茹でガエルのこころ⑤

 宿題を終え、食堂にて高そうな料理を食べて、お風呂も済ませた後、わたしたちはえーちゃんの部屋に戻った。


「ふぅ……」


 ソファに腰を下ろしながら大きく息を吐く。


「ほんとにすごいね。えーちゃんはいつもこんな生活しているの?」


「料理は、陽菜がいるってことで少し品数は多かったけど、大体こんなものかな」


 そう言いながら、瓶に入った高そうな水を冷蔵庫から持ってきたえーちゃんは、わたしの隣に腰をかけた。毎日あのレベルの料理を食べてるとか、普通にうらやましい。それに、その手にある水だってすごそうだし。お金持ちすごい。


「あのお風呂もすごかったし」


「そう? 広すぎて落ち着かないけど」


 えーちゃんの家のお風呂は、銭湯ほどではないけどとても広く、四人か五人は入れそうだった。それに、お湯は温泉らしい。どっかからお湯を運ばせてきているらしい。


「いや、すごいって、毎日温泉に入れるのは普通にうらやましいって」


「そう? 陽菜がそういうなら、そうなのかも」


 多分、わたしじゃなくても、誰でもそう思うはず。温泉運んでくるって、普通じゃ思いつかないだろうし、思いついても普通はやらないと思う。


「それより、ヒナ、そろそろ」


「う、うん」


「相談の内容を話してみて」


 そう、今日の目的。そのために来たのだ。えーちゃんと一緒にいる間は、薄れているし、楽しいことをしても薄れていく。だから、今日は心のもやもやがだいぶ晴れたし、えーちゃんと一緒にいる以上増えもしないのかもしれないけれど、このままにしていたら、何も解決はしないだろう。


「それじゃあ、話すね」


「うん、聴いてる。しっかりと聴くから、全て話して」


「まずはね、なんていうんだろ。大雑把に言うと、心にもやもやした何かがあるというか、なんというか。それを何とかしたいっているのがね。その、悩みなんだ」


 なんというか……どうしようもなく、ぼんやりとした悩みだった。だからこそ、解決まで至らないし、そこまでの道のりが見えてこないんだろうけど。


 どんなに難しくても、何に悩んでいるのかがはっきりしていて、どんなに細くても、その解決法が見えているのなら、なんとかなる気がする。えーちゃんがいれば、難しさなんて、あまり関係ないものであるはずだ。


 でも、分からないのはどうしようもない。


 難しくても、立ち向かうことは出来る。向かっていく先ははっきりしている。なら、なんとかなる気はする。挑戦できるならいつかはなんとかなるはずだ。


 けど、分からない場合はそうはいかない。


 まず、何に立ち向かえば良いか分からない。どこへ行ったら、この靄から出られるのか、何をすればこの靄がきえるのか分からないから、どうしようもなく、息苦しい気がするのだ。まるで微弱な毒に少しずつ蝕まれていくように、何かが死んでいく。もしくは、濁って染まっていくように感じられた。


 普通なら、靄など風の流れに乗って消えてなくなるはずなのに、今はどうしてか淀んでいる。そして、なぜか、二度とこの空間から外へ風が流れることが無いように感じる。感じてしまう。


 風が吹けば、一時的には靄は晴れるだろうけど、それはほんの一時的なもので、少ししたら、また元の場所に戻ってくる。何せ風は流れても、この靄がわたしの外に出て行くわけではないのだから。また元の場所に戻るのは当然と言える。


 この分からないことを、分からないまま、言葉にならないまま、口にする。


 えっと、あー、えー、そのー、うーん、んーと……そんな言葉が大半で、しっかりしたことをどれだけ言えたのかもさっぱり分からない。でも、なんか、えーちゃんとの話していたら、なぜか、こんなことを口にしてしまった。


「わたし、生きてるのに疲れたのかな……」


 それこそ疲れた時に言うような台詞に、ぼそりと口にしてしまっていたのだ。


 大人に言わせてみれば、まだ若いのにとか、そういう言葉を投げられてしまうんだろうけど。でも、なんか、そのそりと口にした、ふざけているような言葉がある意味的を射ているような気がした。そして、それが、何よりも怖く感じた。


「そっか……」


 えーちゃんが、わたしがぽろっと漏らしたその言葉に、そう返した。わたしは言葉が続かなかった。そうして、しばし静寂が部屋を包む。部屋に響くのは時計の秒針が時を刻む音だけ。小さな音で、少し動いたらその摩擦の音ですら上塗りされてしまいそうな音だ。


 少し怖くもなった。えーちゃんも、流石に、何を馬鹿なことを言っているの、とでも思っただろうか。その静寂をわたしには打ち破れなかった。つまるところそれから数分して、秒針の音を塗りつぶしたのは、えーちゃんだった。


「そっか……疲れたんだね、ヒナ」


 そう言いながら、えーちゃんはわたしを抱きしめた。


「それじゃあ、ヒナ、そろそろ休む?」


「休むって……どういうこと?」


 学校を休むっていうなら、十分に休んでいるはず。土日は休みだし、放課後だって休みだ。


「休むは休むだよ。生きるのを休む。疲れたなら、それでもいいと思うよ……私は」


「生きるのを休むって……つまり、それは……」


 そういう……こと……だよね。


「疲れたなら、それだってきっと間違ってないはずだよ」


 わたしと向き合ってからわたしの両肩に手を乗せ、えーちゃんは言葉を続ける。


「そう、そして、もうそれが決まったなら、その日まで好きなように生きれば良いと思うよ。そうしたら……」


 その手を下ろし、わたしの胸に手を当て、心臓に右手を重ねて、えーちゃんは言葉を続ける。


「その心の靄もきっと払われるはずだよ」


 その瞳でわたしの瞳の奥を覗きながら、わたしに瞳の奥を覗かれながら、えーちゃんは言葉を続けた。


「だから、ヒナ……」


 そして、えーちゃんは言葉を続ける。再びわたしを抱きしめて、耳元でささやくように。


「本当にヒナが望むのは、どんなこと?」




 時が止まるように感じた。




 ただの静寂じゃ無い。時計の針の音すら聞こえない。


 本当に時が止まったか。もしくは、わたしたちだけがこの世界から放り出されたかのようにも感じた。


 そうして、時が動き出した頃、もしくはわたしたちがこの世界に引き戻された頃。わたしは、とんでもない答えを。それでいて、納得がいってしまった、おかしくて、ふざけているような答えを口にしてしまった。




「えーちゃん……」


「なに……ヒナ?」


「わたし……」


「うん……」


「死にたい……」


「分かった……」




 そうして、またしばらくの間、この世界から抜け出していた。


 この世界に抜け出してしまうこの感覚を、悪くないと思ってしまった。むしろ、ずっと……。


 その所為だろうか。あんなことを口にしてしまったのは。


「ヒナ」


 えーちゃんの声で、世界に引き戻される。


「そうと決まったら、後は簡単だよ。その時まで好きなことを好きなだけすれば良いの。それが悪いことでも良いし、意味の無いことでも良い。どうせ、終わるなら、好きなだけ何をしても良い。ヒナの好きなことを目一杯すれば、それで良いの」


 えーちゃんはわたしを抱きしめたまま、ソファーに倒れ込んだ。そして、耳元でささやく。


「私もずっと一緒だよ。だから、一緒に楽しみましょ。ね、ヒナ……」


 そうして、楽しくていけない日々の始まり夜。そんな長い夜が始まるのでした。

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