或る雪の日に
鬼虫兵庫
或る雪の日に
1,
テレビを付けるのと同時に、シカゴで大雪が降ったというニュースが流れ出した。
続いて、路上でスノーボードをしていた馬鹿が自動車と接触して重傷を負ったというほのぼのニュースを見た俺は、その顔に生暖かい微笑を浮かべた。
どうやらニュースによると、シカゴに大雪を降らせた寒気は明日頃、このニューヨークに到達するらしい。
「寒いな……」
どうも事務所のエアコンの調子が悪いのか、普段よりも酷く冷えているように感じる。
エアコンの設定をいじってどうにか悪あがきをしている中、ふいに事務所の扉が開かれ、外の寒気と共に
白シャツに赤いネクタイ、紺のスカートという出で立ちはいつもの通りだが、何度見てもそれは冬の格好ではないように思える。
寒くないのだろうか?
「いや、私でも寒いですよ。流石に」
俺の視線の意味に気づいたのか、鯉がその眠たげな目で見返し、答えた。
鯉は買い出しの品を机に置いた後、その寝癖がかった髪の上に積もった雪を払い落とす。
「積もってたか?」
「あー……今日は結構、日が差してますから、ほとんど雪は溶けた感じですね。歩道には多少残ってましたけど、道路の方はもう全然ですね。でも、昨日の夜はどこもカチカチで、まともに歩けないくらいでしたよ」
「また寒くなるって話だし、勘弁してもらいたいもんだな……。しかしなんでここはこんなに寒いんだ? 本当にこのエアコン、壊れてるんじゃないのか?」
「相当に古いですからねぇ……これ。まあ、もう少しこの事務所の財政状況が改善すればどうにかできるんですけど……」
俺は含みを持ったその鯉の視線から逃れるように顔を背ける。
そう言われても、仕事が入らなければどうしようもない。
エアコンは悲鳴に似た音を立て、暖房なのかそれとも冷房なのか判断できないような風を送り出し続けている。
さて、どうやってこれからの冬を乗り切るかと考え始めた時、突如、その思考をけたたましい電話のベルの音が破った。
俺は思考を切り変え、受話器に手を伸ばす。
依頼ならば金が入ってくる。そうすればエアコンも買い換えられるはずだ。
「はい、こちらオフィス旅の道。
「…………」
だが、電話口からはなんの声も返ってこない。
いたずら電話かと思い、それを切ろうとした直前、
「……チコよ。チコ・フィオレンティーナ」
随分と不機嫌そうなチコの声が返ってきた。
「なんだ、チコか……怒ってるのか?」
「ちょっと、ややこしい事件が起こったんで……正直癪だけど池田さんの意見を聞きたいの。すぐに来てもらえないかしら? あなたの事務所、確かブルックリンだったでしょ? そこからすぐ近くだから」
「ややこしい事件ね……警察が俺に話を持ち込むということは、麻薬絡みか?」
「いや、そういうのじゃなくて……あまりにも状況が奇抜過ぎるというか……とにかく来て。口じゃ凄く説明しづらいのよ」
「ふむ……奇抜過ぎる状況ね……」
俺は一応、チコからコンサルタント料の確約を取り付けてからその事件現場の住所をメモに取る。
確かにこの事務所からそう遠くない場所だ。
結局、チコの話は要領を得ないまま終わった為、まだまったく事件の全容は見えてこない。
ただ、誰かが殺されたということだけは確からしい。
俺は、メモに書き滑らせたその現場の名を再確認するように指でなぞる。
『アトリエ・ディ・リベイロ』
どうやら、美術作品を製作するアトリエでその奇抜過ぎる殺人とやらが起きたらしい。
確かにこれは現場に行かなければわからない手合いの事件らしかった。
2,
鯉の言った通り、確かに道路上に雪はなかったが、路肩には溶け残った雪が白く線を描いているのが見えた。
気温は昨日よりは多少マシとはいえ、凍結するかしないかの瀬戸際のように思える。
俺は一応、車の速度を抑えつつ、慎重にハンドルを操作する。
「こりゃ、夜にはまた凍結するんじゃないか?」
「あー、その可能性高そうですね」
「もうじき、もっと強い寒気が来るって話だし、明日にはこの辺り一面、真っ白になってるかもしれんな」
そんなことを呟きつつ、俺は今回の事件のことを整理する。
警察が俺のような私立探偵をコンサルタントとして使うというケース自体は珍しくはない。だが通常、それらの大半は、警察が闇社会に深く関わる問題に直面した時というパターンが多いのだ。アメリカの探偵は悪く言えば
だが、今回のケースはそういった探偵の闇の部分を利用しようとする話ではないらしい。となるとそれは余程に奇妙な殺され方であることが推測された。
「あ、先生。あの左の建物がそれみたいです」
助手席に座った鯉が左の角地にある建物を指さし声を上げた。
それは極端に無駄をそぎ落とした四角い白色の建物で、小さい窓が申し訳程度に三つほどついているのが見える。
警察が張った規制線の先には灰色の鉄扉があり、それがこちらの通り側にある唯一の出入り口のようだ。建物の裏に当たる二面は他の建物と接している為、この場からはその様子を覗うことは出来ない。
「随分、寒々とした建物だな……白い豆腐みたいだ」
「でも、この建物、雑誌で見たことありますよ。確か……結構、有名な画家のアトリエだったような……」
「となると、今回はその画家が被害者ってことか……?」
車を現場近くに停めた時、丁度一人の女の姿が目に入る。
その女は、赤毛を後ろでまとめあげ、紺のジャケットの下に茶色のベスト、タイトスカートの下に黒タイツといういつもの格好だった。
