赤と黒の記録

忠臣蔵

赤と黒の記録

 まったく関係ない話だが、自分の陰毛を常食しないと死ぬ体質になる夢を見た翌日、推定8時間以上就寝したにも関わらずの寝不足の感じにあらがって起き上がり、着替えもせず三和土たたきを降りて玄関の扉を元気いっぱい開け放ち、太陽が発情期に突入して久しい盛夏せいかの日盛りの、具合の悪くなるほど異常に雑然として臭ってきそうな街衢がいくを潜り抜けること15分、側面に彫り込まれたアルファベットだけが逐一異なるほかはすべて同じ規格と塗色としょくで林立する団地群に四囲しいを閉ざされ、病みきった都会に現出した野性の小王国たるその公園に、特に野性を希求したわけでもないが辿り着き、近年の少子化の影響かあるいはこの団地自体が近年、独り身の老人とわが国のビザ取りたて就労したてな外国人の吹き溜まりと化していて、と形容すると殺伐としてのっぴきならない光景が目にうかぶようだが、じつのところ両者の交友関係は存外とかんばしいもので、たとえば地域の夏祭りに際しては、駅前通りのミニストップにて非正規雇用の扱いで精励恪勤せいれいかっきん邁進まいしんする中国人の好青年たちが見様見真似で習得した不器用な盆踊りを披露するのを、高度経済成長期の過日かじつをこの団地に偲ぶ老人勢が微笑をまじえ見つめる、そんな中々にうるわしい、これからのグローバリズムのたいへん良い意味での潮流を感じ取れないこともない光景があらわれるものであるという噂がややもすれば事実なのかどうかはいざ知らず、想像に反し餓鬼共は愚か人間共すら誰一人いないのをいいことに、縦縞のストライプブルーに全身を包囲された半袖長ズボンのパジャマ姿で引き千切れそうな鞦韆しゅうせんを汗にまみれ漕いでいたが、それにもやがて飽きてしまい仕方なくというか、べつに帰ってもよかったし座りたかったわけでもないのだがなんとはなしに、敷地の隅に設置され、長らく鎮座した者がいないのか異様に砂埃の堆積している木琴のような質感のベンチへ漫然と腰を下ろしていたところ、自分の闖入ちんにゅうしてきた敷地への入口の斜交はすかいにあるもう一つの入口から、女がやってきた。空前絶後の生ける女体の現出げんしゅつに当惑をおぼえるのもやむをえない、べつに当惑していない脳細胞を稼働させてそのような印象をおぼえつつ出で立ちを見遣れば、服装はクリーム色のスカートと英文字のプリントされた薄手の半袖シャツなる出で立ちで、お世辞にも寛闊かんかつなところなどひとつもなく、いっぽうで足はなぜか裸足に運動靴を履いていてしかもかかとを思いきり潰していて、そこだけ観察すれば部屋に虎がいるから逃げてきたとでもその状況を推察しえそうな有様なのだが、むろん他人の服装の即席の寸評なぞ無礼な行為だから、気を取り直し他の諸要素に目をうつせば、その胸元の布を伸ばしてあまりある、乳牛のDNAを受け継いでいるとしか思えない爆乳の、異様に存在感のある乳頭が布越しに透けていて思わず見入ってしまうのを除けば、顔面をふくめたその風貌は美人の範疇に入るといえなくもないといえないこともないような気がするとはいいがたい、総じて控えめというか、陶器でいえば素朴な手捻りといったところで、たとえば修学旅行一泊目の夜半、好きな異性の暴露大会という青春特有に清潔感のある猥談においてその名を推挙すいきょすれば、とくに囃し立てられることもないが定番というわけでもなく、ああそう、みたいな反応をそそってしまって、ことによると誰も悪くないのに絶妙に場の雰囲気が沈下してしまいかねない、さながらいまだ戦禍せんかのとどろく中東の荒野に伏兵よろしく埋め込まれた、無辜むこたる戦争孤児たちのたっとき明日を日夜略奪してやまない憎むべき不発弾のようなそんな印象を受けるというような無礼にも程がある印象を受ける。むろんそんな印象はおくびにも出さず声にも出さず、何がしかの敬虔けいけんな信徒のように、かっと眼を、こぼれ落ちそうなほど見開いて爆乳を、凝視した。凝視した。凝視した。穴が空いてブラックホールが現出し自分を世界を森羅万象を早急に呑み込み始めるほど凝視した。肉汁のような汗を全身から噴き出し、空想上の世界の終わりとそろそろ失業保険の切れそうな己の惨憺さんたんたる現状に慄き、なんだか延長戦に突入してしまった心持ちで、もちろん自分をふくめて誰も戦ってなどいないのだが、いや人生そのものこそ大いなる戦いであるのやもしれぬが、とにかくそうした悲愴ひそうな心境のままに座り込んでいると、日脚のさなかに意識が遭難しつつあるのか、視界がだんだんと歪曲わいきょくし朧になっていき、ひたすらにパジャマを発汗に湿らせながら全身が厚ぼったくなる感覚に脳味噌が馬糞に変わってしまった気分で、明らかに熱中症なのだが、回顧すれば自分の人生そのものもいろんなことが朧だったのでどうでもいい、というペシミズムがもはや馬糞でしかない脳を掌握し圧潰あっかいさせかけたけれど、思い直すにやはり死にたくないので悲嘆に暮れながらもふらつきながらどうにか立ち上がって尻についた土埃を払い、財布があれば自販機で飲料を購入しえたのにという悔恨かいこんが馬糞をよぎったとき、馬糞が馬の肛門からし出されるがごとき、粘質の高い液体の撥ねるような音がしたので振り返ると、さきほどの女が滑り台にアロマオイルをぶっかけていた。直接には見ていなかったが、片手に吊り下げたビニール袋から取り出したらしき小瓶に入っているものを、垂らすというより豪快に瓶ごと振って一挙に中身を空けているところからしても、常温にも関わらずの液状だから動物性の油ではなかろうし、ちょいと小粋こいきなデザインの、びっしりと微細なローマ字で白地にライトブルーで何がしかの内容の印刷されたラベルの貼られた、小脇にはさめる程度の大きさのボトルから終始垂れ流される蜜色の液体は涎じみていて、やる気のない粘菌のように斜面を下方へ下方へ滑り落ちて陽光にきらめくその様子を観察しながらオリーブオイルかもしれないとも思うのだが、いっぽうでやはりあれはアロマオイルなんだ、という妄想の自己戒律かいりつ使嗾しそうに自己戒律的抑制を施すことができないこともないが、敢然かぜんとして抑制など放擲ほうてきした結果、勃興ぼっこうとして視界に顕現けんげんしたるは香油にたわむれる美女という宗教画にそのまま流用出来そうな幻像イマージュであり、当然股間も勃興として、人生どうでもいいなどと戯言をぬかした先刻の己の頸部から上を特大剪定鋏せんていきょうで刈り取りたい衝動に駆られていると、そんな幻像など所詮空想の産物なのだろうか、いや幻像そのものこそ大いなる妄想であるのやもしれないが、とにかくじっさいのところアロマオイルなど媒介に過ぎず、女の遊戯のもっぱらの御相手はどうやら遊具そのもののようで、ビーフステーキをフランベするように引き続きオイルをぶっかけたかと思うと、細い首筋に浮き出た汗のしずくを弾き飛ばし肉体を躍動やくどうさせ、三歩ほどで今にも骨組みが分解して倒壊しそうで早急に撤去していただきたいジャングルジムのふもとに移り、野人そのもののうごめきにより一瞬で頂点に登り詰めると携えたる別の小瓶、同じ大きさに同じラベルなので内容物も同一であろう二本目を袋から取り出し内容物を四方八方に振り掛け、陽光を透いて明るい群青色に染まる容器をふたたび空にし、勢いをつけて地面へ跳び下り一目散に鞦韆へと向かい、プロ野球のリーグ制覇祝賀会の模様として公共の電波を介し屡々しばしば放映されるビールかけの慣習さながら、原色の黄土の塗装を施され鎖に吊り下げられた、いちおう本体と呼称しえそうな臀部でんぶや靴底を置く部分に三本目をたっぷりと浴びせて、次いで砂場へ直行し四本目を空けるも、熱砂の稠密ちゅうみつは女の与えたもうたしたたりなぞ素知らぬ顔で生理用ナプキンのようにことごとく吸収してしまうのだが、気にしていないのか一区切りついたような妙に安穏あんのんとした微笑をたたえ、小瓶たちが入っていたビニール袋を丸めて地面に投げ棄てると、一転して粛然しゅくぜんたる面差おもざしで滑り台の昇降口へと向かい一段目に右足を掛けた状態で、そのまま昇るかと思いきや静止し、何やら尻をもぞもぞ動かしているらしいことが曖昧な身体の微動の様子からは伝わるけれど、位置関係としてはベンチと滑り台の終着点が相対あいたいしている格好で、構造上その始点となる昇降口が終着点の反対にあるので、構造上必然的に昇降口はベンチの裏手にあるので、構造上必然的に滑り台の存在そのものが視界を遮断する夾雑物きょうざつぶつと化しているので、蠢動しゅんどうする裏手の尻が具体的に何をやっているのかは判然としないので、全裸の異性が三千人ほど道の向こうから一斉に襲来すれば誰しもその場できびすを返し全力奔走するだろうが、逆に一人が股間にただ一葉いちようよろうてとあらばかえってこちらが逆襲しかねないように、おっぴろげられるよりは隠匿いんとくされるほうがみんな燃えるし苛立つのが世の定めで、畢竟ひっきょう本件においても被告はしびれを切らし腰を上げ掛けたがそんなとき、いつしか滑り台の頭頂部に登り詰めていたその肢体を瞥見べっけんし、気づいてしまう、女が下着を穿いていない、と。汗に濡れたシャツはまだ装着しているが、下半身には何も身に着けておらず、恥丘ちきゅう繁茂はんもする鬱然うつぜんたる縮毛の漆黒だけが陽に焼けた眼球に鮮烈で愛おしい。剃っていないのか? それなのに堂々としている。何も身に着けていないと思わせる全裸下肢を模造した装身具を身に着けていないと思わせる全裸下肢を模造した装身具を身に着けていないと思わせる全裸下肢を模造した装身具を身に着けていないと思わせる全裸下肢を模造した装身具を身に着けていないと思わせる全裸下肢を模造した装身具を身に着けていると思わせるほど堂々としている。

 ――ノーブラ?

 そんな予感にたがわずというか期待通り、忘却の彼方にうず高く堆積されかび臭さをぷんぷん発露していたみずからの野性を渺茫びょうぼうたる都会の無機質な建築物に包囲され際限なき去勢という無限後退の陥穽かんせいにあるワイルドに解き放ち融合しついにはそれそのものの覚醒を嬉々として果たさんとするがごとく、果たしてTシャツを脱ぎ捨て全裸となり果てた女の、伊勢海老のようにぷりぷりした豪奢ごうしゃな肢体は衣服の末端より露出していた手足のさまからの推測をはるかに超越した白皙はくせきで、だが人間の定義を逸脱しかねない白皙というより白亜はくあはだの質感は見るところ絹よりも蝋のそれに近く、現今げんこん降り注ぐ蝟集いしゅうした強靭な熱線にはたちまち泥のように溶け出し燐光りんこうの色合いを閃かせついには流れ出てしまいそうで、しかしその異様な白色への拮抗きっこう企図きとするがごとく二対の乳首は腐った梅干しのように黒く、黒ずんで、極悪にもほどがある黒で、彫像めいた女体美へと穿たれた虚空じみた欠落を露呈させ、存在論的純潔の致命的な欠如の蓋然性がいぜんせいを容易に喚起かんきさせるものだから、アロマオイルなぞ用いて瀟洒しょうしゃを気取っているにしてもやはり痴女か、と落胆に嘆息を促されつつ、通報に際し交番を探すか颯爽と走り寄り堕落した爆乳を揉みしだくかの二者択一に脳細胞の暫時ざんじ使途しとを定め、しばし歯軋りに似た唸り声をあげるわけでもないが、背を丸め、黙考もっこうする。

 ――金を払うから素手で嬲らせてくれないか?

