紫煙佳人

表通 路地

佳人の煙に巻かれる

 びっくりだ。

「「マジか……」」

 緩やかなウェーブを描く薄紫のロングヘアー。

「「えぇ……?」」

 くりりと大きな瞳。

「「……どうも……」」

 正直言って好みそのものとしか言いようがない美女は。

「えーと。お名前伺っていいですか?」

 俺の口から現れた。




 健康増進法成立から十余年、受動喫煙防止と銘打たれた施策を成就すべく、煙草は規制の一途をたどり続けた。ついに現れた最後の刺客、電子アロマ機器ユコスによって喫煙者が急速に失われたがために、ウチの事務所など、喫煙所を取り潰す前に喫煙者が居なくなったほどだ。

 ――が、俺は未だに紙巻煙草の愛煙者だ。

 時代遅れと笑うなら笑え。俺にとって煙草は、成人してから八年、唯一続いた趣味であり習慣だ。酒はそんなに強くもないがために量は飲めず、飲み会に顔を出せば酔いつぶれる程度。ゲームや小説、スポーツも続かず、結果残った趣味は煙草だけ。

 と、変なプライドが邪魔をしてユコスに乗り換え損なった結果、俺は喫煙所を一人で使う、事務所でも微妙な立ち位置の一人と相成った。

 もはや喫煙所での会話すらなく、虚空を見つめるか手元の携帯でSNSを眺めながら煙草を吹かすのが日々の息抜きだった――のだが。

「あのぉ……その……どうも……」

「えぇ……」

 眼の前にいるのは美女だ。とびきりの美女に違いない。顔つきが幼いがために、美少女と呼んでも差し支えないだろうが、美女の顔だ。生首。浮いてるし揺らめいてるけど。

 幻覚……幻覚かぁ……ストレス社会という割に、意外にもストレスフリー目に生きてきた俺も、結局は現代社会の被害者だったということだろうか。確かに探偵事務所なんてアコギな商売をやってると、人の浮気、不倫、いざこざ、家庭内トラブルなんでもござれのオンパレードではあるが、殺人事件に日に五回遭遇するわけでもなし、うまくやっているつもりだった。であれば目の前の光景はなんだ。俺もついにヤキが回って――

「あ、の、えーと。煙草」

「あ、はい。すいません。やめられなくて」

「ああいや、灰が、落ちそうで」

「ああ、ああ」

 指先三寸まで届いていた火種を潰し消し、肺に残った煙を追い出す。

 いやぁ、参ったなぁ……ストレスか、気が狂ったか……市販の紙巻煙草以外は口にしてないはずだが、混ざりモノでもあったのだろうか。

 眉間を抑え、頭を抱え込む。考え事や、考えたくないことに直面した時の俺の癖だ。考える人みたいなポーズになってしまってやけに芝居臭いのだが、いつの間にかついた習慣というのはやめられない。ニコチンと同じくらい、俺の脳に焼き付いているモノのひとつ。

「煙草……」

「え?」

「――煙草、吸ってください」

 あ、やっぱこれ幻覚だわ。




 新たな煙草に火をつけて一服すれば、目の前の幻覚と会話が成立していることに気づいていろいろ聞いてみようと思い至った。白昼夢であれ、幻覚であれ、ちょっと(だいぶ)遅めのイマジナリーフレンドであれ、会話可能ということは俺もどこか深層心理で話し相手を欲していたのかもしれない。

「君、名前は?」

「えと……特に思い当たらないです」

「顔だけ浮いてるけど……?」

「煙が足りなくて」

 煙?と思いつつ深く吸った紫煙を吐き出せば、いつものように空中へ舞い上がることもなく、彼女に纏わるように飲み込まれていく。彼女が揺らめいて、少しずつ顔から首、首から肩へと、見える範囲が広がっている。いや、これは見える範囲というより“ある”範囲が広がっているのだろうか。

「……体、煙で出来てるの?」

「そうですね」

「すげえ」

「私もそう思う」

 うん、俺もそう思う。と脳で反芻するものの、一切意味がわからない。

「なんていうの、今幻覚なのかなって思ってるんだけど。あ、君のことをね」

「いやぁ、幻覚扱いはちょっと。とはいえ、人間かっていうとかなり自信ないので、せめて妖怪的な扱いでお願いします」

「あ、妖怪なの?」

「んー……妖怪なんですかね……?」

 どうやら彼女自身も、彼女についてよくわかっていないようで、ふにゃふにゃした回答ばかりが繰り返される。妖怪、妖怪か。妖怪に出会ったのか、俺は。

 美人というのは煙製でも迫力があるもので、バストアップだけしかないノベルゲームのキャラみたいな格好でも存在感があるのだが、その輪郭はゆらゆらと煙めいて――実際煙か――はっきりとしない。

 空から女の子が振ってきた!というのは男の子なら一度は憧れるシーンだが、まさか口から女の子が!だとこんなに混乱するとは思わなかった。それともラッパ吹きの少年も混乱していたが主人公力で押し切ったのだろうか。俺には出来ない芸当である。

 いかん、あまりの出来事に思考が取り留めもないところへ右往左往してしまう。正直今すぐ家に帰って寝るか考え直すかしたい。しかし、彼女はここにおいていっていいのだろうか。これ、もし俺以外の人にも見えるなら、とんでもないことになるんじゃないか?

