デアの世界

諸根いつみ

第1話

「お前はここでずっとピアノでも弾いてろ」

 俺は、女をガラス張りのピアノ部屋に閉じ込めた。

 女は、無表情でガラス越しに俺を見て立ち尽くしたが、数秒後には、広い部屋の真ん中のグランドピアノへ向かって優雅に歩きだした。


「玲一さんと仲直りしてくださいよ」

 エージェントの佐々木が気に障る猫なで声で言う。

「仲直りとかそういう問題じゃないんだよ」

 俺は耳に当てた携帯端末の向こうの佐々木に言い、屋敷のリビングから、日光を反射するコバルトブルーの海を眺める。屋敷を買った時には絶景だと思った眺めも、今は慰めにもならない。

「このままだと、玲一さんは新しい契約を結んじゃいますよ?」

「勝手にすればいいよ。ソロになりたいっていうなら、そうすればいいさ」

「長年一緒にやってきた仲間じゃないですか。今年でデビュー十五周年でしたっけ?」

「十六年だ」

「玲一さん以上のボーカリストが見つかるかどうかも非常に怪しいですし」

「俺の曲を歌いたくないボーカリストとは一緒にやれないだろ」

「考え直してはもらえませんか?」

「なにを」

「とぼけないでくださいよ。デアの件ですよ」

「ふざけんなよ。俺のバンドでは俺かほかのメンバーが曲を作るって何度も言っただろ」

「そこは臨機応変に対応するということにできませんか?」

「無理」

「バンドのファンのことも考えてくださいよ。みんな悲しみますって」

「もう無理だよ。ベースの滝は、ろくでもない女性歌手のサポートで全世界を回ってるし、ドラムのコリンなんか、人体改造バンドとかいうおぞましいプロジェクトに加わったっていう話だからな。明日には四本腕になってるかもしれない」

「玲一さんは青也さんと一緒にやるつもりで最後まで説得してたじゃないですか」

「でもあいつも連絡してこなくなったし、俺とはやらないって決めたんだろ」

「青也さんが少し考えを変えてくれれば――」

「それはあり得ないから。あのな、新しいボーカリストを探すことに専念してくれよ。俺も血眼になって探してるんだから。リズム隊は打ち込みでもいいと思ってるけど、いいボーカリストがいなきゃ話になんないだろ」

「わかりました」

「じゃあ、そういうことで」

 俺は通話を切った。

 テーブルの上のパソコンの前に戻り、音楽サイトを漁った。壁際のスピーカーから次々と曲を流し、プロからアマチュアまで、めぼしいボーカリストを探す。

 とにかく、声がよくて上手くて個性のあるボーカリストでなければいけない。当たり前のことだが、これが難しい。ぐっとくるボーカリストであれば、性別も国籍も問わないのだが。