 暗にげんにするかのように、外科的手術を要するほど病的に淫猥な目つきで、しゃぶりつくさんとするが如くねめつけた。いや、すでにしゃぶりつくしていたのかもしれない。というかしゃぶりつくす。この魂に換えても。そんな決意とともにしゃぶりつくしてしまったせいか、財布がないにも関わらず予想の三倍なめらかに口を這い出てしまった前述の猥褻発言を、しかし女は意にもかえさず、というかこの距離だし耳に入っていないのか、それとも聞くまいとしているのか、聞いているがそんな些事さじよりも重要なことがあるのか、「あ、別にいいですけど」とあっさり答えてから、「あの、こんな体勢の、こんな何も着てない人間が、こんなこと昼日中からやってて気になってると思うんですけど、お願いですから交番に駆け込まないでください、いや、ていうか、駆け込んでもいいです、いいですけど、私がエナジーの還元かんげんを終えてから、私が立ち去ってからにしてくれませんか、そうすればこの還元の状況から私だけが消え去って、還元された私のエナジーを湛えた遊具だけが残るわけじゃないですか、だったら私も怒られないで済むし、かといって証拠は残ってるから、あなたが仮に警察の方をここに連れてきて、美女が大地にエナジーを還元してたって証言しても、虚言扱いされるってことはないだろうし、だって証拠はありますから、そしてその後私はここに来れなくなるだろう、けれど我慢しますから、別天地を探しますから、もちろんあくまで折衷案せっちゅうあんとしての提唱ですけれど、ただやっぱりあなたと私の受益じゅえき均衡きんこうをベターなかたちで取るにはそういう方向にいかざるをえないと思うんです、いや、もちろんそんな簡単に納得できるかって、お前の都合なんか知るかって怒ってらっしゃるかもしれないし、納得していただけるかはわからないですけど、なんでこんなことをやっているのかっていう、説明する権利だけについては、あの、一応許可していただけるならしていただきたんですけど、でも私がこうやって喋っているのに、さえぎるでも平手打ちするでもなく聞いてくださってるみたいだし、いや、わからないですけど私の独断ですけどでも、そう思い込んで、あの、説明させていただきたいんですけど何でこんなことやってるのか、ていうか、だから、要するにさっきも言いましたけど、私のエナジーを大地に還すっていうか、でも大地に還すっていっても何をすればいいのかわからないし、だからとりあえず子供たちに向けてエナジーを与えようって思って、それで子供が必ず、どの子でも使うようなものとか場所とかがないかなって考えて、それで公園の遊具を選んだんですけど、ここの公園を選んだ理由は人気が日中でもそんなにないからですけど、ということはエナジーをあまり広範こうはんの子には与えられないんじゃないかって、あなたは思われるかもしれない、でも、こうして閑散とした団地に設置された公園だったら、人数が少ないゆえに特定の子に対してエナジーを重点的に授けられるって、だって私一人のエナジーなんかたかが知れてるから、広範に授けても意義は希薄きはくで、それに一人でこっそりやらないと、逮捕されるかもしれないから、たとえば本当は渋谷のハチ公像にでもよじ登って、エナジーを練り込むべきだと、私も思う、でも、あそこって本当に人が多いんです、いつも待ち合わせの人がいるし、あといつも外人の方が写真撮ってらっしゃったりするし、というか、ただの銅像なんで、あんなものじゃなくて東京タワーとか東京スカイツリーとか、そういうところで記念撮影したほうがいいと思うんですけど、まあ、よけいなお世話なんでどうでもいいですけど、でも、やっぱりあそこってそういうふうに人が多いから、裸でハチ公によじ登ったりして、逮捕されたら困るじゃないですか、それはよくないと思うんです、というのも、逮捕されるということは、他人に何がしかの危害を加えているということですよね、もちろん、たとえば独裁政権に対するデモンストレーションの参加者を逮捕するみたいな、なんか旧ソ連の西端せいたんのほうの小さな国とかだとありそうな気がするんですが、っていうのは偏見なんですけど、でもそういう場合って逆にいうと、旧ソ連の西端のほうの小さな国だから勃発するのであって、この国じゃ、まあたぶんそうそう起きないと思いますし、ということは結局のところ逮捕されるというのは、危害を加えた、加えかけたってことだから、それはエナジーを還すっていう、私の目的の達成と食い違ってる、私はだから、還すという行為は、もしも単独で行うんだったら、ひっそりやるべきだと思うんです、危害を加えないためにも、その意味で還すっていう行為は、核弾頭の製造にも等しい、もちろん核弾頭と違ってその遂行は全的に個人に委ねられていますが、でもそれは関係ない、私が言いたいのは、核弾頭を造るのと同じくらい、厳粛に還したい、私は大地に、自分のエナジーを、そう心に決めているから、それで油を、こう、これサラダ油に香料入れてアロマオイルの瓶に入れたものなんですけど、いや、ちょっと前まではちゃんとアロマオイル使ってたんですよ、ていうか、じゃなかったらこんな小瓶持ってないし、ていうか、最近仕事も辞めちゃってお金もないし、まあ派遣なんですけど会社でプログラミングとかやらされてるんですけど三十も半ばを過ぎたからかわからないんですけどばっちり登録してても仕事があまりまわらなくなってきたんですけどそんな状況でも正社員になりたいしなったとしてもこの無報酬の仕事はちゃんと責任持って続けていきたいと思ってるんですけど、それはそれとして、油ってなんか、生命と物質をつなげるものなんじゃないかなっていうか、上手く言えないんだけど、機械いじりしてる人って掌に油が浸みこんだりするじゃないですか、それで身体の中にもたぶん、詳しくないけど常に油はあって、ていうことは機械って油を使わないと動かなかったりしますけど人間もそれは同じってことで、しかも人間の場合は身体の六割が水分だから、そういう自分と反発して混じり合えない物質が占拠してるような場所でそれでも人間のために働く油さんたちって偉いっていうか、だってその状況って小学校のクラスでのいじめにたとえるとクラスどころか市内の人間の六割にいじめられてるみたいな、もう引っ越したほうがいいんじゃない、ていうかそれって社会的問題なんじゃないっていうような状況じゃないですか、たとえるとだけど、だからそれも踏まえて考えるとこう油を、だからサラダ油とか牛脂とかでもいいんですけど、でも公園の遊具に牛脂塗り付けるのって不潔だし、臭いし、この街みたいに臭ってきそうで、だけどアロマオイルみたいなのをいちいち買っていると、ちょっと経済的に厳しいので、だからこういうので、こう、戦ってる、こう、こう、こう」と言って滑り台をマッサージし始めた。汗みずくになりながら懇々こんこんとして自分の身の上やこの労働奉仕におよんでいるいきさつや持論や油の種類や不満や金欠を完全に破綻したまるで意味不明な言語感覚でアロマオイルのようにぶちまけてくれた女は、こう、こう、こう、こう、こう、とこれは呪文で自分を呪詛じゅそしているのではあるまいかという不吉きわまりない想像を湧出ゆうしゅつさせるに足る異常に平坦かつ熱情がこもり過ぎて暴発しそうな小声で遊具に呼び掛けるように念じるように一定の律動りつどうで呟きながら、いただきから大地へと直線的に伸長する、滑り台の滑る部分すなわち滑り台のメッカ、その直線的なコースを挟み撃つ、塗装の施された金属板を取っ手代わりに片手で掴み、もう片手の掌にて油をうすく引き伸ばし慰撫いぶするかのような手つきで塗り付けたかと思うと、こちらに尻を向けたうつぶせの姿勢のまま、突如「はうっ!」と叫んで乳房を思い切り叩きつけた。ばちん、という音がして痛そうだが痛みすら快感に変えているのか、荒い吐息をつきつき、両腕を金属板に引っ掛け滑る部分を抱え込むような俯せの姿勢になり、ねっとりと全身を焼印のように押し付け乳房を潰しながら上下に蠕動ぜんどうするという動作を執拗しつように繰り返し、「はうっ!」「んはうっ!」「んはっ!」「ふっうっ!」と呻きながら徐々に滑り台を滑り落ち、というかずり落ち、すなわち地面へと近づいていき、あわや油まみれで砂地獄に落下、というハプニングの予感がもやいを解いて大海へ漕ぎ出したので、あわてて砂地獄へ走り寄るもときすでに遅し、全身油まみれだったせいで砂粒が過剰にくっつきよけいに砂まみれになった女が、大海へ漕ぎ出したと思ったら附近で擱座かくざという感じのあられもない姿で横たわっているすがたはあでやかでもなんでもなく、浜辺に座礁したバンドウイルカの死体のようにグロテスクで滑稽で哀切で胸が痛むけれどそんな胸の痛みを乗り越えて腕を引っ張り立ち上がらせ、胸を掴んだ。柔らかでどことなく湿った乳房の感触を揉めば揉むほど砂地獄に捉われるようで、しかし滑り台にいまさら昇ってビーチサンダルの底面を油まみれにする気概もなく、ましてや開き直り素足をある意味一片の温もりも感じられぬ非情な灼熱にさらす蛮勇など持ちようもないし、蹌踉そうろうとして転倒の危機が到来するたびに引け目に感じながらも、両手がつねに乳肉で塞がっているうえ、女に助力じょりょくを懇願しようにも醜悪にもほどがある泣き顔の頬を落涙らくるいに濡らしながらしゃくりあげるばかりであるのだし、ほかに互いの肉体の支えになるものがないので揉んでいる掌で瞬間的に強くグッと掴んでしまわざるをえず、更に引け目を感じつつ興奮するというAutomaticな円環えんかんがいつのまにか成立していて、七回目のベルで受話器を取った君にドキドキが止まらないしNOとは言えないのだけれど、しかしそれに相反してわれ関せずとでも言いたげに揉もうが潰そうが撫でようが黒乳首を指で弾こうが女は構わず泣きに泣いて顔面を濡れそぼつ無頓着ぶりであって、たがいによろめきあいながらふと、揉んでいる箇所の神経が死んでいるのでは? という疑念が生じ、とすれば一刻も早くかりそめの野蛮への無償労働奉仕なぞ取りやめさせ総合病院の内科に連行するべきかもしれないが、公園で全裸になる人間そのものが精神的に瀕死である蓋然性を考慮するに精神科のほうがよいのでは? という疑念が生じ、生じながらも揉んで、揉んで、揺すり、足が沈み、倒れそうで、グッと掴み、支点にして、体勢をととのえ、揉めば揉むほど沈みにくくなる、むしろ浮上していく、天高く、そのようなシステムが存在していてもよいではないか? という疑念が生じる中、乳を揉みに揉んで揉むのだった、乳毛があれば引っ張るなり抜くなりでの痛痒つうようの促進に直截ちょくさいな反応を期待できるのに、とそんな夢想には世界へ捧ぐ一握いちあくのヒューモアを感じ、必然的にその口角へ典雅てんがなる微笑を、尿意のごとくもよおして。「すいません、悲しいわけじゃないんです、ただ今までやってきたことを考えると、よくやってきたなって、自分で自分を褒めたいんです、あなたがいてくれたから、はじめてなんです他人にこんなことしているの見てもらっているの、あなたがいたから、こんな気分なんです、責めてるんじゃなくて、悲しいわけじゃないから、うれしくて、私のエナジーを大地に還すのをあんなにつぶさに観察してくれて、あまつさえ駆け寄って抱き起こしてくれて、とてもうれしかった、さっき言ったことと完璧に矛盾してるけど、強がってた、私も、だからあなたに説明しているときも、説明の内容とは裏腹にというか、でも思ったんです、やっと私の人生も報われたなって、そう思えた、心から、だから、あなたお金がどうとか言ってましたけど、いいんです、そんなことは、感謝のしるしに、だから、図々しいけれど、どうしてもあなたに、私のエナジーを練り込みたい、私のエナジーには、何の対価もいらない!」乳を揉まれながら乳汁のような戯言を吐き散らす女の痴態を、プラットホームの吐瀉物や動物園のつがいのゲリラ的交接を観察するかのように見つめるこの眼球たちを収めたこの眼窩がんかたちを爆破せんがごとく雄々しいその乳首は、それにしても黒い。こんなにも黒い乳首が世界に存在するかと思うと悲しみのあまり人類が滅亡しそうで、もちろん人類を滅ぼすわけにはいかないので悲しみにまぎれ間断かんだんなく湧出するこの激情を遮蔽しゃへい排斥はいせき滂沱ぼうだとしてあふれる架空の涙にまなじりをうるませながらも決壊寸前のこんな気持ちを快癒かいゆせしめる恵沢けいたくたる慈雨じうの味覚をしかし求めざるをえず、股座またぐらへと潜行せんこうし腰を唐突に曲げた結果の非常に無理のある体勢で、とうぜん二人して砂場に転倒しつつもとうぜんおのれは女の乳房をたなそこに溢れさせたまま、乳首よりはやや人間的な黒さの、ジャングル顔負けな縮毛たちの叢生そうせいめがけて顔面を擦りつけるようにダイヴィングさせ、軟体のようにうごめいてやまない舌を、オーヴァリー・ストライプの渦中へとだしぬけにそして直線的に這いつくばらせる夢を見た。

