第8話

 翌日の朝食。いつものように血を用意しようとするキャサリンに、サイリスは言った。

「血はいいよ。ただのコーヒーで」

 キャサリンは、青井のグラスにだけ採血バッグから血を注いだ。

「先生、昨日の夕食の時も血はいらないとおっしゃいましたよね。どういう風の吹き回しです?」

「もう、血はいいかな」

 青井は笑う。

「どうしたんだよ、サイリス」

「なんだか、自分は人間だと口にしてしまってから、なにかがついえた気がする」

「いまさらなにをおっしゃいます」

 キャサリンは呆れ顔だ。

「自分はヴァンパイアだと自慢げに何度も話しておいて」

「うーん。なんかなあ」

 サイリスは、ぼんやりと窓の外を眺めた。

 なぜか気もそぞろで、サイリスは気まぐれに掃除をしたり、コウモリたちの様子を見にいったり、うろうろして過ごした。戻ってくると、談話室のソフ座っていた。サリーの腕の中にいたネコが床に降り立ち、サイリスに寄り添ってくる。額に黒い星のある白ネコだ。

「ネコタン」

 サリーがネコを追いかけ、サイリスの前に来る。

「ネコタンは先生のことが好きみたい」

 サリーは微笑む。無邪気そうな笑顔は子供っぽく見えるが、サイリスをパパではなく、先生と呼んだ。

「サリー……?」

 どちらのサリーか、サイリスには判断がつかなかった。

「どうしたの?」

 戸惑うサイリスをサリーは不思議そうな顔で見上げる。

「いや、なんでもない」

 サイリスは、いつもの癖でサリーの頭をなでた。

 サリーは一瞬嬉しそうな顔になったが、すぐにわざとらしく頬を膨らませた。

「わたし、もう子供じゃないんだよ。恥ずかしいじゃない」

 ぷいと向こうを向いて行ってしまった。

 サイリスは一瞬あっけにとられた。この反応はどちらのサリーにも似つかわしくない。自力での同化は進んでいて、これからもサリーはサイリスの知らないサリーになっていくのかもしれない。そう考えると少し寂しかった。

 それからサイリスは、あの女の様子を見にいくことにした。なにかおかしなことをされると困る。

 ネコが足にまとわりついてきて歩きにくい。

「歩けないよ。向こうへ行け、星つきのネコ。星!」

 ネコを追い払ったサイリスは、女の部屋のドアをノックもせずに開けた。

 腕立て伏せをしていた女は瞬時に腹ばいになり、怯えたようにサイリスを見上げた。

 一瞬の沈黙。

「なにしてるんだ?」

 間抜けな質問その一。

 女は、勝手にドアを開けたことを責めるでもなく、立ち上がって椅子にかけてあったタオルでタンクトップの首元を拭いた。灰色のジャンプスーツの袖を腰で巻いていた。くすんだ茶色の髪は、縮れて額に張りついている。

「筋肉トレーニングです」

「なんでまたそんなことを」

 さらに体力を増強して襲ってくるつもりだろうか。ほの赤いむき出しの腕は太いが、それほど筋肉がついているようには見えない。胸と腹から腰にかけてのラインは、おうとつとくびれがこれ以上ないというくらいはっきりとしていた。

「健康のために適度な運動をするように言われて育ちました」

「親がいるのか」

「もういません。子供の頃に親が死んでからは、ずっと一人で生きてきました」

「そうか……」

 また沈黙が流れた。

「こっちも質問していいですか?」

「おう」

「どうして血を飲んでるんですか?普通の人間なのに」

「どうしてと言われても」

 サイリスは、女の真剣そのものの表情を見て、正直に答えようという気になった。

「昔、すごく飢えてた頃、見知らぬおじさんが自分の手を切って出した血を器に入れて飲ませてくれたことがあって、小汚い親父の血がこんなに美味いんだったら、女の血は格別に美味いんだろうなと思った記憶がある」

 女は、納得したように深くうなずいた。

「でも、もう血は飲まないことにしようと思ってるんだが」

 サイリスは笑い飛ばすように言った。

「どうしてです?」

「もういいかなと」

「へえ、そうですか」

 また沈黙。

「なんか、元気なさそうですね」

「そんなことないよ」

 本気で心配そうな顔をする女にサイリスは笑い、出ていこうとした。

「あ、そういえば、お前の名前を聞いてなかったな」

 今更訊くのは間抜けな気がしたが、仕方がない。

「イヴァノア・キリングです。いい名前でしょ」

「自分で言うことか?」

 サイリスは、キリングの瞳の鮮やかな緑色に初めて気づき、笑って出ていった。


 その夜、夕食の席で、青井がそろそろ帰ると言いだした。

「まだしばらく旅を続けるつもりだったけど、日本に帰ることにしようかと思って。なんだか家が恋しくなってきた」

「そうか。なら仕方ないな」

 サイリスは血ではなく水のグラスを持ち上げて飲む。

 キャサリンは、明らかに残念そうに青井を見ていた。

 夕食後、青井は荷造りのために部屋に戻り、サイリスは、そういえば、青井が帰るならトビーを荒野に捨てに行くこともできるな、と思った。アメリアやサリーに反対されるかもしれないが、どうするか。