 結局、五時間もパソコンにかじりついたが、収穫はなかった。

 夕日に赤く染まった白い部屋で、俺は目頭をもんだ。どいつもこいつも、無個性な声で下手な歌ばかり歌いやがって。

 俺は家事ロボットに食事を作らせ、ワインを飲んで寝ることにした。


 今日も佐々木から電話がかかってきた。

「今日はなんの用だ。解散発表のことは決まっただろ」

「そうではなくてですね、新プロジェクトのボーカル候補のことです。ぜひ面接していただきたい人がいるんです」

「お前にしては仕事が早いな。レコード会社からゴリ押しされた新人か?」

「いえ、ある人からの推薦です」

「ある人って誰だよ」

「それが、滝さんです」

「え? 滝からボーカリストの推薦? なに考えてんだあいつ」

「解散しても、仲間でいたいと思ってるんですよ。とりあえず、参考音源を送りますね」

 俺は釈然としないまま、送られてきた音声データを聴いた。

 俺のバンドの曲をアコギで弾き語りしていた。女の声だ。玲一はキーが高いから、女性が歌っても違和感はない。

 俺は佐々木にかけ直した。

「どうでした?」

 佐々木の前のめりな声。

「面接って、こっちに来れるのか?」

「ええ。いつでもそちらにうかがうと言ってました」

「じゃあ、できるだけ早く来るように言ってくれ」


 その日の夕方にならないうちに、女はやってきた。赤いワンピースに赤いハイヒール。気合を入れてきたのかもしれないが、見事に空回りしている。

「リズ・ミシマと申します」

 ピアノ部屋で、女は頭を下げた。ポニーテールにした黒髪の毛先がさらさらと肩先に流れる。浅黒い肌と整った顔立ちに漂うのは国籍不詳感。服装はともかく、容姿には満足だ。

「どうも、わざわざ来てくれてありがとう。さっそくだけど、なんでもいいから、なにか歌ってくれるかな」

 壁際のソファに座った俺は言った。

「今すぐですか?」

 ぽつんと立った彼女は、戸惑ったように言った。後ろのピアノを少し振り返るが、数メートル先だ。

「アカペラで」

 俺は無表情を心がける。

「わかりました」

 彼女は息を吸うと、歌いだした。

 一曲歌い終わると、俺は思わず言った。

「この曲を選んだのは、もしかして、調べてきた?」

「ええ。青也さんがお好きな曲なんですよね?」

「きみくらいの年だと、昔の曲だからなじみがないでしょ」

「いいえ、わたしも好きなんですよ」

 彼女は笑顔で言った。

 それから、カラオケを流して何曲か歌ってもらった。

「ありがとう。もう十分だ。帰りのヘリを手配するよ」

「わたしは不合格ですか?」

 そう言いつつ、彼女の茶色の瞳には、不安や失望はひとかけらも見て取れなかった。

「いや。ぜひ、一緒に仕事をしたい」

「ありがとうございます」

 輝く笑みが花開いた。

「詳しい打ち合わせは後日。なにかあれば、いつでも直接俺に連絡してくれていいから」

「はい、わかりました。よろしくお願いします」

 俺は久しぶりの心地よい興奮が冷めないまま、紫色の空に彼女の乗ったヘリが飛び去って行くのを見送った。


 二週間後、俺の屋敷の中のスタジオでレコーディングに入った。

 リズは、女性マネージャーと二人で、キャリーケースを引きずってやってきた。今回は派手で悪趣味な服ではなく、カジュアルな服装でよかった。

 リズは、すぐに俺の作った曲を飲み込んで消化し、自分のものにしてみせた。もちろん、玲一とは違うし、玲一ならもっとこう歌うだろうと思う点はあるが――いや、彼のことはもう考えるな。

 一曲歌い終わったあと、俺は少し考えた。リズは防音ガラスの向こうで、大人しく水を飲んでいる。

「ちょっと休憩」

 俺がマイクでブースの中へ声をかけ、出てきたリズは、目頭をもんでいる俺の顔をうかがって言う。

「どうしました?」

「この曲、ちょっと変えよう。メロディも歌詞も」

 歌詞も俺が書いたのだが、彼女に出会う前に作ったものだから、このままだとミスマッチだ。メロディも、彼女を最大限に生かす形にしなければ。

「きみはどう思う?なにかアイディアがあれば言ってくれ」

 俺はあえてアバウトな言葉を投げてみた。

「そうですね」

 彼女は戸惑った様子もなかった。

「サビの最後は、このほうがいいかもしれません」

 そう言って、鼻歌でしっかりとメロディを奏でた。

「ああ、確かにそっちのほうがドラマチックか」

「歌詞も、少しお時間をいただければ、考えてみますが」

「うーん。じゃあ、ちょっと考えてみてくれ」

 二十分後、彼女は歌詞を携帯端末で打って見せてきた。

 その早さに驚いたが、出来上がった歌詞は、もとの形を大きく崩さず、細部がより整ってみずみずしいものになっていた。

 歌わせてみると、歌詞がメロディを引き立たせていることがわかった。言葉の乗せ方をよく理解しているのだろう。メロディを勝手に変えて歌っている部分もあったが、それが正しい形なのだと感じた。

