第7話
翌日、サイリスと青井は、昼間からブランデーを飲んでいた。キャサリンから、「瓶入りの液体は重くて買いに行くのが面倒だから大切に飲むように」と言われているので、水と血で薄くしてはいたが。
「ユウコちゃんの悪魔キャラは治ったってことでいいのかな?」
グラスを置いて青井は言う。
「そうみたいだよ。今朝も、今までにないくらい普通だったし。普通と言っていいものかどうか」
サイリスが様子を見にいくと、ユウコは談話室で優雅にプラムジュースを飲んでいた。サイリスの挨拶に普通に返してきたことは、かつてない史上最高の驚異だった。
サリーはともかく、アメリアは戸惑っている様子だったが、問題が起こりそうな気配はない。
「トビーに感謝しなくちゃな」
青井の言葉に、サイリスは忘れていたトビーのことを思い出した。
「そうか。トビーが悪魔祓いをしようなんて言いだしたのが、結果的にはよかったわけか」
「そうだよ。ユニークなAIだよね」
「でも、お礼っていうのも……」
「治療の真似でもしてあげればいいんじゃ?」
「いや、やめとくよ。どうせアメリアのおもちゃになってるだろうし」
「そういえば、アメリアとはどうなったの?」
「どうなったのって、どうもしないよ。なんか、気まずいんだ」
「まずいな、それは」
「仕方ないよ。そのうち、アメリアも忘れるよ」
「そんなことじゃだめだよ、サイリス」
青井は、冗談めかして熱弁する。
「サイリス、きみはまっとうな恋愛をしたことがないだろ?」
「は?なにを言いだす」
青井はふざけているのか真剣なのか、どちらなのか取りかねた。
「前にも言ったが、一人に決めたほうがいいぞ」
「そう言われてもなあ」
「サリーに言わせると、一人に決められない男は小物だそうだよ」
「サリーがそんなことを?いつ話したんだ?」
「昨日。悪魔祓いのあとに、サリーが僕の部屋に来たんだよ」
「なんでそれを先に言わないんだよ」
「悪かった。ちゃんと追い返したから」
「あのサリーが言うことを聞いたのか?」
「聞いてくれたよ。本当だよ。彼女も本気じゃなかったんだよ。少し話はしたけど」
「で、わたしの悪口を言ってたわけだ」
「まあね。僕は言ってないよ。アメリアと同じく、サリーもきみに不満があるみたいだね」
「なにが不満だっていうんだろう」
「それは彼女に聞いてみたら。僕もよくわからなかった」
「そうだな。サリーもユウコも、トージに迷惑かけっぱなしで悪い」
「そんなことないよ。でも、そろそろ僕はここを旅立とうかな」
「やっぱり嫌気が差したか?」
「いやいや、そうじゃなくて。僕がいると、三人に精神的に悪い影響があるかな、と」
「ないない、ないって。もっといればいいのに」
「そうですよ!もう少しいてください」
食器を磨いていたキャサリンが、突然声を上げる。
「じゃあ、もう少しいようかな」
青井の言葉に、キャサリンは、通常状態の仏頂面を緩めた。
ほっとした表情のキャサリンを見て、サイリスは内心で軽く苛立ってしまうのだった。
キャサリンは日用品を買いに出かけ、二人は気怠く飲み続けていると、食堂に、カートを押したアメリアとサリーがやってきた。
「パパ、トビーはかわいそうなんだよ。宇宙船に帰してあげて」
サリーが泣きそうな顔で言う。
「なんだなんだ」
サイリスが座ったまま体の向きを変えると、カートの中のトビーが澄ました声で言う。
「ミス・ゴールドウィンとサリーに、わたしの体験談をお話ししていたんです」
「宇宙船は本当にあるんだよ。ね、みす・ごーるどうぃん」
サリーはアメリアに身を寄せる。
「そうね。トビーは本当のことを言ってると思うわ。あんなに壮大な嘘をつけるはずがないと思うもの」
アメリアは、小柄なサリーの肩に手を置く。子供のサリーと大人のサリーは別人だと認識しているから、子供のサリーには優しい。
「宇宙船って、どこにあるんだ?」
青井が尋ねる。
「荒野です」
トビーが確信に満ちた声で言う。
「墜落したまま、放置されているはずなんです。その衝撃でわたしもしばらく意識を失っていたのですが、気がつくと、別の場所に連れて来られていたんです」
「意識を失ってたって」
サイリスが控えめに突っ込むが、青井は質問を続ける。
「乗組員はどうなったんだ?」
「わたしが意識を失うほどの衝撃でしたから、恐らく、命を落としたのではないかと」
「それは、なんというか、気の毒に」
「ありがとうございます、青井さん」
「きみも仲間が死んで悲しんだりするのかな?」
「仲間とは、クルーたちのことですか?」
「そうだよ」
「わたしは、悲しいという感情がなくても、全力でクルーたちを守ることができるのです。結果それが叶わなかったとしたら、反省して次につなげるだけです」
サイリスや青井の沈黙には気づかず、トビーは続ける。
「わたしは、また宇宙に旅立たなければいけません。どこかに眠っている宇宙船を見つけ出さないと」
「宇宙に一人で行くのか?なんのために?」
「この心の底から湧き上がる探究心のためにです。一人でもいいですが、人間の方をお連れしてもいいですよ」
「きみにも心があるということか」
サイリスの皮肉な言葉に、サリーが反応した。
