末路

足立 ちせ

末路


 カーブに差しかかった電車が大きく揺れた。

 僕は前につんのめりながら、つり革を握ってどうにか踏ん張る。右側に立つ彼女も同じように揺れるが、ちょうど鞄を肩にかけ直していたところだった彼女は、ウェーブがかった長い黒髪をふわりと揺らしながら前方へ傾いた。左手はスマホを仕舞おうとコートのポケットに入れられていて、反射的に右手をつり革へ伸ばすが僅かに届かず(これは身長が足りないのではなく、つり革の揺れ幅の目測を誤ったためだ)、中途半端な位置で離された鞄が彼女の右肩から滑り落ちていく。


 僕が思わず腕をとって支えるのと、彼女が足を一歩前に踏み出すのは同時だった。


 ほっと息をつき、重心が戻ったことを確認してから手を離す。彼女は自分より頭一つ分も背の高い僕を見上げ、ありがとうと笑って足をもどした。

「……よかったら、持とうか?」

 手のひらに焼きついた、コート越しでも分かるほどに細い彼女の腕の感触をごまかそうとして、肘から不自然にぶら下がる鞄を指さすが、彼女は首を横に振る。

「ううん、大丈夫」

 ポケットから出して自由になった左手で今度こそ鞄をかけ直した彼女は、もう一度、ありがとう、と言って笑った。


 金曜日の夕暮れ。職場も住む場所も違う彼女と会う機会はめったに無く、事前に予定を入れておかない限り会える日といえば、たまたま彼女が僕の勤務先近くに仕事で来ていたときもしくは、たまたま僕が彼女の勤務先近くに仕事で行くときの帰り道くらいのもので。今日は前者だった。

 桜はとうに散り、日中の気温も徐々に上がってきている季節。新年度が始まった慌ただしさもようやく落ち着いてきた頃だ。年度末からお互い多忙な日々が続いていたため、今日会うのはかなり久々と言ってもいいくらいだった。

 とはいえそんなのはよくあることで、だからといって緊張しているわけではないのだが、なんだか今日は得体のしれない嫌な予感がして、妙に落ち着かなかった。




「昔ね」


 しっかりとつり革を掴んだ彼女は少しの沈黙の後、ぱっちりというよりは少し切れ長な瞳を細めてまっすぐに外を見つめ、話を切り出す。紺色のコートの袖から僅かにのぞくシンプルな銀色の腕時計が、柔らかな夕陽を反射して赫く煌めいた。

「電車とか、バスとか、こういう揺れに逆らおうと必死だったの」

 古い御伽噺の語り部のように滔々と、しかし無感情に。意図したものだろうか、高くも低くもない彼女のその声は決してか細くはなかったが、電車の走行音と近くの女子高生たちの会話にかき消され、耳を澄まさないと聞こえない。帰宅ラッシュの時間帯だが、幸い上り線のため満員というほどではなく、両耳にイヤホンをつけてスマホを見下ろす乗客が大半の車内では、彼女の声が聞こえているのはおそらく僕だけだろう。

 2人分のスペースが無いわけではないのだが、彼女が座る素振りを見せないのでなんとなくそのまま立っていた。

「みんな同じに動くのよ。つり革も、座っている人の頭も、立っている人の体も。みんな同じように。それがすごく、気持ち悪くて、仕方がなくて」

 軍隊の足並みが揃いすぎていることにどこか気味の悪さを感じることに似ているだろうか。分かるような分からないような微妙なところだったが、別に共感を求めているわけでもないだろう、曖昧に頷いて相槌を打った。


 電車がスピードを落として駅を通過していく。向かいのホームに各駅停車が止まっているのを見て、自分が急行に乗っていることを思い出した。

 彼女の視線は、景色をぼんやり眺めているというよりは、どこか一点に定まっているように見えた。しかし目の前を流れて行く景色は彼女からしても散々見慣れているであろう住宅街の夕暮れであり、遠くには高層ビルも見えるがこれといって変わった建物は無い。窓に映っているのは自分と彼女と、反対側に座る乗客くらいのものだ。


「頑張って耐えるの。今こっちに揺れたから次はこっちかな、なんて予測しながら踏ん張って。でも反対側に揺れたら倒れちゃうから、とにかく重心を体の真ん中におくぞ、ってね」

