カピンガマランギアゲハ

雷藤和太郎

アゲハ蝶、運ぶ風

 カピンガマランギ環礁。

 グアム以南、ソロモン諸島以北、ミクロネシア連邦の一部にて、青々とした美しい海と、熱帯の植物の生い茂る小さな島。

 一匹の蝶が、ジッと海の向こうを見ていた。

「タウハウ」

 蝶の止まるアラマンダの葉のすぐ隣に、別の蝶が止まる。

「またカピンガマランギの方を見ていたのかい?」

「いいじゃないの、トロンガイ。もうすぐアタシも……あなたも渡る日がやってくるのだわ」

 タウハウはつっけんどんに言った。

「タウハウはいつもそうだ。何事にも興味のないふりをして、いっつもカピンガマランギに思いを馳せている。少しは今を大切にしようという気はないのかい?」

「アタシはトロンガイのように社交的でないのよ。あなたはいつもその大きな羽を呼吸と共に上げ下げして、年下の女の子たちを誘惑するでしょう?」

 ふわりと羽を広げて身を寄せるトロンガイを避けるように、タウハウは、アラマンダの葉から飛び立った。

「子を残すのは義務だよ、タウハウ」

「いいえ、義務ではないわ。それは悲しい本能よ、トロンガイ」

 飛び去っていくタウハウを見つめながら、トロンガイはアラマンダの可憐な黄色い花の奥に頭を入れる。

「やあ、アラマンダ。今日もその美しい蜜をもらっていくよ」

 アラマンダの花は何も言わない。

 そんなことは、蝶なら誰でも知っている。

 それでもトロンガイは花に話しかけるのだ。話しかけると、アラマンダの黄色い花びらが、ほんの少しだけ、はにかんだように揺れる。

「トロンガイ様」

 頭上から、小さな蝶が二匹、ふわりと下りてくる。

「トロンガイ様、遊びましょう」

「トロンガイ様、一緒に遊びましょう」

「私たちと、ダンスをしましょう」

「私たちと、おにごっこをしましょう」

 一匹はいだ海のようにとろんとした目を、もう一匹は陽光を反射する魚鱗ぎょりんのようにきらきらとした目をしていた。

「いいよ、遊んであげよう」

 トロンガイは蜜吸いをやめて、二匹の蝶とじゃれあった。

 その大きな羽で二匹の触覚をくすぐると、蝶たちは恥ずかしがり、微笑み、嫌がり、そうして楽しい時を過ごした。

 アラマンダの花に、雨の雫が落ちる。

 にわかに、空は黒い雲に覆われていった。


 ◇


 ガジュマルの葉の屋根に隠れるようにして、何匹もの蝶が雨宿りをしていた。

 強い雨は、台風の走りだ。

 これから、長く厳しい台風の季節がやってくる。ボタボタと葉を揺らす雨粒は、滝のように目の前を流れていく。

 トロンガイの羽が、雨粒に当たって鱗粉りんぷんをわずかにふるわせた。

「トロンガイ」

 一匹の蝶が、大雨の降る中をふらふらと舞い落ちてくる。

「どうした、タウハウ。顔が真っ青じゃないか」

 そのままトロンガイにもたれかかるようにして着地すると、ようやく生きた心地を感じて、タウハウは大きく深呼吸をした。

「どこに行っていたんだ、タウハウ。まさか、こんなひどい雨の中にまたカピンガマランギを望んでいたのか」

「ねえ、トロンガイ」

 タウハウは答えなかった。

「あなた、あの二匹の蝶に名前をつけたの?」

「二匹の蝶?ああ、昼間のフクニウとパラカのことかい?彼女たちなら確かに僕が名付け親になったよ。二人とも、喜んでいたさ」

「……不思議よね」

 呼吸を整え、羽をゆったりと上げ下げして、ようやく普段の調子を取り戻したタウハウは、シニカルな笑みを浮かべた。

「何がだい?」

「どうしてアタシは……いえ、アタシたちは、名付けられるまで名前がないのかしら?」

「またお得意の哲学かい?」

「そうやってトロンガイはアタシの考えをバカにするけれど、これは大切なことよ。それまで名前が無くても過ごせたはずなのに、子どもを産める年ごろになると、誰もが名前を求める」

