閉鎖領域

藤光

閉鎖領域

 閉鎖closed――。











 ある日、虎がいることに気づいた。


 自分の妻と子供を殺した犯人を目の前で取り逃がしたあの日のことだ。ようやく明るくなりはじめた東の空が、濡れたアスファルトに滲むように映っていた。


 左胸の内ポケットに逮捕状。前夜から張り込みをしていた車内。フロントガラスに冷たい雨が次々に水滴をつくり、流れ落ちていくのを数えながら、私はずっと見ていた。西の空に月が残る夜明け前、マンションのエントランスからバッグを持って出てきた男が、背を丸めて歩いて出ていくのを見ていた。


 ドアグリップを握って車を出ようとしたその時に、反対側の歩道をこちらへやってくる男の持つ黄色いバッグの柄が虎の模様に見えた。躍動する肩口の筋肉を覆い、つやつやと輝く毛皮に見えた。吸い込まれるように視線をバッグに向けたその拍子に、バッグの模様が虎の肩口から首へ、首から頭へと次々に変わってゆき、きらきらひかる虎の金色の目が、車の中にいる私を覗き込んだ。虎は確かに私を見ていた。


「藤光さん!」


 左腕を掴まれて我にかえると、右手の関節が白く浮き上がるほど強くドアグリップを握りしめていて、男は街灯のある角を曲がって姿が見えなくなるところだった。あわてて車を降りて後を追い、街灯の下から曲がっていった通りを見透かしたが、ゴミ袋を漁るカラスと空を映した白い水溜りがいくつか見えただけで男の姿はすでになかった。相棒の田中が真っ青な顔をのまま、通りをカモシカのように駆けていった。ぱっとカラスが飛び退るが飛び立たない――。虎が通ったのならカラスは飛び去ってもういないだろう。あの男は見つからないだろう。途端に行き場を失った左胸の逮捕状が重く感じられた。





 部屋にはすえた匂いがこもっていた。ほとんど窓を開ける者がないからだ。その南向きの窓には常にブラインドが下されている。部屋の一角を照らしている電極の黒ずんだ蛍光灯は間断なく明滅していてなんとなく気ぜわしい。


 刑事課長の席はそんな部屋の窓際にある。私は皆より一回りは大きい課長の机の上に、お返ししますと言って逮捕状を差出した。そのときの刑事課は、人がほとんど出払っていてがらんとしていた。私が取り逃がした犯人の行方を追っているのだ。


 殺人犯人が逃走しているのだ。この後、犯人が次の事件を起こさないとも限らない。まだマスコミに嗅ぎつけられてはいないが、警察署を挙げての捜索が記者たちの興味を引かないわけがない。まもなくテレビもネットも大騒ぎになるだろう。三日前の事件は、すでに大きく報じられているのだ。


「どうして逮捕しなかった」


 差し出した逮捕状を机に収めながら、課長は声を震わせてそう言った。感情を押し殺した声だ。


 ただ、この人はなぜ私が男を逮捕しなかったのか訊いているのではない。遠回しに犯人を取り逃がした私の弁解や謝罪を促しているのだ。


 馬鹿馬鹿しい。

 そうであれば「謝罪しろ」と直接言えばいい。もっとも私に謝罪する意思はないのだが。


「どうした。なにも言えないのか」


 別になにもありませんと答えると課長の顔色が変わった。


 犯人の逃走。第二、第三の事件。警察捜査の不手際発覚。マスコミによるバッシング。謝罪、謝罪、謝罪。頭髪の薄い課長の頭の中が透けて見えるようだ。


 課長は、私がそうした空気を読み取って、平身低頭、犯人を逮捕できなかったことを謝罪すると思っていたのだろう。くだらない。私に謝罪する理由はない。なぜなら私は間違ったことをしていないから。


「馬鹿にするな!」


 顔を真っ赤にして声を張り上げた。無益だ。私はこの人を馬鹿にしているわけではない。しかし、課長はそう思い込んでいる。本当は侮辱されたのではないのに、自ら侮辱されたように思い込んでいる。


 そうだ。人は自分が他人からどう評価されているか、そればかりが気になる存在だ。だから、ありもしない評価を自分の中に作ってしまうのだ。


「犯人を目の前にして逮捕しないとはどういうことだ! お前は殺人事件の犯人を取り逃がしたんだぞ」


 確認されるまでもない。課長のいうとおりだ。私は犯人を取り逃がした。


「刑事として失格だ!」


 無意味。


 この人の怒声は何に対して発せられているのか。私に? あなたが常々、お前は刑事ではないと貶め続けた私に?