「パパ、この子にも心はあるよ。クマタンにだって」
テディベアを握りしめる。
「だから、助けてあげなくちゃ」
「そう言ってもなあ……」
この鉄のかたまりが言うことを信じろというのは、無理な話だ。宇宙を旅して来たなんて、嘘に決まっている。
「宇宙船て、どんな形をしてるんだろう」
青井は気を取り直したようだ。
「球体です。大きさは宇宙船の中ではコンパクトな部類に属し、人間が四人生活できる最小限のスペースが内部に確保されています」
「もっと大きな宇宙船もあったということか」
「ええ。かつては、多くの国が、たくさんの宇宙船を保有し、たくさんの人々が、惑星の調査や宇宙旅行などに出かけました」
「それって、何年前の話だ?」
質問を重ねる青井。
「意識を失っている間、わたしの中の時計がとまってしまっていたので、どのくらい時間が経過したのか、わからないのです」
「宇宙旅行だなんて、不可能だろ」
サイリスは思わず言った。
「ご理解いただけないなら強制はしません」
トビーの言い方にはかなり苛立つ。
「しかし、わたしが宇宙船のAIとして活躍していたことは事実なのです。わたしが同行したクルーたちが一番感動していた惑星は、地面が地平線まで一面の氷で覆われていて、灰色の雲を映していました。昼の間中、岩の大地に雨が降り続いて氷を溶かしては、夜の厳しい寒さで凍ることを繰り返していたのです。なにもない氷の大地は、人間の心を動かす力があったらしいです。クルーたちを一番恐れさせた惑星は――」
「あ、サリー、アメリア、お菓子でも食べるか」
話し続けるトビーを無視し、サイリスは立ち上がった。
「うん、食べる!」
サリーも、トビーよりはクッキーやカップケーキのほうが興味をそそられるようだ。
サイリスはお菓子を出してきて、アメリアとサリーに紅茶も淹れてやり、自分と青井には、さらにグラスにブランデーと血を垂らした。
「先生、そのパックに入っている液体はなんですか?」
トビーは、採血バッグから伸びたチューブを握るサイリスに尋ねた。
「血だよ。血液」
サイリスは得意げに言う。
「グラスに入れて飲もうとしているようにしか見えないのですが、すっぽんかなにかの血ですか?」
「いや、人間の血だよ。ここに、サリーって書いてあるな」
「人間の血を飲むのですか?」
「そうだよ。トージとわたしは、ヴァンパイアなんだ」
一瞬、考えるような間があったが、トビーは意外にも、
「なるほど」
と、納得したようだった。
そうこうしているうちに夜になり、夕食が済んだ頃には、サイリスはいつもより飲みすぎて眠くなってしまった。
今日は早めに寝ることにし、サイリスは自室に戻ってシャワーを浴び、ベッドに入った。
まぶたが落ち、眠りの世界の門をくぐりかけた時、体にどんと衝撃を感じた。
「うわあっ」
飛び起きると、くすくすと笑い声がした。
「サリーか?」
サリーは照明をつけると、勢いよくサイリスの上に飛び乗ってくる。先程の衝撃と同じだ。
「まだ寝るのは早いよお、先生」
「勘弁してくれよ。風邪ひくから服を着なさい」
サリーは、白いキャミソールとショーツ姿だった。
「寒くないもん。わたしはクマを抱いてるほうじゃないよ」
「わかってる」
「今夜はここにいていい?」
「だめだめ」
サイリスはぼんやりとしていた目を見開く。部屋には誰も連れ込まないと決めているのだ。
「部屋に帰って寝巻を着て、布団被って寝なさい」
「わたしは夜の短い間しか表に出れないんだよ。わたしの人生って、一人で寝るだけ?」
「今日は眠いんだよ……」
頭の中にもやがかかっているようだ。
「この年寄り」
「なんだと」
少し元気を取り戻したサイリスは、サリーとじゃれ合ってベッドに押し倒したが、ぐちゃぐちゃになったかけ布団の上に倒れて息をついた。
「今日はもうおやすみだ。遊んでやったから満足だろう」
「まだ遊んでないもん」
さっきまできゃあと喜んでいたサリーはむくれる。サイリスはサリーの頭をポンポンと優しくたたくが、サリーは挑戦的な目をするだけだ。
サリーがサイリスの腕にしがみつく。キャミソール越しの小ぶりで柔らかな乳房の感触に、そそられないわけではなかったが、でもここだと寝落ちしてしまいそうだ、一人を連れ込んだ形になってしまってはほかの二人とのパワーバランスが崩れてしまう、それはまずいから移動するか、面倒臭い、という思考に、サイリスは動けずにいた。
「もう、じゃあいいよ」
サリーは怒った顔でベッドから降りた。
「トージのところには行くなよ」
「じゃあトビーでいい」
サリーは部屋を出ていった。
サイリスは、トビーでいいとはどういう意味かと考えたが、起きだして確かめに行くのも面倒で、眠ってしまった。
翌朝、サイリスは昨夜サリーが言ったことはほぼ忘れかけていたのだが、朝食後、サリーが廊下を歩いてくるのを見て思い出した。
「おはよう、サリー。トビーはまたミス・ゴールドウィンと一緒かな?」
「パパ、大変なの」
サリーは泣きそうな顔で言った。両手に、白いネコが横たわっている。
「この子、怪我してるみたいなの」
「ええ?どれどれ」
