牙のある鳥の眼

ゆきさめ

牙のある鳥の瞳

 彼はよく空を見上げている。

 私はよく、それを空から見ている。


 よくある光景である。二人の視線が合うことはそう多くないものの、私や私の同類が空におり、彼や彼の同類が空を見上げているというのはどこにでもある光景だ。なに、珍しいことなど何もない。ただそれだけのことである。

 私らはよく賢いと言われるが、そうでなくとも、自分のことを見ているものの判別は誰にだってつくものではあるまいか。私を見上げるそれが、彼か彼でないかを判別するなど、私が自分を自分と分かっているのと同じくらい容易で当然のことである。


 ぐるりと旋回し、私は彼の頭上に佇む。

 彼は今日もまた鬱屈そうな表情である。


「ああなんていい日だろう。やあ、お前もそう思わないか」


 彼は私と同じように、私と私の同類を見分けているらしい。私の時にしか声をあげない彼。それがどこか嬉しかったからこそ、私は彼の頭上において高々と声をあげてみせるのだった。思えば、彼の同類は私達を個として捉えることは滅多にないのであった。


「まったく、青い空だ」


 青々とした空を背に、ぽつんと飛び回る私はきっと邪魔になっただろう。しかし彼は空を楽しんでいるのではないらしい。そのようなこと、私はよく知っていた。

 だからこそ彼は鬱屈そうなのだ。


 そこは、彼の恐らく寝床ではない住処、窓がびっしりと張り付く背の高い建物だ。

 どこか鼻を突くにおいが漂うその建物の屋上で、彼は今日も同じようなダークグレーの上下に、首元を括るような濃紺の飾りを提げて、柵にもたれて空を仰ぐ。


「青い空に白い雲、とてもいいじゃないか。そしてそこへ舞う黒いお前。なんてすてきなんだろうな。その翼を、俺はとても羨んでいる」


 私の声は届かない。私の小さな声帯は、彼と同じような音を出すのには全く不向きであったのだ。だからこそ、相槌のつもりで一声上げるしかできないのが歯がゆい。

 ゆっくりと降下し、私は彼がいるところから少し離れて、柵の所に足を下す。爪が柵に当たってかちかちと音を立てた。


 ここはとても静かな場所だった。太陽が真上にくる頃、昼下がり、彼はだいたいいつもここにいる。この静かな場所に、いつも同じような格好で、たった一人でここにいる。

 私に会いにきているのではないと分かってはいるが、うれしかった。そうだ、私は彼との会話を、たとえそれが一方的なものであったとしても、楽しみにしていたのだ。


「もちろんお前にはお前の苦労があるんだろうよ、お前にはお前の社会があるもんな。けど、毎日毎日月曜日に怯えて、木曜くらいにはもうどうでもよくなって金曜になってようやく息をついて、土日に絶望して、また一周。そんなことはないだろ? うん?」


 私の方をちらりと見て、彼は疲れたように笑った。

 濁った眼の色、その下はうっすらとだが、はっきりと薄い影が出来てる。


「お前の眼は本当にきれいだな。俺が映ってる」


 彼が小首を傾げて笑うので、私も同じように首を傾げた。

 何が面白いのかは分からないが、彼の笑顔は良かった。


「その眼でいろんなものを見てきたのか? 空の、高いところから、色々と。嫌にならないか? そうでもないのか。俺の見ているものと同じはずなのにな。お前らってみんな不吉の予兆だとか言われるけど、そういうのはどうなんだ? そんなことを好き勝手に言ってるやつらを、その眼はどう見てきたんだ?」


 なあ、と彼は問いかける。


 そういえば、そうか。不吉だとか言われることもあったか。この漆黒の身体と、他の種類に比べて大型であることと、そういうことから言われていたのか。当然生きるため、死肉を食らうこともある、だがたしかにそれは全く「不吉」らしい様子であるだろう。

 しかし事実、私達はそんなつもりなどないのだ。不吉を運ぶことができるのならば、私達にはもっと別の生き方があったに違いない。だが、所詮私達は私達でしかない

 好き勝手言われようと、どうしたこともないのである。


 私の黒い口を開けども、彼に通じる音は、ついには吐き出されなかった。


「賢いお前は、もしかすると俺の言葉が分かるかもしれない。俺は、お前とお前じゃないカラスの判別をつけることくらいしかできないんだ、もうそれくらいしか、出来るって胸を張って言えることは、ないんだよなあ」


 疲れ切ったように掠れた声で言う彼は、そうして屋上を去って行った。

 彼がいなくなったので、私もまた柵から離れ、翼を上下させて舞い上がった。


 三十分から一時間ほど、昼間の間だけ彼は私が飛ぶところに近い位置で、私に語りかける。その時間が、私はたまらなく好きだった。



 さて。


 彼は空を見上げている。私はそれを空から見ている。

 ――はずだった。


 ある昼下がり。私はじりじりと焼けつくコンクリの上に足を下していた。

 彼はもう私を見上げていない。いや、正確に言うのであれば、彼は空を見上げているのだが、その濁った眼が私を映すことはなかったのだ。

 つい、今しがたのことである。

 いつものように同じ時間、彼はそこへやってきて私に声をかけるから、私もまたいつものように柵に足を下して首を傾げていると、疲れ切ったように私に呼びかけた彼は今まで見たこともないような微笑みを見せたのだ。


「俺もお前と同じように空を飛びたい、自由になるんだ。自由はすぐ目の前にあった、お前と同じところに行きたいんだ」


 そう言って私と同じように柵に足を引っ掛けるた、その一瞬きの後。

 彼は私を見上げていて、私は空にぽっかりと浮かぶダークグレーの彼を見ていた。彼は空を見上げ、私は上から彼を見ている、その事実は全くその通りなのだが、そうではない。そうではなかった。


 また一瞬の後、彼は空を見上げ、私はそれを空から見ていた。


 彼の同類が悲鳴を上げている、ざわめいている。人だかりができる。写真を撮るものや、電話をかけるものがいる。彼を中心に少し距離をとって、丸く人垣ができる。私は口を開くが、鋭い音しかでなかった。

 柵から降りて彼のすぐ傍へ立って、そう、そうして、コンクリに足を下しているのだ。彼は動かない、視線を上げるとはるか高いところに私達が語り合った柵が見える。


「カラスだ」「不吉だわ」「うわあ、飛び降り?」「そう言えばこのビル、よくカラスがとまってるって」「さすが不吉、そういうやつだ」「カラスって、本当に死体に群がるんだ」「コイツ自殺?」「えぐい。救急車は?」「写真撮るのやめなよー、やばいって」「死体食うのかな」「友達に写真おくろ」「カラスと死体、すげーマジもんじゃん」


 口々に騒ぎ立てる、私の眼に映る彼以外の人間は、所詮。そういう。


 違うのだ。違うのだ、私は。

 私は。

 彼の傍らで、彼を永遠に喪失した悲しみに暮れているだけなのだ。私の眼にはきれいなものなど何も映っていない、彼の声を聞くことなどこの先二度とないのだから。私は彼を食べるなんてことはしない、不吉を運んだなどということは決してない。決して、ないはずなのだ、私が彼を殺したかのようにいうのはやめてくれ!


 私の口は、やはり、彼の同類に通じる言葉を吐き出すことは、ない。


 彼を、名も知らぬ友人を、永遠に失った哀れな一匹は、四秒半ほどの自由を得た友人を、悼むことしかできなかった。この眼には空の青しか映らないのだ。



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