 窓に見える彼女の視線が少しだけ下がる。その口元はわずかに歪んでいて、自嘲するような、どこか諦めたような微笑みだった。

「けど、やっぱりダメだったのよ。多少は人に逆らって揺れることができたけれど、大きな揺れが来ると耐えきれない。みんなと同じタイミングで足が出るの」

 そうつぶやくと、彼女はさらに視線を足元へ落として黙り込んでしまう。その静寂がやけに苦しくて、僕は無自覚の焦りに急かされるように沈黙を破った。

「分かるよ。僕も子供の頃はよくそうやって遊んでた。当時は携帯も持っていなかったし、車内広告を見飽きるともうすることが無くてさ。ちょっとしたゲーム感覚で、バランスを崩したら負けって自分で決めたりして」

 笑いかけるが返事は無い。声が喉につかえてうまく言葉にならない。そうしてまたしばらく重い静寂が流れた後で、気のせいか小さく息をついてこちらを向いた彼女は、ゆっくりと首を横に振って微笑む。



「あなたは、優しい」


 放たれた言葉は、温かな響きでありながらしかし、僕に対する拒絶の宣言のようにも聞こえるものだった。

「倒れそうな私を当たり前に支えようとするくらい、あなたは優しい」

「……倒れそうな彼女を当たり前に支えようとしない彼氏はどうかと思うけど」

 恋人と道を歩くとき、できるなら僕は道路側にいたいし、転びそうになれば支えてあげたい。悲しそうな顔をしているのなら、笑ってもらえるように努力をしたい。彼女は普段あまり人を頼ろうとしないから、せめてそのくらいはカッコつけさせてほしいと思う。

 困惑と少しの非難が入り混じった僕の視線に答えるかわりに、彼女はまた前を向く。まっすぐ前を。

「あなたの紳士性を否定しているわけじゃないわ。これは私の、異常性の話よ」

 確信する。やはりこれは僕に対する拒絶だ。嫌な予感は当たっていたのだ。

 だが僕には拒絶される理由も、彼女が何を言いたいのかも分からなかった。これが何か、彼女の根幹に関わる話なのだろうということは想像することができたが、やっぱり分からなくて、分からないまま、息を吸った。

「でもさ」

 彼女は確かに少し変わっているかもしれない。けれど、異常というには些か不十分のように思う。だって。

「さっきも今も、君はまわりと同じように揺れてるよね」

 ポイントを越えたのだろうか、電車がゴトンと小さく揺れて、つり革を掴む彼女の右手に少し力が入るのが分かる。彼女の奥に見える持ち手のいないつり革と、視界の隅に映る雑誌を読んでいる中年男性の頭と、そして彼女の華奢な体が、同じ幅で揺れて、元に戻る。

 今の彼女からは、揺れに逆らおうという意志すら感じられない。

 彼女は困ったようにまた、なにかを諦めたような、悲しげにも見える微笑みを浮かべて僕を見上げた。


「普通になったのよ、私。他と同じに揺れることを許容できるほどに、私は普通へと堕落した」

 堕落、という単語に違和感を覚えながら応える。

「じゃあ、一体なんの問題があるんだ? 君は今はもう、普通、なんだろ」

 異常という言葉を使うのには躊躇いがあった。それは偏見が生むものだ。ある種の、差別的な言葉だ。それを誰かに対して発する事には抵抗があって、慎重に言葉を選ぶ。

 だが彼女は気にする様子もな無く言う。

「そうね。だから正確には、普通へと堕落した私の元異常性の話。でも、今が過去から成り立っているように、私の過去の異常性は今の私に繋がるのよ」

「その過去があるという時点で、どう足掻いても普通には成りきれない?」

「ええ。水に一滴でも不純物が混ざってしまえば、もう二度と完璧な純水にはもどれないように」

 彼女は比喩表現をよく使う。それは大抵、水とか風とかたんぽぽの綿毛とか、自然のものが多かったけれど、たまに、どこかに忘れてきたスマートフォンとか、食べ終わるころには伸びてしまうラーメンとか、一見比喩なのか分からないものがある。電車の揺れに逆らうことも、何かの比喩だったのかもしれない。なんの比喩かは、分からないけれど。

「純粋のまま生きていられる人間なんていないよ。もしいるとすればそれは無垢な子供か、あるいは錯覚だ」

 それに、と続ける。

「君は堕落だと言うけれど。まわりに合わせることを学ぶことは成長だと、僕は思うよ」

 自分らしくあることと、人と共通の行動をすることは対極じゃない。全くの別物だ。

 僕だって完璧じゃない。譲りたくないものもあれば、まわりに流されることを許容することだってある。

 そうやって社会に適合していくことが成長なのではないだろうか。



「たしかに、完璧な人間なんていない。でもあなたが言っているのは」

 とそこで、彼女は口をつぐむ。僕を見上げて悩むように眉を寄せ、やがてまた姿勢を正して前に向き直った。気を取り直すように一つ呼吸を挟む。

「あなたが言うように、他と同じであることを許容できるようになることを、社会性の成長と言い換えることもできるかもしれない。けれどね、それは同時に、私のアイデンティティの欠落でもあるのよ」