額に黒い星のような模様のあるそのネコの脚の毛には、赤黒い血がこびりついていた。出血は止まっているようだが、元気がなさそうだ。
「仕方ないなあ」
サイリスはネコを受け取り、医療器具が置いてある部屋へ向かった。
サリーが見守る中、診察台にネコを横たえ、濡らしたガーゼで血を拭き取る。骨は折れていないようなので、消毒と包帯をする。キッチンから皿に入れたミルクも持ってきてやった。
「怪我をしてたから、特別だぞ。ある意味ラッキーだな」
ネコは狂ったようにミルクを舐めた。
「ありがとう、パパ」
サリーは笑顔になった。サイリスは、昨夜の挑戦的な女の面影のないサリーの頭をなで、サリーとネコを談話室に連れていって遊ばせた。
それから サイリスが書斎へ行くと、トビーと青井がいた。
「お、トージ」
「サイリス。勝手に入って悪い」
青井は悪びれた様子もなく言う。
「トビーと話してたんだが、もしかしたら、こいつの言っていることは本当なんじゃないかという気がしてきたよ」
「まあ、すべて嘘ってわけではないだろうね」
「冗談じゃなくて。宇宙船にいたトビーが最後に観測したのが、だいたい二百キロ四方の荒野だったっていうんだ。それって、ここから見える荒野のことじゃないか?」
青井は、窓から見える灰色の景色を示す。
「そうかもな。でもそうだとしたらなんなんだ?」
興味を示さないサイリスに、青井は熱心に言う。
「探しに行けば、宇宙船が見つかるかもしれない。そうしたら、人間が宇宙を旅したっていう話も、本当ってことになる」
「馬鹿な。そもそも探しに行くなんて無理だろ」
「車で行けばいいよ。見つからなかったら、初めて嘘ってことにしてもいいんじゃないかな」
「いやいや、一パーセントの可能性を信じて冒険に出るなんて、そんな元気はないよ」
「わたしの話は真実なのです」
トビーは言った。
「先生には、柔軟な思考能力が欠けているようです」
「おい」
サイリスは怒りにかられそうになるが、自分を抑える。
「そうだトビー、昨夜、サリーが来たか?」
「はい。ここにいらっしゃいました」
「なにか言ってたか?」
「はい。自分の言ったことを先生に話してほしいと頼まれました」
「伝言か?早く言ってくれよ」
トビーは、突然声を変えた。
「わたし、彼氏がほしいの」
サリーの声だ。
「アメリアは先生の奥さんだかなんだかになりたいみたいだけど、わたしは全然そんなこと思わない。でも、わたしはわたしだけの男がほしいの。ここにはそんな人いないから、外から連れてくるしかないでしょ。いざとなったら、ここから出てでも探しに行かなきゃね」
録音された音声を聞いて、サイリスは表情を険しくした。
「サリーがこう言ったんだな?」
「はい、先生」
「ほかになんて言ってた?」
「ここは退屈すぎると言ってました。外に出てみたいとも」
「外だって退屈に決まってるのに」
「外に出ないサイリスが自信満々に言うことか?」
「じゃあ、外の世界は楽しいっていうのか?トージ」
「うーん。それは断言できないかな」
「やっぱり」
「もしサリーが外に出るならお伴しますと申し出ておきましたが、よかったでしょうか?」
「よくないよ。勝手なことをしないように、夜は気をつけるようにしよう」
サイリスは、さっそく玄関と玄関の外の鉄格子の鍵を確認しに行った。
夜、サイリスはサリーの部屋を訪ねた。サリーは、鏡の前で髪をとかしていた。
「サリー、『伝言』を聞いたよ」
「そう。で?」
「外に出るなんて、絶対だめだ」
「どうしてよ?夜、わたしが起きてる間だけならいいでしょ」
「だめだ。危ないだろ」
「わたしは大人なのよ。自分のことくらい自分で面倒見れるわ」
「寝る時間がなくなる」
「昼間に寝ればいいでしょ。昼間のわたしったら、ぬいぐるみやネコと遊んだり、絵を描いたり、ふらふらしてるだけじゃない。ずっと寝てればいいのよ」
「外に出ても、いいことなんかない」
「自分も外に出ないくせに、なんでわかるの」
「外には、強盗とか浮浪者とか狂った環境保全家とかがいるだけだ。話を聞いてればそんなことはわかる」
「それでもいいの。外に出たいの」
「外の恐ろしさを知らないからそんなことが言えるんだ」
「ユウコには、外なんか恐れるに足りないみたいなこと言ってたじゃん。わたしには逆のことを言うの?」
「それは」
「うちの中だろうが、外だろうが関係ないのよ。家の中でだって、無視されて放っておかれて、こわい思いをしなきゃいけなかったんだから。そのせいで、早く大人にならなきゃいけなかったんだから」
「ここではそうじゃないだろう?」
「だけど、退屈なのよ。どうせいいこともないなら、危なかろうがなんだろうが、外に出たほうがマシよ」
「もっと自分を大切に考えてくれよ」
「誰にも大切にされたことなんてないんだもん、無理だよ」
サリーは立ち上がり、サイリスの横をすり抜けて部屋を出ていった。
「どこ行くんだ」
サイリスは追いかける。
「トイレ行くだけ」
「待ってるぞ。ちゃんと話し合おう」
真剣なサイリスに、サリーはひらひらと手を振り、トイレとシャワールームがあるほうへ廊下を曲がった。
サイリスはサリーのベッドに腰かけて待ったが、サリーは十分経っても帰ってこなかった。