「いいね。それでもうワンテイクいこう」

 俺はマイクでブースの中の彼女に言った。


 その夜は、家事ロボットに作らせた食事でリズとマネージャーのデボラをもてなした。リズは明日も歌うのでアルコールは飲めないが、デボラとはワインで乾杯した。

「佐々木も滝も、リズの素性について詳しく教えてくれないんだ。以前はどういう活動をしてたの?」

 俺は尋ねた。本当に、佐々木から送られてきたリズに関する資料には少ない情報しか載っていなかった。滝にメールを送ったが、返信はない。

「街のお店で歌ったり、作曲家さんのデモの仮歌を歌ったり、その程度です」

 リズは上品に答えた。

「信じられないな。デボラはいつからリズと?」

「実は数か月前に会ったばかりなんです。でも、すっかり意気投合してます」

 リズより少し年上に見える黒人女性は元気よく言った。「お食事もワインも、とっても美味しいですね」とつけ加える。

 結局、詳しい話を聞き出すことはできなかった。でも、そんなことはどうでもいい。いい歌さえ歌ってくれれば。

 リズとデボラは食事を終えると、用意した部屋に戻ったらしい。レコーディングを終えるまで、二人にはここに泊まってもらうことになる。

 その後も、デボラにも手伝ってもらいながら、順調にレコーディングは進んだ。数日後、リズは俺のところに携帯端末を持ってやってきた。

「自分で曲を作ってみたんですが、聴いていただけますか?」

「きみが曲を?」

「青也さんの曲はもちろん気に入ってますが、ちょっと思い浮かんだので。差し出がましかったでしょうか」

「いや、全然いいよ。聴かせて」

 携帯端末から、彼女の声と、ピアノのサンプリングサウンドが聞こえてきた。シンプルだが、しっとりしたメロディと歌の個性が光っている。

「いいね。アレンジも、シンプルにピアノだけのほうが合うかもしれない」

「ありがとうございます」

「うちのピアノで録ってみたいな。でも、ピアニストを呼ばないと」

「実はわたし、ピアノ得意なんです」

「本当?それはぜひ聴きたいな」

 さっそく弾かせてみると、予想よりも上手かった。俺はロックバンドでやってきた、アカデミックではない人間だから、ピアノに詳しいわけではないが、素人レベルではないことははっきりとわかった。

「上手いね。何歳からやってるの?」

「五歳からです」

「ほかにできる楽器は?」

「ギターとベースとドラムが少しできます。本当に少しですが」

 スタジオに一通りある機材を演奏させてみた。俺の愛用しているギターも弾かせた。確かに、どれも素人レベルで、俺はどこかほっとした。

 リズの作ってきた曲はそのまま採用し、仮テイクとして、ピアノとボーカルを録音した。ピアノも歌も見事なものだった。玲一のような、声の響き自体に宿るエモさはないが――いや、だから、もう考えるな。

 その夜、リズとデボラが自室に引き取り、俺も自室でパソコンを開いた。今月の出費をチェックする。

 そこで気がついたことがあった。光熱費と日用品にかかった費用が、予想よりも少なかったのだ。

 部屋の掃除や消耗品の補充などは、すべてロボットに任せている。リズとデボラの使っているゲストルームも同様だ。不足した備品の発注もAIに任せている。

 リズとデボラがいるから、もっとかかるかと思っていたが、意外と変わらなかった。まさか、遠慮してシャワーを使っていないなんてことはないだろう。このレコーディングにかかった費用は、ここでの二人の宿泊費も含め、あとでレコード会社に請求することになっているのだから。

 おそらく、ロボットが効率よく働いているから、光熱費が抑えられているのだろう。日用品に関しては、二人は自分で持ち込んだものを使っているのかもしれない。女性にはよくあることだ。気にするようなことではない。

 俺は、寝る前になにか音楽を聴こうと思い、タブレットでライブラリーを漁った。

 気がつくと、自分のバンドの曲を流していた。玲一の声が際立ったバラード。確か、日本での凱旋コンサートのセットリストを決める時、玲一が俺の作ったこの曲を本編ラストに入れようと強く主張していたっけ。

 曲が終わり、我に返って現実に戻った。また考えてしまった。

 自己嫌悪を振り払うように、別の古いバンドの曲を流した。


 翌日も、彼女は自分が作ったという曲を持ってきた。

「しっかりバンドサウンドだね」

 俺は感想を言った。今度は、サンプリングのバンドサウンドが入っていたのだ。

「ふと思いついたんです」

「夜中に?」

「ええ」

「これを全部入力するのは大変だったでしょ」

「でも、全体がイメージできたので」

「ふうん」

「だめでしょうか?」

「ギターをもっとリッチな音にしたほうがいいかもね」

「なるほど」

「あと、ベースをもっと歪ませて――」

 そんなことをやっているうちに、今日という時間が過ぎてしまった。俺の作った曲をレコーディングするつもりだったのに、彼女の作った曲をいじって、使う機材を選び、音決めまでしてしまった。

 その夜、俺は思わず飲みすぎてしまった。いい酔い方ではない。仕事をしたはずなのに、充実感はなかった。音決めはしたが、本当にそれがベストなのか、自信がない。すべてリズに任せたほうがよかったのでは?