「……つまり君は、変わりたくなかった?」

 しかし彼女は首を横に振る。

「ううん。私は、死にたくなかったの」

 僕には、沈む夕陽の方向をまっすぐに見つめる彼女が本当は何を言いたかったのか、何を考えているのかなど見当もつかなかった。だから、今僕にできる唯一のことは、小さい声ながらも気持ちを込めて、真剣に言葉を伝えることだと思った。

「たとえ君が、自分のアイデンティティの欠落を死と呼んでも、君は君だ。君は今確かにここに生きてる。少なくとも僕は、どんな君でもきっと、好きになっていたし、一緒にいたいと思うよ」


 しばしの沈黙の後、彼女は落ち着いた、柔らかな声で告げる。


「私も、あなたが好き」

 だが、彼女を横から見つめる僕は気づかなかった。彼女の横顔が一瞬歪んだように見えた理由を、勘違いした。

 窓に映るその表情が、切なさと苦しさと愛おしさが入り混じった、痛みを堪えたような笑顔であることに、僕は気づけなくて。

 だから、続いた言葉をすぐには受け入れられなかった。何を言われたのか瞬時に理解できなかった。




「でも、ダメなのよ」


 と、彼女はそう言って、視線を空へと向けた。夜の境目、徐々に藍に侵されていく橙の宙(そら) へ。


「どうしようもなく寂しいの。羽ばたくことしか知らない鳥が神様に翼を捥がれたみたいに、どうしようもなく空が恋しい」

 また、比喩だ。うまく回らない頭に彼女の言葉が渦巻いては消える。

「翼の無い鳥を好きだと言ってくれる地上の誰かがいたとしても、そしてその誰かを鳥も愛することができたとしても。ふとした瞬間に無い翼を羽ばたかせようとしては、飛べない自分に失望する」

 淡々と語られる言葉が僕の胸を掠めていく。まるで棘の生えた煙を掴もうとするかのように、僕には彼女の言葉の実体を捉えることが出来なくて、すり抜けていった後に残るのは痛みを伴った虚しいもどかしさと行き場の無い苛立ちだけだった。


 だが。


「あなたは何も悪くない。あなたはとても優しくて、とても正しい。ただ、それが私には苦しいだけ。本当に、ただそれだけのことなのよ」



 静かに告げられた彼女の言葉で、僕はようやく、理解できたような気がした。



『じゃあ君は、僕にどうしてほしかったんだ』

 だから僕は、喉元までこみ上げたその言葉を音にはせずゆっくりと飲み込んで、言った。

「君の言う『羽ばたく』というのは、何?」

 彼女は考えるように俯くが、そこまで間はあけずに僕を見る。

「空を飛ぶ鳥にとって、羽ばたけないことは何を意味するのかしら」

 僕の問いに彼女は答えず、彼女の問いにも、僕は答えなかった。

 ただ静かに、理解したくなかった疑念が自分の中で確信に変わっていくことを自覚して、悪足掻きみたいに問いを投げかけた。

「鳥はどうして、神様から翼を取り上げられたの?」

 彼女は一度息を詰まらせて、しかし迷いの無い口調で言い切る。

「そんなの決まってる」

 僕を見上げるその表情は、諦めと自信が同居したちぐはぐな笑顔だった。



「鳥は、神様に選ばれなかったのよ」



 もう理解せざるを得なかった。僕らは決して理解し合えない。僕が生きる世界と彼女の生きる世界は、見る世界は、同じようでいて全く違うのだ。

 互いの優しさも、互いの正しさも、互いの苦しみにはなっても救いにはなれない。彼女が言った「ただそれだけ」というのは、きっとそういうことなのだろう。


 そんなの、僕にどうしろって言うんだ。


 彼女も分かっているから、僕に何も望まないのだろう。分かってはいた。でも不満だった。苛立ちを抑えられなかった。

 とても目を合わせることなんてできなくて、視線を前に向けると、そこには思いのほか情けない顔をした僕がいた。逃げるようにさらにその先へと焦点を移す。

 沈みかけの夕陽は既に遠くの高層ビル群に隠れて見えず、つい数分前までの明るさが嘘のように、あたりは濃い翳に支配されつつあった。だがその翳に抗うように、人間が作り出した灯りがぽつりぽつりと世界を彩っている。

