第9話

 落ち着かず、サイリスは早朝からうろうろしていた。

 なにをそんなに苛立っているのか、自分でもよくわからなかった。まさか、トビーに言われたことを気にしているのか。馬鹿馬鹿しい。

 サイリスは、廊下の端の窓から外を眺めた。相変わらず、どんよりと厚い雲が空を覆い、荒野を深い灰色にしている。

「おはようございます」

 背後から声をかけられ、サイリスはびくりと振り向いた。

 首にタオルをかけたジャンプスーツ姿のキリングがいた。

「お、おはよう。まだ誰も起きていないかと思ったよ」

「病院の周りをランニングしようかと思いまして」

「きみ、一応、ここにかくまわれているんじゃなかったっけ?」

「まあ、そうですけど、大丈夫かなと」

「そうだね。警察は怠慢だから」

 サイリスはうなずき、キリングの目を見た。白い廊下、なにもかもくすんだ景色の中では、その瞳が唯一の色のような錯覚を起こしてしまう。

 思わずじっと眺めてしまっていたのだろう。キリングは眉をひそめてまばたきをした。

「な、なんですか?」

「ああ、悪い」

「え、なんですか?」

「なんでもないよ。綺麗な目の色だなと思って」

「は、はい?」

 サイリスはなんでもないように言ったのだが、キリングはかなり狼狽したようだった。

「あ、外に出るにはわたしの鍵が必要だろう。今、鍵を取ってくるから」

 サイリスは部屋に鍵を取りに行き、キリングと一緒に玄関へ向かった。コウモリのぶら下がるトンネルを抜け、鉄格子の鍵を開ける。

 サイリスは外に歩み出て、暗い空を見上げた。コウモリが数匹飛び去っていく。

 動かないキリングを怪訝に思ってサイリスが見ると、キリングは険しい目をしていた。

「こう見ると、本当にヴァンパイアっぽいですね」

「勘弁してくれよ」

 サイリスは苦笑する。

「コウモリ、曇り空――」

「ヴァンパイアって夜のものというイメージだけど」

「本当にヴァンパイアじゃないんですよね?」

 キリングは歩み寄ってきてサイリスを見つめる。二人の身長はほぼ同じくらいだ。

「うーん。でも近くで見るとしわがありますね。やっぱり人間っぽいかも」

「失礼だぞ」

 サイリスは本気で憤慨する。

 するとキリングは突然、「やあっ」と、腹にこぶしを叩きこんできた。

 それほど強い力ではなかったものの、不意打ちだったのでサイリスは派手に体を折った。数歩あとずさる。

「なにするんだよ!?」

「ヴァンパイアだったらやられっぱなしなわけないと思いまして」

「おい……」

「とりゃあん!」

 キリングはサイリスの脚に蹴りを入れてきた。サイリスは、下手によけようとしたばかりに、バランスを崩した。尻餅をついたサイリスは、恥ずかしさのあまり、とっさにキリングに足払いをかけた。キリングは、サイリスよりもよほど派手に転んだ。

「大丈夫か!?」

 転び方が予想外に激しすぎたので、サイリスは思わす声を上げて這った。

 キリングは仰向けのまま、サイリスを恨めしそうに見る。

「痛いです……!」

 サイリスは、謝ろうとして言葉を飲み込んだ。仕かけてきたのは向こうではないか。

「なんでお前はそう暴力的なんだ!」

「暴力的じゃないです」

「どう考えても否定できないだろ!そんなんだから捕まるんだ。実際に強盗だったんだろ?」

「食べ物を恵んでくれるようにちょっと強く頼んだだけです!」

 サイリスはため息をつき、立ち上がった。

「そんなんじゃもう出ていってもらうしかないな」

 サイリスは背を向けて戻ろうとした。冗談のつもりだったのが、がばりと後ろで起き上がる気配がした。

「嫌です!」

 キリングは突進してきて、振り返ったサイリスに抱きつくように攻撃をかけようとしたが、サイリスは身をかわしてキリングの手をつかまえてねじり上げた。

「痛いです!」

 サイリスは手を離す。

「不意打ちでなければこのくらいはできるんだよ」

 サイリスは胸を張った。

 キリングはびっくりしたような顔をしている。

「……素敵です。もっとなんか技かけてみてください」

 今度はサイリスが驚いた顔をした。

 技をかけるかけないでもめているうち、疲れてきてしまった。サイリスとキリングは室内に戻った。サイリスは、自分の部屋へ誘いそうになるのをこらえ、食堂へ向かった。キリングと自分のコーヒーを淹れる。

