたって入る気は無いし、これ以上、先生にヘコヘコされると、また三年生達に面白くない目で見られるから。」
例え恩はあっても考えを変える気など更々無いが、元を辿れば着替える場所さえ満足に用意してくれない、学校の配慮が欠けていた。たった一人の男子という理由からだと言うのなら、どう考えても軽く見られ過ぎであり、自分には非が無い事だった。この学校に貢献するつもりは全く無く、感謝もしていなかったという気持ちを察したのか、根本は溜息を吐きながら言った。
「やっぱり、嘘は通せないわね。もしかしたら、まだ『その気』が少しでもあるんじゃないかなと思って、ちょっとだけ期待して来てみたのよ。でもね、とにかく私は、いつ迄も待っていたいから…。」
「だから幾等、待たれたって無駄だって、さっきから言っているじゃないか。」
「無理には誘わないわ。あなたの気持ちが変わる迄、本当に、いつでも待っているから。ただ、それだけよ。」
冷たく言い放ったが、そう冷静に言い残すと、背中を向けて校舎に戻り始めた。入部するかしないかは勝手なので、そちら次第で、いつでも無期限に受け入れますよ、といった姿勢だけは示したかった様だった。
『そんな都合のいい待遇や選択肢を、自分なんかに与えるなんて…。』
顧問でありながら、大原達に散々翻弄され続けても、まだ自分を諦め切れないでいる姿勢は、全く変わっていなかった。そういった大きなリスクを背負って迄、入学して間もない自分に、何等かの優位性を感じている様にも取れた。
この時になって心境の変化が現れ始め、そこ迄して必要とされているのなら、これ以上、根本を振り回す行動は辞めるべきだと考えた。今、目の前に焼き付いている後姿に、センチな気持ちを抱いてしまうと思わず呼び止めた。
「先生っ!俺は…、先生の気持ちに応えられない訳じゃない。でも先生が、どんな手段を使ったって三年生達は絶対、俺を認める訳がないんだ。」
今の言葉が意味するものは果たして何か、期待が持てるものなのだろうかと、足を止めて振り返った根本は、込み上げる笑みを隠せなくなった。やはり何となくでも、陸上部で自分を試したいという気持ちが、あるのかも知れない。大原達の存在がネックになっているが為に、前向きになれないに違いないという意向を、後ろから浴びせられた気がした。
「三年生達なら心配要らないわ、私が説得すればいいだけの話しだし。この間の勝負だって現に、もしかしたらあなたが勝っていたかも知れないのよ。大丈夫、勝手な事は言わせないから。そうかぁ良かったぁ!」
すっかり、根本は『その気』になっていた。本人に、どうしても入りたくないという意思があるのなら、それを説得させるのは難しかったが、大原達の方を説得させて事が済むのなら簡単だった。この間の異議を唱えられても仕方のない、怪しげな勝負をネタにすれば、手間が省けるからだった。弱き者には優しい一面を見せる根本だが、自己主張論ばかり通す相手には、独断強行の手段さえ用いる、ダークさを兼ね備えていた。
「誰も入部するとは言ってない、ただ…。」
「ただ?」
長井の意向は、百パーセント根本を喜ばせるものではなかったので、このセリフの続きが、ぬか喜びで終わらない事を願った。
「大会だけとかなら、出てみてもいいよ。」
「ホントぉ!」
「その期間だけ練習に出るっていうのを、先生が認めてくれるのなら…。」
「勿論よ!よぉし、そうと決まったら早速、日程を組まなくっちゃ!」
「あれ?掃除の手伝いは…。」
そう言うなり、飛び跳ねて一目散に去って行ってしまったので、やむなく一人で渋々と掃除を始めるのだった。期待を持たせる様な事を言ってはみたものの、これが上級生達の反感を買わない訳がなかった。
仮にも、たかだか入学して間もない一年生が、限定的に助っ人参戦する事など、大原が素直に認めるとは思えなかった。一旦、収まった嵐を、再び呼び起こしてしまったのかも知れない。自分に見合った種目すら把握していない現状から言えば、単なる安請け合いにしかなっていなかった。
「まだやっているの?掃除。」
やって来たのは、藍子だった。
「参っちゃったなぁ、ホント。」
今の出来事を、彼女に話し始めた。
「私でも許さないわ!と言うのは冗談だけど…。確かにね、入部する訳でもないのに、大会の為だけに練習に出ますなんて言ったら、先輩達が黙っちゃいないわ。」
この学校の陸上部は、部員以外の人手を借りて迄、大会に出場するという形式は取っていなかった。それは大会選手枠から漏れてしまう、部員の立場を考慮するという、やはり設立当初からのルールに基づくものだった。正規の部員を外して迄、部外者を参入させて、いい大会記録を残す理由はなかった。