流石にその格好では寒いのか、その女刑事、チコ・フィオレンティーナは恨みを込めて地面を踏みつけるかのように、せわしなく足を動かし続けていた。
「遅い! いつまで待たせんのよ! さっさと中入れ!」
俺達に気づくと、チコはぶるりと身を震わせながら言い捨てて、さっさとアトリエの中へと入っていく。
「なんだ? もしかして今までずっと外で待ってたのか? この寒い中?」
「まるで恋い焦がれてるみたいな感じですねぇ。チコさん」
鯉が嬉しそうな様子で茶化すが、俺は苦々しい表情を浮かべる。
「おい、当人の前では絶対にそんな馬鹿なことを口にするなよ?」
鯉は苦笑で答え、俺達はチコの後を追ってアトリエの中へと入る。
アトリエの中は、ただだっ広い白の部屋で、中の壁にいくつかの絵画が掛けられているのが見える。どれも男数人でも抱えきれない程の巨大な大作ばかりだ。
飾られている絵はいずれも風景絵画だが、それらの筆致はかなり単純化され抽象絵画的にも思える。いずれの絵も雪が積もる冬をモチーフとしているらしくかなり寒々しいが、ジッと見つめるとその世界の中に引き込まれるような形容しがたい魅力がある。
どうやら鯉の話の通り、有名画家だというのは確からしい。
「いい絵ですけど、ちょっと寒々しいですねぇ」
と、隣にいる鯉が小さく耳打ちした。
確かに、正直言ってこの絵はこんな糞寒い中で見たい物ではない。
こういう絵は、暖房の効いた美術館で見た方が何倍も素晴らしく思えることだろう。
アトリエの中は現場保存の為か、エアコンもかけられておらず、凍えるような寒さだ。
部屋の中央に広げてある巨大なキャンバス生地の上には白い絵の具がぶちまけられ、白色のマネキンが転がっている。その周辺にはそれに使用したと思われる白い絵の具の大きな缶がいくつか並んでいるのが見えた。
これも芸術作品とやらなのだろうか?
「ここが現場よ。事件が起きたのは昨日の夜十時頃」
チコはそう説明する最中も両手をジャケットのポケットに入れ、身体を小刻みに震わせ続けている。
「チコ、そんなに寒いのならコート着るとか、マフラーか手袋でもしてくれば良かっただろ」
「うるさいわね……現場がこんなに寒いとは思わなかったのよ……。それでどう、この奇妙な現場を見た感想は? この死体の状況を見て、何か気づく点はある?」
「死体? どこに死体が?」
俺の言葉にチコはブルブルと震えながら、顎でその死体を指し示す。
「おい……まさか、これが死体?」
俺はアトリエの中央に安置されたその白色のマネキンに近づく。
長年、死体を見続けていた俺でも一目でそれが死体であると認識出来ない程、それは見事なまでに真っ白に塗りつぶされていた。
恐らく、これを見た十人中十人が白色のマネキンだと誤認することだろう。
それほどにその死体からは生物感というものが失われている。
「驚いたな……」
だが、かなり間近まで顔を寄せると、確かにそれが人間であることに気づく。
年は五十代程度、画家にしてはかなりがっしりとした体格、身長は平均的。髭面で短髪、髪の色は白で、肌の色も白……というより判別出来ない。外から帰ってきたところを襲われたのか、その男はジャケットの上にコートを着て、手袋をしている。勿論、それらの色も判別出来ない。どうやったのか不明だが、男の身体は塗り残しがないほど見事なまでに白く染め上げられていた。頭部には銃で打ち抜かれたと思われる銃創と血痕があり、それだけが白一色の中に僅かに赤く浮かび上がっている。
「被害者は画家でこのアトリエの持ち主のアルベルト・リベイロ。銃で右側頭部を打ち抜かれ死亡」
「ふむ……死亡推定時刻は?」
「昨日の夜十時頃。本来なら遺体はとっくの昔に移送されてるところだけど、状況が状況だから、検視よりも現場保存を優先しておいたの。これ、あなたの為でもあるのよ?」
「そりゃどうも。銃創から判断すると……凶器は三十八口径かな?」
「ご名答。
俺は鑑識の袋に入れられたその銃をチコから受け取る。
銃身は細身、無骨なそのガンメタリックは経年によってか所々くすみが生じ、木製のグリップには僅かに血痕らしき物が付着している。
「随分と古い銃だな。こいつは大戦中の量産モデルだぞ?」
「でもその分、足はつきにくいわよ。ライフリングマークからの照合は無理だし、銃も多すぎてどこの誰のものだかさっぱりわからないしね」
「まあそれは確かにそうだが……。ふむ……手入れはなかなか行き届いているようだな」
銃には錆も浮かんでおらず、銃口内もよく磨かれている。
「そりゃ、見ての通り。使用にはなんら問題がなかったようだし」
「グリップの血は被害者のものか?」
「ああ、いえ……それはもう一人の被害者、妻のアンナさんのものよ。犯人はまず最初に彼女を銃のグリップで殴りつけた後、夫のアルベルトを撃ったみたい。彼女は今、入院しているけど命には別状ないって話」
「その妻の狂言という線は?」
「勿論、調べること調べてみたけど、特に怪しげな証拠は出てこなかったわ。今のところシロ。それで、その妻が倒れていたのがこの辺り」
チコは地面に書かれた×字のマークを指さす。
丁度、その奇妙な死体から五メートル程離れた場所だ。
「なるほど……それでそのアンナ夫人は犯人を目撃したのか?」
「一応、目撃したみたいだけど、覆面をしていたから犯人の顔はわからなかったらしいわ。でも、身長はたぶん六フィート(約百八十三センチ)以上あったって話。だからまあ……池田さんと同じくらいの背丈ね」
俺は以前、チコに犯人扱いされたことを思い出し、眉間に皺を寄せる。