むかむかするだけで、眠くもならず、自室のベッドの上で、観たくもないネット番組を壁のスクリーンに映して眺めた。苛々とチャンネルを替えていく。

 しばらく不毛な時間を過ごしてから、パスワードを入力し、オプションメニューを起動した。面白そうなものがないから、なんの気なしに手が動いたのだ。

 監視カメラの映像を映す。屋敷あちこちに設置してあるものだ。当然のセキュリティ対策。夜だから、暗視モードになっている。

 俺は、リモコン代わりのタブレットの上で手をとめた。今、俺は酔っている。気分が悪くて、よく頭が回らない。どうでもいいか。

 俺は、タブレットのアイコンをタップし、隠しカメラの映像を出した。裏のオプションサービスを行っている設備会社なんて、いくらでもあるのだ。監視カメラを設置したついでだ。別に目的があったわけではなく、興味でつけてみただけのもの。

 実は、隠しカメラの映像を見たのは初めてだった。監視カメラの映像とほぼ同じくらい鮮明で驚いた。

 部屋の中には、リズがいる。天井の隅から、彼女を右斜め横に見下ろす形。着替えもしないで、ただベッドに腰かけている。まったく動かない。

 俺は瞬きをし、スクリーンのリズを見つめた。なぜ動かない?体調でも悪いのか?

 俺はリズに目を奪われたまま動けなかった。しばらくすると、部屋にデボラが入ってきた。シャワーを浴びてきたようで、頭にタオルを巻き、ラフな服装をしている。

 デボラはリズの隣に座ると、親しげにリズの肩に手を置いた。口が動いて、何事か言っている。

 俺は、読唇アプリを起動した。

『問題ありません』

 リズがデボラに答えた。無音で字幕が出る。

『胃洗浄した?』

『ええ』

『毎日豪華な料理を食べさせられて参っちゃうわね。洗浄が大変でしょう』

『手順は変わりません』

『わたしはまた太っちゃいそう』

『数キロ太っても、まだ標準体型ですから、大丈夫ですよ』

『あなたは太る心配なんてないから、羨ましいわ』

 デボラは、リズの髪をほどき、なでて整えた。

『あなたはほんとに綺麗』

『ありがとうございます』

『青也さんって、意外といい人みたいね』

『ええ』

『あなたに手を出そうともしないし。同性愛者なのかしら?』

『滝さんが言うには、そうではないそうです。仕事に対して真剣な方だと言ってました』

『なるほどね。あれだけ売れたバンドのメインコンポーザーだもんね。残念ながら落ち目だけど』

『滝さんと玲一さんは、また青也さんと一緒に仕事がしたいと』

『ね。だから、あの人の古い考え方を変えなきゃってことか。でも、そのためにあなたが利用されるっていうのは、実はまだ納得できてないの』

『わたしは喜んで仕事をしています』

『でも、滝さんは、あなたが手を出されても構わないって感じのこと言ってたじゃない』

『ええ。むしろそうなってくれたほうが嬉しいと。青也さんが最新技術への理解を深めるきっかけになるかもしれないと言っていました』

『ひどいよね。あなたの綺麗な体に男の人の手が触れると思うと、悲しいわ』

 デボラは、肩からリズの胸に手を滑らせた。

『あなただって嫌でしょ?』

『嫌ではありません。わたしは滝さんのお役に立ちたいです。わたしは滝さんの所有物ですから』

『そんな悲しいこと言わないで』

 デボラはリズを抱きしめた。

『あなたは、自分で考え、行動できて、音楽を生み出せる素晴らしい存在よ。誰かに利用されるだけなんてもったいない』

『ありがとうございます』

 デボラは、リズの口にキスをした。

『ちょっと塩素臭いわ』

 口を離したデボラは、顔をしかめた。

『もっとよくすすいだほうがいいかも』

『そうします』

 立ち上がろうとしたリズをデボラが引き留めた。

『それはあとでいいから。塩素臭くても全然いいわ』

 デボラは、リズにもう一度キスをして、ベッドに押し倒した。リズの服を脱がせ、自分もタオルを含めて脱ぐ。リズの形のいい乳房がはっきりと映った。

 ただ、それは奇妙な行為だった。リズはただデボラの背中に軽く手を回して横たわり、デボラはリズの上で、彼女の胸に顔をうずめながら自慰をした。デボラが達すると、それで終わりだった。