「君だって、タウハウという名前を、誰かに名付けられたのだろう?」

「トロンガイは、あなた、誰に名付けられたかを覚えているの?」

 びゅう、と風が吹いた。

 滝のように目の前を流れる雨水が、ぐわりと煽られて二匹に襲いかかろうとする。

 二匹はふわりと羽を一回上げ下げし、難なく回避してみせた。

 ボタボタボタッ。

 降り注ぐ雨が、ガジュマルの葉をしならせる。

「覚えていないな。けれど、それに何の不都合があるんだい?」

「不都合はないわ。でも、どうしてそれを忘れたままでいられるのかしら?」

 ねえ、とタウハウはトロンガイの目と鼻の先まで近づいた。

「トロンガイは知っているかしら?アタシたちの名前の由来を」

「名前の由来?」

「本当に、面白いものね。あなたが名付けたっていうフクニウとパラカでさえ、本当にあなたの意思で名付けたのかしら?」

「タウハウ、もったいつけるのは君の悪い癖だ」

だけよ」

 タウハウが、片方の触覚をあげて微笑む。

「分かった、悪かった。それで、君の気づいた真実を教えてもらおうか?」

「真実だなんて、陳腐な言葉に包まないでくれるかしら。アタシはただ、あなたの名前も、アタシの名前も、あなたが名付けたフクニウとパラカという名前も、全てカピンカマランギ環礁の島の名前だと知っただけ」

 冷徹に微笑むタウハウ。

 その言葉に、トロンガイは大きく驚いた。無自覚のうちに羽を大きく上げ下げして、その先端に雨水がボタリと落ちる。

 ガジュマルの木のてっぺんが、強風で大きくたわんだ。

 その衝撃で、空が二人の姿を視界に捕えた。

 一面広がる黒い雲。

 遠雷。

 ガジュマルの木はふたたびすぐに二匹を葉の内側にかくまった。

「なんと……」

 トロンガイは、言葉が続かなかった。

「不思議よね。フクニウとパラカは、カピンガマランギ環礁にあって、双子のように寄り添った島よ。まるであなたに言い寄った時そのもの」

「見ていたのかい?それは、ずいぶんと趣味の悪い」

「あなたはなぜ、あの二匹にフクニウとパラカなんて名前を付けたのかしら?」

「さあ?二匹を見ていたら、そう呼びたくなっただけだよ」

 一瞬、雨音が途切れた。

 びょおびょおと吹く風だけが、周りの景色を吹いていく。

 風袋の口を大きく広げて横に倒したような風が、黒雲さえも押し流していく。

「それは、運命のようなものなのかしら?」

「運命?君が、そんなオカルトを言うようには思えなかったのだけど」

 タウハウは、哲学屋で、気難し屋で、現実主義者。

 トロンガイはタウハウをそういう者だと思っていた。

「でも、アタシたちは、皆カピンガマランギ環礁へと旅立つのだわ」

「それがカピンガマランギアゲハとして生まれた僕たちの使命だからね」

「使命?それは運命と何が違うの?」

 しかし、タウハウは、ただ考え続けていただけだ。

 カピンガマランギアゲハとしての、一生を。

「カピンガマランギアゲハは、どうして沖縄県で生まれなければならないの?どうしてカピンガマランギ環礁へ旅立たなければならないの?誰もそれを疑わない。誰もそれに答えを出さない。ねえ、これは誰に定められたの?」