「それでその後は?」
「床に倒れたアンナさんの証言によると、言い合いと僅かな小競り合いの音がした直後、一発の銃声を聞いたって話らしいわ」
「まあ、殺害状況はそれでいいとしてもだ……。その後、どうしてこんな有様になったんだ? 犯人がわざわざ被害者を真っ白に塗りつぶしたってのか? そんな馬鹿な。一体なんの為に?」
「だから、わざわざあなたを呼んだのよ。正直、警察もこの死体の状況がさっぱりわからなくてまいってるの。でも、池田さん。こういうへんてこな事件得意でしょ?」
「人をゲテモノ食いみたいに言うなよ……俺は別にへんてこな事件専門でやってる訳じゃないんだぞ」
「まあまあ、そう言わずに。後の詳しい話はアンナさん本人から聞いて。軽傷みたいだからすぐに退院するだろうし。ああ、でもあまりデリカシーのない質問はしないでね」
そう言った後、チコは手で身体を大げさにさすり、眉間に皺を寄せた。
「ああ、もう駄目……このままだと凍死するわ。私は車の中で暖まってるから。じゃあね。後は第一発見者の警官からでも話を聞いて、話は通してあるから」
「おい、待てよ」
俺が止めるのも聞かず、チコはブルブルと大げさに身体を震わせながらアトリエから外に出て行く。
丁度、その姿が消えるのを見計らったかのようにして、その場に二人の警官が姿を現した。
二人とも若い白人で、いかにも好青年といった感じの男だ。
「ええと……口髭を生やしていて黒の短髪、アジア系の割に彫りの深い顔立ち……あなたが池田戦さんですね? チコさんからは話を伺っています。この事件を調べてるんでしょう? 俺達が第一発見者ということになるんで、事件当時の状況はある程度、説明出来ると思いますが……」
「そいつは助かる」
俺はその二人に笑みを返す。
正直、現在の状況は蜘蛛の糸をたぐり寄せるような手がかりのない状況だ。僅かでも証言を積み上げ、この異様過ぎる状況を推理し、打開するしかない。
警官は、顔に僅かな緊張の色を浮かべ、語り始める。
その息が白く広がった。
「昨日の午後十時頃、アトリエの中から銃声が聞こえたという通報があり、俺達はこの現場に急行しました。丁度、近くを巡回中だったので、ここに到着するのに三分も経ってないと思います」
「ほう……そいつは随分と早いな」
「ええ、昨夜はあの酷い寒さだったでしょう? だから丁度、ここらで異常がないか確認して回っていたんですよ。ここらは寒すぎると、時々水道管が破裂することがあったもんで。その点ではある意味ラッキーでしたね」
「なるほど、続けてくれ」
「それで……俺はまず初めに、窓から中を伺おうとしたんです。ですが、窓はすりガラスだったので中の様子はよくわかりませんでした。ただ、なんとなく誰かが何かの作業をしているのが見えたんで、そいつに向かって呼びかけてみたんです。ですが、そいつは俺の言葉を無視して何かの作業を続けるし、表の扉を叩いても無反応。これはいよいよおかしいぞと思い、扉を破って中に入ろうっていう話になったんです」
俺はチラリとアトリエの扉に視線を向ける。
「だが、表の扉は鋼鉄製だ。簡単には破れんだろう」
「おっしゃる通りです。表の扉はえらく頑丈そうでしたから、これを破るのは無理だと判断して俺達は裏口に回ることにしました。ただ、この建物の裏口は大回りして路地を通らないといけない上に、どこにあるのかがわかりづらくて……たどり着くのにかなり時間がかかってしまったと思います。そして、俺達が裏口を見つけるのに苦労している頃、ガラスの割れる音を聞いたんです。こっちです」
警官に案内されて通された裏口の扉は普通の木製扉で、格子状の枠にガラスがはめ込まれていた。犯人が誤って割ってしまったのが、右下のガラスが割れ、裏の路地の地面に散らばっているのが見えた。
アトリエの裏側は一応先ほどの部屋とは別に分けられた区画になっていたが、そこもかなり殺風景で、目につくのはイーゼルがいくつかと絵の具の缶くらいのものだ。
「このガラス片を見た俺達は犯人を取り逃がしたかと思いつつも、警戒しながら中に入りました。そこでこの奇妙すぎる光景を見たってわけです」
「現場は今とほとんど同じ状況だったのか?」
俺はアトリエに戻り、辺りを見渡しながら問いかける。
相変わらずあの死体はアトリエの中央に鎮座していたが、どうやらもうじき正式な検視の為か、別の場所に移す準備をしている様子だった。
「ええ、そうですね……今の状況と違うのは凶器の銃が落ちてたのと、被害者の奥さんが倒れてたくらいですかね……まあそれ以外は現状と変わりないと言っていいと思います。ああいや……俺達がここに入った時には血と絵の具がまだ乾いてなくて死体を中心に徐々に広がっている感じでした。まあ違いはその程度です」
「なるほど、絵の具がね……。それで被害者の妻の様子はどんなだった?」
「ええと……頭から血を流して、なにかうわごとを言ってましたね『夫が……男に……』そんな言葉だったと記憶してます」
「他に気になった点は何かあるかい?」
「気になる点ですか? 気になる点と言っても、こんな状況ですからね……。全部がおかしいとしか言いようがないですよ。あ……そういえば、これは今回の事件とは直接関係ないんですが、以前、このアトリエから二度ほど通報を受けたことを思い出しましたよ」
「通報?」
「ええ、それ自体は大した内容じゃないんですがね。確か……二年ほど前だったと思いますが、ここのアトリエのガラスが割られる悪戯が二回ほどあったんです」