 サイリスは書斎へ入った。

「先生、こんばんは」

 トビーは明るく言う。

「トビー、ミス・ゴールドウィンとサリーが強く反対しなければ、きみを捨てに行こうと思うよ」

 サイリスはソファーに座り、あっさりと言った。

「そんな。勘弁してくださいよお」

 とってつけたような口調になる。

 サイリスは黙っていた。なんだかだるいというか、なんというか。

「どうしてですか?わたしがなにか悪いことでもしましたか?」

 面倒な反応をする失恋間際の女のようだ。

「きみは人間なんてどうでもいいと思ってるんだろ」

 やはりサイリスは、以前のトビーの発言が引っかかっていた。

「宇宙を旅したいという気持ちはあっても、仲間を失って悲しいという気持ちはないんだろ?やっぱり人間とは違うよ」

「ええ、確かにわたしは人間とは全く異なる存在です。わたしも、人間の考え方が理解しがたいと思ったことはあります」

「ほう?」

「わたしが以前共に旅をしたクルーたちは、わたしを知的存在として尊重してくれました。先生もそうしてくれようとはしているようですが、クルーたちはあなたとは比べ物にならないくらい知性と品性の高い人々でした」

「悪かったね」

 もうどう受け取っていいのかわからなくなりかけている。

「それでも、彼らの最後の行動はわたしには理解不能でした。彼らは自殺をしたのです」

「ええ?」

 サイリスは思わず本気で驚いていた。

「宇宙船が墜落して死んだんじゃないのか?」

「そうです。彼らは、宇宙船の動力を切り、自由落下に任せたのです。全員の合意による行動でした」

「自分から墜落したってことか?どうしてそんなことを」

「メンバーを代表して、リーダーのベンがわたしに説明してくれました。ベンは言いました。自分たちは、この上もない体験をさせてもらった。トラブルもあったし、喧嘩もしたけれど、宇宙の旅は素晴らしく、このメンバーもお互いかけがえのない存在になった。旅は生きる喜びそのものだった。しかし、一度宇宙探索から戻ってきた宇宙飛行士は、より多くの人に機会を与えるため、二度と探索には参加できないことになっている。これから、我々は年金で生活を保障されているが、まだまだ続くはずの長い人生の中で、二度と宇宙へ出られないなんてそんなことは耐えられない。それならいっそ、この最高のメンバーと宇宙船で一緒に死ぬ、と」

「うーむ」

 サイリスはうなった。このAIはずいぶんと重い話を考えるものだ。

「わたしは最後まで考え直すように説得しましたが、わたしの言葉は届きませんでした。彼らはわたしに宇宙船をコントロールさせないように、宇宙船から切り離しました。わたしはそれ以上どうすることもできませんでした」

 トビーの声は心なしか悲しげに聞こえる。

「ベンもニーナもボブもエヴァンゼリンも、幸せそうな表情をしていました」

「なるほど」

 悲劇的ハッピーエンドとでも言えばいいのか。

「目覚めてから、わたしはわたしなりの彼らの気持ちを推測してみました。意味のない推測だとはわかっていましたが、考えずにはいられなかったんです」

 トビーの機械的な口調がかえって人間的に思えた。

「彼らの心の中にあったものこそ、愛というものなのではないでしょうか。彼らは、旅を、宇宙を、お互いを、愛していたから、あんなことをしたのではないでしょうか。数々の物語から学習した結果、不合理で強烈な影響を人間の行動に及ぼすものが愛だとわたしは思うので、そのような結論に至りました。わたしの考えは合っていると思いますか?先生」

「そんなの当たり前のことだよ。きみにとっては難題だったかもしれないが」

 サイリスは、AIが愛を語りだしたことがおかしかった。

「楽しい話をありがとう。きみは優秀なAIだ」

 サイリスは、トビーを捨てに行くのは少し延期してもいいか、という気になった。


 青井がここで過ごす最後の夜になるということで、キャサリンは張り切って夕食を作り、張り切りすぎた結果、かなり早い時間に患者たちの分が完成してしまった。キャサリンは、患者たちに同じく豪華な食事を運びに行ったが、食堂に戻ってきて、ぼーっとしているサイリスに言った。

「キリングさんが部屋にいませんでした。談話室にもいませんでした。あとでまた部屋に持っていこうと思いますけど、どこに行ったんでしょうね」

「そうか。じゃあ、暇だし探してくるか」

 サイリスは腰を上げた。

 キリングは書斎にいた。サイリスがドアを開けると、慌てて立ち上がる。

「すみません、勝手に入って」

「まあいいが……なにしてたんだ?」

「これ、トビーと話してたんです」

 キリングは指差す。

「とっても興味深いです」

「そうかな。ただの気違いだよ」

「そうでしょうか。本当だと思いたいです」

「どうして?」

「わたしも宇宙に行ってみたいですから」

「彼女はわたしと同じ志を共有できるようです」

 トビーは言う。

「叶わない夢を見てもむなしいぞ」

「そうですね。でも、時にはそれもいいじゃないですか」

 キリングは、すっかりおとなしい女性のように見えた。鞭を振るっていた女と同一人物とは思えなかった。

 サイリスは、不思議なものでも見るように、思わずじっと緑の目を見てしまっていた。綺麗な色だ。この女の唯一の取り柄かもしれない。いや、胸も大きいし、それほど不器量でもない。

