05 嵐の気配

 仕事が終わった夕方、日野の駅ビルのカフェで、私は前園芳明(まえぞのよしあき)を待っていた。

 芳明の妻の彩(あや)が、私に会いに行くと言ったきり帰ってこないという。芳明が彩の実家に確認したところ、彩は実家に戻っていた。義理の実家の両親は、彩が芳明と離婚したいと言っているという。

 ――君にも事情はあったのはわかるが、すこし軽率だったね。

 芳明は彩と結婚する前から、自分が不妊症であることを知っていた。芳明がそれを隠して彩と結婚したのは、彩が過労で肺炎になったからだった。身体が弱い彩に仕事を辞めさせるために、芳明は結婚した。彩は最近それを知って私のマンションを訪れた。芳明への愚痴をこぼしたあと、彩は高校のころから私が好きだったと告げた。

 ――あなたを強姦したい。

 あのとき彩に強姦されていたら、私は何かが変わるのだろうか。

 コーヒーを飲みながら、日野の駅前のロータリーを眺めた。車やバスが規則正しく移動するロータリーの向こうに、ビルの電光掲示板が輝いている。

「遅れてすみません」

 芳明が来たとき、私はすこし油断していた。身体がビクリと波打つ。

「驚かせてすみません」

 ウェーブのかかった茶髪で人好きのする細い目をした芳明は、如才なく私に謝った。脱いだコートを座席に置いて、芳明は私の斜向かいに座る。

 芳明は店員にコーヒーを注文すると、すこしやつれた顔で私に微笑みかけた。

「一穂(かずほ)さんを巻き込んで、申し訳ありません」

 私は首を横に振った。私を巻き込んでいるのは彩であって、芳明ではない。

「彩から一穂さんに連絡はありましたか」

「一度マンションに来ましたが、それ以降はないです」

 芳明は柔和な目をさらに細めてため息をついた。店員が芳明のコーヒーを置いて立ち去っていく。

「一度彩からメールがあったんです。自分には以前からずっと好きな人がいて、その人といっしょになりたいから、僕と離婚したいと言われました」

 私はコーヒーカップに伸ばした手を止めた。

「僕の話は離婚を考えるきっかけにはなったけれど、離婚の原因は僕ではないと」

「彩の両親は知ってるんですか」

「まだそこまでは確認していません」

 芳明は私の手元に置かれた煙草とライターを一瞥して、吸ってもいいですよ、と言った。私は無言でかぶりを振る。

「彩の相手に心当たりがありませんか?」

 芳明は私を微塵も疑っていないようだった。芳明は本当に彩の相手を思いつかないのだろう。私がいいえと首を振ると、芳明は大きな口元を引き結んで、そうですか、と息を吐いた。

「彩は浄水器のビジネスで独立したいと言ってるんです。まだ目を覚ましていない」

「ネズミ講の浄水器ですか」

「そうです。あんな商売を続けていたら、彩が信用を失うと僕は思うんですが」

 芳明は泣きそうな顔で苦笑した。芳明は本当に彩を愛しているのだ。彩への思いが、芳明のやわらかな口調から窺える。

「彩の相手が、本当に彩を大切にしてくれる人だったらいいのですが……彩はいつも無理をするので」

「本当に離婚するんですか」

「頑固ですからね。向こうの両親も、それがわかっているんでしょう」

 私はやるせない思いで窓の外を眺めた。電光掲示板に天気予報が流れていた。曇りのち雨。彩は自分の人生を破壊する方向へ歩もうとしている。

「彩が他の人を好きでも、彩と生きていきたいと思うんですか」

「生きていきたいです」

 芳明は私と同じように電光掲示板の天気予報に目を落としている。

「彩がほかの男を好きだったことに、裏切られた思いはあります。でもそれ以上に、僕は彩が不幸になるのを見たくない」

 ふと心に暗い影が差した。もし私が男であったなら、私は彩を愛していただろう。私は自分に自信がなかったのだ。彩と一生を共に過ごしていく、自信が。

 この男には何の疑いもなく備わっているであろう、自信が。

「話を聞いてくださって、ありがとうございます」

 芳明は自分を苦しめる元凶に向かって頭を下げた。

「あなた以外に話せる人間がいなかった」

 私は煙草とライターを片づけると、自分のコーヒー代を置いて席を立った。コーヒー代を返そうとする芳明を押しとどめる。

「すこし具合が悪いので、先に失礼します」

 芳明は私に驚いたような目を向けると、曖昧な笑顔でお大事にしてくださいと言った。

 私は胸から黒い思念が湧き上がるのを抑えながら、カフェを出ていった。

 考えなしで愚かな女だ。私は駅ビルのエスカレーターへ歩いていきながら、ぐるぐると言葉を心のなかで繰り返した。

 浄水器の売り上げだけで暮らしていけると思っているのか。私が彩を選んで、私たちが一生を共に歩んでいけると本当に思っているのか? 彩の見通しはいつも甘い。だから自分の身体を壊して周囲に迷惑をかけるのだ。

 下りのエスカレーターに乗りながら、私は彩を罵り続ける。

 しかし私が一番腹が立つのは、自分の胸に彩の形の空洞があると気づいてしまったことだった。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る