曲事へのファーストペンギン

曲事へのファーストペンギン①


 いつもより暖かい布団の中で目を覚ます。下は適度に柔らかく、上は羽のように軽い。そして、規則正しく聞こえてくる小さな寝息が、わたしにいつもより快適な眠りを提供してくれた。


 壁に掛けられた、大きな時計を見る。時刻は七時半。いつもとあまり変わらない時間帯に目を覚ました。快適な眠りだったからか、睡眠時間は長くないものの割と目覚めはすっきりしている。


 かわいらしい寝息は未だに聞こえている。


 昨日の夜、もしくは今日に入っているかもしれない深夜帯に聞いた話では、いつもは規則正しい生活をしているらしく、夜遅くに寝ることは滅多に無いらしい。だから、いつも七時には起きていると言っていたえーちゃんは未だに寝ているのだろう。


 二度寝するのも悪くは無いだろうけど、良くは無いのも事実。とはいえ、えーちゃんを起こすのもなんだか申し訳ない気がする。と、なると、することは無くなってしまう。


 そうして、ぼーっとしていること、いくらか。えーちゃんから小さな声が漏れ出した後、その目蓋が開かれた。


「……おはよう、陽菜」


 いつもよりも小さな声でそう口にしたえーちゃんはとても眠たそうだ。


「うん、おはよう」


「……ごめん……待たせた?」


「別に待ってないよ、さっき起きたばっかりだし」


 ちらり、時計を見やる。その時、たまたま長針、短針、秒針がぴったりそろうタイミングだったようで、意味もなくなんか少し得をした気分になった。


「八時……」


 えーちゃんも時計を見たようで、そう呟いた。


「そろそろ出発の準備しないと……」


 そう言って、ぱっぱと制服に着替えたえーちゃんは、ボストンバックを取り出して、その中になにやら荷物をどんどんと詰めていった。


 学校が九時始業なので割と時間的には余裕が無い。かばんは昨日のまま放置してあるし、わたしは制服を着るだけでそういった準備を必要は特にはないんだけど。でも、えーちゃんもいつもはもっと小さいかばんだったような気がするんだけど。手持ち出来るようなそんな感じの……。


 制服に着替え、二つの尻尾を作りながら鏡越しのえーちゃんを眺めていると、最初からある程度は準備がされているようで、尻尾の付け根を束ね終わる頃にはもうバッグのチャックを閉めていた。


「陽菜は準備できてる?」


「まぁ、わたしは髪の毛以外だと、これを着るだけだしね」


 そう言いながら、軽く首を動かして尻尾を揺らしつつ、ポケットに入れた手でブレザーの裾をぱたぱたさせてみた。


「じゃあ、そろそろ出よう」


 ちょっと急ぎ気味な気はしないでもないけど、わたしも鞄を手に持ち、えーちゃんの後をついて行った。


 広い家の中を歩き玄関を出ると、そこにはいつもの高そうな車がエンジンをかけたまま待っていたあたり、色々と流石だなぁと思った。


「どうしたの陽菜……乗らないの?」


 ぼんやりしていると、いつのまにか、車に乗っていたえーちゃんが不思議そうな顔をしてながらそう尋ねてきた。


「あ、うん、ごめん、ぼーっとしていた」


 乗り損ねるわけにもいかないし、いつまでもドアを開け放しにさせておくのも何だと思ったので、ささっと車に乗り込んだ。


 すっきりした朝の目覚めに反比例して、なんだかぼーっとしている事が多いのと、昨日の夜色々と話したのもあって、移動中の車内では言葉数は少なく、でも、いつもよりも近い距離で隣合って座っていた。そんな沈黙でも時の進みはとても早く、気づいたら学校の校門前についていた。


