コーヒーブレイクのような一ヶ月の休暇<下>
問題、体感では半年しか経っていない宇宙旅行から帰ると地球では七年が経っていた。その利点は。
「正解、漫画の続きがすぐ読めること」
雨予報の今日、私は七年分のコミックスデータをダウンロードするとひたすら読書に耽っていた。ついひとりごとが多くなるというのも船内生活が長いこの仕事をしている人間の特徴だ。
七年も経つと完結している作品も多い。一気読みするこの瞬間はまさに至福の時と言ってもいいだろう。毎日指折り連載作品のアップロードを待つことができないのはそれはそれで残念な気もするが、半年待てば数年分を一気に味わえるというのは、世界中でも僅かな人間にしか許されない特権だ。果たして私以外の宇宙跳躍士に漫画好きがいるかどうかは置いておいて。
さて、本当に漫画を読むだけで夕方になってしまった。窓の外を窺うと曇り空ではあるものの強い雨は降っていないようだった。二十一世紀の半ば頃から日本の気候はその前世紀よりも大きく変わったというのは高校生でも知ってる話。昔の夏はもう少し涼しくて、そして雨はもっと淑やかに降るものだったそうだ。私が生まれた頃から半世紀が過ぎようとしているけれど、相も変わらず夏の雨は癇癪を起した子供のように降る。気まぐれで、対処のしようもなく降りだしたと思えばいつの間にか止んでいる。とはいえ、その気まぐれに隠された法則性を探り当て、予測をする技術は前世紀から向上していているようだ。家内システムに天気予報の詳細を表示させると何時にどこで雨が降るのか予測が細かく表示される。ひとまずこの辺りは今後七時間以内の強い雨の予報はなし、近くの隅田川の水位も問題なしと表示されている。
日中には何の用事もなかったが、夜にディナーの約束が入っていた。つくばの研究センターにいる同僚だ。同僚と言っても話したのは地球軌道上に戻ってきたあとの一週間プラスつくばでの十日。それでもこの世界にいる私の知人の中ではきっとよく話したほうだと思う。学生時代や宇宙跳躍士の訓練生時代の知人と会うことはほとんどなかったし、七年も経てば余程親しい付き合いならともかく知人程度じゃ感動の再会にもならない。
外出するために私は身支度を整える。買ったばかりの赤いワンピース。黒いストラップのついたハイヒール。浪費癖は私の悪癖だけど、仕事柄浪費できる時期が短いというのは私の破産を守ってくれている。
地下鉄に乗って数駅、乗換えてまた同じくらい地下鉄に乗る。こちらに落ち着いて一週間。随分と人の流れや空気にも慣れてきた。おそらくは、誰も私が半年前で七年も時間を飛び越えただなんて気づいていないだろう。
宇宙跳躍が行われるようになって以降、人類は距離を飛び越えることと時間を飛び越えることが近しい行為であることに気がついた。そして人間は距離を飛び越えることに慣れても、時間を飛び越えることには耐えられない生き物であることもわかってきた。
有名な例で言えば、ジューン・ジュリー・リーは半年の時間跳躍の後、六十年経った地球へと帰還した。彼女はもはやタイムスリップだと笑ったと記録されている。老いた同級生の中で彼女だけが二十九歳のまま笑っている奇妙な写真は、大いに話題となった。
そして、ジューンは地球帰還の2年後に自宅で服毒自殺を遂げた。国際連合宇宙局からは彼女の死の原因を宇宙跳躍にあると結論付けたレポートが発表されている。
宇宙跳躍の是非は何度も議論されている。ある国ではその非人道的行為を批判し、宇宙開発から手を引いた。たくさんの団体が今も宇宙跳躍反対のデモ活動をしている。
それでもなお、宇宙跳躍士は決していなくならない。それは、私のように跳びたいと思う人間がどの時代にも必ずいるからなのだろう。
「あなたは向いているんだと思いますよ。先天的な才能なのか、そうあろうとする努力ゆえなのかは別として」
彼は私の話を聞いて得心したといおう顔をしていた。私はデザートの皿に乗ったシャーベットを飲みこむと「そう?」と首を傾げて見せる。
