鋼の国のグレン
ねめしす
一話 上
――10年前。
まだ日本中の道路が車で埋め尽くされていなかった頃の話だ。
『たった今、両国首相による調印式が終わりました』
テレビの画面に映っていたのは、対照的な表情を浮かべた二人の男だった。
かたや人生で一番いいことがあったような満面の笑みで、かたや悪魔に魂を売り渡してしまったようにひどく憔悴した顔。
多くの子供にとってそうであるように当時の俺にはニュース番組はひどく退屈で、だけど両隣に座っていた父と母が食い入るように画面を見ていたのでチャンネルを変えてほしいと言い出せなかったことを今も覚えている。
首相たちの映像の手前には次のような字幕が流れていた。
――本日より我が国の国土は中華人民共和国の租借地となります。
――日本国民には租借地内での滞在が認められていません。
――速やかに国外へ退去いただきますよう、ご協力をお願いします。
母が泣き崩れ、母を抱く父もまた涙を流していた。
大人が泣いているところを見たのはその時が初めてで、だから、子供心にもなにかとても悪いことがあったのだろうとだけ、漠然と思っていた。
……それがまさか、こんな未来を引き寄せるとは想像も及ばなかったが。
◆◆◆ 鋼の国のグレン//Gren in the stasis country.
――ピピッ。
『ヤマネコ
まぶたを開けると、いつもと変わらぬ車内の低い天井が目に入った。
「……ん……? ……あー」
夢、か。――いや、そりゃそうだよな。
今どき家族揃って自宅でテレビ鑑賞とか、ファンタジーにも程があるだろ。
俺は顔面をこすって夢の残滓を拭い去り、手首に巻いたリストフォンを起動する。
すると端末から放たれたレーザー光が《7:22》と空中に現在時刻を描写し、
続けてバイト先の上司のアバターが浮かび上がる。
『おはよう、鹿島くん。朝早くから済まないが荷物の配達を頼みたい。配達先は西池袋IC付近の
四角いサングラスをかけたトゥーンアニメ調のクマからの伝言に「了解」と返信し、ベッドから手を伸ばしてカーテンを開ける。
窓の外に広がる春日通りは本日も絶賛大渋滞中。
いつもとまったく変わらない風景に早くも憂鬱な気分になってくる。
「……ったく。毎日毎日行儀のいいことだよな。日本人ってやつらは」
静止画像並みに動きのない景色に起床早々愚痴を漏らしていると、
「なーに他人事みたいに言ってんだよ、グレン。おまえだって立派な東京産だろ?」
背後から声。
振り返ると、向かい側のベッドに腰掛けていた
「独り言にツッコミ入れてくんな。仕事はどうした仕事は」
「こんな朝っぱらから出張料理人の出番なんてないない。弁当屋も昼からだしね」
「はいはいそーかよ」
上機嫌に牛乳パックを傾ける山麦を尻目に仕事用のシャツとジャケットに着替え、部屋の隅のはしごから一階へと降りる。キッチンの冷蔵庫から取り出したカロリーバーをかじりつつ、もう一人の同乗者の姿を求めて車内前方の運転席に顔を出すと、空中に展開した複数の投影図と格闘していた佐渡がキーボードを操る手を休めて振り返った。
「――グレンか」
「おう。おはよう、アキラ」
「ああ。おはよう」
以上、朝のトーク終了。
佐渡は投影図に視線を戻し、砂浜に卵を産み終えたウミガメのように特に感想もなさそうな様子で電子の海へと戻っていく。
佐渡は凄腕のプログラマーで、家車で使えるアプリを中心に様々なアプリをリリースしている。三人の中では一番稼いでいるはずだ。
フロントガラスの隅っこの表示を確かめると、幹線道路を自動的に巡回するオートワンダリング機能は正常に稼働中。ま、これが正常じゃなかったら今頃は三人まとめて国外追放処分だろう。
……よっし、そろそろ俺も仕事行くか。
運転席を離れ、車内後方の車載スペースに移動。床に固定していたスクーターのロックを解除しながら、バックドアを開放する。
途端、生暖かい外気が車内に流れ込んできた。
後部ドアが完全にせり上がった向こう側。幹線道路を埋め尽くすのは無数の車両、車両、車両ども。
電気エンジンの静かな唸りとイオンめいた臭気が、死にかけの病人の吐息にも似た不吉さで大気を震わせる。
あちこち砕けたアスファルトの上で一分の隙もなくひしめき合う車たちの姿は、さながら荒野をさまよう難民たちの群れか。
――まったく。誰が言い出したんだか知らないが、
無論、自分たちもこの光景の一角を成す存在であることはわかりきっていて、諦めとも自嘲ともつかない笑みが己の口元に現れる。
俺は後ろのドライバーに片手をあげて挨拶。家車と家車の間のわずかなスペースにスクーターを下ろし、エンジンを始動する。
最後に自分たちの家車のトラッキングIDを正常に拾えていることを確かめ、俺はスクーターを発進させる。
◎ー◎
西暦2040年。
中国との間で締結された条約により、すべての日本人は国内に居住する権利を喪失した。
人々の反応は様々だった。
ある者は素直に勧告を受け入れて国外に居を移し、
ある者は意地を通して国内に住み続けた挙句、強制退去処分となり、
……そして残る多くの者たち――つまり国外に居を移せるような資産も侵略者に面と向かって歯向かうような蛮勇も持たない者たち――は、住み慣れた土地に別れを告げ、絶えず車で移動し続ける
◎ー◎
役目を終えて沈黙した信号機。
高架線を取り壊された歩道橋に、廃墟と化したオフィスビル。