 太平洋からマグロが引き上げられるようにして泥濘でいねいめいたまどろみから覚醒すると完璧に日が落ちていた。寝不足が祟ったか、よく熱中症にならなかったものだ、と吃驚きっきょうよりもさきに呆然としてしまう。どのあたりで眠ってしまったのか? 眼前の遊具群を見渡すと、女は消えていたがアロマオイルのオイル然としていない残り香が依然として公園に立ち込めていて、あのオイルマッサージの情景が真実にしても、それから先、揉んでなぶってのすったもんだはレム睡眠下に統御とうぎょされた夢物語だったらしく、足下を見遣ればむろん、ビーチサンダルではなく運動靴を履いているし、掌も乾ききっていて鼻腔びくうを近づけても特段変わった匂いはしない。それにしても女の裸体への、われながらいかんともしがたく、みすぼらしい想像力よ! 自嘲じちょうが残り香の渦中に取り残された状況で出来しゅったいするのもやんなきことであることであって、さながらそれは荘厳そうごんにして壮大をきわめた一大情事交響曲の馥郁ふくいくたる残響と解釈しえないこともないが、じっさいは交響曲というより独語に近く、独語のごとき黙考は一大情事詩の脳内永久朗読に発展し、どこをどうしたかあやまってレールの切り換えないし爆破でもしてしまったらしく、気付けばまったき別種の欲求へと知らず知らずに貪着とんじゃくしていたようである。恥ずかしい。しかし人は元来全裸に羞恥しゅうちを知覚する生物でありながらだれしも裸体で現世に生まれいずるを鑑みるに羞恥などは獣性じゅうせいの隠蔽をつくろう虚言で一皮脱げば裸身を厭わぬ獣たる人々なのだから羞恥を覚える必要は断固としてないではないか? と水面に凍結した薄氷はくひょうのように危うく覚醒の大いに疑わしい思考を展開しながら蜜色にしたたる甘味の薫香くんこうを求め森閑しんかんたる山林を四六時中彷徨ほうこうするディズニーの黄色い熊のようにアロマオイルが塗りたくられしたたるジャングルジムの麓に遅々ちちとした足取りで導かれるようにようよう辿り着くとやおら手を足を掛けて上りあがり頂上まで辿り着くとたまさか眼前に現出したジャングルの構成物の一片たる金属棒めがけて顔面を擦りつけるようにダイヴィングさせ、軟体のような舌の先端を、塗装の剥げかかり赤銅色しゃくどうしょくき剥きな箇所へとだしぬけにそして直線的に這いつくばらせる。途端に口内を充溢じゅういつする残響の絶佳ぜっかに恍惚としていたがその名称ゆえかしばらくして知らない人間のペニスを嘗め上げている気分になったので作業を中断し、鉄錆の味を口内に浸食しんしょくさせる唾をあらぬ方向へと吐き棄てて軽くえずいてから纏った油分に滑る掌で用心しいしい、勃然ぼつぜんたるペニスよろしく天界へとそそり立つ淫猥のバベルの塔から三十秒かけて汚れきったこの地上に降り立った、天使のように、と食い散らかしのような神話的イメージを混在させ編みだした乱脈らんみゃくきわまる淫喩いんゆにしばし自己陶酔していたが省みれば無職が金属を嘗め上げただけであって再考するにとても恥ずかしい。出家したいほどに。出家し禿頭とくとう会得えとくし悟りを開闢かいびゃくしながら滝に打擲ちょうちゃくされつつけんちん汁を貪食どんしょくしたいほどに。