「……タウハウ。そうやって考え事をする君の瞳は、いつも美しいよ」

「はぐらかさないでよ」

 トロンガイがそっとタウハウの肌に触れる。

 冷え切った表皮が、トロンガイの触れた部分だけ急に温かくなった。

「運命なんてオカルトを、タウハウの口から聞けて、俺は少し嬉しいんだ」

「嬉しい?何を言っているの?」

 いつの間にか、風も止んでいた。

 散った黒雲の合間から、光芒こうぼうが降り注ぐ。

 空から天使が降ってくるような、美しい光の条線。

「カピンガマランギアゲハは、名付けられて初めて一人前だ。一人前のカピンガマランギアゲハは、旅立たなければならない。それが誰かに定められたことだとしても、俺は君と一緒に旅立つことができるのを、嬉しく思うよ」

 トロンガイが、ゆっくりと口元にキスするのを、タウハウは拒まなかった。

 大粒の雫をガジュマルの葉に滴らせて、北大東島の夕闇が訪れる。

「もうすぐ、俺たちも渡りの時期だ」

 誰に指図されること無く、二匹は宙を舞った。

「渡るのは……怖いわ」

 光の条線が、トロンガイの美しい羽に当たる。

 ガラス細工のように、キラキラと輝く羽。

 タウハウは、束の間、夢のような世界を幻視した。熱帯の花々が色とりどりに咲き誇り、自分たちよりもずっと年長のカピンガマランギアゲハが群れて生活する、地上の楽園。

 誰一匹として不安はなく、孤独もなく、笑顔と幸福に満ち溢れている。

 ああ、カピンガマランギ環礁へ渡れば、きっとそこが地上の楽園なのだ。

「でも、渡るのは……怖いわ」

「大丈夫。渡るのは一瞬だよ……」

 ぐるぐると宙を舞いながら、二匹は辺りが暗くなるまで目合まぐわった。


 ◇


「この子らに、神のご加護がありますように」

 タウハウは、静かに祈った。

 アラマンダの葉の裏に産みつけた卵は、ものを言うでもなく、静かに、卵を破って外に出てもよい時期を待っている。

 呼吸も胎動もなく、ひたすらに身を縮めて、この世に産まれ落ちるのを……。

「卵に祈っても、どうすることもできないよ」

 トロンガイが言った。

「さあ、渡りの時期だ」

「それは分かっているわ。それでも、アタシはただ、祈りたかったのよ」

 いざという時になると、理屈屋の方がオカルトに傾倒するのかも知れない。そんなことを思いながら、トロンガイはタウハウと共に島の東方へと飛び立った。

「トロンガイ様」

「トロンガイ様」

 二匹がふらふらと風に煽られて移動する後ろから、声が聞こえた。

「やあ、フクニウとパラカも遅れずに来られたね」

「いよいよですもの」

「ええ、いよいよですもの」

「名付けられ」

「一人前になって」

「卵を産み」

「そして旅立つ」

「そして渡る」

 絡み合うように飛ぶフクニウとパラカは、タウハウよりもわずかに大きな羽を艶やかになびかせた。

「トロンガイは、モテるのね」

 タウハウはつっけんどんに言った。

「君がそういう態度をとるときは、嫉妬をしている時だって分かるようになったよ」

 タウハウがカピンガマランギ環礁を望んでいたあの日。

 トロンガイは、まだフクニウとパラカと名付けられていなかったこの二匹の蝶に追いかけられていたのだった。

「トロンガイ様とタウハウ様は」

「仲が良い」

「トロンガイ様とタウハウ様は」

「互いを思いやる」

 あざなう糸のように飛び、祝福の花びらをまくように言葉を降らせる二匹の蝶。

「やめてよ、何だか気恥ずかしい。それに、あなたたちから奪い取ったみたい」

「ステキ」

「ステキ」

「トロンガイ様はお兄さま」