「ふむ……ガラスがね。通報者は誰だ?」
「妻のアンナさんです。酷く怯えている様子でしたね。画家の夫の方は平然としている感じでしたが……。その悪戯は結局その二回でぱったりとなくなったので、俺も今まで忘れていたんですが……」
「なるほど……一応、頭の片隅に入れておこう」
俺が答え、隣の鯉が証言をメモ帳に書き込んでいく。
「もしかして、それも今回の事件と関係あるんでしょうか?」
「さあな、そいつはこれからの展開次第だな」
一通りの証言を終えた警官はもう一度辺りを見渡し、その肩をすくめて見せた。
「それにしても俺もこんな状況初めてみましたよ。まったく理解に苦しみますね……なんの為にこんなことをしたのやら……どうです? 何か思いつきそうですか?」
「いや、俺にも見当もつかんね」
俺は苦笑と共に答える。
実際のところ、本当にその理由はさっぱりだった。
真相は『白い絵の具の中』、不意にそんな言葉が頭をよぎった。
3,
「つまり……夫のアルベルト氏と共にアトリエに立ち寄った時、後ろをつけていた男が無理矢理二人をアトリエの中に押しやり、銃を突きつけた……。犯人は男性、覆面で顔を覆っていたから顔はわからない。背丈は六フィート以上……ここまでは合ってますね?」
俺は病室のベッドに横たわるアンナ夫人を前にそう聞き返した。
今のアンナ夫人は病院のベッドに横たわり、薄い青色の病衣を着ている。
アンナ夫人の背丈はアルベルトよりも頭半分くらい低い程度だろう。女性としては平均的な体格だ。歳は四十代半ば程度。額の少し上に包帯が巻かれており、その上からブロンドの髪を横分けにして、薄幸そうでやつれた表情を顔に浮かべていた。
「ええ……それで間違いないと思います」
「その後の犯人の行動に関してですが……」
アンナ夫人はその朧気な記憶をたぐり寄せるようにポツポツと語り始める。
「男はかなり興奮した様子で叫んでいるようでした……絵の芸術性がどうとか叫んでいたように思いますが、当時は私もかなり動揺していましたし……詳しい内容までは覚えていません。ただ……その男はあまり整然とした話はしていなかったように思います」
「その男ですが……右利きでしたか?」
「はい、右利きだったと思います」
「ふむ……どうぞ、続けてください」
「その後……犯人から銃の底で強く殴りつけられた私はその場に倒れました。犯人と夫はなにか怒鳴りあいのように叫び、揉みあっている様子でしたが……ただ、その時の私は実際、直接その光景を見ていたわけではないので、それが本当かどうかはわかりません……その後、私のすぐ間近くで一発の銃声が聞こえました……」
「なるほど……」
アンナ夫人は大きく息を吸った後、震える手で顔を押さえた。
「ああ……まさかあんなことになるなんて……主人は誤解を受けやすい人間だったかもしれませんが決して悪い人ではなかったんです……殺されるような人ではなかった」
「ご心中お察しします。それで、ご主人が撃たれた後なんですが……何か作業をしているような音を聞きませんでしたか? あのように奇妙に全身を塗りつぶすにはそれなりに手間がかかると思うんですが……」
「確かに……何か絵の具をまき散らしているような音は聞こえましたが……すいません……あの時の私は殴りつけられた為に意識が朦朧としていて……よく覚えていません。しばらくした後……ガラスの割れる音が聞こえて……その後、警察の方が現れたと思います」
「なるほど、参考になりました」
事件当時の状況を大体聞き終えた俺は、その病室の一角、机の上に置かれている服に目をとめる。
地味なカーキー色のコートと手袋がビニール袋に包まれている。
コートの首元辺りには傷を負った際についたであろう血痕が残っているのが見えた。
恐らく、それらは鑑識課が一通り調べた後に戻されたものだろう。
「あそこに置いてある服ですが……あれが事件当時の服装で間違いないですか?」
「ええ、そうですが……それが何か?」
アンナ夫人はその顔に僅かに怪訝そうな表情を浮かべる。
「ああいえ、まあこれは職業病みたいなものでして、色んなことが気になるんですよ。ということは、机の下にあるヒールも当時履いていた物ですね?」
それは暗めの赤い靴で、ヒール自体の高さ自体はそこまでない物だ。
「はい、そうです。その靴を履いていました」
「ありがとうございます、参考になります」
そう答えた後、俺はチラリとアンナ夫人の頭に視線を向ける。
「そういえば、怪我の方は大丈夫ですか?」
「ええ、それ程、深い傷でもありませんし、脳の方にも異常がないということですから明日には退院出来るという話です」
「それはよかった。では、今日はこの辺りで……失礼します」
俺は短く答えて、その病室を後にした。
「さて、困ったな。まあおおよその事件の概要はわかってきたが、遺体を白で塗りつぶした理由が依然として謎だ。その理由もさっぱりわからん」
病院を出た後、俺は小さく溜息を吐き出し、呟く。
「そもそも、塗りつぶした理由とか考える必要あるんですか?」
隣の鯉が釈然としない表情を浮かべ、問い返す。
「そりゃあ……外から警察が呼びかけているような状況の中でわざわざ死体に絵の具をぶちまけたんだぜ? 何かその行動には重大な意味が隠されていると考えて間違いないだろう。だが、その一点がどうにもわからん」
「頭のちょっとおかしい人が嫌がらせで絵の具をかけただけとかなんじゃないですか? もしかすると本当は全然意味なんてなかったりして」