「あれからもう、30年も経つのか……」不如意ふにょいの休日出勤に際して電車に乗っていると、そんな書割かきわりめいた言葉が口をついて出て、おもわず苦笑した。あの時はまさか本当に出家するとは思ってもみなかった、と後年思うとあの時は思っていたが予想に反して出家はせず再就職した結果としての今があるのだと思うと、あの時はまさか再就職するとは思ってもみなかったというのが正確であろうと思うと同時に思うのは、日曜日の通勤電車の車内というのは一種異様な空間であって、というのも平時ならばこの時間帯は、濃淡だけ異なりほとんど同じ色合いのスーツを着込み、河原のセイタカアワダチソウのように群棲ぐんせいする人間が間断なくひしめいて、深更しんこうのカムチャッカ半島沖にて截然せつぜんたるあおぐろ波濤はとうに航行するマグロ漁船の船内顔負けの様態ようたいを呈するのだが、問題はそんなことではなく、というか、そのような様態は日本全国でソマリアの内戦のように日夜あけっぴろげに勃発しており元来がんらい何一つ問題ではない、ということにいつかしら相成あいなっておるゆえ隅に置くにしても、アルミ材の床を「ギャアアアアァッ!」「ワアアアアァッ!」と奇声を発し疾駆しっくする餓鬼共を扈従こしょうする家族連れの存在を、気にしまいと思っても気にせざるをえないのであった。《あの連中にも全員、スーツを着用させるべきだと思うんだ……》そんなことを一昨日久しぶりに顔を合わせた中学校の同級生の田村に、麦酒ビールを咽頭に流し込みながら語ったものだ。《交通機関を利用するな、自宅に自分らをセルフ軟禁してDVDでも観てろ、なんていいたいわけじゃない…… でもわたしは、ふだんはミチミチに密集して蜂の子のようになってる同胞たちがまばらにちらばって、普段より空いているからきっと座れる、そう思っていきおい飛び込んでみたら絶妙な加減で全席埋まっていて、結局いつもと同じく立つ羽目になって、途中駅で開扉かいひされるたびに自分の周囲の座席から誰かしら降車しないか願いつつ、暇すぎるので仕方なく、という感じで、愚にもつかない週刊誌の惹句じゃっくを横目で黙読もくどくしているすがたを見ていると、とてもやりきれないんだ…… もちろん、あくまで折衷案せっちゅうあんとしての提唱だけれど…… ただやはり、彼奴等きゃつらとわれわれの受益の均衡をベターなかたちで取るには、そういう方向にいかざるをえないと思うんだ…… ああ! 公休日にこそスーツを着用しないと、日比谷公園でギロチンに処す、そんな文言もんごんが日本国憲法に盛り込まれていたらなあ!》そんなことを言っていると隣席に座っていたヘドロのようなハゲジジイ集団の一人が《韓国のテレビに乗っ取られちゃうんだよお!》などと絶叫しているのが店内の種々しゅしゅの会話の混線をきれいに通り抜けて耳に入ったので、おそらく脳内にあるテレビの放送権が韓国のテレビ局に奪取だっしゅされるとでもいいたいのだろう、病院に行っては如何かしら? という感想を心に浮かべてなにやら悟った気分で、なにも悟ってなどいないが小皿に取ったシーザーサラダを箸で食べていると、グラスの縁に唇をつけるでもなく煙草をっていた田村は、《たしかに、それも一理あるな。というか、じつはうちの若手の一人も似たようなこと言ってたんだ》と灰皿に吸い殻を押しつけて言った。《へえ……》《うん、いわゆる休日出勤で何がいちばん辛いかって、訊いたことがあった、もちろん、酒の席で。そしたらそいつは、辛いのは仕事をしているあいだではなく、むしろ出勤時か、帰宅したあとだというんだ。とくにレジャー道具を携えた微笑ましい家族連れに逢着ほうちゃくしてしまったときと、帰宅後入浴等の些事を済ませ、分別ふんべつなく酷使される肉体に懺悔ざんげするような気分でチューハイのプルタブを開けながら、なんとはなしにテレビをつけてみたらサザエさんが放映されていて、しかも本編はとうに終わっていて流れているのはエンディング、《サザエさーんっわっゆっかあいだなあああ》などと誰ぞが熱唱するなか、ウサギ小屋みたいな、違法建築の臭いがする我が家へ過剰な緩急をつけて突撃するいつもの一家の影絵を観たときが、一等いっとう辛い、そう言っていた。おれは悲しくなったよ。というのも、そのとき悟ったわけだな、これがすなわち、おれたちの休日出勤の本質なのじゃないか?》《?》《ひとが孤独であるのは、孤独であるときじゃない。妙な言い方だけど、孤独でないがゆえに孤独であるとき、ひとはほんとうに孤独なんだ。わかるだろう? もし日曜日に、いつも乗るのと同じ時間帯に走る電車に飛び乗ったとして、車内に誰もいなかったら、寂々じゃくじゃくとするより先に、解放感からおもわず伸びをして、座席にゴロンと横たわり、しかし冷静に考えれば異常な事態だから、しばらくして立ち上がり、次の停車駅で降りて、後続の電車を待とうという算段から車窓を見遣れば、ちょうど本来の停車駅を通過しているところ、まさかと思いつつ気づけば次の駅も次の次の駅も通過、当然の帰結として電車そのものがひたすら加速しまくっているとすれば、寂しさを云々している場合じゃなくて、どうにかして先頭車両に辿り着き、早急にブレーキを利かせるよう、運転手を説得するべきだし、あるいは、帰宅したら自宅がアンドロメダ星雲人の基地に改造されていたとすれば、寂しいとかほざいている場合じゃなくて、あきらかに侵略行為だから、まず警察に通報して、自衛隊に通報して、それから内閣にも通報して、証拠隠滅されると困るから大手新聞社とキー局にも通報して、アメリカは確実に何かを知ってるからホワイトハウスにも通報して、駄目押しに国際連合にも通報して、それから玄関を開けて、中にいる星雲人どもに、ヒ素入りコーヒーでもれるべきだ。そうじゃないか? 孤独の深淵しんてんに際してひとは、孤独より重大なものを、感じざるをえないんだ。生命の危機とか、地球の危機とか。これは非常に巧妙な逆説だ》《なるほど》そう言ってシーザーサラダをおかわりすると、田村は《孤独というのは激甚げきじんでなく、むしろ中庸ちゅうようでありえるんだ。つねに、存在論的に…… でも、たとえばときにヒ素よりもヘロインこそが、つまり、その中毒性という観点から、かえって薬物として激甚でないかと想像しうるように、中庸こそが激甚でありえる、孤独とはそういうものじゃないか? とこういう主張をさっき言った若手にしてみたんだけど、マジ意味わかんないし話が長いと醒めきった眼で言われて、爾来じらい社内でも無視されて、おれは今とても孤独なんだ》と言った。《そうか……》そう答えてから軟骨の唐揚げと揚げ出し豆腐と羽根つき餃子、ぼんじりとねぎまとレバーと鳥皮と砂肝と銀杏をタレで注文し、それを受けて《かしこまりましあぁッ》と絶叫した店員が橙色とうしょく照射しょうしゃされる通路を去るのを一瞥いちべつし、口を開く。《まあ、たぶん何かしら仕事に関して有用なことを拝聴できると思っていたら、意味のわからない説教をされて、したくもない付き合いをしたのに完全な徒労だった、そんな風に思っているのかもしれないな…… タムタムにとっては、ひどい話であるかもしれないけど…… ただ今の話を聞いていると経験論的には、タムタムはそれでもけっこう、めぐまれてるほうだと思えなくもないんだ……》《そうか……》《うん…… まあ、はっきり言って、雁首がんくびそろえて飲み会その他に代表される社外での付き合いが、異常に悪いからなあ、うちのところは…… こっちもべつに、社外でまで社内の人間と付き合いたくないし、割り切りはいいのかもしれないけれど…… それに、付き合いたいとか付き合いたくないとかじゃなく、今いる会社にいつまでもいられるとは、はじめから考えていないのかもしれない…… かれらの世代になってくると、まあ、よくわからないけれど、クローズアップ現代によると、新卒という築地のピチピチマグロのような特権的身分を駆使してやっとこさ入社した数年後、リストラクチャリングの憂き目に逢着する、もしくは会社そのものの倒産によるIt's automaticな失職という壊滅的ハプニングの想定も冗談にならなくなっているようだし、というか、会社以前に日本国そのものが倒産するかもしれないし、そうなったらおれも大変だけど、彼らのほうがやはり輪を架けて大変だろうけど、思い直すに歳食ってるだけわたしのほうが大変なんだろうな、資格っていっても英検準一級しかないし、あと駅弁検定三級はあるけれど…… だからもしものことを考えると、わたしは今とても孤独なんだ》《そうか……》《ああ……》《生きとし生けるものにとり、孤独は宿痾しゅくあなのか……》《ああ……》《話は替わるが、雅夫まさおもやはり、そんな孤独野郎の一匹だったんだ。といっても雅夫はおれたちみたいな会社員じゃなく、アニメーション関係の専門学校生で、将来はなんか、まあとにかくアニメーション関係の職業に従事したいらしかった。というか、アニメーション関係の専門学校に入ってきた人間がアニメは観ないし観たくないし宮崎駿は老衰で死ねばいいと常日頃思っている可能性が万に一つもあるか? あるとすればそいつは屹度きっと、おれの近所のスーパーマーケットでお惣菜として販売されているヒレカツが売れ残ったチャーシューを輪切りにして衣をつけて揚げたものであるような致命的偽装であり、しかし衣つきのチャーシューが美味しいのにひきかえ雅夫の場合は自分自身の人生へののっぴきらない偽装という、脳味噌が馬糞で出来ているとしか思えない愚行だから可及的かきゅうてき迅速に退学し新たな道を歩んでいただきたい所存であるにしても、話は替わるが雅夫の夢とは如何なるものか? むろん夢といっても深夜の雨の街路がいろで電話ボックスに土下座する夢とか実家がジェットスキーに改造される夢とかシベリア超特急にミュータントタートルズと同乗する夢ではなくて、深更しんこうのカムチャッカ半島沖にて截然たる黝い波濤に航行するマグロ漁船が見出す岬の灯台の燦然さんぜんたる光明がごとき夢を将来に見出しえるか甚だ疑問であることよ、と雅夫は隣席に鎮座する仏像のような顔をした行夫ゆきおの横顔を睥睨へいげいしつつ悪罵あくばを口内に呟きつつ思うのだった、膝の上に抱えたリュックサックのチャックを開けて右手を突っ込み、詰め込んだ納豆のパックの感触を確かめてその口角へ微笑を、尿意のごとく催して。というか尿意本体も催しており決壊寸前、真に憂慮ゆうりょすべきは夢でなく二秒後の己の醜態、麦色の湯煙と異常な臭気に股間のジーンズの生地を湿らせたる近未来予想図であって、長距離バスの車両にも関わらずの洗面所の故障という信じがたいハプニングにクソ会社潰れろと小学生並みの呪詛を漏らしつつ尿は漏らさず漏らしそうで、漏らす寸前で歯を食いしばり、顔を上げふと眼前がんぜんに見出したるは、先程立ち寄った休憩所にて購入し早々に飲み干した特濃エスプレッソの空き容器である半透明なプラスチックのコップ、スーパービッグサイズであり、その瞬間赫灼かくしゃくたる着想アイデアの脳内に閃くに至り、テーブルに設置された、飲み物を統御するためのプラスチックの輪っかからコップを取り出し、隣席の行夫が眠りこけて嗚咽のようないびきを小便のように始終垂れ流すのを横目で確認してから、ジーンズのチャックを下げて座席の上で臀部でんぶ蠕動ぜんどうさせつつテーブルで上からの覗き見を防御した状態で、空気の全く入っていない風船のような形状の性器を引っぱりだし、先端にコップを宛がい、小便を垂れ流す。と、奔放不羈ほんぽうふきに暴発した軌道の一筋がジーンズのももにかかり絶大な焦慮しょうりょに駆られたが、つまんだ指先でどうにか修整を済ませ、一息つきたいところであったがそれは出来ず、あくまで少量ずつ、一定のペースを心がけ引っ張り出したテーブル越しに頸をかしいでコップの残量を確認しつつ用を足しつづけるも、聖水の爆散は収束の気配を見せず、目算もくさんの甘さが災いしたか、しだいに膀胱の残尿感とスーパービッグの容量とに取り返しのつかぬ径庭けいていが生じてき、横溢おういつ氾濫はんらんの危機がにわかに頭をよぎるものであるが、それを押し退けて雅夫の脳味噌を占領したのは、麦酒と小便の色は何ぞこれほど似かようておるのか、と高校時代、異常に古文の成績がよく、家で蹴鞠けまりとかしてそうと級友に真顔で言われた雅夫ならではのエセ古語による自問自答であり、はじめて麦酒を奢ってもらい、もんじゃ焼きを奢ってもらい、通っている学校が同じというだけの初対面の人間に対する唐突な親愛の情が湧出した行夫との邂逅かいこうであったが、その際の《それで折り入って三輪くんにちょっと、頼みたいことあるんだけど、いい?》という甘言かんげんにほろ酔い気分で首肯しゅこうした追悔ついかいもまた脳味噌を統御するのであって、たいへん苦痛であるがとにかくその時は《あーうんいいよお》と言ってしまったものである、というようなことである。《あ、マジで?》《うん、マジで、もう、超いいから、マジで、あー》《うん》何事かを確認するがごとく、あるいは脳内に小人が棲息せいそくしておりそいつと打ち合わせするがごとく行夫は頷いてからグラスに口をつけた。《三輪くんて今バイトやってたっけ》《いや、やってない、っつうか辞めた! っつうか辞めさせられた!》《ふーん》《西口んとこのミニストップでバイトしてたんだけど、マジ店長と口論しちゃったわー、マジ》口論になった理由が話のメインなのだが、意識がそこまでいかなかったのかきれいに省略してしまい、もう一度話し直そうと思い記憶をまさぐったが何も出てこないので、諦めて《マジで辞めてる。マジで今、フリー。バイトも彼女も、絶賛募集中っ! イエェェェイッ!》と、絶叫したのである。ほかにも騒然たる団体客があまたひしめいており店員や周りの人に怒られはしなかったが、対面に座する話し相手はとくに反応を示さず、しかも元来、自分はかかる戯言なぞ口走るような性分でなかったのに口走ってしまい、しかも行夫は沈黙しているしで、店内に流れる有線の音楽がよく響いて、再考さいこうするまでもなくとても恥ずかしい。恥ずかしくなった雅夫が《まあ、だから、うん、まあ》とかなんとか言ってアスパラのベーコン巻きの串刺しを食べながら《ウメーッ!》とふたたび絶叫し恥ずかしさをごまかしていると、《あのさ、三輪くん今バイトやる気ってある?》と行夫が言った。《あるある、あるある、あるある探検隊、ハイッ!》《は?》《は、え、……いや、なんでも……》《それ誰だっけ?》《は?》《そのさあ、その『あるある探検隊!』のネタやってたのってさー、紳助の番組に出ててさー、宮古島でなんか、農作業してた》《レギュラーじゃね?》《あーはいはいはい!》《今何やってんのかなーあの人たち》《いやあ移住したんじゃないの》《宮古島?》《うん、引退して》《あーでも、そのほうがいいのかなー》《現地で営業とかやってたほうが儲かりそうじゃん》《んーまあね》《ていうか何の話だったっけ》《いやいやお前が話し始めたんじゃん!》《あーうん、で、だからさあ、ちょっとバイトする気ない? みたいなそういう話》《はー? うーん、まあ、いいけどさあ、えー何、畑内はたないくんのとこで?》《いや、ちがくて、なんていうの?んーまあ、俺んとこっちゃ俺んとこなんだけど》《つーかちゃんと教えろ! みたいなー》歯切れの悪い言葉に詰問すると、《なんかさあ、俺今ちょっと、なんていうの、サークル? 組んでて》《え、学校で?》《いや違くて、個人的にブログでそういうのやってるんだけど》《へー!》《やってるっていうか、同じ趣味の人の集まりん中で、自然にリーダーみたいになっちゃって》《おおっスゲー!》《で、その趣味っていうのが、なんつうのかな、まあとりあえず〈いない人をしのぶ会〉っていう名前で》《え?》《〈いない人を偲ぶ会〉》五、六秒お互いに沈黙を分かち、まず雅夫が《それ、具体的に何やんの?》と訊くが、訊いたのを聞いていなかったのか行夫は《そのなんていうの、いちおう〈偲ぶ会〉って内部では略してんだけど》と補足的な説明を行うのに、雅夫は動転して思わず吃音&リピート。《し、しのぶかい》《いや、俺が呼び始めたんじゃなくて、後藤さんがそう呼び始めた、あ、後藤さんてのは俺の先代の〈偲び主〉だったんだけど》《そうなんだ、その、後藤さんが》《うん、なんだっけ、〈忍ぶ川〉って有名な小説のパロディっつうか、なぞらえて、っつうか、そういうことらしい》《へえ。あ、それ誰の小説?》《知らね、有名な人らしいけど》《ふーん、で、具体的に何やってんの?》《え? あー、説明が難しいな、ちょっと》しばし歯軋りに似た唸り声をあげるわけでもないが、背を丸め、黙考していた行夫だったがとうとう口を開き、曰く《たとえばさー、そのサークル内で、ピクニックとかに行くとするじゃん》《うん》《で、最初はみんなで普通に楽しむんだけど、少ししてから一人目が〈今日土谷さん来れなくて残念だったね〉って言うわけ、いや、行く前に言う係の人を決めるんだけど。で、そしたら二人目が〈うん土谷さんね〉とか言って三人目が〈土谷さん仕事忙しいからねー〉とか言うのね、で、そうすると少しの間、場の話も土谷さんが中心になるじゃん〈土谷さんってお仕事何されてるんだっけ〉〈あーなんか予備校の講師?〉〈何処?〉〈何処だっけ、名前は聞いたことあるんだけど、結構有名なとこじゃなかったかな、CMやってるとこ〉〈ふーん〉〈まあなんか、あれはあれで結構肉体労働みたいだし、本人は好きそうだけどねー、夏期講習の時期とか生徒も一日中なら講師も一日中だから、しかも一ヶ月半ぐらい毎年そんなんらしいし、大変だよねー〉〈ねー〉みたいな感じで、みんなで手弁当のサンドイッチや五目いなりをパクつきながら、そういう話をするわけ。土谷さんなんて人間この世にいないんだけど》そこまで言って行夫は焼けてきたもんじゃを小皿に取り《今言ったのはあくまで一例だけど、まあそういうことだよな、つまり、本来いないはずの人間を想定して、その人が何かの集まりに来れなくて、そういう状況でその人についての話をするっていう、そういう活動をしてるんだけど》と、もんじゃをパクつきながら語る行夫を、いったい雅夫はどういう目つきで眺めればよかったのか? 雅夫自身にもわからなかったが、かといって席を立つわけにもいかず、しかし訊きたいことはそれなりにあって、かといって礼を失するわけにもいかず、《……それって楽しいの?》と小さな声で尋ねるのが精一杯の頑張りだったが《楽しいよ》と当然ですが? 的な言外げんがいのニュアンスを添付した澱みなき返答に促されつい、《え、ていうか何が楽しいの?》と問いをかさねてしまう。《何が、っていうか、なんか、架空の人のことをみんなで考えるってことじたいが不思議じゃね? 楽しいかって訊かれると困るけど、その人は存在しないのに、俺らが話で盛り上がってるときだけは存在するっていうか、だって仮に全然関係ない人があの場に混ざってたらマジ断言するけど土谷さんが予備校講師してて仕事忙しくて来れなかったって100%信じるよマジ》《いや、ああ、うん》《でバイトの話なんだけど、実は今度趣向を変えて実験的に、その場にいる人間を〈偲ぶ〉っていう企画をやろうと思ってるわけ。でもそれを内部の人間でやると、ていうかやってはみたんだけど、もう、お互いの顔と名前とだいたいの趣味を知ってる間柄だから、いまいちノれないっていうか、〈偲び〉に緊張感が生まれないっていうか。んでとりあえず、メンバーの知り合いを見つけてその人に頼むかたちで行こうみたいな話に先週の〈偲び〉で、っつうかその〈偲び〉はこの店でやったんだけど》《え?》転倒したいきおいで道端の犬の糞に顔を突っ込んでしまった、そんなばつの悪さをおぼえ、《えー、そうなんだ。マジで》と返答すると行夫は《うん》と頷き、《そのときは、その、本物の、普通の意味での〈偲び〉だったけど、その、先代の》《あ、……後藤さん、だっけ》《うん、まあ、借金があったらしくて、失踪っていうか、どっかで生きてるとは思うけど》そこまで言ってから行夫は溜息をついてカルピスサワーを呑み干し、通りかかった店員に《あーすんませんおかわり》と言った。承った店員が《かしこまりましあぁッ》と絶叫し立ち去るとふたたび開口、一転して軽やかな声色で《んでさー、はっきり言うと俺がいっちゃん期待されてるっぽいわけ、お前どうせ暇してるアホ学生なんだから友達とかに頼めよ俺ら社会人だしお互いの仕事の都合があるんだよこの野郎みたいな。ぶっちゃけ〈偲び主〉の役職も押し付けられたっていうかみんな忙しいから俺がやることになったっていうか、そんな感じだし、だからマジで頼むって! こんなことやってるとか友達に話したら多分引かれるし、三輪くんだったら〈いいし! オッケー! イエェェェイッ!〉ぐらい言ってくれそうじゃん? みたいな》《え、じゃあいくら?》《じゃあ日当二万で》《やります》一問一答のような口約束にもかかわらず、近頃困窮をきわめ貧寒たる懐事情であった雅夫は〈イエェェェイッ!〉と心中にて絶叫し、これを皮切りに粛々しゅくしゅくと取り次ぎが済まされるなか日々は加速、あっという間の二週間であることであったよ。