「タウハウ様はお姉さま」

 歌を歌うようにして、フクニウとパラカの二匹は先を飛んだ。

「俺たちも急ごう」

 トロンガイが言った。

 もたもたしているうちに、花の蜜がなくなってしまう。


 沖縄県の最東端、真黒岬で花の蜜を吸うカピンガマランギアゲハは、トロンガイたちの他にもかなりの数があった。

「みんな、同じ日に渡りを決意したんだ」

 トロンガイが辺りを見渡した。

 岩礁にぶつかる白い波しぶきの合間に、魚の群れが遊泳している。

 その魚をウシェハァヤァと言い、カピンガマランギアゲハの渡りを助ける魚だと言われていた。

「ねえ」

 タウハウが問う。

「いったい誰が、ウシェハァヤァがアタシたちの渡りを助けると言ったの?」

「それは分からないよ。でも、ウシェハァヤァが俺たちの渡りを助けるのは、君も知っての通りだろう?」

 トロンガイに言われると、確かにそうだとしかタウハウには思えなかった。

 なぜか、ウシェハァヤァは、カピンガマランギアゲハにとって大切な魚だということが分かるのだ。

 パシャリ、と一尾のウシェハァヤァが海面から姿を現した。

 その姿は、海中を行くのに特化したひたすらに美しい姿形をしていた。

 一切の装飾はなく、背ビレと、その周りの模様がわずかに蝶の羽を思わせる。

 姿は、一匹のアゲハ蝶とは比べ物にならないほどに大きかった。

「それは……その通りだわ」

「ほら、沖縄本島から仲間がやってきたよ」

 柔らかく、温かい風が吹いた。

 北西から吹く風の中に、砂嵐のような何かが見えてくる。それが徐々に近づいてくると、木の葉の舞うような、あるいは蝗の群れのような、雲霞のごとき蝶の群れが、水面下にウシェヤァハァを連れてやって来たのだ。

「あれは」

「あれが」

「カピンガマランギアゲハの渡り」

「カピンガマランギアゲハの旅立ち」

「お兄さま」

「お姉さま」

 体に花の蜜を蓄えて、ほんの少し大きくなった腹で、フクニウとパラカは喜び跳び上がった。

 周りの蝶らも次々と飛び立って、雲霞に見紛みまごう蝶の群れの一匹となるべく、風の中を舞った。

「さあ、タウハウ。一緒にいこう」

「え、ええ……」

 大きく広げられたトロンガイの羽に誘われるようにして、タウハウもまた大きく羽を広げた。

 一際強く、温かい風が吹いた。

 蝶の一群は瞬く間に真黒岬に到達すると、その水面下にいたウシェハァヤァも引き連れて、風向きと同じく南東へと向かった。

 これが、カピンガマランギアゲハの渡りである。


 ◇


 太平洋を吹く風に連れられて、カピンガマランギアゲハの大群が海を渡る。

 下でパシャリパシャリと跳ねるウシェハァヤァ。

「やぁ、ご機嫌はいかがかね」

 トロンガイと同じくらい大きく、また同じくらい美しい羽を持った蝶が一匹、新たな仲間を歓迎するように、声をかけてきた。

「初めてのことで緊張していますが、これだけ大勢の仲間に囲まれて、とても安心していますよ。俺はトロンガイ、こちらのツンとした顔のはタウハウと言います。失礼ですが、お名前は」

「おおっと、これは失礼した。私はパングプングと言いましてな。座間味の方からやってきました」

「座間味島ですか!それはまたずいぶんと遠いところから今まで渡っているのですね。その調子だと、もう随分と渡りには慣れたご様子で」

「いやいや、まったく。渡りというのは一生に一度の機会でありましょう?当然、私も初めてのことでありますから、最初は不安でいっぱいでした。初めは仲間もたくさんおりましたが、今では座間味島から辿り着いたのは、私の他に二、三匹というものですよ」