 私は、欠員が出たため刑事課にいるだけだ。望んで刑事をしているわけではない。気の進まない私を刑事課に引き入れたのは、当の課長ではないか。なんと滑稽な人だろう。そして不愉快だ。吐き気がするほどに。


 このとき部屋の匂いが急に強く感じられた。なんだこれは。鼻が曲がりそうだ。


「なんとか言ったらどうだ」


 課長の怒気は収まらない。滑稽は続く。

 言いたいことはある。しかし、私は口を開かない。


 この人の聞きたいのは、私の言い分ではなく、この人が「聞きたがっている」ことのはずだ。それは私が失態を認め、謝罪するということなのだろう。私にそうする義理は何もないのだが、この人はことには気づかない。


「お前は殺人犯を逃したんだ!」


 顔を歪めて課長が言った。


「殊勝にしているつもりか知らんが、お前のだんまりは薄気味悪いだけだ。きちんと話せ。

 おれだけじゃないぞ、刑事課のみんながお前のことを気味悪がっている。何を考えているか分からないってな。その挙句に今朝の犯人の取り逃がしだ。変人だとは思っていたが、役立たずだったとはな。お前はクズだ。失格だ!」


 課長は手を上げ、立てた人差し指を私に突きつけた。


 結局、この人はこれが言いたかったのだ。怒りに任せて、私がだめなクズ人間だとぶちまけたかったのだ。私を辱める言葉を投げつけたかっただけなのだ。


 なんのために?


 それは腹立たしいから。殺人犯人を取り逃がすという失態を犯した刑事が自分の部下であることと、そうした不運がほかの誰かではなく自分に降りかかったことに納得いかないから。


「お前のために言っておいてやる。もっとほかの刑事が何を考え、どう動いているのかよく見て勉強しろ。自分に足りないものがわかるだろう。

 そしてもっとみんなと協力しろ。刑事としての資質に欠けるお前は、一人では何もできないんだからな」


 この人は、こう言うセリフを吐くことで、私だけでなく自分自身も欺こうとしている。ところがあまりに白々しい言い草に、私はおろか自分自身をも騙せないでいる。とんだピエロだ。滑稽を通り越して気の毒ですらある。


 私の人格をクズとまでこき下ろした後に白々しい教訓を垂れたところで、聞いている私がどう思うのか。誠意のない助言を吐くことが免罪符となり得るのか。この人には決定的に想像力が欠けている。


 さらに匂いが強くなってきた。


 なんだこの匂いは。獣……。そう、子供の頃、よく見物に行った動物園の匂いだ。動物の体臭と糞尿の匂いだ。


 ――臭いな。


「なんだと!」


 突然、課長が怒り出した。事務机を激しく叩いて腰を浮かせた。いまにも私に掴みかかろうとするような勢いだった。


「やっと口を開いたかと思えば臭いだと。人を馬鹿にするのもたいがいにしろ!」


 何を言っているのか分からなかった。顔を真っ赤にして口汚く私を罵るが、私は何も言っていない。馬鹿にされていると思い込んでいれば、ありもしない声が聞こえるのだろう。


 そんなことよりも匂いだった。ひどい獣の臭気に私は閉口していた。


 ――我慢しなくていいぜ。


 ひときわ臭気が強くなった。思わず口と鼻を押さえる私を見て、課長はあっけにとられていたが、そんなことを気にしてはいられなかった。私は失礼しますと言い置いて部屋を出た。


