晩酌は一人で

御手紙 葉

晩酌は一人で

 一人で飲むなんて、有り得ねえよ。俺はビルの前でベンチに座りながら、ゆっくりと缶コーヒーを飲んでいた。それは夕暮れの淡く色づいた街並みが煌めくような、穏やかな時間だった。

 メモ帳に文字を書き込んでいると、缶コーヒーの苦味が頭をクリアにしてくれた。そんな落ち着いた時間に、少しだけアイデアが浮かんできた。

 その日はどうも一人で飲む気がしなかった。自宅で飲んでいても楽しいことなんて、何一つなかった。どこか憂鬱なことを思い出してしまって、俺は飲む時は誰かと一緒に、と決めていた。

 サラリーマンの姿をずっと探していたけれど、そこで一人の男がビルから出てきた。長い黒髪は七三に分けられ、すっきりとした顔立ちを際立たせている。いかにもエリートサラリーマン、といった風情だ。

 胸ポケットにメモ帳を入れ、その男に近づいていった。そして、彼の肩に手を置いて、「おい」と声を掛けた。すると、男が振り返って、俺を見た瞬間に、相好を崩してみせた。

「……ごくろうさん。これ、飲めよ」

 缶コーヒーを投げると、彼はそれを器用にキャッチし、プルトップを上げて飲み始めた。

「……サンキュ。ちょうど喉が渇いていたところなんだ」

 そう言って彼は缶コーヒーを一気に煽った。

「良い飲みっぷりだ。これから一杯、飲みに行かないか? 最近は二人で行ってないだろ?」

 彼は少し苦笑して、呆れたように言った。

「いいけどよ、俺だっていつも仕事帰りに飲みに行ける訳じゃないんだ。一人で、飲めばいいだろ?」

「そんなの有り得ねえよ。他の奴らと飲まないと、楽しくねえんだよ、これが」

「まあ、いいけどさ。あ、そうだ……ちょっとその前に、」

 彼は突然足を止めて鞄を開き、中をまさぐり始めた。何をやっているんだ、と思ったが、とりあえず彼の様子を見守った。

 そして彼が差し出してきた夕陽色に染まったその表紙を見て、俺は首を傾げた。

「何だよ、それ?」

「図書館で、借りた本だ。返却期限が今日までなんだ。返しに行かないと」

 俺は眉をひそめて、彼の肩を軽く叩いてみせた。

「そんなの、来週でもいいだろ? 本当に律儀な奴だな、お前」

「よりにもよって、お前がそれを言うか? 割と、新刊なんだよ、これ。もし自分が借りている本を他人も真っ先に読みたいと思っていたら、どうする? その人が名作を読む機会を奪うことになるんだぞ?」

