04 やわらかい檻
前園彩(まえぞのあや)が私のマンションを訪れたのは、十二月の初めの夜だった。
「ごめんなさい、一穂(かずほ)のところには来ないつもりだったけど、よそでは話せないことだったから」
私と彩は互いを自分のテリトリーに入れないようにしていた。距離を取らなければ、おそらく私たちは致命傷を負うまで傷つけ合ってしまう。何事も適度にやりすごしてきた自分が唯一やりすごせない人間。それが彩だ。
彩の顔は憔悴していた。栗色のウェーブがかかった髪が、血の気のない彩の素肌にかかっていた。彩はメイクをしていなかった。彩の素顔は、社会人になって以降見たことがなかった。
「入って」
狭い玄関で居心地悪そうにしている彩に、私は部屋の奥を手で示した。
彩は慣れない部屋に肩をすぼめて入ってきた。CSの洋画を消す。居間と寝室があるマンションのシンプルな内装に、彩は珍しそうに目を向けていた。
「一穂っぽい部屋ね」
「空っぽって言いたいんでしょう」
二人がけのソファーに座るよう促す。が、彩はソファーの下のラグに座った。私が紅茶を淹れるために部屋に併設されたキッチンで湯を沸かす。
紅茶を淹れたマグカップを渡すと、彩は凍えた手を暖めるようにカップを両手で包んだ。私はソファーに腰を下ろした。
「不妊症、夫のせいだったの」
彩は白い湯気が立つ紅茶を啜りながら、ぽつりと話を切り出した。
「私は正常で、夫の身体に異常があった。あの人はそれを知ってた、私と結婚する前から!」
彩はカップにかけた両手を握りしめた。
「なのに私には何も言わなかった。どうして言ってくれなかったのか……私を信用してなかったから?」
彩は暗い目でマグカップの水面を見つめている。波立つ自分の心を抑えるように、ことさらに静かな声で話を続ける。
「結婚前に知っても、私は結婚するのを止めなかったよ? なのに、信用してもらえなかった」
「結婚する前って、彩は体調を崩してたじゃない」
彩はカタログの仕事でスタイリストをしていた。連日深夜まで続く撮影で、彩は肺炎になり入院していた。夫の芳明が結婚を決めたのは、身体が弱くそれを考えない彩を心配してのことだった。自分が彩を守らなければ、彩はいつか本当に身体を壊すと思ったのだろう。
「大事な人だから言えないこともあるよ」
「でも子供ができないって重大な話じゃない。最初に言ってくれないと、人生の計画が狂ってしまう」
彩は大きな目に涙を浮かべていた。薄い茶色の瞳の表面がキラキラと光って歪む。
「私ってそんなに信用できなかったのかな」
彩は夫が自分を信用してくれなかったことに傷ついている。私は自分の紅茶を飲みながら、醒めた心で煙草が吸いたいと思った。彩は夫を愛しているのだ。あいかわらず割り切れない思いを私にぶつけに来ただけではないか。
「旦那さんときちんと話し合えば?」
「今は話す気分じゃない」
「私と話し合っても解決しないよ。旦那さんと離婚したいわけじゃないんでしょう?」
「一穂は今彼女はいないの?」
いきなり話の矛先が私に向いてくる。
「いないけど」
「何で高校のとき、私の思いを叶えてくれなかったの?」
突然十年前の話を蒸し返される。私の心がふっと硬くなる。
「あのとき一穂と付き合っていれば、私の人生は変わったかもしれない」
変わったかもしれないし、変わらなかったかもしれない。抜けない棘を互いに確かめるように、十年間友人として付き合ってこなかったかもしれない。あのとき彩を選ばなかった私の選択は正しかったのだと、今までずっと思ってきた。私は彩の誰のものにもならない生硬さを愛していたのだ。ここにいる彩ではなく。
「何で決まった女の人といっしょになろうとしないの?」
マグカップをローテーブルに置いて、彩は肩をすぼめて小刻みにふるわせた。
「決まった人がいれば、私も一穂を諦められたのに」
彩は肩をふるわせて泣いていた。マスカラのない、あどけない顔に、幾重にも涙が滑り落ちていく。
「一穂が好き。ずっと好き」
彩は叱られた子供のように私の顔から目を逸らして告白した。
「でもずっと叶わない思いなんだって、一穂が私に心を動かすことはないんだって、ずっと……」
「彩は今心が弱ってるだけだよ」
「誰かと結婚して」
「この国では無理だね」
「誰かと幸せになって、私の前からいなくなって」
本当に私を忘れたいなら、彩が私の前から消えればいいのだ。なのに、彩はいつも人生の重要な相談を私に持ってくる。私に彩の人生を変えてほしいと願っている。
「彩といっしょに生きるのは無理だよ。彩は傍に人がいないと駄目になる。きちんと旦那さんと話し合って、ふたりでこれからのことを決めればいい。そうすればじきに、私のことは忘れる」
「一穂はそれでいいの?」
嗚咽混じりの声で、彩は虚空に向けて問う。
「私がいるから、一穂はずっと決まった人と付き合えないんじゃないの?」
核心を衝かれて、私は奥歯を噛みしめた。
「一穂が好きなのは、いつも架空の私だった。ほんとうの私じゃなくて」
彩は泣きながら鼻を鳴らしてあいまいな笑みを浮かべる。
「私はずっと、あなたのなかの私に嫉妬しなければならなかった」
私の思いは彩に見透かされていたのだと、私は胸が苦しくなった。ずっと彩を想いながらも、彩を拒んできた。私が彩を手に入れたら、高校のときの生硬で誇り高いあの精神は失われてしまう。そう思っていた。
「あなたを強姦したい」
言葉に反して、彩の瞳は弱々しかった。
「あなたを縛れるものを、私が産めればよかった」
彩は静かに涙を流しながら私を見ていた。私も彩から目を逸らさなかった。
十年間、私は自分の心を殺し続けたのだ。これからも心の奥底に思いを沈めておくことができるだろう。
彩は紅茶を飲み干すと、立ち上がって私のマンションを出て行った。
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