 まだ誰かが起きてくるには時間があり、キリングは自分の身の上話を始めた。サイリスも自然と自分のことを話していて、気がつくと思ったよりも長い時間が流れていた。

 窓の外がほんの少し明るくなり、その時を見計らったように、キリングが言った。

「サイリスさんはいい人ですね」

 真っ直ぐな目がやっぱり美しすぎる。

「あの、ちょっとお願いがあるんです」

「うん?」

「馬鹿馬鹿しいと思われるかもしれないですけど、宇宙船を探しに行きたいんです」

 キリングの目は真剣だった。サイリスは、トージと同じことを言うんだな、と言おうとして、言葉を飲み込んだ。

「うーん、難しいと思うぞ」

「車を貸していただければ、一人で行きます。ずっと宇宙船のことが頭から離れないんです」

「見つけたとして、どうするんだ」

「宇宙に行くんです」

 キリングはきっぱりと言った。

「トビーがいればなんとかなると思いますし」

「なんとかなるって……」

「車で宇宙船を見つけて、いったん戻ってきて車をお返しし、食料とかを持って引き返し、宇宙船に乗ろうと思います」

「ちょっと待て」

 サイリスは言葉を探す。

「ええと、もう少し慎重に考えたほうが」

「ぐずぐずしていると、未練が残ってしまいそうですから」

 キリングは立ち上がった。

「食料をかき集めさせていただきます」

 思いつきで行動しているのだろう。なんて自由な女だ。

「待て、勝手に食料庫をいじるとキャサリンが怒る」

 サイリスはなんとかキリングを落ち着かせようとした。

 いつも通りにキャサリンが起きてくる頃には、キリングは仕方なくサイリスが与えた食料を持って自分の部屋へ戻っていた。

 青井と最後の朝食を摂っている時も、サイリスは悩ましく落ち着かなかった。

「何日も世話になって悪かった。ありがとう」

 青井は言った。

「なにを水臭い。こっちこそ、久しぶりに来てくれてありがとう」

 サイリスは、無理に意識を青井に向けた。青井に血の入ったグラスを出すキャサリンは、心なしか寂しそうに見える。

「きみがヴァンパイアでなくなっても、僕たちは友達だからな」

 そう言われて、サイリスは嬉しかった。実は内心、青井は自分に呆れているのではないかと思っていたのだ。

「ありがとう……」

 感動しているところに、青井はまた余計なことを突っ込んできた。

「トビーはどうする?捨てるっていうなら、僕が持って帰ってもいいんだけど」

「あ、それなんだが」

 サイリスは、キリングが宇宙船を探しに行くと言いだしたことを話した。

「なんとかとめたいんだが、頑固そうだし……もうトージが出発するって日にこんな問題は起きてほしくなかったんだが」

「そんなの、勝手に行かせればいいんじゃないか?きっとなにも見つからなくて戻ってくるか、実物を見て怖気ずくか、どっちかだろう」

「でも、探してる途中で迷ったり、なんらかのトラブルで帰ってこられなくなったらまずいだろ」

「心配してるのか。余程気に入ったんだな」

「そんなことはないが……」

「いっそあのヴァンパイアハンターと一対一の恒久的関係を築けばいいのに」

「今更そんなことしようと思わないよ」

「まあ、きみもそれなりに年だしな。もうすぐ五十だっけ?」

「そんなにはいってない」

 サイリスは憤慨する。

 茶化されてしまったので、問題はうやむやになった。青井を見送るまで時間が空き、考えた末、サイリスは書斎へ行った。

「トビー、宇宙船がどうなんてことはもう口にしないでくれ」

 サイリスは唐突に言う。

「人間の安全にかかわることだ」

 サイリスは、キリングを行かせないため、宇宙船はすでに朽ち果てているだろうという話をするように言った。サイリスにとっては精一杯誠意をこめて頼んだつもりだ。

「嘘をつくのは気が進みませんね」

 今まで散々嘘をついてきただろう、という言葉は呑み込む。

「まさか、嘘はつけないとは言わないよな?優秀なAIだろ」

「わかりました。先生のおっしゃるようにします」

 サイリスは、とりあえず安心して書斎を出たが、しばらくして、トビーを抱えたキリングがサイリスの部屋を訪ねてきた。

「車を貸してください。宇宙船を探しに行きます」