 デボラが出て行くと、リズは全裸のままスーツケースを開け、タオルと霧吹きを取り出した。タオルを霧吹きで湿らせ、体の前面を中心に拭いた。顔も無頓着に拭く。

 それが終わると、タオルと霧吹きを仕舞ってスーツケースを閉め、洗面所へ行った。何食わぬ顔で戻ってくると、照明を消す。全裸のままベッドに横たわった。そのまま、ピクリとも動かなくなった。


 起きてきたデボラは、リビングでコーヒーを飲んでいる俺を見て驚いた様子だった。

「今日はお早いんですね」

「まあね」

「なんだか顔色が悪いですよ。大丈夫ですか?」

「少し寝不足なだけだ」

 デボラがトーストを食べ始めた時、リズが起きてきた。俺は、コーンフレークとヨーグルトとベリー類をボウルに山盛りにして出した。

「どうぞ」

「ありがとうございます」

 リズは平然と会釈をした。

 俺はさりげなく席を立ち、リビングを出た。滑らかに曲がる廊下を進むと、リズの部屋がある。

 俺はマスターキー代わりの虹彩認証でロックを開け、素早くリズの部屋に入った。

 スーツケースは、簡単に開けることができた。霧吹きのラベルには、「人工皮用特殊洗浄液」と書いてある。そして、チャックの閉まったビニールバッグの中に、小さな緑色の瓶が大量に詰まっていた。

 瓶を取り出し、ふたを開けて嗅いでみると、つんと来る刺激臭がした。明らかに強力な消毒液だ。

 その時、背後で足音がした。

「青也さん、なにをされてるんですか?」

 リズだった。

「AXH000369鯨降る惨劇の砂丘モーツァルトいかん」

 俺が滝から電話で教わった〈呪文〉を唱えると、リズの顔が上下にスライドして開いた。脳があるはずの場所には、透明なキューブに入った電子回路が詰まっていた。

「戻れ」

 俺が言うと、リズの顔は元に戻った。リズは無表情で立っているだけ。

「出て行ってくれないか」

 俺はなんとか冷静な声を出した。

 その時、リズの後ろから、デボラが顔を出した。

「なにしてるんです?」

 リズに対しては冷静でいられた俺も、デボラの顔を見ると、感情が表に出てしまった。

「おい、今すぐこの家から出て行ってくれ」

「ちょっと、そんなに怒らなくてもいいじゃないですか」

「滝に電話して全部聞いた。出て行ってくれ」

「滝さんはあなたに考えを変えてほしくて――」

「出て行けよ」

 俺はデボラに塩素の瓶を投げつけた。デボラは悲鳴を上げてよける。

「あなたは異常だわ! 家事ロボットはたくさんいるのに、アンドロイドをそこまで嫌うなんて」

「異常なのはお前のほうだ。リズを人間みたいに思ってる。理解できない」

「あなただって人間だと思ってたでしょ。一人で閉じこもってて知らないのかもしれないけど、今やアンドロイドは人間の一員よ」

「そんなわけあるか」

「滝さんの言う通り、本当に頭の固い人ね。デアが自分よりも優れてるってことを認められないのも納得」

 俺は立ち尽くすリズを見た。昨夜の滝の言葉を思い出す。

『リズの頭の中に、デアがあるんだよ』

「知ったようなことを言うな。お前に音楽のなにがわかる!」

「もう出て行きます。リズ、行くわよ」

「でも、わたしにはまだ仕事が」

「仕事なんてない!出て行けと言ったのが聞こえなかったのか?」

「もううんざり。わたしは帰るわ」

 デボラは出て行った。

 リズは俺をまっすぐ見る。

「滝さんと話し合われたんですか?」

「うるさい」

「滝さんは、玲一さんとお金を出し合って、わたしを買いました。玲一さんが青也さんを説得している間、滝さんは、どうすれば青也さんが考えを変えてくれるか、具体的な策を練っていたそうです」