 苦笑しながら語るパングプングの言葉に、タウハウが驚いた。

「そんな……。では、座間味島のカピンガマランギアゲハは……」

「タウハウ。君が何を考えているかは分からないが、あまり変なことを考えるんじゃないよ」

「変なことって何よ、トロンガイ」

「いやいや、お二方ともこんなところで喧嘩をしていてはカピンガマランギ環礁には到底たどり着けますまい。ゆっくりと、心を静めて、流されるがままにいけばよいのです」

「パングプング氏……声を荒げてしまい、失礼しました」

「なあに、最初は誰しも不安に思うものです。あなた方と一緒にいらっしゃった、別のお二方は呑気に飛んでおりますが、そのくらいの鷹揚さが、渡りには必要なのでしょう」

 ハ、ハ、ハ、と笑って、パングプングが群れの上方へと飛んでいった。

 ふわりと、甘い匂いがタウハウの触覚をくすぐる。

 潮風が巻き上がった。チャプン、と波が音を立てて、ウシェハァヤァの背ビレが陽光にきらめいた。

 突然、何かうら寒いものを感じて、タウハウは言う。

「ねえ、トロンガイ。もっと上方へいきましょうよ」

「突然どうしたんだい」

「何か、とても恐ろしい何かを感じるの」

「恐ろしい何か?それは一体何だというんだい?」

「分からないわ。でも、恐ろしいことだ、ということだけは分かるの」

 チャプン、パシャン。

 海を泳ぐウシェハァヤァの背ビレが、青空をいく蝶の羽のように見える。

「またオカルトかい?」

「オカルトでも、女の勘でも、どちらでも良いわ。とにかくアタシは何かとても恐ろしいものを感じるから、もっと上に行くわ」

 トロンガイを置いて、タウハウは力いっぱい羽ばたいた。

「タウハウは一体どうしたというのだろうか……」

 カピンガマランギ環礁は、まだまだ遠い。

 このまま風に乗って大人しくしていれば、飲まず食わずでも辿り着くことは出来るだろう。しかし、余計な体力を使っては、とうてい辿り着けるところではない。

「それはタウハウも分かっているだろうに」

 ときおり吹いてくる上昇気流に身を委ねつつ、トロンガイはタウハウと別れて海をいく。

 渡りは、順調だった。


 ◇


 トロンガイが消えた。

 タウハウは、群れの中をできるだけ体力を使わないように気をつけながら、飛び回った。

 フクニウとパラカに聞いても、今はパングプングの美しい羽に夢中で、ろくに返事もしなかった。

「トロンガイ……」

 夜空に月が浮かんでいた。

 渡りをするカピンガマランギアゲハは、神経が眠っていても空を飛ぶのを止めることはない。ウシェハァヤァもまた、泳ぐのを止めることはなかった。

「おや、あなたは真黒岬の……」

 声をかけられてタウハウがふり返ると、そこには羽の一部が欠けた、みすぼらしい蝶がいた。

「突然に声をかけて申し訳ありません。僕はモートーカーカーと言います」

 申し訳なさそうな顔で、モートーカーカーが挨拶をする。羽の欠けた蝶は、全員から蔑まれる。その上、羽自体もそれほど大きくも、美しくもない。

 タウハウは気にせず、ゆっくりとモートーカーカーに近づいた。

「ああ、そんなに近づいては、羽欠けが感染うつってしまいます」

「病気ではないのだから、羽欠けは感染らないわ、モートーカーカー。アタシはタウハウよ。そんなことより、何か言いたいことがあって声をかけたんじゃないの?」

「そうです、そうです。あなたに伝えなければならないことがあります」

 その前に、と言ってモートーカーカーは蝶の群れの間を、螺旋階段をいくように、上っていった。

「あなたも、こちらへいらしてください」

 遥か上方から声をかけられて、タウハウはくるりと旋回しつつ、あっという間に追いついた。

「美しい……」

「ありがとう。それで、あなたは何を伝えに?」

「ああ、聡明なあなたは薄々気づいているとは思いますが」

 モートーカーカーの前置きに、タウハウは鼓動が早くなるのを感じた。

 まさかと思っていたことが、現実になってしまう。

「あなたのつがいの方は、亡くなってしまいました」

「まさか……。あなた、それを見たというの」

「ええ、見ました。僕は何度も、それを見ました」

 欠けた羽が、わずかに震えていた。

「何度も……どういうこと?」

「聡明なあなたは、もしかしたら考えたことがおありなのではありませんか?我々は、なぜ渡りをするのか。なぜカピンガマランギアゲハは、遥か彼方の環礁まで、わざわざ沖縄県を離れて旅立たなければならないのか……」