「降りないの? 陽菜」


 学校に着いたということは認識していたが、またしてもぼーっとしていたらしく、えーちゃんにそんなことを言われてしまった。


 自動で開いたドアから降り、そのドアが独りでに閉まり、車が発進していくまでの様子をえーちゃんと一緒に眺めていた。


「……さて、どこに行く? 陽菜」


 車を見送ってからしばらくして、えーちゃんがそんなことを言った。


「え?」


 思わず聞き返してしまった。


「だから、これからどこに行く?」


「が、学校じゃ……ないの?」


 もしかして、なにかの冗談なんじゃないかと思い一応そう聞き返す。


「それじゃあ、面白くないでしょ。最後に学校の風景を眺めてみたいというなら考えるけど、そうだとしても、別に今じゃなくてもいいんじゃないの?」


「えっと、それは、つまり」


「うん、ヒナ、遊びに行きましょ、学校には電話でもしておけばいいわ」


 なんてこともないように、えーちゃんはそう言った。それがまるでそれが当然かのように言い放ったのだ。いつものえーちゃんらしくないといえばそんな感じはするが、でも、なにか、ぼーっとしがちだった頭が、目覚めたとき同様にすっきりしたような感じがした。


 たぶん、昨日の夜の現実感がないような会話の数々が、間違いなく夢ではなく現実であるということがしっかりと理解できたからなのかもしれない。


 非現実感で現実を認識するという不思議な感覚だが、昨日の事が本当のことだと分かったのが、なんだかよく分からないけどすごく嬉しかった。


「じゃあ、とりあえずは静かなところ行って、電話かけないとだね」


 そうすると決めたなら決断は早くだ。特にここから離れることは出来るだけ早いに越したことはない。先生とブッキングしたら、最悪だ。とりあえずは人影の無い場所を目指してさっさと歩いた方が良いだろう。


「分かった。それじゃ、ヒナ。行こうか」


 手をつなぎ早足でその場を離れる。その間も出来るだけ生徒、特に同じクラスの人には会わないように願いながら歩いた。歩くこと数分。学校付近のほとんど人がいるところを見たことが無い公園に着いた。休日ならともかく、平日はこの付近に住んでいる子供の陰すら見えない。蛻の殻だった。


「とりあえずトイレに入って、そこで電話をしよう」


 トイレなら万が一目撃されることも無いだろうし、電話するにはちょうど良いだろう。


 二人でトイレに入って、片方ずつ、微妙に時間の間隔を開けて風邪で学校を休むと連絡した。


 風邪で休むと伝えておけば、しばらくは休めるだろうし、二人同時にかかってもおかしくない。というより、わたしたちは良く二人でいるので、むしろ当たり前ともとれるだろうし、何かと都合が良いだろう。


 それにしてもあっさりしたものだった。休む本人からの、風邪を引いたので休みますという言葉だけで、こんなにもあっさりと休めるとは思わなかった。学年とクラスを言って、風邪を引いたと伝え、そして本当にそう思っているのかどうか微妙に判断しにくい心配の言葉を貰って、それで終わりだ。


 学校への連絡を終えてトイレの個室から出ようとしたところ、えーちゃんに呼び止められた。


「待って陽菜。先に着替えよう」


 そう言ったえーちゃんは、荷物を置くところに乗せた大きなバックのチャックを開けた。


 中からとりだしたのは二人分のワンピースと靴だった。


「制服に革靴のままだと流石に学校に連絡行っちゃいそうだから」


「そうだね。じゃあ、着替えよう」


 流石はえーちゃん。用意周到だ。


 ブレザーのボタンを一つ、二つと外していき、脱いだらたたんで、バッグの上に置いておく。スカートのホックを外し、チャックを下ろし、スカートも床につかないよう気をつけながら脱いだら、たたんでブレザーの上に置いておく。最後にワイシャツのちょっと数が多くてめんどくさく感じてしまうボタンを外し、脱いだら適当に丸めてスカートの上に置いた。