 鞠躬如きっきゅうじょとして集合場所へと参上仕さんじょうつかまつった雅夫は、行夫に先導され高速バスへ乗り込み、通路を遮断する補助席にて暫時ざんじ呆然としたのち夢寐むびること三時間、誰も起こしてくれなかったが自然に目が覚め降り立ったのは、昔日せきじつわが国の百名山に選出されて久しいという峰々みねみね山麓さんろくにある山村であり、先導者を数えて総勢七名、斎藤さん(男)、飯田さん(女)、織ヶ内さん(男)、松川さん(女)、頚城さん(男)、白田さん(いい女)、それと行夫の一向、そして〈偲ばれし者〉雅夫がその後尾こうびを忍び足でストーキング、という編成で、はじめに集落の中心地に設置されたコープへ出向き、缶詰、乾パン等の非常食を購入したのち、色彩豊饒しきさいほうじょうたる各々のリュックサックに詰め込み、ズックの紐をふたたび固くむすんでいよいよ準備完了、という段になって手始めの攻勢をしかけてきたのはやはり行夫であり、《雅夫も来れば良かったのになあ》と登りもしていない段階でいくぶん台詞めいた台詞を誰にともなく呟いたがこの程度で動じる雅夫でなく、また他の諸員しょいんも時期尚早とにらんだか、完全に無視することでその詠歎えいたんを胸中の悲愴ひそうが膜をやぶり横溢した結果としての独語どくごということにして、《じゃあ行きましょうか》と年上のお姉さんのような素振りの年増の飯田さんの宣言に、皆々みなみなあくまで行楽を楽しむというていで、山道の入口を泰然として登りはじめた次第である。長らく茫漠ぼうばくたる氷原ひょうげんに土を閉ざした冬も終了、日脚伸ひあしの燦々さんさんたる陽気に澄明ちょうめいなる沢のせせらぎが遠近おちこちから聞こえてきて、世間は春休みであるし、学校も春休みであるし、今日をやり過ごせば諭吉が手中に落ちるとあらば、いったい誰が揚々とせずにいられよう? そんなルンルン気分で足を前方へ絶えず動かし最後尾を行く白田さんの尻を追うのであるが、それにしてもいい尻で、諭吉云々がご破算になろうともこの尻と交際出来れば、資本主義には代替だいたいしえぬ珠玉しゅぎょくを手中に収めたことになろうから、それはそれでよろしおますなあ、うふっ、そんな虚妄きょもうを発症して、チェーホフが壁に掛けた拳銃よろしく暴発寸前、遊星からの淫獣Xと化した雅夫であったが、いっぽうで青やかな木々の繁茂し鬱蒼うっそうとして森閑たる山裾やますその勾配をくねくね蛇行しつつ登坂とはんしていくにつれて、〈偲ぶ会〉の成員が本性をあらわしつつあるのに気付かぬ愚昧ぐまいではなかったのである。というのも道中、一時間ほど登った地点で、同行していないことになっている雅夫の存在を想起したのは、意外にも先頭に立ち黙々と歩を進めていた斎藤さんで、てっきり行夫が音頭を取ると思い込んでいたので、不意を突かれるかたちとなったのであるが、しかしかえってそれがよかった、《行夫くんが言ってた雅夫くんって》という言葉がこぼれ出た瞬間こそは、慄然りつぜんとして身を引き締める好機であったから。さァ、何をぬかすか。身構えつつ、しかし眼光だけはしゃぶりつくすように尻を凝視していたのだが、斎藤さんはおもむろに、《行夫くんと名前似てるよね》と至極しごくどうでもいい贅言ぜいげんを放ってしまい、さながら会話は動機のない身投げのさまを呈し、とうぜん後追い自殺に発奮はっぷんする馬鹿者など存在せず、あわや話はお流れ、《ところで》による話柄わへいと話者の転換に見舞われること確実、とひそかに口角を持ち上げ微笑し、しゃぶりつくすように尻を凝視する雅夫にとっては青天の霹靂へきれき、予想だにせぬ事態が勃発した。すなわち、行夫が《あー確かに似てますね》と、斎藤さんの身投げを果敢にもキャッチ、それに便乗した松川さんが《え、まさか兄弟?》と発言、二秒後に一同の爆笑という集団無理心中からの奇跡の生還が起こりたるに雅夫は焦燥を隠せず、むろん、何を喋るわけにもいかないのはおろか、呻き声を立てることすらかなわないのであるが…… すなわち、もんじゃ屋での非正規雇用契約から経つこと三日、携帯電話のメールアドレスに送られてきた彼奴等の活動に関する子細しさい約定やくていとして、以下のような文言が記されていたのである→《A, 〈偲び〉は非=存在である〈偲ばれし者〉と、さる者を現実世界において存在せしめる〈偲びし者〉たち相互の、見えざる友愛ゆうあいによってはじめてなされる、荘厳たる宏図こうとであり、祈念きねんである。その紊乱ぶんらんをふせぐため、〈偲ばれし者〉と〈偲びし者〉同士の会話、接触、および存在の意識は、ここに禁ずる》昼過ぎのパチンコ店にてCR聖戦士星矢セイントセイヤの前に座った状態でそのメールを一笑いっしょうに付したにしても、バス車内にて盗聴したところ、平生へいぜいより登山を趣味とし、現に一人だけ新品のレッキングシューズを履き、あからさまに巨大なザックには雨天に備えてかビニール袋のようなものが被せられて、その中には本日に際して購入したという、車中で自慢していた懐中電灯つき手動式多機能ラジオを収納している最年長の織ヶ内さんまでもが、歩行速度を緩めずサングラス越しに、最後尾にいるという設定を意識してか、わざわざこちらを見遣みやり《行夫くんも言ってたけど、やっぱり雅夫くんも来ればよかったのになあ》と、かかる活動においては定石じょうせきであること間違いなしの台詞を何の容赦もなく嘆息めいて吐き出すにあたっては、まったく笑えない下ネタ濫発らんぱつノヴェルを椅子に緊縛され朗読テープで音声として延々と耳孔じこうに捻じ込まれるがごとき凄絶せいぜつなる不快感をおぼえ、まったく笑えない。しかも仲間が最後尾を一瞥した動作に便乗するかのように、というか便乗して、松川さんと白田さんが同時にこちらを見ながら《でもかえって来れなくてよかったかも、この山けっこう高いし》《うん、今度誘うときはもうちょっと都心に近いとこのほうがいいんじゃないかな》《高尾山とか?》《あそこはちょっと簡単過ぎでしょー、奥秩父はどう?》と眼前の人間を無視して眼前の人間についての談笑をくりひろげる始末であるがそれにしても白田さんの尻はいい尻で、尻しか見ていないので話は聞いていないので、つとめて話を聞き流しつつ、いい尻だなと思うばかりである白田さんの尻は、諸所しょしょが擦れたように褪色たいしょくしているジーンズ越しに下半身の運動に連動し顫動せんどう蠕動ぜんどうしていて、あまりの奥ゆかしきなまめかしさに雅夫は自分が雅夫かジーンズかわからなくなった。もう、ジーンズでいい気がした。貴様はジーンズか? と訊かれたら《うん》と即答しそうだった。《私はジーンズになりたい》澎湃ほうはいとしてみなぎる倒錯した欲望に身悶えていると何でもやれそうな気がして、ふと〈偲びし者〉ども七匹への反撃を思い立つ。もっとも先述したメールには→《B, 同様の理由により、〈偲ばれし者〉の〈偲び〉へのあらゆる介入および阻害は、これを禁ずる》とも書かれていたので、傍目はためには仲良く登山する光景を瓦解がかいさせぬためにも、いかにして彼らとの直接的な接触を回避し、かつその活動に支障を生じせしめるほどの事態を伝播でんぱするか考えてみたが何も思いつかず、甘んじて後手ごてに回り、その会話を全力で聞き流す。《雅夫くんの学校って行夫くんの行ってるとこと同じだよね》《あー、まあそうですね》《へー》《前から知り合いだったの?》《いや、そういうわけじゃないんですけど、最近仲良くなって》《あ、それで登山が趣味だったから今日の集まりに誘った感じか》《うーん、まあ、そういうわけでもないんですけど、まあ、なんとなく》《なるほどなあ》《ゲーム作る学校に行ってるんだっけ》《いや、アニメとか作るとこです》《じゃあトトロみたいな映画やりたいのかな》《いや宮崎駿は嫌いらしくて、老衰で死ねばいいって言ってました》行夫を中心に七匹が会話に興ずる。お前らいったいいつまでその場にいない人間の身の上話にうつつを抜かしておるのか? いや、いないんじゃなくて、いる、のか? とてもややこしい。あまりのややこしさに連中を一列にならべ端から端まで頬を張り倒したい衝動にかられながら、斎藤さんが先程からこちらの様子を伺いたげに視線を送っているのを確認する。そのつど雅夫の非=存在を意識に刻印するように周囲に点在する若木わかぎの青やかな繁り、灰褐色はいかっしょく露岩ろがん、しだいに行路こうろ険阻けんそになるにともない出現する断崖、脚下きゃっか叙景じょけい、あるいは海抜云々メートルと記載された標識などに目を映す。雅夫はそのさまを黙然もくねんと観察しつつ、誰の視線もないタイミングを見計らい、たぶん暇だったのだと思うが、衝動的にズボンのチャックを降ろすと、トランクスの中から蒸れた陰嚢いんのうを取り出し、露出させた。二秒後、斎藤さんがこちらを見た。《ッ》笑った斎藤さんに反応して頚城さんと白田さんまでもがこちらを振り向かんとしたので倉皇そうこうとしてチャックを引き上げる。何かの引きちぎれる感触がして猛烈な痛みが沸き起こったが、そんなことより白田さんの尻はいい尻で、尻を撃ち抜くように尻を見つめながら、雅夫は白田さんがいい女なのか尻なのかわからなくなった。貴様は尻か? と白田さんが訊かれたら本人を押し退けて《うん》と即答しそうだった。《私は尻になりたい》と白田さんが言った気がした。《奇遇ですね、私はジーンズになりたい》《奇遇ですね、私は尻になりたい、と思っていたら、尻になっていました》《奇遇ですね、私はジーンズになりたい、と思っていたら、ある朝起き上がれないと思っていたら腕が消失していて、おかしいと思っていたら毛髪と頭部と頸部けいぶ脚部きゃくぶが消失していて、見せしめとしてメキシカンマフィアに解体された変死体になった気分で、自分がジーンズになってしまった、あなたを包むために。ジーンズの任務とは何か? むろん、下半身、とくに臀部でんぶ抱擁ほうようと相場が決まっておる。すなわち、わたしはおそらくあなたを抱擁せんと、おのれの正常な輪廻を犠牲に捧げてまで、このすがたに生れ変わったのでした、と悟りました》《結婚しましょう》《望むところです》以上の経緯からこの惑星に新たなるアダムとイブが誕生したのは周知の事実であるが、これ嚆矢こうしとする創世記の脳内執筆に雅夫が熱意をふるいつつ膝に力を込め歩くこと三時間、山頂に到着した〈偲ぶ会〉の七匹は《あああッ空気美味しいなあッ!?》などとおそろしく陳腐な台詞を思い思い吐物とぶつのように吐き散らし、さんざんゲロまみれにした荒涼たる地面の平坦な場所にビニールシートを敷き、ほかに誰もいないのをいいことに各々の手弁当ないしコープで買い求めた下痢便のような食餌しょくじを見せびらかすようにひろげて、宗教上の理由で拝跪はいきせねばならぬのか、示し合わせたように仄暗ほのぐら曇天どんてんの立ち込める天象てんしょう眺望ちょうぼうへと身体を向け、桃色の歯茎をき出して、自慰行為にふけるニホンザルのオスが勃起をもてあそぶ手つきで割り箸、プラスチックのスプーン、フォークをぎゅっと握り、餌をパクつく。その後ろでリュックサックの底部ていぶを掻き回し、取り出したる納豆のパックを開け、蓋を二つに割り、糸を引くビニールを丸めてポケットに入れ、セロテープで側面に貼りつけておいた割り箸のビニールを破り、端を持って二本に割ると、割裂かつれつに生じたささくれを指で取り除いてから片手にパックを、もう片手に箸を持った姿勢でその辺をうろつきながら猛然と中身を掻き混ぜる。北大路魯山人によれば、まず素のままで掻き混ぜること約300回、のちタレを投入し120回、最後に浅葱あさぎ、練り芥子からし等の薬味により味を調ととのえるのが、真に納豆を味わう最良の作法であるという。「魯山人納豆」と呼称されあまね江湖こうこに知られる美食家独自の賞味法であるが、そのようなことは雅夫の知るよしもなく、単なる嫌がらせで、というか本当は変な食べ物を持って来て〈偲びし者〉たちの気を引くつもりでいたのだがそんないじらしい努力はかなぐり捨て、三時間かけて三倍に逓増ていぞうした股間の痛覚を山頂まで引き連れてしまった悔恨かいこんもあることだし、強烈な臭気の拡散を目的として、一方でそんな悪意と関係なく非=存在たる己が安易に何処ぞに座り込んでいいものか判断しかねるのもあり、足場の悪い一帯を右往左往し、クチュクチュと音を立て腐った豆を攪拌かくはんしていたが、やはり痛みの根源がいかほどの状態か気になり、地面に容器を置いてからズボンのベルトを緩めて中を覗きこんでみたものの、暗がりに沈んでとくに何も見えず、安易な心境から手を突っ込むと凄まじいヒリヒリ感が背骨を駆け《アヒッ》という声が漏れて、咄嗟とっさに→《C, 同様の理由により、〈偲ばれし者〉は沈思黙考ちんしもっこうに徹すを旨とし、発声および発語は、これを禁ずる》を思い出し血の気が引いたが、歩き回っていたおかげで幸いにして猿どもから相応の距離がありかすかな嗚咽おえつは届きえず、安堵するのもつかの間、てのひらが生温かいでおますなあ、そう感じてちらと見遣れば大量の鮮血がべっとりと付着、するとますます痛みが増幅するようで瞠目どうもくし、下山して現金を頂戴したらその足で病院へ行こう、一刻も早く、などと金に目がくらんだ阿呆な結論を導出どうしゅつしてしまうところからも雅夫が救いようのない阿呆であるという結論が導出されようが、頭だけでなく身体も阿呆なのか、そう結論すると痛みも我慢しうる程度に収まっていくようであるし、きっと大丈夫、と出社時に下痢に罹患りかんした愚者ぐしゃの心理さながら狂的きょうてきな判断を下してしまった雅夫の運命やいかに? 待て次回! そのようなことを雅夫が思う由もなく、ジーンズの硬い布が擦れる激痛をこらえて屈み、岩場に置いた納豆のパックを持ち上げ、足場の悪い一帯を右往左往し、腐った豆を再度クチュクチュと音を立て攪拌すること10分、腐った豆を攪拌すればするほどそれが含有がんゆうするグルタミン酸等の旨味成分が増えるということは知っていたので、いい感じに粘ってきた発泡スチロールの器の中身に、御機嫌で小袋のタレを入れ、さらに掻き混ぜること10分、粘性ねんせいが少し緩み、白糸がタレで茶色く濁ってとても美味しそうになったので、嫌いな芥子は投入せず尻ポケットに入れてからふと、ご飯がないのに気づいた。かつてないほど周章狼狽しゅうしょうろうばいしつつさらなる攪拌を敢行かんこうし現実逃避する雅夫を、弁当を平らげて一息ついた斎藤さんが人間を五、六回射殺いころせる目つきで睨んでいる。《よくもあれほどに蒸された陰部を見せてくれたな!……ああ、汚穢おわい恥辱ちじょくにまみれ、風呂場のシャンプーの容器の底の黒ずんだぬめりのように、指先に触れることすらいとわしい、おれの眼球!……》自分の眼球になど正常な神経をした人間なら触れないが、とにかく潔癖症の斎藤さんがそのようにして憤懣ふんまん充填じゅうてんさせている頃、主食の致命的欠乏にも一人、いかにも憤懣やるかたなしな雅夫はひそかに、〈偲びし者〉の連中七匹を一匹も逃さず睨んでいる。《よくも睾丸こうがんを痛めつけてくれたな!》完全に逆恨みだが、救いようのない阿呆なのでいかんともしがたい。そんな雅夫はともかく、斎藤さんを除く〈偲びし者〉の面々は、大したことのない絶景にも美味しい空気にもうに飽いたとみえ、《ちょっと遊びましょうよ》と用意のいい頚城さんがザックから取り出したフリスビーを見て快哉かいさいを口々に叫ぶと、シートから立ち上がって六人各々が靴を履き、他に誰もいないのをいいことに四方八方に散らばり、しばし笑い声をたかぶらせ、互いが互いに青色の円盤を投げまくる。ついでに《ああ、おれの眼球!》などと相変わらず死にそうになっている残り一人にもみんなは声をかけ、それに応じて立ち上がり、いやなことは忘れよう、と決意した斎藤さんが円陣に加わると、ちょうど隣にいた白田さんの手元を離れた円盤が、いくばくかの二人の距離、およそ七メートルを越えて、タイミングよく斎藤さんに飛んできた。その軌道上に雅夫がいた。唯一の聖餐せいさんを抱えながらうつむいて、このまま食べよう、と決意していた雅夫は、側頭部に向かい飛んできた何がしかの物体の気配に身を屈めた。飛び去ったのを確認して腰を上げ、忍び足で偶然闖入ちんにゅうしてしまった〈偲びし者〉たちの包囲網を突破せんと早足になるのに向けて、雅夫の頭上を通り抜け、手元に飛んできたフリスビーを斎藤さんがキャッチし、すかさず全力で投擲とうてきした。《おふっ!》という生殖行為に隷従れいじゅうするアザラシのような嬌声きょうせいを発しかけたが口は真一文字まいちもんじにむすんで、間一髪でふたたびの飛来ひらいを回避した雅夫が思わず飛んできた方角をいぶかれば、そこには《これ楽しいですねー》と言って下唇を痙攣けいれんさせながら人間を射殺いころすがごとき目つきで睨んでいる斎藤さんがいた。《こいつ、俺を獲る気じゃん。やべえし》焦慮しょうりょに駆られし雅夫は脳裏に以下の文言を想起していたものだ→《A, 〈偲び〉は非=存在である〈偲ばれし者〉と、さる者を現実世界において存在せしめる〈偲びし者〉たち相互の、見えざる友愛ゆうあいによってはじめてなされる、荘厳たる宏図こうとであり、祈念きねんである。その紊乱ぶんらんをふせぐため、〈偲ばれし者〉と〈偲びし者〉同士の会話、接触、および存在の意識は、ここに禁ずる》要するに両者の接触が禁じられている以上、たとえばいずれかがもう一方に物を投げたとして、それの軌道を投げられた方が変えたり、あるいは物自体に触れたりすれば、投げられた方がいなければさる事態は発生しえなかった、そういう観点からそれは間接的接触の成立を意味するものであって、この場合でも向こうが投げてきたフリスビーに万一でも接触すれば、ただちに雅夫は〈偲ばれし者〉としてのアイデンティティたる非=存在性をみずから否定することによる〈偲び〉の弁証法的放棄を図らずも達成してしまうことになりお役御免と相成ってしまうのであるが、なお悪いことには証人が複数いるうえ、その中に日当の約束をした行夫も混じっているから、現今そのような事態が勃発した場合、ただちに諭吉が翼を得て彼方へ飛び去ること確実であり、とはいえ、斎藤もけして安泰あんたいたる優勢に甘んじていられるわけではなく、調子に乗って雅夫へ向けて過度な投擲とうてきをおこなえば、それは明らかに〈偲びし者〉が〈偲ばれし者〉の存在性を肯定する事態であり、たとえ当たったにしても、投擲それじたいが〈偲びし者〉と〈偲ばれし者〉の相互関係の否定→〈偲び〉のシステムそのものの否定→〈偲ぶ会〉という組織そのものの否定→同会からの追放という凋落ちょうらくは免れぬものである。両人りょうじんはこれら相互に異なる危殆きたいを阻止しなければならない。その魂に換えても。