 モートーカーカーは、羽が欠けているせいか、風に乗り切れずに、しきりと大きく羽ばたいている。

 それがタウハウには、妙に目障りに感じられた。

 生きようとしている。……生きようとしている?なぜ、タウハウは、生きようと必死にもがくモートーカーカーを目障りに感じなければならないのだろうか。

「タウハウさん?」

「あっ、ごめんなさい。それで、なぜ今更そんなことを?」

「そんなこと、と言うことは、やはりタウハウさんも考えていらしたんですね。なぜ我々が渡りをするのか、ということを」

 ウシェハァヤァが、パシャリと水面を叩く。

 月光が、わずかに波立つ海を輝かせた。

「もったいつけないで、教えてくれる?」

「あなたの番は、ウシェハァヤァに食べられてしまったのです」

「そ、んな……」

 モートーカーカーは、タウハウから顔をそむけた。

 わずかに高度の落ちるタウハウの足を取って、モートーカーカーは身を持ち上げて上昇気流をつかまえる。

 欠けた羽を必死に動かして、もう一段高い場所へと移動した。

「タウハウさん、タウハウさん」

「……悲しいというよりも、やっぱりという気持ちの方がずっと強いわ」

「強がらないでください、タウハウさん」

「強がってなんかいないわ、モートーカーカー」

 ウシェハァヤァが、パシャリと跳ねる。

 気づかないふりをしていた。見て見ぬふりをしていた。言われてみれば、確かに、タウハウも何度も見ていたのだ。

「アタシも見たわ。ウシェハァヤァが、下の方にいる蝶を、食べてしまうのを」

 水面から時折現れる、ウシェハァヤァの背ビレと、背中に描かれた美しいアゲハ蝶の羽を思わせる模様。

「アタシたちは、皆、ウシェハァヤァに誘われて、渡りをする。生きた餌ということなのね」

「違います、違いますよ、タウハウさん」

 モートーカーカーは、全身の力が抜けて今にも水面に落ちてしまいそうなタウハウを、一本の足で支えた。

「違わないわ、モートーカーカー。渡りとは、生贄の旅。カピンガマランギ環礁に地上の楽園を夢見る愚かなアゲハ蝶の、生餌の旅よ」

 カピンガマランギ環礁に旅立った者たちが帰って来ないことを、タウハウは知っていた。

 カピンガマランギアゲハは、一人前になると渡りをする。

 名付けられると、渡りをする。

 空を飛び、風に乗って、ウシェハァヤァに連れられて、疲れた者から餌にされる。

「それが、アタシたちの運命なんだわ」

「違うんです、タウハウさん。聡明なあなたなら、分かるはずです」

 パシャリ、と水面を泡立たせる音も、誰かが食われる音なのだ。

「我々は、皆、初めての渡りなんです。例え渡りの意味が、その真実がウシェハァヤァの生餌だったとしても、それに抗うことはできるはずです……!」

 モートーカーカーは、タウハウの瞳をジッと見つめた。

 タウハウの、焦点の合わない瞳には、北大東島にいたころの輝きはなかった。

「僕ではダメなんです……羽欠けだし、羽自体も小さい。ですが、タウハウさんなら……大きく、美しい羽を持ち、その瞳で未来を見つめようとするタウハウさんなら、きっと辿り着けるはずです」