 部屋を出ると臭気は幾分か収まったが、私はそのまま便所に駆け込んで洋式便器に抱きつくようにして、激しく嘔吐した。


 そのときの私のそばには何かがいた。獣の気配。


 ――すっきりしたろ。


 どろりと赤茶けた吐物と共に私を苛んでいた不快感が少しずつ便器の排水口へ流れ込んでゆく。涙を流しながら嘔吐し続ける私の視界の端を金と黒の縞模様がよぎっていった。





 違和感があった。本当に刑事になりたいわけではなかった。


 職業としての警察官を選んだのも、生活していくためのお金を得ることと、なにより無職でぶらぶらしていることの体裁が悪かったのが理由だった。


 それまで交番で勤務してきた私が一年前、刑事課に配属となった。それは警察官となってから一番恐れていたことだった。私は刑事に向いていないと思っていたからだ。


 刑事は人の自由を奪う装置だ。ずっとそう思ってきた。


 犯罪を犯した者を探し出し、逮捕する役割を与えられた職業であり、この世界をきれいにしたいと考える人たちによって設置された、穢れた人たちを捕獲するための装置。


 自分はけがれていないと考えられるほど、私は傲慢でなく鈍感でもない。しかし、世界には私と異なる考えの人がたくさんいると刑事になってみて初めて知った。刑事は自分が穢れているなど夢にも考えたこともない人たちばかりだった。不思議だった。


 自らの権威の源泉に疑問を持つ者に、その権威をふりかざす資格や能力はない。私は間違いなく刑事として失格だ。





 今朝の男は三日前、自宅で妻と小学生の娘を殺していた。三十二階建て、4LDKのマンション。妻は玄関で、娘は寝室でそれぞれ殺されているのを発見された。刃物による刺殺。傷つけられながらも妻は夫から逃れようとしたのだろう、食器がぶちまけられ家具が引き倒されていた室内は、至る所に血痕が飛び散り、血溜まりが形作られていた。凄惨な現場だった。


 竜巻が通り過ぎたかのように家具や衣服、食器が散乱した室内を呆然として歩き回るうちに、寝室の南側にあるベランダに奇妙なものが印象されていることに気づいた。窓を開けて見ると獣の足跡だ。猫の足跡? いや、並ぶ肉球は私の手のひらより大きい。なんだろう。


 しかし、コンクリートがわずかに濡れていただけのその足跡は見る間に形を失って消えてゆき、後で行われた鑑識活動でも発見されなかった。あの獣の足跡はなんだったのだろうか。


 現場から姿を消したこの家に住む男は、体調不良を理由に半年前から会社を休職していた。勤務態度などを捜査するために会社の同僚を訪ねると、事件の発生を驚きながらもどこか腑に落ちたような表情で男の話をしてくれた。


「……ええ。勤務態度は真面目でしたね。欠勤はないし、営業成績も普通でしたよ、よくもなく悪くもなく。ただね……」


 同僚は一段声のトーンを落として続けた。


「評判は良くなかったですよ。社内でも取引先からも。とにかく暗いんです。あまり話さないから何を考えているか分からないし。そうかと思うと、突然一方的に自分の考えをまくし立ててみたりしてね。

 一緒にいて気持ちのいい男じゃなかったですね。当然、付き合いも悪かったし、薄気味悪いってみんな言ってましたよ」


 今回の男に限ったことではない。犯人の周辺への聞き込みは、いつもこうした内容になりがちだ。ネガティヴな印象ばかりが芋づる式に関係者の口から次々と語られるのだ。他人の悪印象や性格の欠点を語るとき人は饒舌になる――このことを知ったのも刑事になってからだ。


「休職前の様子ですか……? 特に変わった様子は……そう、病院に通っているような話をしていました。なんの病気かはっきりしないのですが、確かそんなことを言ってましたね……」


 なぜ、こんなことをしているのだろうと感じることがある。人の過去を探り、知られたくはないはずのことをあぶり出す作業。しかし、同僚の刑事は、これこそ刑事の醍醐味だという。犯人を突き止め、追い詰める実感があるのだと。


 同僚のあいまいな記憶が男の潜伏先の発見につながった。自宅にあった診察券から突き止めた病院に聞き込みに入ると、男は一年前から妻とは別の女性と一緒にこの病院の心療内科に通っていた。病名はアルコール依存症。男はここの断酒セミナーで知り合った女性と不倫関係になっていたのだ。





「個別に患者さんのプライベートに関することをお話しするわけにはいかないのですけれど――」


 そう前置きしながら、病院職員は答えてくれた。


 アルコール依存症という共通の悩みを抱えた者同士が集まるセミナーでは、参加者の間に恋愛感情が芽生えるということは時折あることだという。本人の苦痛が、家族や友人との間で共有されないケースではその傾向が特に強くなるらしい。


