舟の本
安良巻祐介
いつ頃辿りついたのか、そもそも記憶の中の出来事なのか、夢で見ただけなのか、わからない。
図書館のそばには、湖と森とがあった。
ゆるやかな楕円形を描く湖水が、柔らかい木々の緑を銀の盤へ鏡映しにしていて、その緑の間に、円錐形の帽子をかむった、白亜の建物が覗く。
外観は現代風だが、館内へ一歩入ると、古書の黴の香りと共に、前時代的な色調が支配した。
奇妙に高い天井、黒ずんだ木製の架、埃の色を霞ませたガラス・ケースの列、それらは明治期の税関や商館の類を思わせる。
人の姿のない司書台を訝しく思いつつ、奥まった方へと進んで行くと、蔵書を保護するためにか弱められた薄い照明の下に、居並ぶ本の背表紙の、象形的な金文字が妖しく光っている。
書架の陰から、ミイラじみた顔を伏せた老博士がのっそり出て来そうな雰囲気である。
禁書の表示があるわけでもないのに、なんとなく本へと手を伸ばすのがためらわれ、ふと、列の脇から淡く光の指しているのを見つけて、そちらへ向かった。
書架の陰と薄闇から逃れ出てみると、そこは通路のようになっていて、色硝子を嵌めた明かりとりが、床へ五彩の光を鍵盤状に投げかけていた。
通路沿いに、先ほどのとは異なる、背の低い棚が据え付けられていて、光の鍵盤を踏みつつ、そちらへ目をやると、見覚えのある作家の名前が見つかった。
手に取ってみれば、ずっと昔に読んだきり、絶版か何かの理由で、二度とは手に取れまいと思っていた、ある時期の短編集である。
横長い白の表紙に、湖畔へ繋がれた小舟の絵が、三日月風に素描されている。
そっと開いた版面には、小さな四角を作るようにこまごまと並べられた文字。
幼い頃に、肌を粟立たせながら読みとった物語が、その時の鮮烈さのままで、頭の中に蘇って来て、思わず本を取り落としそうになった。
夢の中の宝を、醒めた枕元に見つけてしまったような気持ちで、本を手に、通路を後戻りしようとしたあたりで、明確な記憶は途絶えている。
図書館へ行くのに利用した最初の区間のバス切符だけは、今でも引き出しの中に入っているから、単なる夢とも思われないのだが、どうしてもあの場所がどこだったか、糸を手繰れないのである。
もはやタイトルも作家の名前も思い出せない、あの白い小舟の本だけでも、どうにかして盗み出しておけばよかったと、今になって後悔ばかりしている。
舟の本 安良巻祐介 @aramaki88
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