サイリスはトイレを見にいったが、案の定、サリーはいなかった。
「キャサリン!」
サイリスは駆ける。
アメリアとユウコも動員し、サイリスとキャサリンと青井もサリーを探したが、どこにも見当たらなかった。
三十分後、食堂に集合した一同を前に、サイリスは動揺を隠しきれなかった。
「どこ行ったんだ。玄関の鍵はしっかり閉まってたんだぞ」
「あのー」
アメリアが言いにくそうに口を開いた。
「一階に、窓が破れたところがあるの。そこから出たのかもしれないわ」
「窓が破れたところ!?そんなの聞いてないぞ」
「昼間のサリーが見つけたの。そこからネコが入ってきたみたいだから、ふさがれないように、キャサリンや先生には言わないことにしようねって」
「なんてことだ」
サイリスは額を叩く。
「大丈夫だよ。すぐに自分で帰ってくるさ」
「そうですよ。ちょっと心配させたいだけなんですって」
青井にキャサリンが同調する。
「でも、もう少しでいなくなって一時間だぞ!」
「どうせ外にはなにもないんですから。待ちましょう、先生」
「なにもなくはないだろう!家も店もある。それに、脱獄した強盗がその辺をうろついてるって話だぞ」
「じゃあ、一人で探しに行けば」
ユウコが辛辣に言った。
「え、一人で?」
不安顔になるサイリス。
青井がもう一度サイリスをなだめにかかり、一時間待って帰ってこなければ、サイリス、キャサリン、青井で街に探しに出ることにした。
アメリアとユウコは部屋に戻り、キャサリンと青井は食堂で待機し、サイリスは、食堂とサリーの部屋と一階を行ったり来たりした。
サイリスが何度目かに食堂に戻ろうと廊下を歩いていると、ネコが駆け寄ってきた。白くて、額に黒い星があり、片足に包帯を巻いている。
にゃあにゃあと甘えるように足に絡んできた。
「今はお前に構ってる場合じゃないんだよ」
サイリスは食堂に入った。
「もう一時間だ。探しに行こう」
「いや、まだですよ。あと十分くらい」
「そういえば、どこを誰が探して何時に集合する?」
キャサリンと青井はコーヒーを飲んでいる。
「二人とも、そんなことはどうでもいいよ。早く見つけないと」
「落ち着け、サイリス」
青井がサイリスも座るように示す。
「夜のサリーは馬鹿な子じゃないと思うよ」
「いいや、出ていく時点で馬鹿だ」
サイリスは頑なに今にも出かける姿勢を崩さない。
「そうだとしても、きみが思うほど外の人たちは悪人ばかりじゃないよ。もしかしたら、誰かが連れ戻してくれているところかも」
「そんな悠長なことを――」
その時、アメリアが駆けこんできた。
「た、た、大変です」
「どうしたんだ?」
アメリアが動揺するなんて、ただ事ではない。
「誰かいる……!」
「え?」
「誰かいるんだってば!」
アメリアは、食堂の外を指差した。
サイリス、キャサリン、青井は、半信半疑で食堂を出た。アメリアは、しがみつきはしないが、サイリスの隣で不安そうにしている。
豆電球のついた廊下を進むと、一階から上っている階段の近くに、ユウコの後ろ姿が見えた。
「ユウコ?」
サイリスの声にユウコが振り向くと、ユウコの向こうに対峙している人影が見えた。
「だ、誰だ?」
だいぶ太くて背の高い影に見える。
「せんせぇ」
情けない声がする。近づくと、太く見えたのは二人だからだった。サリーが人に横抱きに抱えられている。首には、黒いひものようなものが巻きついている。いや、鞭だ。
「誰だ、お前!その子を放せ」
サリーを人質に取った格好の人物は、前に進み出た。大きな目と、短いくせ毛と、ジャンプスーツの大きく張り出した胸。長身の女だった。
「脱獄した強盗犯か?うちには盗るものなんてなにもないぞ」
「そうですよ。なんにもないですよ」
キャサリンも必死に言う。
「わたしは強盗ではない」
女は、張りのある声で言った。
「じゃあなんだ。サリーを放して出てってくれ。サリーが迷惑をかけたのか?だったら謝る。だから出てってくれ」
サイリスは、わけがわからなくてパニックになりそうだった。
「わたしはヴァンパイアハンターだ」
女は言った。
「……今なんと?」
「わたしはヴァンパイアハンターだ。お前を狩りに来た」
女は左手で器用にサリーの首に巻きついた鞭の端を握り、右手でサイリスを指差した。
「この女を返してほしければ、わたしと差しで勝負しろ」
ほぼ全員が言葉を失った。サリーは、「先生助けてぇ」と、尻を振って軽くもがいていた。
「ええっと、ちょっと相談する時間をくれないかな」
やっとのことでサイリスが言うと、意外にも女はあっさりうなずいた。
「いいだろう。心の準備をしろ。今夜がお前の最後の夜になるのだからな」
女はそう言うと、サリーを抱えて廊下を進んできた。
「部屋を借りるぞ」
サリーの首の鞭を解き、手近な部屋にサリーを放り込む。
「おい、俺の部屋だぞ」
ユウコが抗議するが、当然無視。
サリーが駆け出ようとするが、その前にドアを閉める。
「この女を解放できるのは、わたしに勝った時だけだ」
女はドアの前であぐらを組んだ。
「ええと」
キャサリンは、心配そうにユウコの部屋のドアを見つめた。
