03 火蛾
高校時代の同級生、羽切歩美から電話があったのは、十一月の初旬のころだった。
――やっぱり一穂のところには来てないんだね。
歩美の高い声に私は受話器を耳から離した。七歳と二歳の子持ちの歩美だが、話し声は高校のときのままだ。
――一年まえに生命保険の勧誘には来たよ。
――生保と浄水器は違うでしょうが。今回はマルチだって彩も知ってるから、一穂には言えないんじゃない?
だからってウチに勧誘が来ても困るんだけどさあ、と歩美は電話口で騒いでいる子どもたちを遠ざけながら文句を言う。
――とにかく、彩からこの話が来たらテキトーにヨロシク。
――何を『よろしく』なのよ。
――あんたからやめるよう言ってやって。一穂の言うことがいちばん効果あるんだから。
歩美の声が子供の高い悲鳴と重なる。テーブルの上の煙草に手を伸ばす。煙草の紙パックがぐしゃりと潰れた。会社で残りの一本を取られたな、と思う。
私は携帯の通話をオフにすると、財布を手にアパートを出た。
アパートのとなりのコンビニエンスストアまで歩きながら、歩美の話を整理する。
高校時代の友人、前園彩から歩美のもとへ浄水器の勧誘がきたという。彩の話では、彩の姉の子どものアトピーがその浄水器で治ったそうで、彩が最低二台浄水器を売らないとその会社の会員になれないのだという。その浄水器は通常では考えられない値段だった。
彩がマルチ商法にハマるのもわかる気がする。私はコンビニで煙草を買いながら溜息をついた。
彩には思い込んだら一直線という部分がある。たおやかな容姿からは考えられないほど直情径行の女なのだ。コンビニを出て、煙草の封を開けながら首をかたむけた。自分でその自覚がないからよく無理をするのだ。だから困る。
待ちきれずに煙草をくわえて火をつける。
マルチ商法の商品を買わされるのははじめてではない。会社の同僚から化粧品を勧められるがままに買ったこともある。しかし今回は値段が大きすぎる。アパートの階段をのぼりながら、ひとりごとをつぶやいた。
――やめろといって、やめる性格じゃないからなあ。
手にもった煙草の灰が、風に流れていった。
浄水器を買う、と携帯で彩に告げると、彩はあきらかに動揺した声で、
――どこから聞いたの? その話。
と聞いた。
――出所はいいじゃない。ちょうど欲しかったところなの。
――私だけじゃ売れないの。上の人の話を聞いてもらって……
――面倒くさいことはパス。だいたいマルチの言うことって一緒じゃない。
――この会社は会員に予算を還元してるからマルチじゃないんだって。ネットワーク・ビジネスだから。
――能書きはどうだっていいよ。お金は用意するから、売ってほしいの。
彩は浄水器が売れたという嬉しさをまったく感じさせない、戸惑った声で、
――とにかく私の上の人に会って。
と繰り返すだけだった。
携帯の電源を切ると、私は預金通帳の残高を思い描いた。
私は単身者用のマンションを購入するためにずっと貯金をしていた。その貯金を切り崩せば、浄水器を買う金は用意できる。
彩からメールが届いた。三日後の七時に日野のファミリーレストランで会おうという主旨のメールだった。
マルチ商法の説明を聞くのは面倒だが、行かざるを得ないだろう。私はOKとだけ書いてメールを返信した。
――買うことにしたぁ?
電話口で歩美が素っ頓狂な声をあげた。
――あんたなに考えてんの? 私はやめるように言って、って話しただけじゃない。なんでそこまでする必要があるの?
――ちょうど欲しかったから、浄水器。
――ホームセンターに行けばもっと安いのが売ってるよ!
携帯から興奮した声が流れてくる。私は携帯を耳から離すと、さらに大きな声が追ってきた。
――あんたそのお金って、ずっとマンション買うために貯めてた費用じゃない?
――人の心配までしなくて結構です。
わざと丁寧な口調で言うと、私は歩美の声をシャットアウトした。
日野のファミリーレストランに着いたとき、私はしまった、と内心でつぶやいた。
写真で一度しか見たことのない相手が、私の姿を見て手をあげている。天然パーマの茶髪、人の好さそうな細い目、大きな口が印象的な彩の夫は、仕事帰りなのかスーツ姿でコーヒーを片手に私を待っていた。
――彩が来られなくてすみません。
――いいえ。
私は彩の夫の名前を必死で思い出そうとした。たしか芳明だ。前園芳明。
私はウェイトレスにドリンクバーを頼むと、芳明のまえに腰を下ろした。なぜ芳明がここにいるのだろう。彩も私も、用心深く芳明を避けていたのに。
私は自分のコーヒーを取りにいくあいだ、芳明がよく私のことがわかったなと思った。写真でも見ていたのだろうか。
最近彩と私が写真を撮ったことはないのだけれど。
――よく私のことがわかりましたね。
テーブルにもどって私が聞いてみると、芳明はにこりと笑って、
――卒業写真を彩に見せられてましたから。髪以外はあまりお変わりないですね。
お世辞が嫌味に聞こえないのは営業特有の柔らかい口調だからだろうか。私はそんなことないですよ、と口元に照れたような笑みを浮かべてみせた。
――彩が無理なお願いをしてすみませんでした。
芳明はテーブルに手をついて土下座のようなそぶりをした。
――いいえ、お願いされたわけじゃありません。自分から売ってほしいと言ったんです。
――本当にあの浄水器が欲しければ、ネットオークションで買えますよ。二万円くらいで。わざわざ高いお金を出して買うような商品じゃないんです。
芳明はそう言うと、目の前のコーヒーを苦そうに飲んだ。そうして、細い目で私をみて、
――彩は恵まれていますね。こんなお友達がいて。
と言った。
――ご自分が犠牲になれば、彩の信用を守れると、そう思いませんでしたか? 彩の両親もそう思って浄水器を買ったんです。これはぼくには内緒だったので、もうお金は取り返せないんですけど、あなたの場合はまだ間に合いますから。
私はコーヒーを飲もうとした手を止めた。
――私のこと、彩が言ってました?
芳明は首を左右にふった。
――彩の友人からぼくに連絡があって、彩が浄水器を売っていることをはじめて知ったんです。
歩美だ。私はコーヒーを啜りながら顔をしかめた。歩美が芳明に告げ口したのだ。
――生命保険のときはぼくも了解していましたけど、浄水器までは……彩も思い込んだら梃でも動かないところがあるので、まだぼくと喧嘩中です。両親の払ったお金は彩に返させますから、とにかく今回の話はなかったことにしていただけませんか。
――それで彩が納得するでしょうか。
――ぼくが納得させます。
芳明がなにげなく言ったひとことに、私は胸がチリッと焦げるような感覚を覚えた。こうやって男は当然のように女の保護者を演じるのだ。私にはできない役割を。
食事でもしますか、と言った芳明の言葉を私は丁重にことわってファミリーレストランを出た。
会いたくなかった人間との邂逅は、胸に重いわだかまりを残した。
バス停まで歩いているあいだ、私は高校時代の彩のことを思い出していた。
高校時代の彩は、自分の美しさを不条理なものだと考えていた。先生や他校の男子生徒からうける過剰な好意を、彩は一瞬生硬な無表情で受け止めたあとで、適当にあしらっていた。
自分の外見に価値を置かない、あの透明な生硬さを、私はどれだけ愛していたことか。
しかし、それも遠い話だ。バス停に着くと、私はベンチに腰を下ろしてバスを待った。
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