「頭のおかしい奴が絵の具をぶちまけただけなら、そいつはきっと警察なんて気にせずそのまま現場に居残っていたと思うがね。絵の具をぶちまけるという不合理と警察から逃れるという合理性、その二つがどうもかみ合わない。恐らくきっと絵の具をぶちまけた行為、それには何かはっきりとした理由があったはずだ」
「うーん……だとするとなんですかね? 絵の具で何かを隠したとか?」
「……確かにそれは良い線いってるかもな……だが、一体あの絵の具で何を隠したっていうんだ?」
頭を悩ませている中、不意に俺の携帯が音を立てた。
「なんだ、誰かと思えばチコか……はい、もしもし」
『ちょっと署の方にまで来てくれない?容疑者の目星がついて、今、事情聴取しているの』
4,
短い金髪で、痩せたその男は全身を使って抗議の姿勢を示そうとしている様子だった。
「だから! 俺はやってねぇって言ってるだろ! 確かに奴を恨んでいたのは確かだし、正直死んでくれてせいせいしてるさ! だがね、自分の人生を台無しにしてまで殺そうだなんて思ったことなんて一度もないね。そりゃ、絶対に罪に問われないってのなら殺したかもしれないが……ああいや……今のは忘れてくれ……ともかく俺は犯人じゃない! やってないもんはやってないんだ!」
「ディズリーさん。だけどあなたはこの事件の数日前、美術館の中で被害者と凄い怒鳴り合いをしたって話じゃない? 揉めてたのは確かなんでしょ? その現場に居合わせた人の話だと、今にも殺し合いになりそうな程だったって聞いたけど」
尋問を行うチコに対し、ディズリーは怒気のこもった凄まじい視線を向ける。
どうやら、ディズリーはかなり短気な性格らしい。
「おいおい、なんだ、もう俺は犯人扱いか? あんた随分と若そうだが、研修生かなにかか? それとも警察のバイトか?」
「バ、バイト? あのねぇ……」
チコもその怒気につられて苛ついてきたのか、次第にその尋問は尋問の態を失い、ほとんど喧嘩のような言い合いになり始める。
互いにやりとりがヒートアップし、このままでは、それこそ殺し合いになりかねない思った俺は、チコを無理矢理押しのけ、ディズリーをなるべく刺激しないよう、落ち着いた口調で話を切り出した。
「いや、別に俺達もあんたを犯人だとは思っちゃいないんだよ。これはただの確認のようなもんでね。不快に思われるかもしれんが、一応、これは殺人事件の捜査なんだ、ちゃんと事実を話してくれればあんたの疑いもきっと晴れるはずだ」
俺の言葉にディズリーはやっと怒気を弱め、ふうと大きく息を吐き出した。
「……そうは言うがね、俺が証言出来ることはこの程度しかねぇんだよ。昨日は自分の家でずっと一人で絵を描いてて一歩も外に出てねぇんだからな」
「ふむ……それで言い合いの件だが、一体なにをそんなに揉めてたんだ? 何か気にくわないことでもあったのか?」
「それは……あいつが俺の絵を貶したからだよ。あいつは自分の絵が唯一無二の最高の物と思い込んでいるのかしらないが、毎回、人の絵を糞味噌に貶すんだよ。それで俺が奴の絵を貶し返したら、『素人に指摘されるのは癪に障る』とか抜かしやがる。あれで怒らない奴はいないと思うぜ。一応こっちも命かけてやってんだ。あんなに馬鹿にされる覚えはないね。言っとくが、怒鳴り合いをしたのは俺だけじゃないぜ、あいつは余程に敵を作りたいのかしらんが、毎回色々な画家ともめ事を起こしてやがる。なんなら、あいつと揉めた画家のリストを作ったっていい。きっとその中の誰かが殺したに違いないだろうからな」
「まあ、確かにそれは怒って当然かもな。そういえば、左手に包帯を巻いてるみたいだが、それはいつ頃負った怪我だ?」
ディズリーは身体の陰に隠すようにしていた左手をビクリと震わせた。
袖に隠すようにしてあるその左手には確かに包帯が巻かれている。
「いや……これはたいしたことじゃない。ちょっと昨日、家の中で転んで手を切ったんだよ。それだけだ」
「ほう、家の中でね……それで今履いている靴だが、昨日もそれを履いていたってことかね?」
俺はディズリーの履いているブーツに視線を向け、問いかける。
それは登山用のようなかなりしっかりとしたブーツだ。
「あ、ああ……そうだが、それが何か?」
「一日中、家にいた割には随分と履きづらい靴を履いてたんだな。家の外に出るつもりがない人間がそんな靴を履くのは少々不釣り合いに思えるがな」
「うるせえな……別にいいだろうが、どんな靴を履こうが」
俺はその時、ディズリーに動揺の色が浮かんだのを見逃さない。
「昨夜は地面が相当に凍結していたらしいな。もしかしてその怪我は外で転んだ時にした怪我なんじゃないか? それで今日は用心してそんなブーツを履いてきた。違うか?」
「…………」
ディズリーはしばらく視線を地面に落とし何かを考えているそぶりを見せたが、しばらく間を置いてから、その顔を上げ、堅い笑みを浮かべた。
「いや……大したもんだよ、あんた。実は、昨日の夜、少しだけ家の外に出たんだ。夜食でも買いに行こうと思ってな。でも、出たと言ってもほんの数歩だけだぜ? 昨日の地面はあの酷い凍結だっただろ? あんたの言うように、転んで手を怪我した俺は、外に出るのが嫌になって家に引き返し、怪我の手当をしたって寸法だ。いや……混乱させるようなことを言ったのは謝るよ。でも、家を出たのはほんの二三歩だったからな。それならほとんどずっと家にいたのと同じようなもんだろ?」