「サリーに飲み物とか食べ物は?」
「わたしが預かる。きちんと与えよう」
女は鷹揚にうなずいた。
「……あなたもなにか要ります?」
「お気遣いありがとう。しかし結構」
「なに余計なこと言ってんだよ」
サイリスはキャサリンの肩を捕まえ、食堂に戻った。
「俺の部屋が」
ユウコは不満げに騒ぐ。
「ユウコはサリーの部屋かここにいなさい」
「あの女、頭おかしいのかしら」
アメリアは少し落ち着きを取り戻していた。
「間違いない」
サイリスは力強くうなずく。
「警察を呼んでこようか?」
青井は冷静だ。
「警察は怠慢だ。夜が明けてサリーが子供になる前に、自分たちでなんとかしないと」
「そんなこと言って、あの人も患者にしてしまう気じゃありませんか?」
キャサリンが疑いの目を向ける。
「冗談じゃない。サリーをあんな目に遭わせてる女だぞ。放りだしてやる」
「そもそも、なんでここにヴァンパイアがいるとわかったんだろう」
青井の言葉に、誰も答えられない。マードックや、外にいる誰にも、ヴァンパイアであることは明かしてはいないはずだ。
「サリーが言ったのか?まさか」
「とにかく、どうやってあの女を追い出すかが先です」
キャサリンは正しいことを言う。
「決闘すればいいんじゃない?」
ユウコがクールに言った。
「だめですよ」
キャサリンが激しく反対する。
「万が一にも負ける可能性のある勝負はしないほうが賢明です」
「キャサリン、わたしが負けると思うのか?」
「闘う気なのか?サイリス」
「いや、そうは言ってないけど」
驚く青井に、サイリスは途端に弱い声を出した。
「キャサリンはどうしたらいいと思う?」
サイリスに意見を求められ、キャサリンは初めて考える顔をした。
「ええっと、不意打ち、とか?」
「決闘とたいして変わらない気がするぞ」
「ちょっと待って、トビーに意見を聞いてみましょう」
アメリアは食堂から出ていこうとする。
「あれに聞いてどうするんだ」
「トビーは頭がいいもの。今連れてくる」
呆れかえるサイリスをよそに、アメリアは出ていった。
サイリスが嫌々ながら、決闘の道具を選ぼうとキッチンへ向かおうとした時、トビーがアメリアの押すカートに乗せられてやってきた。
「お話はうかがいました。取るべき行動はひとつ、話し合いです」
偉そうに言うトビーに、サイリスは苛立ちの目を向ける。
「できるものならそうしたいね」
「人類の争いのほとんどが、話し合いを放棄したことから生まれているのです」
「ヴァンパイアハンターを名乗る女にどんな話し合いが有効か、知恵はあるのか?」
「とりあえず、相手のことを聞き出すことから話し合いは始まります」
「トビーの言うことにも一理あるよ」
青井はうなずいた。
「もしよかったら、僕が話し合ってこようか?」
「そんな、いやいや」
サイリスはしどろもどろに押しとどめようとしたが、青井は微笑み、廊下に出ていった。
見れば、ユウコの部屋の前には、談話室にあったソファーが移動させられていた。そこに女が大人しく座っている。
青井は女に近づく。そのあとに続くサイリスは、「あー、ソファーが……」と思わずぼやいてしまった。
「どうも」
青井は爽やかに声をかける。
「誰だ。ヴァンパイアのサイリス・ウィアードは、白衣を着た男だと、この部屋に閉じ込めた娘から聞いたぞ」
「僕は青井冬児といいます。サイリスの友人です。実は、僕もヴァンパイアなんですよ」
「おい」
サイリスは、青井の肩に手をかけた。わざわざ自分を危険にさらすようなことを言うとは。
「あなたも?ブログにはヴァンパイアが二人いるとは書いてなかったが」
「ブログ?なんのことですか?」
「町はずれの病院にヴァンパイアがいると書かれたブログを見たから来たんだ。今まで、なかなか獲物と出会えずに強盗扱いされて来たから、やっと目的の相手と出会えたと思って早速こちらへ向かってくる途中、道を尋ねた娘が、なんとここに住んでるっていうものだから、もうこれは運命だと思ったよ」
サイリスは混乱して頭を押さえる。
「上手く飲み込めないんだが……」
「なぜあなたはヴァンパイアハンターになったんですか?」
青井は話題を変えた。
「わたしは生まれながらにヴァンパイアハンターなのだ。まずは予定通り白衣を狩り、次にお前を狩ることにしよう」
「まずは人質を解放していただくことはできませんか?逃げも隠れもしませんので」
「だめだ。人質を解放できるのは、わたしを倒した時だけだ。じゃ、そろそろ始めるか」
「ちょっと待ってください。あなたがヴァンパイアを狩る理由はなんですか?」
青井は質問を続けるが、サイリスは青井の袖をつかみ、食堂へ退却した。
「完全に狂ってる。埒が明かないよ」
「うーん。どうしようか」
青井は考え込み、サイリスは女が言ったことを一同に説明した。
「ブログって、なんのことでしょう」
キャサリンがつぶやくと、トビーが元気に言った。
「それはきっと、わたしのブログのことですよ」
その瞬間、サイリスは、トビーが自分の考えたことなどをネットにアップしていると話していたことを思い出した。
「わたしがヴァンパイアだということを書いたのか!?」
