02 店晒しの天使

 ――私、不能なのよね。不感症ではないのだけど。

 電話のむこうで高校時代の同級生が低い声で笑った。女に不能なんてあるか、と煙草の煙を見上げながら思う。

 前園彩は夫とうまくいかないときしか私に電話をかけてこない。

 ――倦怠期の夫婦の愚痴なんか聞きたくない。

 煙草を灰皿に押し付けながら言うと、一穂は冷たいからね、と拗ねた声が聞こえる。どんなにひどいことを言われても、彩は私に電話してくる。『高校を卒業したらあなたのことなんて忘れるわ』、そう言ったことも忘れて、『暇なときに飲まない?』と誘う。一年に数回、彩の誘いで会うようになって十年経つ。

 彩の周囲にただよう春の気配を帯びた空気は、高校時代の私の睡眠薬代わりだった。私は彩と話すよりも彩のそばで寝ている時間のほうが多かった。それでも私は彩を慕う後輩たちの羨望の的だった。

 旧弊な地方の女子高は自分の性別を意識せずに生きていける異空間だった。茶髪やルーズソックス、女子高生が流行るまえの話だ。

 彩は入学した当初から特別な存在だった。私は彩に『髪を切ったら?』と言っては彩の信奉者たちを怒らせていた。白い衿のセーラー服にうすい青色のリボン、プリーツの細かい長いスカート、栗色のふんわりとした長い髪、前髪を頭のうしろで白いリボンでひとつに束ねている。東欧の少女のような顔立ちは、祖母がドイツ人だったことによる。

 子どものころから優等生だった彩はいつも学級委員や生徒会の役員に選ばれていた。が、彩は目立つことが苦手だった。

 ――クラスのなかでもメジャーな子とマイナーな子がいて。

 放課後のだれもいない教室の自分の席にすわって、彩は私に説明した。

 ――私はマイナーなほうなのね。だけど、いつもかならず、メジャーなグループに入らされてしまう。

 ――マイナーなほうへ行けば?

 彩は優美な眉をひそませて、左に顔をかたむけて黙りこんだ。彩は自分を持て余していた。人から期待されることにうんざりしていたが、その期待を裏切ることもできなかった。

 ――あまりこの学校は好きじゃない。みんないい子で、上っ面でつきあってて。みんな学校を卒業しても忘れないって言ってるけど、嘘よね。

 放課後のものうげな金色の光が、教室の窓から帯になって落ちている。

 ――私はあなたのこと卒業したらすぐに忘れるわ。

 彩のねじれた好意に、私は呆れながらうなずいてみせた。


 彩は地元の大学へ進学し、私は京都の大学へ進学した。彩は私が帰省するたびごとに電話をかけてきては『会えない?』と聞いた。

 私は地元に戻って就職した。父親のコネで、司法書士事務所の事務員に潜り込むことができたからだ。彩は広告代理店でスタイリストをしていたが、真冬の深夜の撮影で肺炎を起こして入院し、その後すぐに当時つきあっていた会社の同僚と結婚した。


 学生時代には『絶対に仕事をやめたくない』と言っていた彩が『主婦になってベランダでお布団を叩きたい』とつぶやいたのは、肺炎で倒れる二ヶ月前のことだった。

 ――カタログばっかりやらされて。アイロンがけだけ上手くなっても意味ないよ。

 彩の仕事は通信販売のカタログの製作だった。ロケや印刷所の手配、写真撮影の現場では洋服のアイロンがけとコーディネートに明け暮れ、終電が終わってタクシーで帰ることも多かったという。

 彩が結婚したのは、当時つきあっていた会社の同僚が、もともと身体の弱い彩を心配してのことだった。たしかに、彩には身体が精神についていかないところがある。高校時代も、試験後やイベントの後にはよく熱を出していた。それでも彩が学校に来てしまうので、彩の信奉者たちはよく彩のことを心配していた。

 結婚式の一ヶ月後、紙屋町のバーに呼び出された私は、ビールのグラスを片手に嫌味を言った。

 ――ひとりで生きていく必要がない人は楽でいいね。

 ――養ってくれる女の人でも探せばいいじゃない。

 カウンターに並んで腰を下ろした彩が淡いピンク色のカクテルを飲み干した。とても新婚とは思えない、刺のある低い声だった。

 彩は二十五歳になったばかりだった。学生時代は腰の上まで伸ばしていた髪が、顎の線で切りそろえられている。学生時代はもうすこし頬がふっくらとしていて、表情に透明感があった。黒いタートルネックのセーターの首には、プラチナのネックレスが光っている。淡い若草色と乳白色のガラスの羽が、バーのライトを浴びてぼんやりと輝いていた。彩はそのネックレスがお気に入りだったようで、私はその後何度かそのネックレスをしている彩を見かけた。

 彩はもう結婚したことを後悔している。

 ――いいね。そうしようか。

 私が言うと、彩が横目で私を睨んだ。彩は自分が言った冗談に自分で腹を立てている。

 ――一穂の相手を見てみたい。

 ――紹介しようか?