「なるほどね、まあいいだろう。ご苦労さん、もういいぜ」
俺は、不満げなチコを尻目にしつつ、ディズリーに帰るように促す。
立ち上がったディズリーと向かい合うと、その背丈は俺とほとんど同じくらいだった。
アンナの証言の中にあった男の体格と一致する。
「ああ、そうだ。忘れていた。後一点だけ。被害者のアルベルトの全身は何故か奇妙なことに真っ白に塗りつぶされていたんだが、それに関して何か心当たりはあるか?」
「真っ白に? ああ……それなら間違いなく犯人は画家の誰かだ。奴は自分のことを『白の画家』とか名乗って、気取っていたからな。白には特にこだわりがあって、他の画家の白色には毎回、文句を言っていたくらいだ。『これはとても醜い。あまりにもくすんだ白だ』ってな感じでな。異常だよ。だから奴を殺したいと憎んでいる奴がきっとその当てつけで白い絵の具をぶちまけたんだと思うぜ。そんなに白が好きならくれてやるって感じでな」
「なるほどな。白の画家ね……ところであんたもその白色で文句を言われた口なのかい?」
俺がそう問いかけると、ディズリーの顔がカッと赤く染まった。
「それに関してはノーコメントだ。じゃあな」
「あのまま帰して良かったの?もう少し絞り上げれば何か聞き出せそうだったのに……」
チコはディズリーが出て行った扉を恨めしそうに見つめながら呟いた。
「確かに奴はまだ何かを隠している様子だが、まあ多分、これ以上はしっぽを出さないだろう。後はこっちが推理する番だ。特にあの一点、『何故、遺体は白く塗りつぶされたのか?』その理由がわかれば自ずと犯人の姿が浮かび上がってくるはずだ」
「やっぱりあの絵の具にこだわるのね……まあ確かに何かの意味はありそうだけど……」
「白色で死体を塗りつぶす。これにはきっとなにか重大な意味がある……だが、なんだ? 何の意味がある? 白……白の色に意味があるのか?いやそれともただ絵の具で塗りつぶすという行為が……」
『白の画家』か……。
俺の脳裏にあの寒々とした絵画が浮かび上がる。
今思い返すと、あのアルベルトの白い遺体も作品の一部のようにすら思えてくる。
遺体の上に雪が降り積もり、死体を覆い隠した。
ならば果たして、その雪は一体何を隠したのか?
「そういえば、ディズリー、左手を怪我してたわよね? あれって怪しくない?」
チコが顎に手を当て、ジッと宙を見つめながら呟く。
「確かに臭い点だな。手の怪我か……手か……ん? 待てよ、ああ! そうか!」
思わず叫んだ俺のその声にチコはビクリとその身を震わせた。
「ちょ、ちょっと、ビックリさせないでよ! でも……もしかして、あの絵の具の意味がわかったってこと?」
「ああ、そうだ。いや、それだけじゃない。犯人もわかった。どうやら俺は少々思い違いをしていたようだ。俺の推理が正しいとなると犯人はなかなか大胆で頭が切れる奴だ」
「ねぇ、もったいぶってなくて、教えてよ。あの絵の具にはなんの意味があったの?」
「あれはな……」
俺は推理をチコに向かって説明し始める。
一つの謎がわかれば、それに伴い、様々な謎が一気に解かれていく。
犯人は、確かにあの絵の具で『ある物を隠したのだ』。
5,
翌日、予報の通り、ニューヨークは寒波に見舞われていた。
雪が舞い散り、辺りは一面は真っ白な雪景色へと変貌している。
車から降りた直後、冷たい空気が肌に突き刺さる。
俺達がその辺りの景色を見渡している中、丁度、アトリエの中からアンナ夫人が姿を現した。
チコは夫人の姿に気づくと笑みを浮かべながら歩み寄り、その口を開いた。
「どうもアンナさん、ご旅行かなにかですか?」
その台詞の通り、アンナ夫人のコートは大きなファーがついているかなりしっかりとした防寒着だ。はめている手袋はあの鑑識袋の中に入っていた物と同じだが、靴の方は溝が深いブーツを履いている。そして身体の後ろには大きな旅行ケースを携えているのが見えた。
「え、ええ……あんなこともありましたし、実家の方に帰ろうと思っていたところなんです。まだ何か私に用事でも?」
「残念ですが、その旅行はキャンセルしてください。あなたをアルベルト・リベイロ、第一級殺人容疑で逮捕します」
アンナ夫人の顔がサッと青ざめ、その身体がぐらりとよろめく。
「……え? ま、待ってください。私が夫を? 何かの間違いでしょう? なにをそんな馬鹿なことを……証拠は……なにか証拠はあるんですか? 私が夫を殺したという確かな証拠が……」
「それを説明する必要がありますかね? あなたはすべてをご存じのはずですが……。まあいいでしょう。後は彼が全部説明します」
チコに促され、俺はアンナ夫人の前へと歩み出る。
そして、僅かな苦笑と共に肩をすくめ、こう切り出した。
「とりあえず、アトリエの中に入りましょう。ここは寒すぎる」
アトリエの中は事件当時よりも更に殺風景な場所になっていた。
当然、既に遺体はなく、ただ、そこには何も無い空間だけが広がっている。
目に入るのは大きな絵と、空になった絵の具の缶くらいのものだ。
俺は皆が一息ついたのを見計らい、そのアトリエにある小さな窓を指さし話を切り出した。
「夫人。あなたは二年前、窓ガラスが割られたという通報をしましたよね? 二回ほど」
「ええ……そうですが、それが何か?」
「それが今回の事件の布石だったというわけですよ。あなたは自らの手で窓ガラスを割った。警察が通報からどの程度で到着するか、その時間を見極める為にです」
「そんな……馬鹿馬鹿しい。通報したのが自作自演だったというんですか? 今回の殺人の為にわざわざそんなことをしたと?」