 モートーカーカーは、生きようと必死に抵抗している。

 しかし、それが抗えぬ死の行進を、先延ばしにしていることも知っているのだ。

「あなたは、どうしてそうやって、生きようと、しているの?」

 なんて間抜けな問いなのだろう、と、タウハウは口にした瞬間に恥じた。

 しかし、モートーカーカーは、怒ったり蔑んだりすることなく、真剣な力強い瞳で、口元をほころばせて言うのだった。

「それは、僕が生きているからです」


 ◇


 何度か、食われそうになる瞬間はあった。

 そのたびに、タウハウは目の前で食われたモートーカーカーの顔を思い出していた。

 モートーカーカーは、力強く、笑っていた。

「あとは、頼みましたよ」

 短い言葉だったが、その死にぎわの言葉に、タウハウは勇気をもらった。

 パングプングも、食べられてしまった。

 パングプングは、座間味島出身の、最後のカピンガマランギアゲハだった。

「ああ、ハクーエヌア。そこにいたのかね。今いこう、君に会いに逝こう」

 かつて番だった蝶の名前を呼びながら、ウシェハァヤァの、背中に彩られた蝶の模様に魅入られて、食べられてしまった。

 体力が限界を迎えると、色んな幻想を見る。

 フクニウとパラカは、ウシェハァヤァの背中に、トロンガイの面影を見た。

「トロンガイ様」

「トロンガイ様」

「今、会いにいきます」

「共に、カピンガマランギにいきます」

「美しい」

「大きい」

「なんと優雅な羽」

「なんと可憐な羽」

 パシャリ、パシャリ。

 タウハウも、何度もウシェハァヤァの背中に、それまで出会った蝶の姿を幻視した。

 そのたびに、北大東島に残してきた、卵のことを思い出すのだ。

「卵に祈っても、どうすることもできないよ」

 トロンガイの言葉を思い出し、残してきた卵のことを思い出し、そうすると、北大東島の、ガジュマルの青々とした葉や、アラマンダの目の覚めるような黄色い花や、その奥にわずかに滴る蜜の味などを思い出した。

「神のご加護は、卵ではなく、アタシにあったのね」

 雲霞のごとく群れなしていた仲間たちも、今や数えるほどになっていた。

 そのころには、全ての蝶が、この渡りの本当の意味を理解していた。


 海の遠くに、島が見えた。

「あれは……」

 タウハウが、かすれた喉から絞り出すような声を出した。

 カピンガマランギ環礁。

 あれこそが、渡りの目的地。

 本当の意味を超えた者だけが辿り着く、地上の楽園。

「もう少し……」

 今までの苦労を思えば、足をわずかに伸ばすだけで届きそうな距離だった。

 びょう、と風向きが変わった。

「あっ……」

 上空。

 雲一つない青空を、タウハウたちに影差す何者かが現れた。

「……そんな」

 せっかく、目と鼻の先に、目的地が見えたというのに……。

 海鳥が現れたのだ。

 海鳥は、タウハウたちなど露知らず、その下のウシェハァヤァの魚群に向かって猛スピードで襲いかかる。

 上空から、重力に任せるようにして落ちてくる海鳥を、満身創痍のアゲハ蝶たちは、避けることができなかった。

 タウハウは、死力を振り絞って、羽ばたいた。

 カピンガマランギ環礁を目指して。

(アタシは、もうどうなってもいい……)

 美しかった羽は、鱗粉はいくらか剥げ落ちて、そこかしこが欠けていた。

(せめて、北大東島の卵たちが、希望を……もてるなら……)

 環礁を舞う海鳥は、みすぼらしいアゲハ蝶のことなど、見向きもしなかった。

 追い風が、吹いた。

 タウハウは、一気に風に押されて、環礁に辿り着いた。

 そこには、タウハウの羽と同じ模様をした蝶の一群が、熱帯の植物に群れていた。

(ああ、楽園は……楽園だった……)

 左右に二枚ずつある羽の、一枚を失って、飛ぶことも叶わず、助けを乞うことも叶わず……。

 しかし胸にいっぱいの希望を抱えて、タウハウは死んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

カピンガマランギアゲハ 雷藤和太郎 @lay_do69

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