「そんなに読みたいなら、予約すればいいだろうが……」

「とにかく俺はこういうことには、きちんとしてるんだよ。行くぞ、図書館に」

 そう言って彼は駅へと向かい出し、きびきびと歩き出した。仕方なく俺は首を振り、「わかったよ」とその背中を追った。

 すぐに電車に乗って、吊り革に掴まりながら、たわいのない会話をした。その三歳上の兄貴は俺の仕事について詳しく聞いてきた。

「最近、仕事の方はどうなんだ?」

 俺は頭を掻いて、広告を見つめながら言った。

「原稿はもう書き終わったよ。やっと、一息ついたところだ」

「……ごくろうさん。ところでお前は、サイン会はやらないのか?」

「あんまり、そういうのは回ってこないんだ。こういう格好してるからな」

「お前の職業を聞いた人は大抵、驚くだろうよ。金髪でピアスしておまけにアロハシャツ着てる奴が、堅苦しい文学作品を書いているんだからよ」

「俺は確かに堅苦しいのは嫌いだが、文学にはそれは当てはまらないんだ。ガチガチに硬派な作品でも、涼しい顔して書いていられるんだ」

 そこでふと視線を落とし、少し考えてから、言葉を続けた。

「ただ、読者の声を生で聞けないのはすごく残念なことだな。今まで直接、ファンに感想を聞けたことがないんだ」

 そう言って言葉を続けようとすると、兄貴の携帯からチープな着信音が響いた。彼は慌てたようにスマートフォンをタッチし、画面を覗き込む。

 すると、次第に彼の顔色が変わっていった。

「すまない」

 兄貴はまっすぐ体を向けて、申し訳なさそうに言った。

「何だよ、一体?」

「彼女が急に会いたいと言い出した。とりあえず、これから××駅まで行かないと」

「何だよ、それ! 飲みに行くのはどうするんだよ!」

 せっかく飲めると思ったのによ、と俺は渋面を作る。

「また今度、奢るからさ。あのさ、悪いけど、この本を返してきてくれないか? 返却口が外にあるから」

「お前は律儀なのかいい加減なのか、よくわからねえな」

 俺はそう言ってもう一度溜息を吐き、兄貴が差し出してきた本を受け取った。そしてふっと笑って、その背中をバシンと大きく叩いてみせた。

「わかったよ。俺が必ずこの本を返しておくからよ。それより、彼女とうまくやれよ?」

 彼は申し訳なさそうにうなずくと、次の駅で降り、俺に片手を上げながら歩いていった。

 俺は図書館がある駅で降り、すっかり夜になったことを確認する。広々とした住宅街を抜け、古い建物に辿り着いた。消灯された玄関口には鎖が掛けられており、壁には兄貴が言っていた通り返却口があった。

 本を入れ、さて家に帰るか、と踵を返そうとした時、そこですぐ傍から、「すみません」と声が聞こえる。見ると、若者が本を手にして手持ち無沙汰な様子で立ち尽くしていた。

「すまん。すぐにどくよ」

 そこから離れたが、そこでふと彼に何かを問い質してみたくなった。何故そんな気になったのか、自分でも判然としなかったが。

「返却日を守ってるか、お前?」

 よりにもよって、そんな下らないことを聞いてしまった。彼はきょとんとしたが、すぐに微笑んで、うなずいてみせた。

「もちろんですよ。自分が借りている本を他人も読みたいと思っていたら、気の毒ですし」

 俺は若者の言葉に満足し、うなずいてみせた。

「それよりどんな本を読んでるんだよ?」

 そう言って表紙を覗き込んだ俺は、その瞬間、目を見開いた。それはなんと――俺が書いた処女作だった。その表紙の絵が残像のように俺の目に焼き付いた。

「これ……面白かったか?」

 そう聞くと彼は間髪入れずにうなずいた。

「すごく面白かったです。本当にお薦めですよ、これ。もし返却を先延ばしにしてこんな面白い本を他の人も読めなくなってしまったら、すごく惜しいですよ」

 彼の笑顔を見ていると、俺は胸が震えてきて、思わず口元が緩んでしまう。俺はうなずいて、「そうか」と笑顔を返す。

「俺も今度、読んでみるよ。……ありがとな」

「是非、そうしてみて下さいね。傑作なので!」

 彼は穏やかな表情で頭を下げてきて、ゆっくりと夜の街へと消えていった。俺はその背中を見送りながら、すぐに笑い、自分も駅へと引き返していった。

 人の気配が消え失せた街には、俺の足音がずっと木霊していた。しかし、それは天上の階段を上るような軽快な足取りに違いなかった。


 *


 俺は自宅のマンションに帰ってくると、買ってきたビールの缶をテーブルに並べた。そして、テレビも点けずにBGMもなしにゆっくりと酒を飲んだ。

 これまで、読者の声を生で聞けたことなど、なかった。だから、余計に嬉しかったのだ。

 一人で飲むなんて、有り得ねえよ。そんなことを言っていた自分が本当に馬鹿らしく、その日の晩酌はとても心地良いものになりそうだった。

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