「わたしが行きついた町はずれの精神病院の院長が、自分をヴァンパイアであると発言したということを書きました」
「なんてことを」
「個人名は出していませんよ」
「そういう問題ではない!」
サイリスは、トビーに苦痛を与えるにはどうすればいいのかを真剣に考えた。
「それはまずかったな、トビー」
青井は残念そうに言う。
「間違ったことをしたら、責任を取らないと」
「わたしが責任を取るのですか?」
「トビー、出ていってくれるように、あの女を説得できるか?」
「なに言ってるんだ、トージ」
サイリスは両腕を広げる。
「トビーは、人間の心理に精通してるはずだろ?適任かもしれない」
「こんな常識外れの能無しが?」
「どうやらわたしのせいで、みなさんが迷惑をこうむっているらしいですね。青井さんの言う通り、わたしは責任を取ります」
トビーは堂々と宣言した。
「わたしのせいでここに来てみなさんに迷惑をかけている女性をここから出せばいいのですね?」
「そうよ、トビー、頑張って」
アメリアがトビーにうなずいてみせる。
「では誰か、わたしを連れていってください」
トビーは言った。
カートをサイリスが押し、廊下に出た。サイリスの後ろから、結局全員がついてくる。
「決心はついたか?」
女はソファーに座ったまま言った。
「言っておくが、一騎打ちだぞ」
真剣な面持ちで勢ぞろいする一同を見て不安になったらしい。
「話し合いましょう」
トビーは言う。
「なんだ?」
女は、四角い鉄のかたまりを見て眉をひそめた。
「わたしはトビーと申します。あなたのお名前は?」
「わたしはヴァンパイアハンターだ。お前に用はない」
「わたしのブログをお読みになったんですよね」
「あのブログを書いたのはお前だったのか」
「恐らくそうだと思われます。そのブログの自己紹介欄には、宇宙船制御用のAIだと書かれていましたか?」
「言っている意味がよくわからないが、自己紹介欄とかは読まなかったと思う。『ヴァンパイア』で検索して引っかかった記事を読んだだけだから」
おそらく、女はトビーがAIだということを理解していないし、説明しても理解するかどうか怪しい。
「それはともかくとして、あなたのイメージしているヴァンパイアと、実際のものは違っている可能性があります。まずはそこを確かめましょう」
「わたしはヴァンパイアを知り尽くしているんだぞ。わたしの両親と妹はヴァンパイアに殺された」
「馬鹿な」
サイリスは思わず声を上げた。ヴァンパイアは人を殺すことなどないとまくし立てようとしたが、女のほうが怒涛の勢いで話し続ける。
「ヴァンパイアは別の星から来た密かな侵略者なんだ。この星の病原菌に対する免疫を得るために吸血をするんだが、血を吸われた者は干からびて死んでしまう。わたしの家族は、突然襲ってきたやつらの犠牲に」
女は、足元に憎しみの根源があるかのような目をする。
サイリスは呆れて声も出なかった。アメリア以上の妄想力の持ち主ではないか。
「昔の日本のマンガかなにかにありそうな話だな」
青井がささやいた。
「興味深いお話です」
トビーは言った。
「『別の星から来た密かな侵略者』というのは、ここではない惑星に生息する知的生物、つまり、異星人という意味でしょうか?」
「あたりまえだ」
「わたしが宇宙を旅していたのは何年前か定かではありませんが、その頃は、人間が把握していた範囲の星には、文明も文明の痕跡も見当たりませんでした。わたしが時間の感覚を失っている間に、知的生物が誕生したということでしょうか」
「なにを言っているのかわからない」
「もう少しその生物のことを詳しく教えてください。もしかしたら、わたしを宇宙の旅に同行させてくれるかもしれません」
「あっさり人間から宇宙人に乗り換えるんだな」
サイリスはもう笑うしかなかった。
「詳しくもなにもない。ヴァンパイアを知らないのか?人間に似た姿をしていて、牙があって血を吸うやつだよ」
「人間に似ているのですか?」
「姿かたちは人間なんだ。だから油断してしまった。家の周りに黒衣の集団が迫った時、もっと早く、闇に輝く赤い目に異常を感じて逃げていれば……」
女は深い悲しみの表情をする。
「姿かたちは人間だとおっしゃいましたか?」
トビーは戸惑った声を出す。
「ではそれは、人間ということなのではないですか?」
「ヴァンパイアだよ!物わかりが悪いな!」
「罵倒される筋合いはありません。ヴァンパイアであって、異星人ではないということですか?」
「ヴァンパイアであり、異星人でもあるんだよ!そこが独創的なポイントなんだろうが」
「異なった星で人間に酷似した知的生物が生まれたと考えるよりも、人間を異星人だと勘違いしたという説の方が余程説得力があると思います。それらが異星人だったという根拠はありますか?」
「ええい、おしゃべりは終わりだ」
女は立ち上がった。
「そろそろ勝負をしてもらおうか、サイリス・ウィアード」
右手に持った鞭の柄を左手に軽く打ちつける。
「ちょっと、落ち着こう」
サイリスはあとずさる。
「もう待てんわ!」
女は鞭をぴしゃりと鳴らした。