JAXAの職員である彼とは細かい事情抜きで話ができるので楽だった。なにせ初めて会う人に自分の話を偽りなくするとしたら、それはもう大変なのだ。宇宙跳躍が技術として確立して半世紀以上が経っても、それを身近なものとして経験する人はほとんどいない。その点、関係者なら委細承知の上だ。
「まあ、適性がなきゃ選ばれないでしょうね。散々いろんな検査もした。もう自分が何者なのかわからなくなりそうなくらい大量の質問票にチェックもいれた」
「それだって半分は一度の跳躍でギブアップだ。あなたは稀有ですよ」
「私の主観ではまだたったの一年半のキャリアだけどね」
最初の宇宙跳躍まで私は大学院の学生だった。だから本当にいわゆる社会人としては一年半のひよっこもいいところだ。
「こうしてあなたとお話できて楽しかったですよ」
「こちらこそ。どうしても一人の時間が長いから、久しぶりに喋りすぎてしまった」
おしゃべりなほうではないはずなのだけれど、久しぶりに人に会うとつい話過ぎてしまう。
「そろそろ次の航路も出るようですよ。実際どうなんですか? 早く宇宙に行きたいものなんですか?」
「うーん……」
それはなかなか難しい問いだ。
「私はもっとこっちにいたい……って今のところ思ってるんですけどね。だらだらしたいし」
根は怠け者だし、漫画は好きだし、買い物もしたい。ただ、しばらくそうしているとふっと呼ばれるのだ。
昔からそうだった。ここは私の居場所ではなく、どこかに辿り着くために生まれてきたのだと運命めいた予感がいつだって私の側にある。
「それでもあなたは旅立つんですね」
私は自然に頷いていた。思えばみんながみんな私にそう語り掛ける。そうして人たちを置いて、追い抜いて、私は空の彼方に旅立っていた。
そのカフェの店主が自分よりも年若い青年だと知った時、思わず意外だという感想を顔に浮かべていた。てっきりアルバイトか何かだと思っていたのだ。
「もともと祖父がやっていた店を譲りうけて――ああ、元々は美容室だったんですけどね、カフェとして開店したんです」
隅田川沿いのカフェに通うようになったのは店の雰囲気とコーヒーの味が気に入ったからだった。昼夜問わずぷらぷらと訪れる私を訝しむでもなく、常連客として受け入れてくれた彼とは、時折こうして会話を交わすようになっていた。
「コーヒー豆の仕入れも」
「もちろん。知り合いの焙煎所で特別にブレンドしてもらってるんですよ」
「なるほど」
道理で美味しいはずだ。店構えがラフなので、凝ったコーヒーが出てくるとは思わなかったのだ。
「腐っても一応観光地ですからね。観光のお客さんが七割、常連さんが三割ってところですね」
その常連客に私も入っているのだろうか、と思うと少し心苦しくなって言うつもりもなかった言葉が口を突いた。
「私、また仕事の都合でこっちを離れるんですよ」
「それは残念です。寂しくなりますよ」
ただの近所のカフェ。たまたま顔見知りになった店主に何をわざわざ言っているんだろう。「寂しくなる」だなんて、そんな世辞を聞きたかったわけでもない。
私は曖昧に笑った。
「僕、一度見た人の顔は絶対に忘れないって特技があるんですよ。店を始めた理由もそれで、常連さんの顔を絶対に忘れないから向いてるんですよね」
彼は子供っぽく胸を張った。
「だから、また日本に来たら寄ってくださいね」
「はい」
また、と約束したのはいつ以来だろう。次に私が地球に戻った時、この店があるかもわからない。酷な話だけれど、何年も続く店は意外と少ないものだ。それに、いくら彼の記憶力が優れていたとしても、たった一月店に通っていた客の顔を何年も忘れずにいられるのだろうか。
「必ず、また来ます」
私は不誠実にそう言った。
二一二九年九月二十日。私はコーヒーブレイクのような、約一ヶ月の息抜きを終えて、再び宇宙へと旅立った。
星の果ての孤独より らん @yu_ri_ran
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