ピアノ

安良巻祐介

 

 スレートの屋根や煉瓦の壁の落ち重なった中へあかざの伸び、背の高い栗の木が寄り添う、東屋のような一角の真中に、そのピアノは置いてあった。

 黒檀色の屋根には、白い埃が時間の雪の如く降り積もり、また譜面台の上には、楽譜ではなく、少しく劣化した一枚の絵――美しい街の描かれた、色あせた水彩画――が掛けられている。

 ポォン、と清らかな音が一つ、奏でられた。

 時間の流れの中で、絵画が亡くしてしまった色の一つを補うように。

 奏者台に座っている燕尾服の背中は、しかしその奇跡的な一音に驕る様子もなく、また、続いてすぐにもう一音を奏でるでもなく、天才的な感覚で時を待っていた。

 音楽堂の柱の一つには、小鳥が止まっていて、ピアノを見下ろしていたが、生憎とこの鳥は、伴唱をすることはできなかった。本来そうするべき喉を持っていながら、意地悪な風を何度も飲み込んでいるうちに、声を失ってしまったのだ。

 観衆も、奏者も、それを責める様子はなかった。

 かつては遠慮のない目つきでステージを睥睨していた観衆の眼は、今は奇妙なまでの穏やかさで以て、この小さな音楽堂の演奏会を見守っている。

 時間は多くのものを失わせたが、同時に多くのものを得させてもくれたらしい。

 訪れた静寂の元で、ややあってまた一つ、ポォン、と艶やかな音が響く。

 掲げられた杯と杯の触れ合いを思わせる、ため息の出るような一音であった。

 プロジット、と思わず叫んでしまいそうな、そんな演奏の中でも、奏者は、咳払い一つしない。

 彼の皺だらけの指先は、鍵盤を急かし叩くというよりもむしろ、そっといたわるように、ただ乗せられている。

 それからまた、幾らかの時が過ぎた。

 無音ではあったが、演奏の中断ではなかった。それはむしろ、この演奏を構成する、重要なパートだった。

 今では誰もがそのことを知っていたから、全てが、幸福に楽しんでいた。

 そして、やがて来る、演奏のハイライト。

 テエブルを撫でるように、滑らかな風が吹く。

 歌う小鳥の喉を焼いた風が、今度は、この演奏を完成させるために。

 ポォン ポロン ポロロン

 優しい、哀しい、別れの口づけに似た音符が、静寂の内へ跳ねていく。

 見れば、鍵盤の上に、栗の実が幾つか、散らばっていた。椅子に座った奏者の膝の上にも。

 客席の「眼」――今はもう動かない、ムーヴィ・カメラの瞳たちは、それでもその暈のかかったレンズの中に、一連の映像と音とを映しこんでいた。

 酸を含んだ風が、青く伸びた枝先を撫でるたび、枝を離れた栗が、鍵盤へと落ちてゆく。

 ポォン

 ポロン

 ポロロン

 鮮やかな音に囲まれていく譜面台の上には、今はもうない、美しい街を描いた、絵がある。

 その色はもはや元の通りではないけれど、かつてとは違う穏やかな彩りが、絵と、ピアノと、燕尾服の奏者と、全てを包んでいる。

 奏者は、彼の描いた絵の前で、百年前と同じ鍵盤に、優しく指を置いていた。

 永遠に空いた真っ黒い眼と、綺麗にむき出しになった白い歯の笑顔で、無くなったはずの耳を澄ましながら、世界を想う曲の、その一部となっていた。

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ピアノ 安良巻祐介 @aramaki88

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