一番後ろにいたアメリアが悲鳴を上げて走り出し、カートに置き去りにされたトビー以外の全員がそれに続いて逃げ出した。
「逃げるな!」
女が迫りくる気配がし、一同は必死に逃げた。
「た、確か、三階に鍵のかかる部屋があります!」
キャサリンの声で、一同は階段を駆け上がった。
「どこの部屋だ、キャサリン!」
「多分、ここです!」
キャサリンを先頭に、ずらりと並んだ病室の中のひとつに飛び込む。
サイリスは素早くドアを閉め、祈る気持ちで鍵をかけた。カチッと音がして、鍵が閉まった。
「よし、閉まった。さすがはキャサリンだ」
ドアを叩く音ともに、「臆病者!出てこい!」と女の声がした。
サイリスは、キャサリン、青井、アメリア、ユウコがきちんとそろっていることを確認し、ほこりまみれの部屋に転がっていたパイプ椅子をドアの前に移動させた。気休め程度の防壁だが、なにもしないよりはいいだろう。
「ああ、どうしよう」
サイリスは頭を抱え、キャサリンはうろうろと歩き回り、アメリアとユウコは床に座り込んだ。青井は窓へ近づく。
「夜が明けるぞ」
青井の言葉に窓の外を見る。濁ったガラスの向こうには、空き地をはさんで、灰色の低いビルが立ち並んでいる。空は夜の闇から深い青に変わっている。そもそも、窓から入ってくる光がなければ、真っ暗でなにも見えなかったはずだ。
「てか、もう夜明けてるじゃないか」
サイリスはまたも額に手を当てた。
「あと一時間もすれば、完全に日が昇るな」
「サリーは大丈夫でしょうか」
表面上は冷静な青井と、なんとか冷静さを保とうとしているキャサリン。
「サリーを助けに行かないと」
とサイリス。
「無理でしょ」
「いきなりドアを開けて、パイプ椅子で襲撃すればなんとかなるんじゃないかな」
怯えるアメリアに、バイオレンスな発言をする青井。
ドアに耳をつけていたユウコが体を起こした。
「なんか、諦めて行ったみたいだよ。足音が聞こえた」
「本当か?」
「確認は慎重にしませんと」
「トラップという可能性もあるからな」
サイリス、キャサリン、青井はドアに近づく。
確かに、女の気配は消えているようだ。
「どうします?先生」
サイリスは少し考えた末、顔を上げた。
「サリーを助けに行ってくる」
考えがまとまったわけではない。どうすれば上手くいくのかわからないが、ほかに選択肢はない気がした。
「僕も一緒に行く」
「いや、トージはここにいてくれ。三人を頼む」
「わたしが一緒に行きます」
「だめだ、キャサリン。いざという時、きみを守る自信がない」
「気をつけてください」
サイリスはアメリアにうなずき、慎重にドアを開けた。薄明るい廊下には誰もいない。サイリスは、自分よりもさらにかっこいい男を演じるつもりで、廊下に踏みだした。
サイリスは足音を殺し、慎重に階段を下りた。階段に黒ネコが座っているのを見てびくりとしたが、怯えているわけではないと自分に言い聞かせる。女の気配はなかった。
首を出して二階の廊下をのぞく。誰の気配もなく、ユウコの部屋の前のソファーにも誰もいない。
サイリスはそそくさと廊下を行き、ドアの前から動かすべくソファーを押した。ぎーという音が出てしまうが、どうしようもない。えいとばかりにソファーを押し、部屋のドアを開けた。
「サリー……!」
ベッドに横になっていたサリーは起き上がる。眠そうに眼をこすった。
「先生……!」
パッと目を開き、サイリスに抱きつく。
「助けに来てくれたんだ!」
「しっ、静かに」
夜が明けたのになぜ子供になっていないのか謎だったが、今はそれどころではない。
「あれ、外が明るくなってる。なのにわたしのままだ」
「とにかく黙って」
サイリスはサリーを廊下へ連れ出した。
その時、背後に圧倒的気配が迫ったのがわかった。
「おい!」
振り返ると、怒りの表情の女。片手にはしっかりと鞭が握られている。
「トイレに行ってる間に勝手なことしやがって!」
ピシリと鞭を鳴らす。
「勝負だ、サイリス」
「落ち着け、話し合おう」
サイリスの言葉を無視し、女が迫る。
サイリスとサリーは走りだす。サイリスはサリーを背後の女から守るため、前に押し出した。三階の部屋へ戻るのだ。もう少しで階段だ。しかし、サイリスの背に熱い痛みが襲った。
走り続けようとしたが、二回目の衝撃で、見事に転んでしまう。
「先生!」
サリーが振り向く。
「逃げるんだ!」
サイリスは倒れながらもヒーロー面を崩さず、サリーに叫んだ。
女はさらに鞭を振るう。サイリスは転がってかわそうとするが、腹に鞭を食らう結果になってしまった。
「やめろ!痛いって!」
サイリスの上に女は馬乗りになり、尻ポケットからフォークを取りだした。
「銀のフォークだ。食らえ!」
両手でフォークをサイリスの喉の辺りに突き立てようとする。
サイリスは女の手首を捕まえ、必死に阻止しようとした。しかし、女の力は強い。手首の太さもしっかりしているし、体の重量感もここにいる患者たちとは比べ物にならない。
このままでは、本当に殺されてしまう。
「わたしはヴァンパイアじゃない!」
サイリスは叫んだ。
「わたしは人間だ!」
女の力が、ほんの少し緩んだ。
「嘘をついて命乞いしようたってそうはいかないぞ」