上級生が絶対、有利な方針しか無いと思いきや、随分と情があるルールが存在していた。何故こういった、まともなルールをもっと増やさないのだろうかと長井は思ったが、その前に、自分の心配をしなければならなかった。
『思わずモノの弾みで言ったそうです。』
そう根本に言って欲しいと依頼するのが、最終手段となり事情が事情なので、それを藍子は素直に呑む他無かった。今日の放課後に実行する事になり、長井が発した無責任な発言は、たった数時間で撤回される事となった。
根本にしてみれば、本当に『ヌカ喜び』になってしまった。全ては藍子に促された通り、やはり大原達の反発が怖かった事にあった。
幾等、この間の勝負で接戦に持ち込めたとはいっても、それだけでは説得力の効果は十分ではなかった。問題なのは『赤信号をみんなで渡れば怖くない』という主張を掲げる、束になった上級生達程、手の付けられないものはない事だった。タイマンで、腕力を競い合ったら勝てるかも知れないが、そうも行かないのが現実だった。
「さっきの先生との話し、誰かに聞かれてなんか、ないわよね?」
「どうして?」
「アンタって鈍感ねぇ。ウチの部の先輩達に、全てを聞かれていたら、後で何を言われるか分からないでしょう?今の私達の、この会話にしたって、誰にも聞かれていないとは限らないのよ。」
言われてみれば確かにそうだが、こうして現に、昼休みに部室に来ているのは、掃除をしに来た自分ぐらいだった。
「とにかく今の先生は、あなたが練習に出るって事で、浮かれ気分になっているから。先輩達の前で、その事を大々的に言われでもしたら私達は…。そうなる前に、早く手を打っておかないと。」
しかし既に手遅れで、ここに来てからの昼休みの出来事は全て、大原達に筒抜けになっていた。
「あの長井って、ホント調子に乗って、いい気になり過ぎているわ!」
そう西尾が言うと、続けて川崎も言った。
「入部もしない一年生が、大会だけの為に練習に出るだなんて何、生意気を言っているのかしら。認める先生がおかしいわ!」
彼女達は一体、どこで聞いているのだろうかとなるが、それは陸上部の部室だった。実は長井が今、使っている部室と陸上部は、背中合わせになっていた。当然ながら壁に耳を宛がえば、声はモロに聞こえてしまうのだが、こんな構造上の仕組みは入学して間もない、一年生の藍子には気が付く筈もなかった。
この学校に長く棲み着いている、上級生ならではの悪知恵以外、何物でもなかった。この間迄なら長井が使用している、部室の周辺は全て空き部屋となっていたが、最近の根本との怪しい関係を警戒した、大原達が一策練った。上級生と同部屋では、息苦しい思いをしている現状を察して、一年生用の部室を、根本を介さずに勝手に学校に申請していた。
勿論、建前であり本当の利用目的は、油断している長井に近付く事で、より詳しい現状や情報を得る事にあった。発表前なので藍子達、一年生も知らされていないが、その悪知恵はエスカレートして、大原は壁に穴迄をも空けてしまった。お陰で、声の通りは一段と良くなり今日早速、役に立つ状況に遭遇した。
その内、盗み聞きでは飽き足らず…。そんな、全てがお見通しの事態に気が付かない二人は、更に話しを続けた。
「所で、この部室って前は何に使われていたんだろう?」
「えっ?確か柔道部だったんじゃないかしら。もう今はないけれど、先生にチラッと聞いた事があるわ。私も詳しくは分からないのよね。あっ、こうしちゃいられない!」
藍子は慌てて、その場を走り去ると向かった先は、根本を説得すべく職員室だった。
「この学校にも、柔道部なんてあったんだ。へぇー…。」
この部室が以前、何で使われていたのかという実に、どうでもいい事が気になっていたが、のん気に関心している間にも大原は…。
「とにかく今日の放課後、何とか手を打って置かないと…。」
上級生の確固たるポジションを守らなければ、部長として全部員達に示しが付かなかったが、そういった危機感は他の上級生達には、まるで無く…。
「でも彼と仲良しの藍子が、今から先生を説得しに行ってくれるっていうんだから、手間が省けて良かったわ。」
西尾が言った。これで長井が大会だけに出るなどという、ふざけた話しは無くなると、三年生達は安心しきっていたのだが、大原だけは違った。どんなに本人が、入部や大会だけに出るという条件を拒んでも、顧問が認めてしまったら、それ迄だった。藍子の説得なんて所詮は、無駄になるというのが彼女の見解で、その時は例え部長でも逆らえなくなる。
『先生が、そんな勝手な事をやるのなら私達にも考えがある。部員全員を大会には出さないから!』
あの、接戦で終わらせてしまった勝負の日以来、強気な行動は取れなくなっていて、その強硬的な手段は既に使えなくなっていた。
『そんな偉そうな事を言える立場なの?この間の勝負、もしかしたら負けていたのかも知れないのよ?』