「トビー!?」

 サイリスは、小脇に抱えられた鉄のかたまりを睨む。

「申し訳ありません、先生。わたしは宇宙へ行きたいのです」

 トビーは言った。

「嘘をついたな」

 不覚にも、トビーをナメていた。

「お願いします。車はちゃんとお返ししますから」

「そういう問題じゃなくてな……」

 いつでもキリングは真剣そのものの顔をしている。

「だめって言うなら、キャサリンさんに聞いて来ます」

 キリングはくるりと背を向ける。街へ買い物に出かけるのにいつも車を使っているのはキャサリンだ。そもそも、車を拾ってきたのはキャサリンだし、サイリスにはどうこう言う権利はないということになってしまう。

 でも、なんとか引きとめなければ。なんだろう。この焦りは。焦りというか、発汗と動悸だ。

「待て。どうしてそんなに急ぐんだ」

「ぐずぐずしていると、未練が残りそうなので」

 今朝と同じことを言った。

「いいよ、未練が残っても。ずっとここにいてもいい」

 なにに対する未練かはわからないが、サイリスは必死に言った。

「謝るよ。わざと埃だらけの部屋とか、ひどい食事をあてがって悪かった。もっと綺麗な部屋に移っていいし、美味い食事も出す。警察が来たら追い払ってやるし、あとは……なにかあるかな?」

「だめです。それじゃ、もう二度と出ていけなくなっちゃいます。未練を残さないようにと思ってるのに、どうしてそんなひどいこと言うんですか」

「え?じゃあ、ほんとはここにいたいんだな?」

「ここというか、はい、あなたと一緒にいたいです」

「じゃあ、いればいい。一緒に」

「でも、ご迷惑では?」

「いてほしいんだよ」

 キリングはトビーを落とした。ゴン、という音とともに、床にひびが入る。

「ありがとうございます」

「わたしの宇宙船は?」

 トビーの声は、互いを見つめる二人に無視された。

 食堂に戻ると、キャサリンが珍しくぼーっとなにもしていない様子でコーヒーを飲んでいた。

「キャサリン、イヴァはずっとここにいることになったから」

 サイリスは言う。押し殺しても笑顔になる。

「イヴァって、キリングさんのことですか?それはそれは」

 サイリスは、乱暴なところもあるが迷惑をかける存在ではないこと彼女もここにいたいと言っていることなどを次から次へと話した。

 やっと息をついたサイリスを、キャサリンはじっと見つめた。それから、ポンと手を叩いた。

「じゃあ、わたしはもうここから出ていって大丈夫ですね」

「は?」

 突然の言葉に、サイリスはぽかんとする。

「もう採血をする必要もないわけですし。わたしがいる必要はないですよね」

「でも、ここからでてどうするんだ?」

「実は、青井さんと少し話したんです。ここはもううんざりなので、青井さんのところで家政婦でもさせていただけないかと。青井さんは、ぜひともそうしてもらいたいところだけど、サイリスとの友情を大切にしたいから無理だとおっしゃいました。でも、先生がいいとおっしゃっていただければ、万事解決です」

「ちょっと待て、トージに訊いてくる」

 あれよという間に、キャサリンは青井についていくことに決まってしまった。青井は、キャサリンなら日本の家族も歓迎するだろうと言い、キャサリンは、努力して日本語を学ぶと誓った。

「キャサリン、そんなにここが嫌だったのか……不満があれば言ってくれればよかったのに」

 サイリスは、キャサリンと青井を見送りに玄関ホールにいた。高揚していた気分が一気に下がっていた。

「別に不満があったわけではありません。でも、ずっと先生の顔や同じ景色を見ていると、飽きてきてしまって」

「キャサリンは、大人しそうに見えてバイタリティ溢れる女性なんだね」

 そう言う青井が自分に向かって誇らしそうな顔をしているように見えるのは気のせいだろうか。

「じゃあ……キャサリン、元気で」

「先生もお元気で」

「また近い内に会おうな、サイリス」

 青井を見送る時にキャサリンが自分の隣にいないなどとは想像もしなかった。しかし、これでいいのだろう。キャサリンは、自分の力でここまで生き抜いてきた女なのだから、これからもきっとそうするはずだ。