「……その、ごめん。全然よくわかんなくて、考えがまとまらない」

「わ、たしも、そうなんで。あのー。またあとでいいですか?」

「またあとでって、どうやって?」


「落ち着ける場所で、煙草を、吸ってください」




 結局早引けはならず、定時まで仕事をこなして帰宅電車の中、ふと思いついたのは彼女の名だった。

 紫煙佳人。そう呼ぶにふさわしいほどの、美しい薄紫の髪と、可愛げ満点なのに垂れ下がった目尻が、佳人――薄幸美人と呼ぶにふさわしく、やけに納得してしまったのだ。

 帰る道すがら煙草と弁当を買い、結局名前以外、なにもまとまらないままとりあえず胃だけ埋めた俺は、はじめて吸った日より緊張しながら、煙草に火をつけ、煙を吐き出した。

 ――今日、彼女に会ってから、一度も煙草は吸っていない。果たして、本当に彼女は現れるのか?


 ゆっくりと大きめに吐き出した煙は巻き上がることなく、ゆるゆると風巻いて。

 瞬きすれば目の前には紫煙佳人がこちらを向いていた。


「どうも……」

「……どうも。散らかっててすいません」

 恋人を連れ込んだわけでもあるまいに、やけに散らかった独居男の部屋が恥ずかしくなって、両手の届く範囲をベッド下へ押し込む。

 いや、だって、出てくるとは思わないだろう。煙草の煙が人形になって現れるなんて、正直誰から聞いても新連載の漫画か小説としか思えない。

「……ええと、紫煙佳人さん」

「しぇんかじん?」

 しまった。

「い、いや、違うんだ。その、君、名前がないみたいな反応だったから。帰り道に、そう、妖怪なら種族名とかあるよなって。ぬらりひょんとか、そういう、それでまぁ名前があるならそういう、紫煙佳人とかかなぁって」

「どういう意味なんです?」

 ぐ。純な目でこっちを見るな。聞くな。すごい、今考え直すと中学生の痛い妄想みたいな名前じゃないか。ギャグを説明させるのは拷問だって、親に習わなかったのかこの子は。親とかいるのかこの子は!?

「……し、紫煙ってのは、煙草の煙の別名で紫色の煙のこと」

「あぁー。なるほど。たしかに。私、煙製ですもんね」

「……そういうこと」

 よし、このままいろいろ聞いていこう。そうしよう。

「それで、かじんってのは何なんですか?」

 ふざけんな!!

 俺、俺だって確かに二八だ。女の子と話したことがないわけじゃない。なんなら一回だけラブレターを出したことだってある。成就はしなかったが、別に女子と何もなかったわけでもない。いい感じっぽかったことだってある。でも、でもだな!

 初対面の美人に向かって「ああ、君に名付けた佳人ってのは、薄幸美人の別名でね☆」なんて言えるような口から砂糖吐くような人生送ってりゃ、今口から美少女――じゃなかった煙吐く人生送ってねえんだよ!勘弁してくれ!

「あ、の、それはね……その……」

「かじん……中華人?」

「いや、そういうんじゃなく……」

「じゃなく?」

 クソっ、小首をかしげるな!かわいいなこいつ!煙製すごいな!人類全部煙に置換したら見た目がよくなるんじゃないのか!ああっ、もう。

「かっ、佳人ってのは!幸薄そうなこう……幸薄そうな感じの美人のことをね!そういう言い方をするの!」

「なっ、なるほどっ!そ、う、いう……」

 二人で黙ってうつむく。

 だってもう、こう、無理じゃん。

 空気読めよ。空気だろ八割くらい。

「……い、いやぁ、照れますね」

「……そうですね……」

 下手くそか!俺も!君も!

 耐えられず、大きく咳払いをすれば、その分吹いた息で彼女が少し揺らめく。そうか、ほんとに煙で出来てるんだな……などと今更実感するものの、実感すればするほど、現実味のない子だなと変に感心してしまう。

「それでー、あー。俺は、俺は桃木九郎。二八歳」

「あっ、えっ、と。私は……そ、その、し、紫煙佳人。年齢はよくわかんないです」

「……そう」

 ダメだ。会話の主導権を握ろう。

 この子、八割空気製だけど、多分空気固めるのしか上手くない。


 結局、その後紫煙佳人と話しても、彼女のことはよくわからなかった。

 なんで煙で出来てるのか?と聞いても、桃木さんはなんで自分がタンパク質で出来てるかわかります?と問い返されるし、実際問題、彼女は生まれたばかりの妖怪か何からしく、もろもろの事がよくわかっていないならしい。