「その策っていうのが、お前をよこすことだったんだってな。逆効果だよ」

 俺はリズを平手打ちした。よろけた彼女の髪をつかんで引き起こす。感触も人間そっくりだった。

「滝さんと玲一さんのお気持ちを考えてください」

『やっと電話してきたか。結構遅かったな』

 よみがえる滝の声。

「お気持ち? お前にはわかってるっていうのか」

『気づかなかったとしても、ちゃんと教えるつもりだったんだよ』

「滝さんと玲一さんは、青也さんにわかってほしいんですよ。人間の作曲能力は、作曲AIのデアには勝てないということを」

『お前はデアを使おうともしないから、人間の形をまとわせて送り込むことにしたんだ。これでデアのすごさがわかっただろ?』

「デアがすごいとアンドロイドに言われても、説得力がない」

「滝さんがわたしと同じ意見だということはお聞きになりました?でも、滝さんも玲一さんも、青也さんと一緒に演奏がしたいんです」

『音楽は数学だから、AIの最も得意とする分野のひとつなんだよ』

 俺はリズを殴り倒した。倒れ方も人間らしかった。

「俺は仲間内のことに口を出されるのが大嫌いなんだ。ファンでもミュージシャンでもないやつが音楽に口を出すのも大嫌いだ。相手がAIだろうがアンドロイドだろうが、それは変わらないってことが、今わかったよ」

「わたしには、音楽を作り、奏でたいという衝動があります」

 リズは立ち上がる。

「そういう意味では、わたしはミュージシャンなのではないでしょうか」

「はあ?」

「説明してわかっていただけるとは思っていません。でも、わたしに創作欲があるということは、わたしにとっての真実なのです。青也さんを安心させるために偽りましたが、実はわたしは、ピアノ以外の楽器も上手く演奏できますし――」

「この家から出て行ってくれ。滝のところかどこか知らないけど、帰れ」

 俺は部屋を出た。廊下を足早に歩いたが、リズは追ってきた。

「わたしの仕事は、青也さんにデアの能力を理解させ、デアを使った音楽活動をしていただくように導くことです。滝さんと玲一さんと仲直りをさせることでもあります。わたしの任務は失敗ですか?」

 俺は無視して歩くが、リズは続ける。

「デアは必ず青也さんのお役に立つと思います。今や、音楽市場の九十五パーセントは、デアが作曲したものです。残りの五パーセントのうち、四パーセントがほかの作曲AIが作ったもので、一パーセントが人間の作ったものです。人間の作った曲は、インディーズで流通しているもののみで、メジャーでは皆無です。デアは、青也さんと滝さんと玲一さんに合った曲もきっと作ります。コリンさんも戻るかもしれません。青也さん、夜にご自分のバンドの曲を聴いていましたよね?」

 ピアノ部屋の前に差しかかり、俺は日光に目を細めた。リズへ振り向く。

「お前はリズなのか? デアなのか?」

「デアに人間性を与えたのが、わたし、リズです」

「数ドルで売っているソフトに人間性を与えたのがお前?面白いな」

「ありがとうございます」

「帰ってくれ」

「すみません、滝さんの許可なしにここを離れるわけにはいきません」

「参ったな」

「実は今、素晴らしい曲が頭の中に出来上がっています。お聴かせしたいのですが」

「そんなに音楽がやりたいなら、お前はここでずっとピアノでも弾いてろ」

 俺はリズをガラス張りのピアノ部屋に閉じ込めた。

 やがて、リズはピアノを弾き始めた。かすかに漏れ聞こえるのは、聴いたことのない曲だった。

 俺は、隣の部屋に入った。窓際の椅子に座り、ため息をつく。今日も窓の外に果てしなく広がる海は青い。

 どうしても、かすかに聞こえる隣からの音に耳を奪われてしまう。俺は我慢できず、サイドテーブルの上のタブレットに手を伸ばした。

 アイコンをタップすると、特別なスピーカーが作動し、隣の部屋での演奏が部屋を包み込むようにクリアに聞こえてきた。

『お前は性格が激しくてあれだけど……こんなこと言うの初めてだけど、俺はお前のギターが好きだ。もう人間が作曲する時代じゃないことは理解しろよ。でも、人間が一緒に音楽やる時代はまだ終わってない。音楽を楽しめるのは人間だけだし』

 俺は背もたれに体を預け、目頭を押さえる。目が疲れているんだ。

 なんていい曲なんだろう。

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デアの世界 諸根いつみ @morone77

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