 先手を打ったのは斎藤さんで、というか、あせらず追いつめれば勝てる戦いなので先に動くのは自明の理だが、それにしても動きすぎであって、《はい飯田さん、はいはいはい!》と手拍子を取りながらブン投げる円盤は飯田さんの脇をすり抜け、追従ついしょうしてすさまじい走力で飯田さんが拾うより先に斎藤さんが飯田さんの脇をすり抜けフリスビーを拾得しゅうとくすると斎藤さんは雅夫以外誰もいない方向に《あああッ空キレイだなあッ!?》と、つまり自分に他意はなくただ象牙のような単色に染まるこの曇り空にわが供物くもつを捧げたいだけなのだと弁疏べんそし、雅夫に向かってフリスビーを一閃いっせんする。三度みたび避けた〈偲ばれし者〉を案じたわけでもあるまいが、白田さんがいい尻を振りながら斎藤さんに駆け寄り《あの、ちょっと》と言いながら腕を掴もうとする動作を粗暴に突き飛ばした斎藤さんは異常な速さで夷狄いてきもとへ駆けるも、いかにも遁走とんそうに興じるかと思われた雅夫はおもむろに立ち上がり、一見したところその炯眼けいがんをもってまさに迎撃げいげきせんとするかのようなのだ。世界の天蓋てんがいに最も近い荒蕪地こうぶちにてマカロニウェスタン映画のような古典的図式にのっとり対峙する佐藤さんと雅夫であるが、疾走しながら今にもドライバーで自分の眼球をえぐりそうなほど激越した憤怒に顔面を滅茶苦茶に痙攣させてやまない佐藤さんと対照的に、回避の際に転倒し、美味しく練り上げた粘つく大豆を側頭にぶちまけた雅夫の姿態したい意気阻喪いきそそうたることおびただしく、猛烈に臭いまま今にも泣き出しそうで、というか本当に泣き出して、ようよう亢進こうしんする歔欷きょきに黄土色の薄汚い頬はしとどに濡れ、思わず脚を止めた佐藤さんをふくむ〈偲びし者〉七匹の哀憫あいびん誘致ゆうちしてあまりある有様であるのだがそれはそうと白田さんの尻はいい尻であるのだが、それはそうと雅夫はいつの間にか下半身の着衣を一切合財いっさいがっさい撤去、ジーンズとトランクスは打ち棄てられ、吹きぬけた一陣の颶風ぐふうに醜悪な戦傷せんしょうを冷たく洗われながら身震いして、血塗ちまみれの股間を指差し、嗚咽を漏らしてなお、屹立させているのであった、股間ではなく、全身を。耐えきれなかったらしい。そうして涙のように涎のように小便のように絶えず垂れ流される鮮血こそが、〈偲ぶ会〉の面々への血も涙もない凄惨せいさんな復讐を成し遂げる決意を雅夫にもたらしたというわけだ。もちろん、呼びつけた行夫を逆に先導せんどうする、というか拉致するかたちであの日と同じ路線の同じ便に乗り込み二時間ほど経た現在、前述したように横溢おういつ氾濫はんらんの危機が下半身におとずれていたわけだが、小説だしこういうときはなんとかなる、という楽観に反しなんの手も打てず二秒後、スーパービッグはたやすくブレイクダウン、それどころか長らくの生理現象の抑制がたたって膀胱と性器は完全に壊れ、いきなり斜め45°に勃ち上がった雅夫のサーモスタットが麦色の体液を、前席の背面に設置された荷物を入れるネットへ向けて間歇泉かんけつせんのように噴射、となれば隣席にて眠りこけていた宿敵もさすがに覚醒、身を起こし音源を確認するに逆恨みで己を連れ出した人間が車中にて恥知らずにも全力で放尿、しかし血を多量に滲ませながら一向にまぬ力強さ、水圧など尋常でなく、すぐさま異常を察知、殴り倒すより先に乗客への周知徹底しゅうちてってい肝要かんようと思い至るもその必要なくして、なんとなればすでにあらゆる乗客がその異常に気づかざるをえない、というのも気づけば全員の胸部きょうぶから下は噴射される液体の浸水を被っておる有様で、もちろんたいへん不衛生かつ不快なのだが、恥毛ちもうに守られ痂皮かひのところどころ張り付いて痛痒つうようをもたらしていること疑いえぬ陰嚢を水面に浮揚ふようさす雅夫にも留めるすべはなく、それどころか性器ばかりでなく口蓋こうがい鼻腔びくう耳孔じこう眼窩がんか、肛門、および身体中の毛穴からとめどなくあふれ始めて全自動汚物製造機と化した雅夫は肺に尿が溜まり溺死、やがてバスは内部より沈没し同乗していた行夫も溺死、同乗していた何の関係もない沢井さんも溺死、栗原さんも溺死、戸川さんも溺死、大河原さんも溺死、星野さんも溺死、室津さんも溺死、というぐあいに全自動溺死体製造機と化した溺死した雅夫は死してもなお製造をやめず、さらに許容量を超えてドアの間隙かんげき、圧力に耐えきれず破損したガラス窓等よりあふれ、そのいきおいは倍加ばいかに倍加を繰り返しとどまること知らずして、道路をあふれ市街地をあふれ大地をあふれ母星をあふれる悪疫あくえきの洪水はわが魂におよび、やがて日本列島を沈め、あらゆる島嶼とうしょがなすすべもなく海中へと沈没ちんぼつ、ユーラシア大陸はエベレストを筆頭としたヒマラヤ山脈、アルプス山脈ほか、さながらペニスのように屹立きつりつする峨々ががたる峻峰群しゅんぽうぐんをのぞいてあらゆる地域は沈没、アフリカ大陸、アメリカ大陸もほぼ同様、甚大じんだいなる被害を受けあまたの犠牲者を輩出、生息数を激減させた人類のわずかな生き残りは、古代メソポタミアの遺跡へ楔形くさびがた文字によりのこされし、不老不死を求め彷徨ほうこうする英雄の神への叛逆はんぎゃく、言わずと知れたギルガメシュ叙事詩にたんを発しさまざまに伝播し変奏を重ね遍くひろがったノアの方舟の伝説さながら、悪臭漂う琥珀色こはくいろの海面を漂泊ひょうはくし、今日も今日とて、まだ見ぬ世界の果てを目指す。

《おい、起きろ》そんな声が聞こえたので目を覚ますと斎藤行夫が顔を覗き込んでいた。眠っていたらしい。《着いたぞ、貴様》《黙れ、殺すぞ》そんなやり取りを経て膀胱の決壊寸前を察知、宿敵を突き飛ばしあわてて下車し、付近の青々しいくさむらにて立小便をする。空気の全く入っていない風船のような形状の性器を見つめて、それにしてもと雅夫は思う。自分が死ぬ夢を見るとは、なんと不吉なことよ。ふと、これより開始される合戦かっせんへの不安がぎり、尻を触った。自分で自分に痴漢しているかのようだ。ポケットには芥子の小袋が入っている。