 それではなぜ言葉はわかるのかと思い至って聞いてみても、知っていることは知っているというし、紫煙も佳人も知らなかったのに、俺の煙草名、Pazがスペイン語で平和を意味することは知っていた。なんでも、記憶にあるゲームにそういう名のキャラクタがいるそうだ。なんだそれ。

 俺がやったことのないゲームを知っていて、俺が知っている単語を知らない。

 多重人格か、イマジナリーフレンドか、幻覚か。よくわからないが、とにかく彼女には人格があり、会話が出来る。彼女自身の一存で姿をかたどる煙を散らすことはできるそうだが、散らした煙を集めてもう一度姿をあらわす事はできないらしい。

 自分を象るのに使える煙も、俺が火をつけて、一口以上吸った煙草の煙だけ。

 副流煙すら巻き込めると気づいたときはお互いびっくりしたが、それぐらいだ。

 それ以上も出来ず、できることと言えば会話するのと、自分の体である煙を操ることだけ。手で仰いでも崩れない程度には体を維持できるそうだが、扇風機クラスだとどうしようもないかも、とは彼女自身の言だ。

 結局、夜更けまで話した俺たちは、どうにも要領を得ない状態に辟易し、彼女は体を散らして、俺は布団に潜って眠った。




 この国に残る幾人かの愛煙家諸兄ならわかってくれると思うが、愛煙家の寝起きは煙草を吹かして始まるものだ。寝起きの一服でやっと目が覚める。そういう風に俺たちは出来ている。

 目覚めの一発に煙が美少女になるのは、目が覚めすぎるが。

「……び、ビビった……」

「え、あ、ごめん……おはよう」

「おはよう……イリニ」

 昨晩、二人で考えた彼女の名前。イリニ。ギリシャ語で平和。彼女の元となる煙草からお名前を頂いて別語訳しただけの名前だが、それが似合うほどイリニは現実離れした美貌だ。

「桃木さんは、これから仕事?」

「うん。眠れた?」

「んー、寝るっていうか、止まってるって感じなんだよね。いちおう、意識もあるんだけど。ぼーっとするのが苦痛じゃないみたいな」

 体を散らすと耳も目もなくなり、外界の情報が遮断されるものの、どれくらい時間が経ったのかはなんとなくわかる、とイリニは昨晩も言っていた。数時間ぼーっとするのは、人間なら結構考えられないほどの苦痛なはずだが、一切気にしていない様子をみるに、妖怪は平気なのだろう。

「じゃあ、またあとでね」

 出掛けの挨拶にしてはずいぶん時間間隔の短い挨拶だなと思って鍵を締めた時、もう少し考えていれば、俺は喫煙所でひっくり返らずに済んだのだが。




 あとは全部蛇足というか、おまけみたいなものだから、別日に語るとして。

 結局その後も、我が愛しの紫煙佳人は俺の肺だか煙だかに住み着き続け、仕事の手伝いもしてもらうようになり、いくつかの事件を共に解決するに至ったり、喧嘩したり、仲直りしたりして、今も共に暮らしている。

「九郎〜車買おうよ〜車〜」

「なんでだよ。首都圏で車なんてブルジョアだけに許された特権だ」

「そしたら通勤中も一緒に居れるのに〜」

 お気に入りの定位置なのか、後ろから俺の頭を抱くように腕を回すイリニはわがまま放題いいつつ、煙を引き伸ばして俺のテレビ視聴を邪魔する。

 鬱陶しいと思いつつ、じゃれてくる姿が可愛らしいから邪険にも出来ない、惚れた弱みと言うやつだ。

「だいたいな、お前、朝起こしてくれって頼んで。わざわざ口つけておいた煙草に時限式のライターまで設置して、さんざん準備したのに、起こしてくれなかったし。そんな子のわがまま聞けません」

「うぶぇーけちー」

 イリニが象るための煙は、とにかく俺が一口吸った煙草の煙ならなんでもいいらしい。が、結局イリニの自己申告なので、他の煙でもいいのではないかとずっと思っているのだが、頑なにこの紫煙佳人は最初の煙は俺の口から吐いたものだけしか受けつけない。

「なんなんだよその自分ルール……」

「いいじゃんいいじゃん。ね」

 むふふと笑ってかわいい顔して煙に巻くその姿は、まさに傾国の美人さもありなんと思うものだが、いい加減目覚ましくらいにはなってほしいものだ。

「ロマンのわからない男には、わかんないでしょうね〜」

「妖怪心は学校で習ってなかったんだよ」

「あら、乙女心くらいは実地で勉強したでしょ」

「知らんね」

 どういうポリシーなんだか、何度聞いてもわからんものだが。


「あなたの口づけでだけ、目を覚ましたいのよ」

 先端温度、実に八二〇度のキスを繰り返しながら、俺たちは今日も暮らしている。

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紫煙佳人 表通 路地 @rozi

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