「そうした方は、そのうちセミナーにも参加されなくなることが多いです。その男性はここ数ヶ月、参加されていませんでした」


 私たちも気にはなっていたのですがと、職員は表情をかげらせて口をつぐんだ。男の症状は時折怒りっぽくなる程度で断酒できていたという。


「ただ、ご本人がおっしゃる限りにおいて――です。こうした取り組みは患者さんに対する信頼なくして成り立ちませんから」


 そして、その信頼が裏切られたところで傷つくのは治療者ではなく、裏切った当の患者であるのだろうから。病院もセミナーも所詮は偽善者の自己満足に過ぎない。私は不倫相手の女性の住所と氏名をメモに控え、病院を後にした。


 聞き取った住所にあるマンションの前で張り込みながら考えた。


 私は殺人犯人を追っている。そして、追い詰めつつあると言えるだろう。犯人を逮捕し、法廷の場で真実を明らかにする――それが刑事の仕事だ。分かっている。


 しかし、裁判は本当に真実を明らかにすることができるのか。犯人に相応の罰を与えることができるのか。妻と娘を殺した男。不倫相手の元へ逃げ込んだかもしれない男。


 法は、彼をどう裁くのだろうか。


 彼自身は、その罪をどうあがなおうとしているのか。


 私は車のシートに身を沈めながら答えを見つけられないでいた。刑事だなんて、もうたくさんだ。


 六時間後。買い物袋を抱えた犯人の男と若い女がマンションのエントランスを入ってゆくのを見届けて、私は本署の刑事課長に連絡を入れた――犯人の居場所を突き止めましたと。


 車の外では雨が降り出していた。





 部屋へ戻ると課長の姿はなかった。留守番の刑事に訊くと、犯人捜索のため現場へ出かけたという。不快な匂いは嘘のように消えていた。


 廊下へ出たところで胸の携帯電話が鳴った。相棒の田中だった。


「なにしてんスか、藤光さん」


 電話越しの声が鋭く尖っていた。まだ本署にいると答えると若い刑事は露骨に舌打ちしてこう言った。


「あんた自分の立場分かってます? あんたが逃した犯人だ。あんたが探さずにだれが探すっていうんです? どうしておれやほかの刑事たちがあんたの尻拭いをしなきゃならないんだ」


 私の立場? どういう立場だ。犯人を取り逃がした愚かな刑事という境遇のことか。そのことで部下の相棒にさげすまれるみじめな男という役回りのことを言っているのか。


「黙ってないで……んとか言ったらどうです。もっとも何か言……ことがあるとすればですけど……」


 電話の向こうは風が強いのか、時折雑音に声が途切れていた。ごおごおと鳴る音に声が聞き取りにくいが、おかげで田中の皮肉をすべて聞かされずに済んだ。


 どこにいるのかと訊くと、男を見失った現場近くのビルをしらみつぶしに捜索しているという。付近の道路は閉鎖され、大規模な検問も行われているらしかった。


「……猫の手でも借りたい……」


 田中がぬけぬけとそう言うの聞いていると、私は猫と同レベルということなのだろう。猫か。


 どこへ行けばいいか尋ねると田中は鼻を鳴らして笑いながら言った。風の音が強い。


「……んた、馬鹿か。部下に指示……乞う上司がどこにいるっていうんです。……たおれの上司でしょ……」


 馬鹿――。私はこれまでもずいぶんと馬鹿にされてきた。良い年をした中年の刑事が、一回り下の若い刑事でも知っている捜査の基本を知らないからだ。聞き込みのコツや犯人捜索の要点、報告書の書き方に至るまで、刑事課の仕事は今までの部署とはまるで違う。私が積み上げてきた経験や知識はここでは無意味だった。


『こんな基本的なことも知らないのか』

『捜査を知らない』


 そんな声が聞こえてくるたびに私は体を固くしてきた。私の存在が他の刑事たちの足を引っ張っていると思った。そして間違ったことをして迷惑をかけるくらいなら、できることから少しずつやっていこうと考えるようになった。


 すると聞こえてきた声はこうだ。


『あいつは何もしない』

『怠け者』


 私は途方にくれた。


 そして自分の心が柔らかさを失って、硬く硬くなっていくことを自覚した。小さく凝り固まってゆく心を――。


「……てます?」


 携帯電話のスピーカーごしに、ごろごろと鳴る音が田中の声をさえぎって聞き取りにくかった。獣が喉を鳴らしているような太くくぐもった音だった。


 猛獣が喉を鳴らすような――?