 二人の行方は、誰も知らない(下人のように)。しかしこのあと雅夫が芥子を使用するならば、それは斎藤行夫との決闘におよんで隠匿いんとくさる秘密兵器として眼潰しに使われたであろうこと、また決闘の内容は、山頂にて斎藤行夫が脚下きゃっかの小石を拾い雅夫がパックを開けビニールを取った納豆を持ち、いずれかが相手にそれらを当てれば勝利、しかし前者が無尽蔵に弾丸補給可能であるのに対して、多量に持参しているにしても後者の納豆にはパック単位での限りがあり、かならずしもイーブンな闘いとは思えぬこと、また前述したように、畑中行夫と斎藤行夫の下の名前が同一であり、それがいわば前振りとなったゆえに、雅夫と行夫の名前がピックアップされたことは、この場を借りて御報告させていただいてしかるべきだろう。とはいえ、人は誰しもかげがえのないオンリーワンとしてこの世に生の咆哮ほうこうさえずるをかんがみるに、行夫にいくら似ていようとそれは雅夫でなく、彼等を同一人物と見なすのはトレビの泉とチンパンジーの肛門を物体噴射装置として同一視するに匹敵する愚考ぐこうであり、ところで雅夫とは誰なのか考えていると、誰なのかも判然とせぬ曖昧模糊あいまいもこの究極とでもいうべき架空の人物の創造という不条理の強制を他ならぬ己が享受させられている不条理という二重の不条理とでもいうべき現今の己を取り巻く不条理に激しいムカつきが間歇泉のごとく湧出して、しかしそんな二重の不条理の出火原因が他ならぬ己であるという三重の不条理とでもいうべき現今の己を取り巻く不条理に激しいムカつきが間歇泉のごとく湧出して自分で自分を撲殺ぼくさつしたくなった。そんなムカつきをこめて、ある朝通勤途中に自分への殺害予告として自分の頬を打った。ぺちん、という音がして、セルフ打擲の結果として扉のガラス部分に顔面を奇妙な角度で傾いだ自分が映った。左隣にしつらえられたロングシートの端に座り携帯電話を神経症的に操作しまくる若い女が湾曲わんきょくした金属棒の天井部へ向けて伸長しんちょうする席と扉とを仕切るパーテーション越しに頸部を動かし顔を持ち上げこちらを一瞥する。しかし乗車率八割といった趣の車内において、音が貧相だったためかそれ以外の注視を齎すことはなく、女もまた速やかに眼前がんぜんへ掲げたテクノロジーのちっちゃな鉄塊のモニターへと両眼をねっとりと駆使する対象を戻してしまう。最終的に現出したるは不条理に不条理に不条理を重ねた愚行ぐこうすら一顧いっこだにされぬ四重の不条理という不条理から不条理を引いたら何も残らないような不条理であってしかし人生とはいつも不条理の連続なのだから不条理が不条理に不条理然として不条理するにしてもおびえることなくひるむことなくみんなで立ち向かっていこう、とインスタントヒューマニストに変貌した己に不条理を感じることはないままに視野を通しての悟りのゲリラ的布教を謀略ぼうりゃくするかのように車窓に目を転じた。線路脇に設えられた種々の立て看板が放っておいても嫌がらせのように視界に飛び込んで来る。どこぞの停車駅が近いようだが降車する駅はまだ先なので関係ない。使い倒したティーパックのように出がらし感満載の声音で車掌が関係ない駅名を連呼するのを聞き流す。ところでいつだったか大学受験に際し通学していた予備校の主催する模試にてだったろうか何だったろうか何でもいいが国語の問題を解かされた際にわが国の鉄道ではかならず前述した駅名の連呼に代表される暴力的車内放送の催行さいこうされるにあたってこちらが安眠の静穏せいおんに意識をたゆたうておるときなど不快でたまらないしだいいち何を言うておるのかたいてい聞き取れずに車掌を撲殺したくなるから海外のそれのように思いきっちゃって放送を一切省略しては如何いかがという趣旨の論説文に逢着ほうちゃくしたことがあった気がしないでもないのだが元来車内放送のがために行われるかと問えばそれはひとしく初めて車内に乗り込む者のためであって確かにうるさいし地方の自動放送のないローカル線なぞではそもそもスピーカーの質のしきこといちじるしくて何を仰っておられるか本気で聞き取れず当惑する事態はままあれどここは新参者へのスマートな立ち振る舞いの一つとしての騒音の泰然たいぜんたるしかし決死の看過かんかに徹するが大人の流儀ではなかろうか?》と田村は言った。

「乳首えもんのうた


 乳首テカテカ 乳輪デカデカ

 それがどうした ぼく乳首えもん

 乳首のせかいの ヒトがたロボット

 どんなもんだいぼく 乳首えもん


 チンミョウ ニュウトウ マカチクビ

 チンポコテンガイ シシャボニュウ

 デリヘル ジンソク ナカダシ ムヨウ


 乳首えもん 乳首えもん

 ホンワカパッパ ホンワカパッパ

 乳首えもん

『乳首えもーん乳首たちにいじめられたんだ乳首道具出してよ!』

『しょうがないなあ乳首太くんは、はい、乳首コプター!』

『悪いな乳首太、この乳首三人用なんだ』

『キャーッ、乳首太さんのエッチ!』

『おう乳首太、乳首様の歌を聞け、ボエェー』

アンアンアン とっても大好き 乳首」

 あのあと田村と泥酔してなおカラオケ店に直行した際、二人してデュエットした破廉恥はれんちきわまりない替え歌と寸劇を、どのような操作の末にかまったく覚えていないが録音して携帯電話の着信音として設定したらしく、突如として車内にその内容を、まずいことに音声の設定を「はっきりモード」にしていたので爆音で響かせてしまい、羞恥に堪えかね一旦次の停車駅で電車を降りて、暑気にムッとするホームの空気に全身を暑く抱擁されて、電話してきた人間に殺意をおぼえつつ番号を確認すると部長からで、畏怖いふに震えて折り返し電話したところ、今日は会社に来なくていい、それより最近は上も色々うるさいからもう少し有給使え、でも来週の日曜は会社に来い、そのような御言伝おことづて誠に有難く頂戴いたし、取る暇あったら取ってんだよ殺すぞと相変わらず殺意をおぼえつつ足取りは欣喜雀躍きんきじゃくやくとして、じっさいスキップしながらまもなく到着するという対面の上り電車を待とうとベンチから立ち上がったところ、下腹かふく深奥しんおうに針の刺入しにゅうするような、かすかな痛みを感じた。洗面所へ出向くべきか逡巡しゅんじゅんしたが、帰宅するのみだから気に留める必要もあるまい、それにしてもこの前の田村の話は長大であった……それぐらいに、そのときは、思っていた。

 ――はうっ!?

 数十年前のたまさかの邂逅かいこうをこの期に及んで反芻はんすうするのもどうかと思うが、そしてあれほどまでに揉んでおいて今更なのだが、乳が好きというか、モチモチしていれば何でもよいのだよ、わたしは。中学生の頃は飢饉ききんに耐えかね、大福でマスターベーションを催行さいこうした経験もある。走り出した車内にてそんなことを考えながら若かりし己の痴情を想起していると、ボディブローのような搏撃はくげきが大腸一帯に襲来した。じっさいそれは一箇所を執拗にえぐるような耐え難いにも関わらず慣れ親しんだ痛みで、矛盾した印象に苦笑する額には粘液のような脂汗が滲んで、それが一筋、蟀谷こめかみに垂れてきたのでハンカチで拭こうと思い、ズボンのポケットをまさぐったが何も入っておらず、うっかり持参を忘れたと判断して仕方なく、痛みをごまかすのも兼ねてドアへと寄りかかり円形のガラスの部分に額を押し付けた。海潮かいちょうの退くようにして痛みが和らいで、ひとときの恩寵おんちょうと理解していても、理解していることと安堵に吐息を漏らすことは別であり、帰路をひた走る電車もそれに同調して減速し、途中駅へと停車したのでドアに寄りかかっていた身を除けるも乗り降りはないままに再び発車したとき、このような看板が目に留まったものである→【T沢肛門病院】!? 、【T】、! そんな声を自分で自分の頭に聞いたように思い思わず自分の頭を振り返ってしまうという言葉。病院名称の横にはデフォルメされ簡略化された名無しの人間のイラストレーションが添えられている。頭髪が三本しかないにも関わらず安穏と微笑む馬鹿面に、人はさだめし憫笑びんしょうを禁じ得ぬだろう。もっとも頭髪の本数が漸次ぜんじ減少中であるとか現況げんきょうからして僅少きんしょうであるとかいった過酷な事態には、ある朝、毛髪がすべて万能ねぎと化した信夫さんの苦境くきょうに比すれば毛ほどの艱難辛苦かんなんしんくも見受けられない。皮膚科において目深まぶかに被った黒い帽子をおどろくべき神速しんそくによって取り去った勢いのままに露出した頭頂を胴体にタックルする寸前の体勢で対面に座り込んだ眼つきの異様に柔和にゅうわな初老とおぼしき皮膚科医へとダイレクトに差し向け、ねぎが生えてきたんです、と恥じらいもなく絶叫した心中を察するに痛みあまりある、というのも信夫さんはねぎが嫌いで、ねぎに触るぐらいならチンパンジーの肛門に吸い込まれて死ぬ、そんなアナーキーでパンキッシュな思想を常日頃から渺々びょうびょうたる心中に蟯虫ぎょうちゅうよろしく巣くわせていたほどだったから…… その頭頂部にはひとつの間隙かんげきもないほどに青やかで美味しそうなみずみずしい繁茂はんもが争うがごとく盛んに密生していたわけだが、しかしその密生、浅緑せんりょく壮健そうけんたる繁茂こそが、われわれが宿命的に経験せざるをえない往年の根毛の集団自殺にく恐慌を、世を儚んで清水の舞台から紐無しバンジージャンプを敢行かんこうするには若年じゃくねんに過ぎる信夫さんへと不逞ふていにも献上してみせ、あまつさえまったく唐突な困難と絶望の囲繞という不条理に追い込み、つまり信夫さんの人生に最終的に現出したのは不条理という不条理から不条理を引いたら不条理しか残らないような不条理であってしかし人生とはいつも不条理の連続なのだから不条理が不条理に不条理然として不条理するにしても怯えも怯みもせずにみんなで立ち向かっていこうよ。しかしみんなはともかく信夫さんは立ち向かわなかった。6年間、自宅で24時間籠城ろうじょうした。なんて孤独な戦いだろう? このままでは孤独死まっしぐらだろう? 突然死した信夫さんを誰がとむらうだろう? 誰が火葬の手続きを済ませるだろう? 誰が弔文を読み上げるだろう? 誰が棺を運ぶだろう? 誰が死体に火を放つだろう? 信夫さんは火にくべられ灰になるだろう。灰になった信夫さんはにおやかなねぎ畑の草いきれを散り散りになって飛んで、蝿のようだ。蝿になった無数の信夫さんたちはべとついた俊夫の耳を黒く染めた。耳朶じだに噛みつき、耳孔に潜りこんで、巣穴のように安住した。蝿たちは銀色のはねを持ち、その腰は菜種なたねの搾りかすのような黒色だった。喰いちぎられた左の耳朶が、畑へと落ちた。なめらかな肌色を纏って、動物の脂のように柔らかく、甘い腐臭がにわかに立ち昇る。すぐに蝿が群がるだろう。それはさておき信夫さんは突然死しなかった。6年間、自宅で24時間籠城した。6年間6時に目覚め7時に朝食を摂り8時に死にたくなり9時に買い物に出かけ10時に外出を後悔し11時に冷蔵庫を開け12時にねぎ頭髪をひっつかみ渾身こんしんの力で抜き13時に頭皮の深甚しんじんたる激痛を耐え14時に死にたくなり15時に死にたくなり16時に死にたくなり17時に死にたくなり18時に死にたくなり19時に死にたくなり20時に死にたくなり21時に昼食も夕食も摂っていないことに気づき22時にカロリーメイトを食べて23時に就寝するのを六年間継続した。以下引用する信夫さんの晩年の貴重なインタビューによれば、それは脳味噌が頭骨とうこつの内部で絶えず嘔吐しているような辛い日々だったんだって。

 ――え?

「だから、あるでしょ? ああ、脳が吐いてるな、っていう。口からじゃなくて脳が直接頭の中でゲボ吐いてのたうち回ってるっていうか、わかりづらいかなあ、なんだろうなこう、脳というか眼球の後ろの奥に宿便しゅくべんが立ち往生していて、うまく物事が考えられない感じっていうか」

 ――はあ。

「わからないですよね……」

 ――すみません。何にせよ、頭髪が突然、ねぎになったということで、たいへんに辛い日々を送られたと。

「信じられませんよね(笑)。でも、これが現実なんで、信じていただくしかないですね」

 ――念の為、拝見させていただいてもよろしいでしょうか?(笑)

「いいですよ(笑)そう来ると思ってました。はい」

 ――わっ。

「どうです?」

 ――凄いですね。うーん、美味しそうですけど、嫌いな人にはたまりませんね、これ。

「でしょでしょ!(笑)もうだから、凄いですよね、もう。会社行ってる場合じゃないし、生きてる場合じゃないって、真剣に考えてましたからね、あの時は」

 ――嫌いな食べ物が頭に生えてきた人間は、人類史上、信夫さんが初めてだということですが。

「いやいや、そりゃそうでしょ(笑)。でも、最近は違うな、とも感じてるんです」

 ――え?