 青井とキャサリンが姿を消し、サイリスはガランとした玄関ホールに少し寂しさを感じた。

 しかし、まだやることがある。

 サイリスは深呼吸をしてから引き返した。にゃあという声がして足元を見ると、額に星のついたネコがサイリスを見上げている。

「おお、星」

 サイリスは屈みこんで軽くなでた。すると、別の黒ネコも近寄ってきた。それもなでたが、やはり星のほうが可愛らしい気がする。

 サイリスは、アメリアの部屋へ向かった。しかし、アメリアは談話室にいた。ユウコもサリーも一緒だ。

「ミス・ゴールドウィン」

 サイリスは咳払いをする。

「ちょっと二人で話したいんだが」

「なんだよ?」

 アメリアではなくユウコが興味津々の態で言う。

「秘密にしないでここで話せよ」

「いや、二人で話したいんだ」

「どうせミス・ゴールドウィンから聞き出すから同じだよ。ほら、早く」

 サイリスはため息をつき、不思議そうな顔をするアメリアを見た。

「じゃあ、話す。まず、ミス・ゴールドウィンに謝りたいんだ。その、申し出に早く返事をしなかったことについて」

 アメリアの表情が少し暗くなったような気がした。

「それと、きみの希望に応えられないことについて」

「そうですか」

 アメリアはうなずく。

「悪い」

「いいんです。気にしません。きっとそうおっしゃるだろうと思ってました」

「なんの話?」

 本から顔を上げたサリーが言う。

 その答えはうやむやにしてしまったが、サイリスの行動はぶれなかった。穏やかな日常が続いたが――サイリスとイヴァノアの家事能力だけが問題だった――数日後、アメリアが、イヴァノアと一緒に夕食作りに苦戦しているところへ来た。

「先生、わたし、やっぱり実家へ帰ろうと思います」

 アメリアは言った。

「え、でも」

 サイリスは、野菜を切っていた包丁を持ったまま目をしばたたく。

「考えてみたら、あのアパートがわたしの両親の家なのでしょう?わたしの両親は落ちぶれてしまったようですが、やっぱり家族ですから」

「いいのか?本当に?」

「ユウコも連れていきます」

「え!?」

「ユウコもそれでいいって言ってますし。一人だと不安だから」

「ユウコがそう言ったのか?」

「ええ。サリーも外へ出たいって言ってますけど、自分で仕事を見つけるところから始めたいみたいです」

「ちょっと待ってくれよ。三人ともここから出ていくっていうのか?」

「今すぐにではないですけど。そう考えてるってことを早めに言ったほうがいいかと思いまして」

 アメリアは、むしろ楽しそうだった。

「そうか……」

 考え込んでしまうサイリスを見て、イヴァノアが言った。

「それじゃ寂しくなりますね。宇宙に友達を見つけに行きますか?」

「そうか。そういう道もあったか」

 トビーは再び書斎へ移動され、放置されていた。考えてみれば、かわいそうだ。今度は、彼の望みをかなえてやる番かもしれない。

 それから数か月後。サイリスは助手席にイヴァノアを乗せ、後部座席にトビーを乗せ、荒野へ車を走らせた。空には、大気中のゴミを吸着する巨大なバルーンがいくつも浮かんでいる。マードックにはうるさいほど感謝されたものだ。

「そのまままっすぐ進んでください」

 トビーはがたごとと地面を進む音に負けないように音量を上げた。

「サイリス、本当にアメリアとユウコとサリーと別れてよかったの?」

 イヴァノアはまだ心配そうにしている。

「みんな自分の意思で出ていったんだ。むしろ、ほっとしているくらいだよ」

「寂しかったら、正直に言ったほうがいいんですよ」

「寂しくなんかあるものか。今はきみがいるんだから」

 後部座席から、星がサイリスの膝の上に降りてきた。

「あと、こいつも」

 サイリスとイヴァノアは笑った。

「サイリス、イヴァ、宇宙船を発見する作業に集中してください」

 二人と親しくなったトビーが言う。

「よく目を凝らさないと見逃してしまうかもしれませんから」

「でも、少し日が差すようになって明るいから、前よりはよく見えるよね」

 イヴァノアは、厚い雲の切れ間の青を見上げる。

「そうだな」

 サイリスはエンジンを踏み込む。もうヴァンパイアのフリをすることもなければ、答えの出ないことで悩むこともない。

「もう少し西へ進んでください。かすかな電波を感じます」

 トビーの言葉でハンドルを切る。いつしか、トビーの言葉の真偽を考えなくなっていた。今は楽しいから、それでいいではないか。

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白衣と鉄くず 諸根いつみ @morone77

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