 えーちゃんは少し早めに脱ぎ終えていたらしく、下着姿のまま、着替える服の用意をしていた。


 こういったところで下着姿になるとなんかいけないことをしている気分にもなる。別に一人なら、普通の着替えでしかないし、こうはならないのかもしれないけど、一つの個室内で二人して下着姿でいるとなると着替えとは違う何かをしているような気にもなる。もしかしたら、目の前にいるのがえーちゃんでなかったら、こんなこと考えすらしなかったのかもしれないけど、ちょっとだけどきどきする。


「はい、陽菜。サイズはたぶん同じぐらいだと思ったから、わたしの普段着で悪いけど、とりあえずはこれを着て」


 そう言って、ワンピースを手渡してきた。


 なかなかいい手触り。ワンピースを広げてみる。白い生地にデフォルメされた黄色いヒヨコの刺繍のワンポイント。シンプルなデザインだ。左側の胸元にちょこんと一匹だけいるヒヨコなかなか可愛い。それに、何より、手触りがいい。しばらく触っていても飽きなさそう。


 今日は秋にしては温度が高い。といっても、ここ数年は毎年そんな感じするけど。でも、この気温なら、このままでも風邪を引くって事はないだろうけど、ずっと下着姿って言うのもおかしな話だし、ここは手早く着替えて早く今日の行き先を決めた方がめいっぱい一日を楽しめるだろう。それに、触るだけなら別に来ていても出来るし。


 床につかないように気をつけながらワンピースをかぶる。土足で入るタイプのトイレの床はやっぱりなんか汚らしい。そこに触れた衣服はやっぱり着るの抵抗あるし、なにより、これえーちゃんの物だからそんなことしたら申し訳が立たない。


 穴から顔と両腕を出す。これだけで着られるからワンピースは楽でいい。


 ぎりぎり膝下くらいの丈の長さ。長すぎるとそれはそれで動きにくいので丁度いい。


「どう? 大きかったり小さかったりはしない?」


 黒いワンピースを着たえーちゃんがわたしにそう尋ねる。


「丁度いいよ。うん、びっくりするくらいピッタシ」


 えーちゃんと向きあう。スカート丈は同じ。胸元の刺繍はデフォルメされた猫。わたしとは反対側の右にちょこんといる。


「よかった。似合ってるよ、陽菜」


「ありがとう。えーちゃんも似合ってるよ」


 えーちゃんとは身長も体重もほぼ一緒。色違いとはいえ、同じ服を着て向き合って見れば少しは鏡みたいになるかとも思ったけど、外国の血が混ざったえーちゃんとわたしじゃそもそも骨格が違う。顔もそうだけど、足と胴体の比率だって違う。ワンピースを着ているからそこは分からないんだけど。わたしに取ってはぎりぎり膝下でも、えーちゃんにとっては余裕で膝下なんだろう。


「どうしたの? 私の脚に何かついている?」


「ううん、別に何でもないよ」


 目線をえーちゃんの白い足から顔に戻す。


「えーちゃん、今日はどこに行く?」


 足を見ていたことを聞かれたら答えるのなんか恥ずかしいし、意識を逸らす為にも、今日これからどうするかを聞いてみた。


「陽菜に任せるよ。陽菜の行きたいところに行って、陽菜のしたいことをしよう」


 えーちゃんは特に考えるそぶりも見せずそう言った。


「うーん……それじゃあ……どうしようかな」


 学校を休んで何かするといっても、何をしたらいいのかパッとは思いつかない。流石に学校近くのこの辺で遊ぶってのは避けた方がいいと思うけど、具体的に何がしたいかと言われれば……うーん。


「とりあえず、隣町か、その隣の町に行く? この辺にいるのもあれだろうし」


 何するかは行ってから考える。この場に留まるよりはいいと思う。


「分かった。じゃあ、さっそく移動しよう」


 じゃあ、いつも通りえーちゃんの家の車で、と思ったが、良く考えたらそうもいかない。


「どうやって移動しよう。電車とかで移動する?」


「うん、それでいいと思う」


「じゃあ、そうしよう」

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