六月の雨

びび

ぼくらは夏を待っていた。

嫌なことは数えても減らない。雨音に乱され見失ってしまっても。

良いことは数えても増えない。雨音に飲み込まれて消えようとも。


ぽつぽつ。とつとつ。

無事に梅雨入りを果たしてはや数日。天気予報は外れることもなく、今日もまた一日中静かに雨は降っていた。

雨合羽に長靴で身を包み、水たまりを飛び跳ねる小学生たちも。

傘を片手に試験勉強の気怠さを吐き出す部活帰りの中学生たちも。

駅が近いからと雨に濡れながら歩道を走り抜ける高校生たちも。

みな等しく、この雨を楽しんでいるのだろうか。それとも疎んでいるのだろうか。



ふと思い出すのはもう十余年も昔。地元の人間からも忘れ去られたような廃駅の景色。穴の空いたトタン屋根、塗装のはげた駅看板、錆びた線路は雑草に隠され蛍も寄り付かない夜の闇、水たまりに輝く歪んだ落陽。

理由も覚えていない何かがきっかけで担任教諭と口論になり、家に帰るのがなぜか馬鹿らしくなってしまってつい家出をしてみたのは中学生らしい全能感に酔っていたからだろうか。

赤色の太陽に照らされて走り抜けた獣道の奥深く、たどり着いたぼろぼろのコンクリートの城は当時の私にとってはまさに秘密基地だった。親にも教師にも学校の友達にだって見つかっていない、私だけの秘密基地がそこにあった。はずだった。


「La----」


空気が震えた。知らない歌だと思った。知らない人だとはなぜか思わなかったが実際には知らない人だった。

歌い終わったその人はゆっくりと首を垂れた。夕日に照らされたおんぼろのコンクリートの城が一瞬だけ満員の観客に沸く歌劇のワンシーンに見えた。


ぱしゃぱしゃ。ぱちぱち。

いつの間にか降り出した雨に濡れながら、たった一人の拍手に気づいたその人は、ゆっくり振り返って大げさにはにかんだ。


そうして私は名前も知らない誰かと友達になった。


夏を待っていると唄うその歌は聞き覚えがあった。だから私たちは、たった二人でその歌を口ずさみながら線路を歩いてみた。自慢するバイクも嫌いなおじちゃんもいなかったけど、どこに続いているのかわからないその旅は楽しかった。

歩き続けた先で土砂崩れに飲み込まれた線路にため息をつき、私たちの旅はその日のうちに終わりを告げた。ならばと次の日は反対方向へ向かい、トンネルを超えたところで橋は崩れ落ちていてその先へ行くことはできなかった。

駅のホームで歌を唄い、夏草を掻き分けて客席をあしらい、地蔵や案山子を並べて笑いあった。

突然の夕立に穴だらけの屋根の下でびしょ濡れになって、笑いながら雨水のステージに躍り出た。古い映画のワンシーンみたいに、両手を広げて天を仰いだ。


長い雨が止んだ。まばゆい日差しを全身に浴びた。

六月が終わる日の朝。天気予報で梅雨が明けたと聞いて、学校帰りにいつものように駅へ向かった。

待ち望んだ夏が来た。次はどんな歌を唄おうか。そんなことを考えながら、すっかり足で均された獣道を進んでいく。


そこにあの城はなかった。ただうっそうと生い茂る木々が風に揺れ、夏の木漏れ日を影絵のように玩ぶ光景に、私の城は存在しなかった。


おんぼろのコンクリートのホームも、旅の道しるべとなった錆びた線路も、崩れた屋根の駅舎も、止まったままの時計も、文字の落ちた看板も。

なにもかもが最初からなかったかのように、そこにはただ木々だけが存在した。


そのあとはよく覚えていない。気づいたら家に帰っていて、いつもより元気がない私を兄がからかっていたような気はする。

両親も担任教諭も、クラスメイトたちでさえ、あの城、あの駅、あの秘密基地のことは知らなかった。そんな場所に駅があったことなどないと笑った。口をそろえて言った。狐に化かされていたんだと。


翌年、梅雨入りを待ってあの獣道を歩いた。毎日のようにあの駅へ向かった。ただの一度もたどり着けなかったが、それでも諦めることはなかった。

進学し、地元を離れて就職をして。いつしかその日課のような雨の中の散歩もしなくなってしまったが、それでも梅雨になると思い出さずにはいられなかった。



ぱしゃぱしゃ。ざあざあ。

夏を心待ちにしながら、名前も知らない友と唄った歌を口ずさむ。たった一人で、傘もささずに雨に打たれてステップを刻む。振り上げたつま先に水が跳ねた。


狐に化かされていてもいいじゃないか。それでもあの夏を待った記憶はたしかにあるのだから。友と唄い踊った思い出は色褪せずに私の中にあるのだから。


つまり私は恋をしているのだ。夏を待つこの雨に。狐に化かされたあの六月に。

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六月の雨 びび @I_dolice

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