「そう。どうやら、あなたは事前にきっちりと計画を練り上げ、その予定通りに実行に移すかなり生真面目なタイプの人間らしい。恐らく、それと同時期にあなたは凶器に銃を使うことを決めたはずです。夫のアルベルトは画家にしてはいい体格だ。ナイフや鈍器だと一撃で仕留めきれず反撃される恐れがある。それならば凶器は銃だ。幸い、足のつかない都合の良い銃に心当たりがある……」
「都合の良い銃?」
怪訝な表情を浮かべるアンナ夫人に対し、俺は頷く。
「ええ……凶器に使われたS&Wのビクトリーモデルは第二次世界大戦で二十万丁以上製造された銃です。従軍した親族の遺品として家に残されるケースも珍しくない。恐らく、あなたもそういった経緯でその銃を手に入れたはずです。そのような理由がなければ半世紀以上前の銃をわざわざ凶器に使おうとは思わないですからね。そして、あなたはその銃で夫のアルベルトを撃ち、殺害した。予定通りなら、そのまま悠々と逃げられたはずだった。ですが、今回はその生真面目な性格が仇になってしまった。警察が予想した時間よりも遙かに早く到着してしまったからです」
俺の声はアトリエの中で木霊する。
その反響は一層、アトリエ内の寒々しさを強調する。
皆、一言も喋らず、強い緊張感がその場を支配している。
俺は言葉を続ける。
「正直、俺からすると実行日は先延ばしにした方がよかったと思いますがね。あの日、地面は完全に凍結していた。当時履いていたあのヒールではとても警察から逃げ切るのは無理だったでしょう。あなたの周到だったはずのプランはその時点で完全に狂ってしまった。もう、警察からは逃げることは出来ない。直に警察がこの場所にやってくる。そうなるとおしまいだ。ならば被害者を装って、偽の犯人をでっち上げればいい。いや、駄目だ! この場所には重大な証拠が残っている!」
アンナ夫人の身体が小刻みに震えているのは寒さのせいだけではないだろう。
俺はかつかつとアンナ夫人に歩み寄り、その視線を中程へと落として、口を開く。
「その手袋。なかなか良いデザインですが、少々あなたの手には大きすぎるようだ」
俺のその言葉にアンナ夫人はハッとその目を見開く。同時にその顔に強い動揺の色が浮かび上がった。
「そう、この現場に残っていた証拠、それは銃を撃った際に付着した硝煙の痕跡でした。そんな証拠が残った手袋をはめたままでは、例え被害者を装ってもすぐにバレてしまう。ならばどうするか? そこであなたは名案を思いついた。夫の手袋と自分の手袋を取り変えてしまえばいい。硝煙反応検査は手を中心に行われる。素手と手袋の両方から硝煙反応が出なければ、きっと容疑者からは除外されるはずだ。たとえ、コートに僅かな硝煙が付着していたとしても、犯人が自分の間近くで発砲したと証言すれば、その痕跡は無視されるだろう。いや……それだけでは不十分だ。もしかすると警察もその可能性に気づき、取り替えた手袋を調べてしまうかもしれない。……その時、あなたの目にこのアトリエにある大量の白い絵の具が映った」
俺はそのアトリエに残されている白い絵の具が入った空き缶に視線を落とし、話を続ける。
「そこであなたは白い絵の具を夫のアルベルトにかけたんです。証拠である硝煙反応を覆い隠す為に。そしてその後、あなたは遺体をキャンパス生地の上で転がすようにしてまんべんなく白く塗りつぶした。後は時間との勝負だ。あなたは素早く裏口に回り扉を開け、ガラスを割って犯人がそこから逃げたように装った後、銃の底で自らの頭を殴りつけ、それをアトリエの隅に投げ捨てた。まさしく早業といって良い。見事なもんです。余程に知恵と度胸がなければ出来ることじゃない」
恐ろしい程の静寂の中、俺の言葉が一段落したと見たチコが話を続ける。
「正直言って、警察もまんまとあなたの罠にはまってしまいましたよ。警察は当初、遺体を白い絵の具で塗りつぶしたのは、もみ合いの際に生じた犯人自身の血痕を隠す為だと考えていたんです。それで私達は必死になってその痕跡を探し続けていた。もう本当に必死に。それこそ鑑識課が総力を挙げてです。一度、その考えに囚われるとそこから抜け出すのは容易じゃありません。血痕を探すのに躍起になってる人間は硝煙反応を調べようなんて思いもしませんからね。しかも私達はその手袋を被害者の手袋だと思ってたわけですから。ですが、彼の助言でその手袋を調べ直したら一発でその証拠が出てきましたよ。勿論、その証拠とは硝煙反応です」
チコはそう言った後、一呼吸置き、
「そうなると……状況から考えて犯人はあなたしかあり得ないことになります。残念です……ご同行願います。アンナ・リベイロさん」
その言葉で観念したのか、アンナ夫人はガクリとその肩を落とした。
チコが夫人の手袋を証拠として取りさり、その代わりとして手錠をかける。
連行される直前、夫人は一度立ち止まり、俺に苦笑にも似た堅い笑みを浮かべた。
「ああ、あなたは本当に優秀な探偵さんだったみたいね。素晴らしいわ、まるであの夜、このアトリエの中にいたみたいだった。でも、あなたの推理には一つだけ間違いがあったのだけど、最後にそれを指摘してもいいかしら?」
夫人のその意外な言葉に、俺は僅かに目を見開き、頷いてみせる。
「勿論。後学の為にも是非」
「このアトリエの窓を割ったのは、警察の到着時間を計る為なんかじゃないわ。いえ、結果的には警察がなかなか来ないということに気づいたけど、本当の目的はそんなところにはなかった……」