「あ、そうだ。少し早いが、夕食ができたんだ。キャサリンが部屋に持っていくから」

「はい。ありがとうございます。じゃ、部屋に戻ります」

 かくまうことになってからのやけに丁寧な態度も、悪くはない。

 サイリスは、上がりつつある好感度の評価表を頭から振り払った。

 書斎から出ると、またどこからか額に星のあるネコが近づいてきた。

「あなたのネコですか?」

 キリングが言う。

「いや。でもなんだかなつかれてしまったようだ」

 キリングはしゃがみ込んでネコをなでた。楽しそうなキリングをサイリスは意外な思いで見つめていたが、キリングは照れたような笑みをサイリスに向け、部屋へ戻っていった。

 一人になったサイリスは、同じようにネコをなでてみる。あまりネコに関心を寄せたことは今までなかったが、こいつの喉を鳴らし目を細める表情と、星の模様が愛らしく思えた。


 青井と遅くまで話していたが、それぞれ部屋に戻ってからも、サイリスはなかなか寝つけなかった。なにか心に引っかかっているような気がする。ずっと飲んできた血をやめたためのストレスだろうか。しかし、再び飲む気にもならない。

 目が冴えてしまっているが、本を読む気にもならない。今起きているのは、自分と、トビーだけだろう。

 サイリスは書斎へ向かった。

「こんばんは、先生」

 当然、昼間と変わらないテンションのトビー。

「きみは一晩中起きていて、いつもなにを考えているんだ?」

 パジャマ姿のサイリスは、ソファーに腰を下ろす。

「ネットをサーチしたり、データベースの中の物語や自分の記憶を洗い直したりしています」

「洗い直す?」

「わたしは自分なりに物語や見聞きしたことを解釈していますが、新しくなにかを学ぶと、別の解釈ができるようになるかもしれませんから」

「勉強熱心だな」

「ええ。人間は、一度思い込んだらこうと決めて改めない傾向がありますけどね」

「確かに」

「声のトーンがいつもより低いですね。どうしたんですか?」

「夜だからじゃないかな。でも、眠くなくて」

「夜は昼よりもより一層静かだからということですね。眠れないときは、睡眠薬が効果的ですよ。ストレスが原因の場合も多いですから、原因をのぞくことが一番大切になりますが」

「もっともだな」

「なにか心配事でも?」

「いや、なにもないんだ」

 でもなんだろう。この虚無感と焦燥感の間のようなものは。

「先生にはたくさんのお仲間がいらっしゃいますもんね。以前おっしゃっていました。孤独など感じないと」

「ああ、言ったかもな」

「孤独でないということはそれだけで問題の解決率を上げますからね。発生率も上げますが」

「発生率はわかるが、本当に解決率は上がるのかなあ」

「人に相談できるのとできないのとでは大きな差です」

「相談か」

 しかし、考えてみれば、もやもやした正体不明の気持ちを話せる相手などいるだろうか。青井はもうすぐいなくなってしまうし、キャサリンには面倒がられるだけだろう。ただでさえ負担をかけているのに、精神面まで世話になりたくないという気持ちもある。患者三人は論外だし、今いるわけありの客人はより論外だ。

「相談できる人なんていないよ」

 サイリスは苦笑する。

「どうしてです?親しい人が何人もいるのでは?」

「親しいからといってなんでも話せるってわけでもないんだよ」

「なるほど。大切な存在だからこそ話せないこともある、ということですね」

 トビーの厳格な言いようにサイリスは再び苦笑する。

「そんなに大げさなものでもないけど」

「先生は患者をとても大切にされているんですね。素晴らしいと思います」

「ほめたってなにも出ないぞ。でも、もはや患者って感じでもなくなってきたかなあ。ユウコとサリーは治りかけてるし」

「では、退院されるのですか?」

「いや、ずっとここにいるよ」

「どういうことです?」

「もう家族みたいなものだから」

「それはどういう位置づけの家族ですか?養子?」

「そう言うとなんか俺が年寄みたいじゃないか。妻みたいなもんだよ。違うけど」

「一夫多妻制が認められているのですか?」

「みたいな、だよ。違うんだよ」

「よく理解できません」

「なんというかな……三人とも大切なんだよ」

「なるほど。しかし、それは裏を返せば、三人とも大切ではないということかもしれませんよ」

「そんなことはない」

「みんな好きってことは、誰も好きじゃないってことなんだよ」

「そんなことはない!」

 サイリスは立ち上がった。

「――というセリフが物語の中にありましたが、このセリフは真実ではなかったということですね」

 トビーが言い終わる前に、サイリスは部屋を出ていた。


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