二言目に、そう言われたら何も言い返せなくなり、絶対権力があった以前の様な訳には、もう行かなかった。
「アンタ達、何を他人事みたいに言っているのよ!藍子が彼に頼まれた通りに、先生を説得しに行った所で、それで全てが終わると思っているの!?」
突然、奮い立った様に言うと、西尾と川崎はキョトンとした表情になった。まだ現実が分かっていないらしかったが、いちい説明するのも面倒になり…。
「あの先生、一度決めた考えは中々曲げ様とはしないから…。」
そう言うだけに留めると、二人は分かった様な、まだ分かっていない様な表情を浮かべていた。しかしながらも、このまま放っては置けないという現状にだけは、気が付いた様だった。部長としての絶対的な立場を、少しだけ失ってしまった大原には、仲間の力が必要不可欠になっていた。回復させる為の行動を起こさなければならず、上級生達には決起して貰わないといけなかった。
「何だか、さっきから話し声が聞こえている様な…。気味悪いなぁ、まるで誰かに見られているみたいだ。この部室、ひょっとして呪われているのかな?」
ふと長井は呟くと、一人しかいないにも関わらず周囲を見渡すと、大原達は慌てて一斉に口に手をやった。穴を通した事で、声の通りが良くなっているのだから、こちらの会話も漏れ易くなっているという事だった。
「んっ!?」
長井は、いい加減その『穴』に気付いた。そーっと目を近付けると、大原達には緊張感が走り、これだけ騒ぎまくっておいて、聞こえていない訳がなかった。盗み聞きしていた見返りからか、まるで立場が逆転した様に、下級生に怯えなければならなくなった。
ちょうど昼休みが終わるチャイムが鳴り、長井は大急ぎで校舎に戻って行った為、何とか難を逃れられた。冷や汗を拭った大原は、ある一つの確信を抱いていた。長井にとって、入部したくないという考えは本心ではなく、自分達上級生の目を気にするあまり、ためらっているだけに違いない。
その陸上部は創立以来、未だ脚光を浴びる機会には恵まれていなかった。彼女の先輩達も、何の実績を残す事も無く涙を呑んで卒業して行った中、入学して間もない一年生が、何の苦労もなく大会に出ようとしていた。そうなると、自分達の今迄の苦労は何だったのかという事になり『返せ私の青春を!』と叫ぶ場面になった時では、もう遅いのである。
そういった意思に反して、長井が入部できる環境や、大会に出れる条件は整いつつあった。全ては大原、そして何よりは部の全体の力の無さが、今の展開を生み出ししまった現実は、否定できなかった。だから今回の一件を拒むのは、ただ出る杭を打っているだけなのかも知れない。
分かってはいても本人の性格上、いい所だけ持って行かれるのは、どうしても嫌なのである。ましてや下積みの経験もしないで出場枠を得ようなどと、もっての他であり、部長の立場から言えば一番、許せなかった。
長井が大会に優先的に出れるのは、選手の座を賭けて競い合う相手が、校内にはいない現状からだった。その気になればリレー以外の競技であれば、この学校の代表選手として、何でも出れてしまうのである。
男子という土俵の違いから、どんなに出場競技枠が増えたからといって、女子のレギュラー枠に変動は起きない。例え長井が一人で陸上部を名乗ったとしても、男子部と女子部では全く別扱いになるので、彼女の立つポジションには無縁の話しだった。
言ってみれば校内で、女子バスケ部の活躍を同じ男子部がねたむなんて事が、果たして有り得るだろうかという理屈と同じだった。彼女が脅威に感じているのは、いきなり現れた後輩に、やはり話題をさらわれたくはないという事にあった。
もし長井が、これから大会に備えた練習を積めば、そこそこの成績は残せるかも知れない。そこ迄、認めているからこそ、その存在が自分達にとっては厄介だった。部の設立から一度も成し得なかった実績を、どこの馬の骨か知れない一年生なんかに作られては、卒業生達に申し訳ないとさえ思っていた。
それが彼女なりの、この部を安全に存続させ様とする責任感であり、単なる嫉妬心にしか過ぎないが陸上部を一番、愛してやまないからこそだった。部長自らが、こんな鎖国の様な考えでは、レベルアップも発展もないまま、自分達も卒業を迎える事になる。
昔からのルールを見直さなければならない、時期に差し掛かっていたのだが、そういった危機感に気が付く上級生は一人もいなかった。唯一、気が付いていたのが彼女だったが、いつ迄も自身がリーダーでいたいから、口には出さなかった。陸上部を離れると自分には何も残らない、ただの女子高生になるのである。そして、運命の放課後を迎える…。
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