アンナは寂しそうな表情を浮かべ、言葉を詰まらせた後、
「あの人にもう一度……私に心を向けてもらいたかったのよ。心配して欲しかった……。その為に自分で窓を割ったの。でも、あの人の心はもう私の元には戻ってこなかった。あの人の心はもう別の女の元にいってしまったの……それだけよ」
「…………」
俺は彼女にかける言葉が見つからず、ただ小さく頷くに留める。
そして俺は無言のまま、遠ざかるその彼女の背中を見送った。
開いた扉の先、外には白い雪が降りしきっていた。
6,
「先生! 凄い雪ですよ! もう、別の惑星みたい!」
外から戻ってきた鯉が、鼻水を垂らしながら嬉しそうに叫んだ。
あれから数日の間、雪は降り続け、何十年ぶりという豪雪に見舞われたニューヨークのライフランは完全に麻痺し、世間は大騒ぎになっていた。
だが、鯉はそんなこと微塵も関係ないといった様子で随分と楽しそうだ。
しかし、信じられないのはその格好だ。
相変わらずの長袖シャツにスカートというだけのその格好で外に出れば、普通の人間は凍死してしまうだろう。
だが、鯉はそんな寒さなど微塵も気にしていない様子で再び外に向かって出て行こうとしている。
その時、不意に事務所の外階段を上がる音が響き、やがてして事務所の中に一人のイヌイットが姿を現した。
……が、よくよく見てみるとそれはイヌイットではなく、チコだった。
ファッションのこだわりを捨てたのか、チコは完全防護……というより過剰すぎるまでの格好に様変わりしていた。
ファーのついた冬山登山用らしき防寒着を着込み、顔の半分はそのフードに覆われている。
「チコ、南極に出発するのはいつだ? 寂しくなるな」
俺の嫌味にも動じず、チコはそのミトンの手袋を見せびらかすようにして上げて、笑みを浮かべる。
その動作は、どこかの北方民族の挨拶のように見えて、滑稽だった。
「いいでしょー。事件も解決したし。完全防寒装備に切り替えたのよ。快適だわ。ああ、そうだ。あの容疑者になってた短気な画家の件だけど、やっぱり池田さんの言ったとおりだったわ。あいつ、あの夜に売人と会ってコカインを買ってたのよ。だからあんな風に証言を渋ってたのね。勿論、今は檻の中よ。当分、絵は描けないわね」
「まあそんなところだろうと思ってたよ。ところでだ……」
俺はその大仰なシルエットのチコに笑みを向け、
「お前、俺を撃ってみろ」
そう言葉を続けた。
「は? どういう意味?」
「いいから銃を引き抜いてみろよ。ほら早く」
俺のおちょくったような口調に反応して、チコは素早くその身体を動かす。
だが、あまりにも防寒に優れたその上着はあまりにもごわごわすぎて手の自由が利かない。一分くらいの時間をかけてやっと銃のグリップに手をかけた後、指が別れていないミトンの手袋ではどう足掻いても引き金が引けないどころか、銃の保持すらままならないことに気づき、チコは猿のような叫び声を上げた。
俺は指を銃の形にして、チコを撃つ真似をしてみせる。
「バンバンバン。刑事チコ・フィオレンティーナ、殉職。悪いことは言わない。上司からの評価が下がる前にその格好は止めた方がいいと思うぜ」
俺のその言葉でチコの顔が真っ赤に染まった。
その直後、チコは着ていた服や手袋を脱ぎ捨て、いつもの通りの格好へと戻った。
「むかつく! やっぱあんた嫌味な奴ね! いいわよ、もう! いらない! この服、いらない! 鯉ちゃん、これ全部あなたにあげるわ!」
「え、本当ですか? やったー!」
喜ぶ鯉を尻目にしてチコは肩を怒らせ事務所の外へと出て行く。
新記録樹立だ。
それはわざわざなんの為にここに来たのかわからないレベルのとんぼ返りだった。
「まるで冬の嵐だな」
呆れながらそう呟いた頃、チコの防寒着をすっかり自分の物にした鯉はその格好でくるりと一回転して見せた。
「どうですか、先生。似合ってますか?」
「ふむ……」
その防寒着はチコの背丈に合っているものなので、少女の鯉だとサイズが大き過ぎるのだが、そのサイズのちぐはぐ感も、ある意味かわいらしいように見える。
それこそ、どこかしらない北方民族の純朴な少女のように見えた。
「いいんじゃないか。似合ってると思うぞ」
「えへへ、やった。ねえ、先生、外に出て、雪だるま作りましょうよ」
「この寒いのにか?」
そう思いつつも、確かにこれ程の記録的な豪雪なら、一度くらい経験するのも悪くないと思い直す。
「まあ、構わんが、作るのは日本式の二段雪だるまだぞ。そこは譲れない」
「勿論、いいですよ。行きましょう」
扉を開け、外に出ると、そこは見事なまでの雪景色だった。
すべて白に塗りつぶされ、後は僅かに残った灰色の建物しか見えない。
まるで、この世から色彩が失われたかのようだった。
俺は、ふとあの光景を思い返す。
白く塗りつぶされた遺体、それは確かに証拠を隠す為に行われた単なる合理的な手段の結果でしかなかった。
だが、或いはもしかすると、夫人はその白い絵の具によって不都合な事実のすべてを覆い隠し、消しさってしまいたかったのかもしれない。
それは確かに、降り積もる雪に似ている。
雪はすべてを隠す。
その下にどのような物語があろうとも、ただ静かに降り積もり、すべてを覆い隠してしまう。
白く、ただ白く……。
或る雪の日に 了
或る雪の日に 鬼虫兵庫 @ikedasen
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