「さっさと来て……探して……さいよ」


 ますます大きくなる雑音に若い刑事の声はほとんど聞き取れなかった。


「あんたが……逃したんだ」


 ごおっ。


 ひときわ大きな獣の唸り声に声はかき消された。


 ――黙れ。


 電話の向こうから唸り声に混じって、田中が息を飲む気配が伝わってきた。


 ――いつまでこんな若僧に好きなことを言わせておくつもりだ。


「……藤光さん、……なにを……言ってるんです?」


 相棒の刑事の声は戸惑っていた。


 ――おれが食いちぎってきてやろうか。


「藤光さん……!」


 暗く長い洞穴の底から響いてくるような咆哮ほうこうに田中の声は最後まで聞き取れなかった。私はその咆哮を耳にするとぞっとして、途端に見当識を失った。


 我にかえると携帯電話を握りしめたまま、薄暗い警察署の廊下に立ち尽くしていた。相棒からの通話は切れていた。





 田中の話していた現場に着いてみると、誰ひとり刑事の姿はなかった。街の中心部にほど近いオフィス街、道路をゆく車は疎らだった。道路を封鎖し、検問している制服警察官に尋ねても田中たち刑事がどこにいるのかは知らなかった。


「捜索範囲を広げたのではないですか」


 警察官の言うことがもっともに思われた。犯人逮捕のため、警察は付近を三ブロック四方にわたって封鎖していた。全体として九ブロックの封鎖だ。このエリアを捜索のための人数は圧倒的に不足している。


 ――猫の手も借りたいわけだ。


 相棒の言い草を思い出した。

 携帯電話で呼び出すが、刑事はだれも応答しない。犯人の捜索に入っているのなら当たり前だ。私は、田中が捜索していると言っていた雑居ビルに入った。あてもなく探し回るより、この建物を探す方が相棒に出会える可能性は高い。


 小さな古いビルだった。埃っぽいエレベーターホールを照らしている蛍光灯は一本きりで薄暗い。入居しているテナントを示すプレートは一階の飲食店と二、三階の消費者金融以外は真っ白だった。さびれた、ろくでもない雑居ビルだ。


 時刻は十時前で、開店に向けて仕込みをしている飲食店に軽トラックから食材を運び込むアルバイトがいるほか、ビルに人の気配はなかった。静かだった。歩くと靴が床を打つ音がコンクリートの壁に共鳴した。


 各階を見て回るため、エレベーターホール脇の狭くて更に暗い階段を上りはじめた。最初の踊り場で足が止まる。


 ――足跡だ。


 ぞっとして血の気が引いた。

 踊り場の床に手のひらほどの獣の足跡がべたりと印象されていた。殺人現場のベランダで見たあの足跡だ。階段を上へ向かっている。


 足跡を追って階段を上る。二階、三階、四階……。足音が高くならないよう気を配りながら上ってゆく。だんだんこのビルで犯人の男を追っているのか、獣の足跡を追っているのかわからなくなってきだした。足跡は点々と階段を上へ続いている。


 ――屋上まで続いているのさ。お前は知っていたはずだろう。


 やはり、そうだろうか。

 今朝、女の住むマンションから姿を現した男からこのあと生きてゆく意思は感じられなかった。死ぬ覚悟といったような決然としたものではない、未来を絶望した空気を纏っているといったらいいだろうか。


 あの男は間もなく死ぬ。


 ――獣だな。


 そう。あのとき男の中に棲む猛獣が、張り込みの自動車から飛び出そうとした私の目を覗き込んできたときに、私は確信した。私も獣の目を通して男の深奥に繋がったと。


 男の内は空っぽだった。


 ――それはお前の思い込みではないのか。


 思い込みなどではない。私には分かっているのだ。なぜなら――。


 追ってきた足跡が扉の前で途切れていた。その大きな鉄の扉は階段を登りきったところにあり、階段室と屋上とを隔てていた。ノブを握るとひやりと冷たい。鍵はかかっていなかった。


 ぎっ。

 錆びついていて軋む。しかし開きそうだ。

 私はこの扉を開けてどうしようというのだろう。この向こうに何があるのか、何かが待っているのだろうか。待っているのは犯人の男か、相棒の田中か――足跡を残した獣だろうか。


 ぎい。

 扉を押しひらく。ぽかんと空に向かって開かれた空間に物影はなかった。ただ重く垂れ込めた灰色の雲が、林立する高層ビルの額縁に切り取られたように見えているだけだった。人はいない、獣もいない。