「僕みたいな人間って、日本でもけっこう増えてると思うんです。海外では以前からムーヴメントがあって、セレブがこぞってやっていたんだけど、ただここに来て、その潮流がいよいよ高まっている実感はあります。ありますよね?」

 ――そうですか。ところで、料理家として御活躍されている信夫さんですが、具体的にはどのような料理を?

 もちろんねぎ料理だよ。当然である。ではどのようなねぎ料理か? もちろんねぎを使った料理だよ。当然である。ところで先般せんぱん、『遊星からの淫獣X』なるアダルト・ヴィデオを拝見、頭部に性器の接着したエイリアンが、れた女体にょたいにあんなこと、できたらいいこと、あんな夢、こんな夢、いっぱいあるけどそんな夢を実行、そんな内容で、いろいろなことに関してたいへん参考になり申したが、レンタル期限も迫ってきたし、ひさびさに本格的に外出せねばならぬ、まったく、この前に外出してまた外出しなくてはいけないとは気が重いことはなはだしいな、次からはレンタル会社がやたらと宣伝してる、ネットで借りてポストに返却するやつにしよう、しかし、ああいうのは高いのではないか? というか、明日の食費にも困窮こんきゅうする水百姓みずびゃくしょう顔負けの身の上でありながら、なぜあんなものを借りてしまったのか? そのような感慨かんがいに耽りながら蹲踞そんきょの体勢を取り、おととい除草剤を撒いたばかりなのにすっかり元通りな頭上のねぎ畑に手を突っ込む、もちろん、ゴム手袋とガスマスクを装着したうえで……

「ンンンンンンンンンアッ!」

 気合を入れて根こそぎ引っこ抜くと、頭皮に埋没していた根っこがブチブチと不吉な音を立てて地上にあらわれる。頭頂部が熱を持ち、鈍器で殴打されたように痛み、同様の作業を幾度も繰り返しているのに出血の可能性がいつも同様に意識をよぎってしまい、困る。荒々しく息をついて、やはり念のため頭皮を撫でると、ヒリッとした痛痒つうようが指先に静電気のごとくほとばしるも、ぬめるような生温かい感触などなく、おもわず安堵し、さてこれをどうしよう、と眼前にかかげたるは美味しそうな万能ねぎで、しかし信夫さんはそんなもの3秒以上見つめていると失明してしまう、そう信じているので一瞬で眼を逸らし、かねてからボウルに入れて用意しておいた、穀物酢の水面へとダンクシュート、すばやくラップを張り密閉し、その物体Xから素早く飛び退き、距離を置いていつものようにゴム手袋をゴミ箱へダンクシュート、ガスマスクもダンクシュートしたいところだがそのような経済的余裕はないので泣く泣く断念、この世の終わりのような気分で、じっさい八割がた終わっている気もするが、台所に放置したるねぎの酢漬けはさながらプルトニウム爆弾、なんたる愚昧ぐまいかおれは、などと猛烈な後悔に身体を、そして心を焦がしたんだ。

「もちろん僕も、いきなりそんな勇断ゆうだんにおよんだわけじゃないです。初めは引っこ抜きました。頭皮が剥がれて骨が丸見えになったりしないかっていう不安もあって、まあ、不幸中の幸いというか、そんなことにはならなかったんだけど(笑)。でも、抜いたと思って、これで終わりだと思ったら終わりじゃなかった。翌日にはまた元通りになってるんです。それでも諦めきれなくて、3年ぐらい毎日ひっこ抜いてましたね」

 ――毎日?

「毎日です。毎日ゴム手袋を捨ててました(笑)」

 ――(笑)。では、市販の除草剤を試されたのはそのあと?

「いや、さすがにそんなものを頭にぶっかけるのはまずいだろうということで、四年目だったかなあ、ねぎ自体もですが、夏になるとけっこう、虫が寄ってくるんですよね。それが嫌なのもあったんで、とりあえずキンチョールをかけてみたんです。そのときはなんとなく『枯れるんじゃないか』って思ってやったんだけど(笑)、実際、まあ弱りはしましたけど枯れるまでいかなかった。それに頭皮がすごく痛くて、といっても脳味噌がどうこうじゃなくて、とにかく皮が。でもそれ以後、ねぎの発育が悪くなってくれたかっていうと、ぜんぜんそんなことない。まーガックリ来ましたね(笑)画餅がべいに帰すっていうんですか、全部パーで、意味ないじゃんっていう」

 ――つまり、除草剤も無駄だったと?

「無駄じゃなかったら、ここでインタビュー受けてませんよね(笑)そういうことです」

 ――その場合、頭皮に影響はありませんでしたか?

 あったに決まっている。なにゆえ、さる自明じめいの理をいやしく忌憚きたんなしに問う? なんたる阿呆かこやつは、などと猛烈な憤怒ふんぬに身体を、そして心を焦がさんばかりで、信夫さんはつとめて深呼吸し、そのねぎの酢漬けの美味なること、恥も外聞もなくかえりみるにたやすく垂涎すいぜんに至り、阿呆面を眼前の阿呆に露呈ろていしそうになってあわててとどめたが、たしかにこれこそが信夫さんのねぎ料理の起こりとなった事実を信夫さん以外の誰に否定出来るのか。

 ――それで、頭皮は大丈夫だったんでしょうか?(笑)

「いえ、大丈夫ですよ……(笑)、心配しないでください」

 ――つまり、先程の例だと、ねぎの臭味を消したら、美味しかったということでしょうか?

「まあ、だいたいそんなところですね。でもちょっと違ってて、なんていうか、僕はねぎの食感がだめだったんじゃないかな」

 ――というと?

「つまりですね、ねぎって本当、触るのもダメで、だからいつも厳重体勢で扱ってたけれど、それって要するに、あの繊維質に触れるのが嫌だったんだんですよ。だからもう、やけくそで酢漬けにしたものを食べてみたら、これが美味しい、いや、繊維質であることに変わりはないんですが、でもなんていうか、くたっとしてて、今でも夢に出てきますが、初めてねぎを口に入れたときの食感とぜんぜん違うんですね。本当に驚きました」

 ――なるほど。そして、その酢漬けが「信夫さんのねぎ油」の原点になった、ということですか?

「そうです」

 ――申し訳ありませんが、今お手元にお持ちですか? スタッフがスーパーを探しても売ってなかったんですが、写真を掲載しておきたいので。

「ああ、そうですか……まあ、製造し始めたばかりなんで、しょうがないですね。えーっと、あ、これです」

 ――万能ねぎじゃないですね。

「はい。本当はそちらを使いたかったんですが」

 ――頭部の?

「え?」

 ――頭部のねぎを使うつもりだったんですか?

「いえ、違いますけど」

 ――なぜですか?

「だって、不潔じゃないですか、そんなもの……そりゃ、念の為に有機栽培は、してるけど……」

 ――有機栽培?

「え?」

 ――具体的にはどういった意味なのでしょうか?

「え、いや、はあ……その、頭をシャンプーで洗わないとか」

 ――それこそ不潔では?

「何でですか?(笑)いや、だって、シャンプーなんかでねぎを洗ったら、それこそ食べられなくなるじゃないですか」

 ――食べるんですか?

「まあ、自分のものなので」

 ――それを売る、ということは?

「考えなかったですね。いや、考えはしましたけど、でも冷静に考えたらだめですよねそんなの、だから考え直しました」

 ――そうですか。

 嘘だった。じつのところ信夫さんの持参した瓶は中身を入れ替えた贋物がんぶつであり、今朝も刈り込んできたばかりの青臭いそれを、自宅兼製造工場にて粛々しゅくしゅくと辛味油漬けにしてきたばかりであったのだから…… もちろん、「信夫さん家のねぎ油」は売れないどころかじつは市場に乗ることもなかったのであって、すなわち本稿において引用したるこのインタビュー記事も、平生「不倫OLのホントにあった珍S●X大特集!」などと脳が毀損きそんしているとしか思えぬ淫猥惹句じゃっくを中吊り広告に大々的に掲載するたぐいの「週刊SPA!」がごとき淫猥雑誌であり、「ねぎジジイだギャアアアアァッ!」「ねぎくせぇワアアアアァッ!」と恒常的こうじょうてきに奇声を発する近所の小学生に「ねぎジジイ」と呼称され自宅アパートにて四六時中ピンポンダッシュの被害にあう、そんな鬱屈としてやるかたない日常をやり過ごしていたところ、しだいに頭髪だけでなく全身の体毛、肛門に轟々ごうごうと発育する尻毛すらもねぎになったあげく全身がねぎとなり、信夫さんは自分が信夫なのかねぎなのかわからなくなった。享年56。

「別に死んでないんじゃ……」とその痛ましき訃報を【閲覧注意】などとして発信するネットニュースサイトの記事をアイフォンだかアイファンだかで閲覧する老女の、よわいに不相応にも装着したタイトなジーンズは現在摺げられて、そのうえ信じがたいことにそれよりほか下腹部にはなにも身に着けておらず、といっても汗に濡れたシャツはまだ装着しているが、下半身には何も身に着けておらず、恥丘に繁茂する鬱然たる縮毛の漆黒だけが凄まじく汚らしくしらみでも湧いていそうで、しかしそこはかとなく異臭にまぎれて漂う芳香ほうこうは高級アロマオイルのそれであって、この資本社会における彼女の際立きわだった金銭的成功、人生逃げ切りムードを漂わせてあまりあるが、人というのは外面と内面のつねに食い違うものであって、というのも彼女は一時間ほど前から某駅の女性用公衆便所に籠城しているのだが、破裂寸前の腹部の窮状きゅうじょう相反あいはんして一向いっこうに出るものが出ない、という醜さ全開な状況であって、しかしこのような悪辣あくらつたる超越者の姦譎かんけつに膝を折るわたしではないのだ、いままで全国津々浦々日本列島をめぐりエナジーを還元したり与えたり授けたりしてきた私であるのだから宿便がごとき屁でもないんだ、はうっ! んはうっ! んはっ! ふっうっ! そんな規則性ゼロの、これは呪文で便器を呪詛しているのではあるまいかという不吉きわまりない想像を湧出させるに足る異常に平坦かつ熱情が籠り過ぎて暴発しそうな小声で便器に呼び掛けるように念じるように一定の律動りつどうで呟きながら、黒々とした尻毛のふさふさした苺色のは、白百合しらゆりの開かんがごとくが痙攣し便器に向けていまにも喋り出しそうであってこの場合口腔ごときを軽くしりぞけてこそ真のエンターテイナーであり冠履顛倒かんりてんとうはなはだしきことおびただしきことであることよ。そしてとうとう、女の黒い口腔から、、とかすかな嗚咽がこぼれ、和毛にこげの盛んに飛び出すから、ミチミチッと悲しみのあまり人類が破滅しそうな不協和音が悲鳴のようにとどろき、やがてを軽々と凌駕りょうがして暁闇ぎょうあんじみた暗黒の突端が劈頭へきとうを覗かせ、いわおのように力強く硬質で野太いが、ボチョォッ、という音とともに、産み落とされた。

……」

 かつてジークムント・フロイトという自著じちょにおいて人類は幼少期、排便に快感を憶えるであると主張したわけだが実態は幼児のみならず彼女までもが快楽に垂涎すいぜんに至りじみてしばし呆然としていたわけであって、しかしふと意識が覚醒するに、迅速な手つきでトイレットペーパーをカラカラし、一息つくように弛緩の極致きょくちにあるを幾度かぬぐい、ピリッとした痛みがにじむも気に留めずそれを水面に落とし「あれからもう、30年も経つのか……」このように独りごちた彼女は、かつて己のにて姿に目撃されて以後、尋常でないほどにとなり、いよいよ貯金が底を突きたので、失敗したら可及的かきゅうてき迅速にへ出向く算段で手を出したにより、危ない橋を幾度も匍匐前進ほふくぜんしんで横断した結果、を囁かれるまでの総資産を築き上げたのであるがそれにしてもで齢にふさわしくなきことおびただしきことであることよ。とはいえどこぞの馬の骨がこの瞬間に立ち会ったなら、そのようなを享受しえているのは多分に強運によるものでないのか? そのような疑義ぎぎの生じるのもやむなしといったところではあるまいか。なぜならを摺り上げ、! ともはやをどこぞの公園にておっぴろげんと意気揚々いきようようとして個室を出たのはいいが、その便をうっかり滞留たいりゅうさせてしまったものであるから…… しかも、……

 本題に入ろう。赤と黒の記録は、堂々たる二対の原色の塗りたくられた容貌魁偉ようぼうかいいを惜しげもなく誇示する悪夢的戦艦は、土曜ワイド劇場における溺死体のように、世界でいちばん小さな湖面を五分間超然と浮揚しつづけたのち、吐瀉物としゃぶつのごとき軟便を腹部に充填じゅうてんし、女の肢体したいのごとき白亜の聖櫃せいひつへと便意の一斉検挙を求め単独突入したわたしによって発見され、ひしめくがごとく慄然りつぜんとたゆたう聖水混じりの清水の不意の急激な人為的じんいてき氾濫により、果てなき闇へと搬送された。

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赤と黒の記録 忠臣蔵 @alabamashakes

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