「本当なんだ!確かに血は飲んでるが、わたしは人間だ!」
「証拠を見せろ」
「そう言われても……鏡に映る、十字架もニンニクも大丈夫、日に当たっても灰にならない」
「銀のフォークで刺してもなんともないのか!?」
「それで喉をさされたら死ぬ!てか、それはいつも食事で使ってるやつだ!」
その時、獣のうなり声が聞こえたかと思うと、女の肩にネコがかみついた。白くて額に黒い星のあるネコだ。
「んなろっ!」
女はネコを引っつかみ、易々と投げ捨てた。
「ネコちゃんになにをする!」
青井の声がした。
青井は女の後ろにまわり込み、サイリスから引き離した。女を羽交い絞めにし、首筋にかみつく。
暴れていた女は徐々に力を失くし、目を閉じてだらりと頭を下げた。素早く唇をなめた青井は、女を床に横たえる。
女の首筋には、光る唾液のあとと二つの小さな傷があった。
「トージ……」
体を起こしたサイリスは目を見張る。ネコがサイリスに駆け寄り、サイリスは青井から目を離さないままネコをなでた。
「きみは、本物のヴァンパイアなのか?」
青井は笑った。
「それ、どういう意味だ?」
「だ、だって……」
「この牙は特注なんだよ。鋭い牙で傷をつけて血を飲んだあと、舌でスイッチを押すと針が出て、鎮静剤と止血剤が出る」
「おかしいとは思ったが、やっぱり人工のものだったのか」
「日本はほかのところより技術が廃れてなくてね」
「じゃ、この女は死んでないんだな?」
「気を失ってるだけだ。鎮静成分を打っただけだし。そもそも、この牙で人を殺すことなんてできないよ。動脈まで届くわけないし、いつも数ミリ刺して血を舐めるだけだ」
「そうか、よかった。一瞬、きみは本物なのかと思ってしまったよ」
「サイリス、きみも僕も本物だよ。血を飲む人間のことをヴァンパイアっていうんだから」
サイリスは目をしばたたき、沈黙した。
すっかり日が昇った頃、談話室に戻されたソファーの上で縛られた女は目を覚ました。
見張っていたユウコがサイリスを呼びに行き、結局全員が談話室に集まった。
「わたしもトージも、きみの言うヴァンパイアではないんだ。大人しく出ていくなら放してやってもいいが、どうする?」
サイリスは腕を組み、厳しい顔で女を見下ろした。
「そうか、わたしの勘違いだったのか」
予想外にも、女はあっさりと事実を受け入れ、悲しげな表情をした。
「そもそも、きみの言うヴァンパイアはこの世にはいない」
「いないのか」
女は目を逸らし、事実をかみしめるように沈黙した。
「ええと」
サイリスは戸惑ってしまう。
「出ていくのか?行かないのか?」
「わたしは警察に追われる身。今まで、ヴァンパイアを狩ることだけを考えていたが、これからどうすればいいのか」
「警察は怠慢だ。心配しなくてもいいと思うぞ」
「しばらくかくまっていただくことはできないか?気持ちの整理がついて、次の目的を見出すまでで構わない」
「お前、わたしを殺そうとしておいてよくもぬけぬけと――」
「まあまあまあ」
怒りに震えるサイリスを青井がなだめる。
「まずい飯でも食わせておけばそのうち出ていくよ」
青井がささやいた。
「まあ……いいんじゃないですか?」
「キャサリンまで」
サイリスはため息をついたが、結局、そういうことになった。
女は、埃だらけの部屋をあてがわれ、真っ黒に焦げた骨の多すぎる魚にコショウをこれでもかとかけたものを出されたが、文句ひとつ言わなかった。
その夜、サイリスはシャワーを浴びてから、鞭打たれたところにキャサリンに軟膏を塗ってもらってから、サリーの部屋へ行った。
サリーは、午後に子供なってから、夜になり、再び大人になっていた。
「サリー、調子はどうだ」
サリーの腰かけるベッドにサイリスも腰かける。日が昇ってもサリーが大人でいたことは今までなかった。なにか異変があったとしか思えない。
「元気よ」
そう言ったサリーは、明らかに元気そうではなかった。
「どうしたんだ?」
「なんで今日、わたしが大人のままだったかって思ってるでしょ。考えてみて、わかったの。わたしが大人のままだったのは、閉じ込められて、嫌な状況にいたから」
「のんきに寝ているみたいに見えたけど」
「わたしは、嫌なことを受け入れるための存在」
サリーはサイリスの発言を無視する。
「わたしはただそれだけの存在なの。本当の子供の頃のわたしは、両親とも夜の仕事をしていて、一人ぼっちでこわかったから、夜だけ大人になれる自分を作りだしたんだわ。今の子供のわたしは、ただいつまでも幸せにいるためだけの存在。でも、それじゃいけないんだよね。つらいことも、幸せなこともあるのが本当の人間だし」
「その通りだね」
「わたし、子供のわたしと溶け合うように努力してみる。なんか、できそうな気がするの。もし成功したら、今いる子供のわたしは消えちゃうけど、先生はそれでもいい?」
「いいよ。サリーがそうしようと思うなら、そうするべきだよ」
サイリスは、サリーの肩をたたいた。
「ありがとう」
サリーは微笑んだ。
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