 ――いいよ。どうせすぐ別れるから。

 彩に恋人を紹介したことがきっかけで、恋人と別れてしまったことがあった。当時の恋人――美緒は、私が彩を友人だと紹介したのが気に食わないようだった。

 顔はきれいだけどポーカーフェイスで陰険で八方美人な女だ、と彩のことをけなすと、美緒はよけいに肩をいからせて私に部屋の合鍵を投げた。

『あの子と比べられたくない』

 比べたことなんてないと言っても、美緒は納得しなかった。

『一穂がわかってないだけよ』

 私は顔で恋人を選んだことは一度もない。

 私は一瞬で美緒に醒めた。好きにしたら、とつぶやいて部屋を出ていった。

 美緒は私と別れてすぐに別の子とつきあった。私よりもやさしい人間のほうが美緒には合っている。

 以前の恋人の気配を、私はビールの泡で掻き消した。喉を刺す炭酸の感覚に顔をしかめる。

 ――せっかくベランダでお布団叩ける身分になったのに、楽しくないの?

 私が聞くと、彩は淡い色の瞳で困ったように私を見上げた。

 ――一ヶ月働かないだけなのに、世間に置いていかれたような気分になるのね。何でだろう? まわりはお母さんばかりで話合わないし。

 ――ほかの仕事探せば?

 ――ダンナが家にいてくれたほうがいいって。

 ――旦那のせいにすれば楽だからね。

 ――嫌な言い方するね。

 ――まえに旦那の好みで自分の服買うの嫌だって言ってたよね。そうやって自分のことを自分で決められなくなって、いつか全部を旦那のせいにするようになるんじゃない?

 ――自分のことだけ考えていればいい人種とは違うもの。

 彩はグラスのふちを指でコツコツと弾いていた。

 ――私はもう、自分のことだけ考えるのをやめたの。

 彩はいつもそうだ。私はビールのグラスを空にしながら宙を仰いだ。

 彩が私のところにくるのは、モヤモヤした何かを抱えているときだけだった。私に辛辣なことを言われると、彩は親に叱られた子供のように反発する。それでも、おびえながら叱られることを待っている子供の目をして、彩はふたたび私のもとへ来る。

 私は彩が自分を傷つけるための道具だ。


 ビーズのお店のウィンドウで、私は彩がしていたペンダントヘッドを見つけた。

 ベネチアンビーズの七色の羽が、透明なアクリルケースのなかに置かれている。小さなタグには『天使の羽 1250yen』と手書きで書かれている。

 繊細なグラデーションのかかった淡い若草色と乳白色の羽が、彩にはいちばんよく似合う。

 私はお店にはいると、自分のいちばん嫌いなオレンジと藍色の羽を選んで買った。

 お店を出る間際に、ウインドウをふりかえる。

 淡い若草色の羽が、七色の羽のなかでひときわ私の目を惹きつける。

 あんな綺麗な色は私には似合わない。

 すぐに飛び去って消えてしまう、淡い春の気配のような色は。

 目にのこる若草色をかき消すように首をふると、私は足早に店を出ていった。

 携帯のストラップに天使の羽をつけると、羽は一週間で先端が砕けてボロボロになった。


 彩は我儘だった。

 自分が好かれることに苛立つけれど、嫌われることもまた怖いのだ。

 彩が私を好きだったのは、私がいちども彩に心を動かしたことがなかったからだった。

 私がすこしでも彩に好意を持てば、彩は私を見下しただろう。


 携帯の着信履歴に彩の携帯の番号が残っていた。

 彩の番号を登録していないので、数字だけが残っている。私は彩の住所と電話番号を控えていない。メールも手紙も年賀状も書かないので、彩から電話が来なくなれば、私は彩と連絡を取ることができなくなる。

 そのときに私はなにを思うのだろう。彩の幸せか、私の不幸か。

 携帯の画面が光を消した。番号を消去するかどうか決めかねて、私は煙草を根元まで三本灰にした。

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