車両の大河をカヌーのように横断する自転車にバイクにスクーター。
そして、我が物顔で辺りを闊歩する忌々しい中国の
ここ十年変わらない風景に、起床時からの憂鬱がますます強くなっていく。
一体全体、何がどうしてこんなひどいことになったのか。
俺はスクーターのハンドルを握りながら、いつもの疑問――日本人なら誰もが思うだろう疑問――を頭の中で転がしてみる。
直接の原因ならば、ここ数十年の歴史をインターネットで調べればすぐに出てくる。
中国の軍事力の増大。米中関係の悪化。第二次朝鮮戦争の勃発と、韓国の滅亡。そして、極東戦争。
日本という堤防を食い破って太平洋への道を開こうとした中国と、中国の野望を文字通り水際で食い止めようとした米国のぶつかり合い。
本気の物量を投入する二大国の狭間で翻弄されるしかなかった日本。
今の世界は、そんな出来事の積み重ねの上に成立している。
だが、俺が知りたいのはそんな込み入った話じゃなく、もっとシンプルかつ直接的な疑問への答え。つまり、
「……この罰ゲームみたいな人生は、いったい何なんだ?」
ということだ。
目印ひとつない砂漠に放り込まれて、来る日も来る日もジリジリと太陽に焼かれるような毎日。
変化のない時間の中で、刻一刻と肉体から希望が蒸発していく恐怖にも似た焦りがある。
何をしたって野垂れ死にするだけだという徒労感が体のあちこちから砂つぶのように入りこみ、自分自身が砂像と化す日も遠くないとわかっていながら、何ひとつ手を打てずにいる。
中国による日本の租借期間は、90年近く残っている。
つまり、俺が生きてる間はずっとこのままということだ。
……ずっとこのままだと?
この、鉄の檻に閉じこめられた囚人みたいな人生が、ずっとこのまま?
くそったれ。冗談じゃない。
でも、いったいどうしたらこの生き地獄から逃れることができるのか。
答えは誰にもわからず、目の前には鋼のように動かしがたい現実があるのみ。
灰色の思考を打ち切り、混雑する路上をあみだクジのように進んでいくと、車列の向こうに集荷トラックの巨体が見えてきた。
業務用出入口が設けられた荷台の側面では、真っ赤なマントを着けてスクーターを運転するヤマネコのイラストが不敵な笑みを浮かべている。
……毎回思うけど、うちの社長のセンス、ホントどうかしてるよな。
スクーターをトラックに横づけし、取得したトラッキングIDをスクーターに登録。自動並走モードをオン。
業務用出入口からトラックの内部へ乗りこむと天井の照明が自動的に点灯し、配達待ちの荷物が並べられた棚が照らされる。
「タカハシさんタカハシさん、っと。…………コイツか」
目的のものは小さなダンボールの箱だった。内容物欄の記載には「生鮮食品」とある。十中八九、生活必需品の類だろう。必要な時に商車が近くを走っているとは限らないため、路上配達便の需要は大きい。
扉から身を乗り出し、スクーターの収納スペースに荷物を積みこむと、運転席に乗り移って集荷トラックを後にする。
そのままスクーターを走らせていくと、無限に続く車列の一本が上り坂へ吸い込まれる光景が見えてきた。
西池袋インターチェンジだ。
坂道を登って高速道路に出ると、
コンクリートで作られた巨大なドーナツの上をしばらく走ると、目的地が近い旨をリストフォンが通知する。同時、目の前に投影された青い球体から光のラインが伸び、前方で鈍行中の白いキャンプカーをポイントした。
念のため車両下部の
「おはようございますヤマネコ便でーす! 荷物のお届けに参りましたー!」
「はぁーい」
車両側面のドアをノックすると、中から三十代半ばほどの女性が顔を出した。
血の気の薄い顔には、長く車上生活を続けた者特有の疲労感に満ちた作り笑い。
――ちくしょう。どいつもこいつも諦めきったツラしやがって。
再び頭をもたげてきた行き場のない苛立ちに頰が歪みそうになり、
――やめろバカ。客先だぞ。
暴れだしたくなるような胸苦しさから目を逸らし、顔面に営業スマイルを貼りつける。
「こちら、お届け物です! ご確認お願いします!」
荷物を渡して端末に電子サインをもらい、手前勝手な感情が暴発する前にさっさと立ち去ろうとする。
その時、
「おかあさん、お客さん?」
車の奥から出てきたのは七歳ぐらいの女の子だった。
好奇心に満ちた目でこちらを見上げてくる女の子に、母親は先ほどの作り笑いとはまるで違う柔らかい笑みを浮かべる。
「そうよ明里。お兄さんが食べ物を届けにきてくれたの。さ、お兄さんにお礼言おうね」
「うん!」
「あ、いや。俺は……」
今しがたの八つ当たりじみた考えから気後れを覚える俺に、しかし女の子は満面の笑みで、
「お兄ちゃん、食べ物を届けてくれてありがとう! あと、ええと……お仕事、おつかれさま!」
――――ダッセぇな、俺。
「……おう、毎度あり! 必要なもんがあったらいつでも届けてやるからな!」
目を閉じて雑念を振り払い、親指を立てて笑い返す。
しかしその時、車両間ネットワークの周辺警戒通信<スケアクロウ>から悲鳴が迸った。
『車上荒らし(レイダース)だッ! 車上荒らしがこっちに向かってくる!』
その一言が、曲がりなりにも平穏だった首都高速の日常を地獄へと変えた。
鋼の国のグレン ねめしす @nemesis
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