 体の緊張を解いて屋上へ足を踏み出した。やはり誰もいない。歩いていって屋上の縁から地上をのぞき込むと、道路の閉鎖がまだ続いているのだろう車の行き来は少なかったが、街はいつもの光景だった。もちろん飛び降りた犯人の死体が見えるなどということもない。ここには何もなかったのだ。


 私はほっとすると同時に、これからどうしようと考えよどんだ。連絡も取らずぐずぐずしているとまた課長から叱責されそうだった。そんなところで何をしているんだ、早く捜索に合流しろ――。


 携帯電話を取り出して課長の番号を呼び出しタップする。呼び出し音。出るな。電話を取るな無視してくれ。


「――もしもし」


 課長はでた。


 ――きたぞ。


「なに?」


 不審そうな課長の声を置き去りにして、顔を上げるてみると、いましも階段室からひとりの男が姿を見せるところだった。血の気の引いた顔で空をふり仰ぎながら目をすがめている。さっきの私と寸分と違わぬ様子で。


 途端に脳裏に蘇る家具が引き倒され衣服や食器が散乱したマンション。血溜まりに溺れたかのような姿勢で死んでいた女。涙でシーツを濡らしながら冷たくなっていた子供。


 やつだ。


 男は焦点の合わぬ目で屋上を見渡すと、私を認めて一瞬凍りついたように動きを止め、ゆっくりとこちらへ歩きはじめた。


 ――やつだ。やってきたぞ。


 そんなことは分かっている。なんだ? さっきから聞こえるこの声は。だれだ? 私に語りかけるのは。


 だらりと垂れた手に握った携帯電話からは、課長が私を呼ぶ声がかすかに聞こえる。藤光。どうした……なにがきたんだと。もう、どうでもいいことだが。


 まるで滑るようになめらかな歩調でやってくる男は口元に笑みを浮かべていた。最初はかすかに。そして次第に大きく笑み崩れて白い歯が露わになった。


「そう。きてやったよ。あんた、刑事だったんだな」


 青白い顔をした男はようやく聞き取れるほどの低い声でそう言った。だれに対して? 


「そう驚くなよ」


 視線は私を貫き通してずっと彼方に向けられていた。何を見ている?


 ――分かっているはずだ。


 そう。私には分かっている。男が見ようとしているものが、男が語りかけているものが。


 ――どうするんだ? こいつを。


 この『声』だ。男はわたしの中に棲むものを見ようとしている。


 ――決めているんだったな。自由にさせる。そうなんだろう?


 自由? 殺人犯人を自由に。


 ――だからこそ、お前はやつを見逃した。そうなんだろう?


「自分を誤魔化すのはやめろ」


 男が『声』と私の間に割って入った。どういうことだ。この『声』は何者だ。男に気圧されて私はよろよろと後退る。


「あのセミナーで会ったよな。話したじゃないか。自分を誤魔化すのはやめようって」


 親しげに私の肩に触れる男の目は焦点が合っておらず、私でないものを見つめていた。


「あんたは、あんたの声で話さなくちゃいけない」


 私の中に棲むものを見ていた。それを見抜かれることはとても恐ろしかった。


 ――その手をふりほどけ。


「あんたはおれとは違う」


 目が合った。男の視線が私の心の奥まで覗き込んでくるのを感じた。ざらりと。


「あんたは虎を棲まわせちゃいけない」


 振り払おうともがいたが、力を入れているように見えない男の手は吸い付いたように肩から離れなかった。得体の知れない恐怖と焦燥感に私は頭を抱えてその場にうずくまった。


「自分の声で語らなくちゃいけない」


 震える背中に手が置かれるのを感じた。

 ――!


 そのとき獣のような声が長くながく私の喉から発せられるのを聞いた。この耳に確かに届いた。虎が咆哮するのに似た私自身のさけび声が。





 これで私の話は終わる。

 男はコンクリートの床にうずくまったままの私をそのままに、屋上の縁まで歩いてゆき、躊躇なく虚空にその身を躍らせる。そこには一瞬の逡巡もない。数秒をおかずに男は地面と激突するだろう――。





 彼にそうする自由があるべきだと私が思ったとおりに。

 











開放open

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

閉鎖領域 藤光 @gigan_280614

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