湖畔の遊覧船

湖畔の遊覧船

　遊覧船の入り口から、木の板が張られた階段を上り、二階へと辿り着いた。すると、家族連れが席を占拠しており、どこか賑やかに言葉を交わしていた。仕方なく僕らはデッキに出て、美由紀が先程から言葉少なで、喉に引っかかった魚の骨を気にしているようにぶすっと不機嫌そうな顔をしていた。

　こいつ、また彼氏にフラれたな……何となくそれについて察しながら、敢えて何も聞かず、そのままデッキのベンチへと腰を下ろす。

「最近、疲れているのよ」

　本当にぐったりとした様子で、デッキの向こう側を見つめていた。彼女があまりにも元気がないので、その頭にぽんと手を置いて、「少し頑張り過ぎなんだよ」と笑ってみせた。

「頑張りすぎというよりかは、やってきたことが意味がなくなって、困ってるんだよ」

　彼女は震える声でつぶやいた。これは重症だな、と僕は押し黙りつつ、彼女が言い出してくれるのをただ待った。でも、彼女は海の底へと際限もなく沈んでいくように、視線を下げていき、やがて目を閉じてしまった。

「私ってそんなに、頑張り過ぎてる？　本当はもっと頑張っていいんじゃないかと思うのよ。もっと頑張って相手のことを考え続けていれば、結果は変わっていたかもしれないのに……」

「そんなことはないよ。お前はもうそのままでいいんだ。足りないところがあってちょうどいいんだ。大体そんなことを言ったら、僕なんか、どうなるんだよ。まあ、双子なんだから、大差ないだろうけど」

　盛大に溜息を吐き、再び顔を上げると、彼女はゆっくりと瞼を開く。そして僕へと振り向き、「三樹にはもう、わかっているんだろうけど」とつぶやく。

「私さ……彼氏にフラれたんだ。正確に言うと、婚約相手にね」

「そんなところまで、話が進んでたのかよ」

「三樹にも、お父さんとお母さんにも言ってなかったけど、婚約指輪、もらってたんだ」

　彼女は首元に手を置いて、何かを祈るように唇を噛み締める。

「彼が別れようって、言い出したの。理由を聞いたらずっとやっていくことを考えたらやっぱり駄目かもしれないんだって。それなら最初から、指輪なんてくれなくて良かったのに……婚約指輪も、彼氏も、心の空席も、全て燃え尽きてしまえばいいのにさ。でも、やっぱりこうなっちゃって駄目だね、私」

　彼女は指輪を繋いでいたネックレスを握り、自嘲げに微笑んでみせた。

「私なんかと付き合ってもたぶん最後にはこんな風になるんだと思う。だから、もうあきらめてるの、私は。これまでずっとそうだったから」

　彼女はそう言って僕へと振り向いて、「情けない妹だね」と壊れ物みたいな笑顔を見せた。

「情けない妹には変わりないけど、そんなことを言ったら僕なんかどうなるんだよ」

「三樹はまだいいじゃないの。自分が好きなことをやって好きなように生きてる。三樹なら、女も『イエス』と言うかもしれない。けど私は、ノーと言われたの。……本当に苦しいよ、今」

「まだまだ甘いな、美由紀は……」

　僕はそう言って笑うと、親指に嵌めていた指輪をそっと彼女に見せた。

「お前が首から提げてる指輪、彼氏からもらったものだろ？　僕だっていつまでも、彼女と交換した指輪を肌身離さず持っているんだ。それって何だか情けねえと思わねえか？」

「本当にそうなの？」

「聞いて驚くなよ」

　僕はゆっくりと立ち上がって、思い切り胸を叩いてみせた。

「美由紀にはまだ言ってなかったけど、僕は今まで三回プロポーズをしたことがある。……でも、全部断られた」

「三樹が、本当に？」

「指輪はまだ肌身離さず全て持ってるよ。これでお前と大差ないだろ？」

　僕はそう言って親指に嵌めていたその指輪を引き抜いた。そして、彼女へと見せ、それを――。

「お前が決心がつかないなら、僕が最初にその意志を見せてやる」

　そう言って思い切り腕を振りかぶると、その指輪を手すりの向こう側へと投げ放つ。美由紀が「あっ」と悲鳴を上げて、デッキの先へと身を乗り出した。

「何で、こんなことするのよ！」

　彼女は思い切り僕の頭を引っ叩く。僕は前につんのめったけれど、ふと笑い、そのまま他の指輪も湖へと投げ込んだ。

「このまま過去を引きずっても全く意味がないし、さっさと日々を淡々と過ごせばいいんだ。僕もそう思っていたんだ」

「あんたね、いつも行動が予測できないの。心臓に悪いでしょ」

「美由紀だって目の前のことに必死に立ち向かっていけば、きっとまた前向きになれると思うよ」

　彼女はすっと視線を足元から湖面へと伸ばして、そして――。

「もううんざりよ！」

　同じように指輪を投げ放とうとして、そのまま手に握り、俯いてしまった。

「やっぱりこれだけは手放せないよ……」

　僕は彼女の頭に手を置いて、わしわしと撫でながら、「それでもいいよ」と言った。

「美由紀は美由紀の歩幅で、ゆっくりと歩いていけばいいさ。美由紀の一番の長所は、そのタフさなんだからさ。もっと自分の今まで頑張ってきた道を誇っていいんだよ」

　美由紀はふっと笑って、「そうね」とベンチに座り直した。

「それよりさっき港を出る前に寒天ゼリーを買ってきたんだ。……食べようぜ」

「あんたここに来ると毎回買うわね」

「ゼリーのように柔らかく、そして甘い日々を生きるっていう、ジンクスだよ」

　僕はそんな取って付けたような台詞を言いながら、湖面の先に広がる山々の景色に見惚れる。山々のラインを目にして、いつものように風を感じた。

　美由紀はそっと僕の視線の先を追って、「風が気持ち良いわね」と耳元の髪を掬った。その髪の先から覗く横顔は、ちょっぴり泣きそうで――でも、少し晴れやかな笑顔だった。

　了