 僕は、この景色を綺麗だと思った。昼と闇、光と夜、灯と陰とが入り混じり、複雑に絡み合って輝き燦めくこの世界を。苦しいほどに。痛いほどに。美しいと思った。

 そしてできるなら彼女と笑い合いたかった。同じ景色を眺めながら「綺麗だね」なんて月並みな言葉を並べて。ただ純粋に。そんなありふれた日常を、僕は望んでいる。



 一つ、大きく深呼吸をした。だがもしかするとそれはため息なのかもしれなかった。



「つまり」

 あえて軽い口調を装う。

「僕は振られた、ってことかな」



 彼女が一瞬、竦んだような、怯えたような表情を浮かべたのを見て、僕はまた一つ確信する。

 彼女は知っていたのだ。僕らが、見ているモノも、話す言語も違っていて、決して互いを理解し合えないことに、彼女はずっと、気づいていた。でも言わなかった。言えなかった。僕を傷つけることと、自分が傷つくことが怖かったから。

 電車が速度を落とし、まもなく到着のアナウンスが彼女の最寄りの駅名を告げる。



「正直、納得できないよ。互いに想っているのなら、理解できなくても、話し合いたかった。分かろうとしたかった。普通じゃなくても、僕らなりの形を一緒に探したかった。たとえ、その結果たどり着いた先が今と同じ結論だったとしても、1人で悩んで納得して、決断してほしくはなかったよ」

 もう一度、今度はきちんと深呼吸をする。

「僕を、好きだと言ってくれるのなら。もっと信じてほしかった。もっと、頼ってほしかった」

 彼女がこちらを向いて何か言おうとするのを、僕は遮る。少し離れた座席でスマホをいじっていた仕事帰りらしき女性が怪訝な顔で僕らを見た。

「君は。……君は、この先もそうやって誰のことも信じられずに、期待しても無駄だって決めつけて、理解も肯定も受容も共感も、最初から諦めて離れていくんだろうね」


 彼女は、神様に選ばれなかったから鳥は翼をもがれたのだと言った。だから彼女は、世界に、神に、人間に、僕に、自分自身に、微塵も期待なんてしていなかったのだろう。できなかったのだろう。


 だが、僕にはどうしてもそれが真実だとは思えなかった。

 彼女の「羽ばたく」という言葉が具体的に何を意味するのか、僕には理解できない。けれど、例え望んだことだとしても、飛び続けることは辛いだろう。人と違い続けることは、息をつく暇も無く緊張し続けて、電車の揺れに逆らい続けることは、きっと楽ではない。

 だから彼女は、鳥は、飛べなくなったんじゃないのか。諦めたんじゃないのか。


 選ばなかったのは、選べなかったのは、鳥の方なんじゃないのか?




 未練が生んだ見当違いな疑念かもしれない。だが。


 唇を噛んで俯く彼女の言葉を、僕は待っていた。反論でもいい、泣き言でもいい、僕には理解のできない比喩でもいいから、何かを、期待していた。これが本当に、最後の悪足掻きだ。



 僕は、彼女に僕を、選んでほしかった。



 電車がホームに進入し始めてようやく、彼女は重たい口を開いた。俯いたまま、消え入りそうな声で、一言。


「ごめん」



「……っ、どうして」


 批判する発言をしたのは自分の方のくせに、どうしようもない苛立ちが沸き起こる。


 どうして、謝るんだ。どうして受け入れるんだ。どうして反論してこないんだ。


 僕は、君にとってなんだったんだ。

 理不尽をぶつけられる存在じゃなかったのか。

 わがままに振る舞える存在じゃなかったのか。

 意見が食い違ったとき、反論すらしてもらえない程度の存在だったのか。



 僕は。



 だが言葉が続かなかった。

 その事実がなによりも現実を示していた。すなわち、彼女と僕が互いに互いを諦めたのだという、言いわけのできない現実を。


「ごめん」

 何も言えなくなった僕に、彼女はもう一度謝った。

 思い返せば、彼女はいつも謝っていたな、と思う。どこへ遊びに行っても、話をしても、笑い合っても。いつも最後に笑顔を浮かべて『今日は迷惑かけてごめんね』と謝るのだ。人と同じに揺れることなど何一つ気にしていない完璧な笑顔で彼女は笑うのだ。

 だからきっと今も、彼女は笑っている。


 電車が止まり、扉が開く。

「今まで、ありがとう」

 彼女はそんなありふれたセリフを吐いて、つり革を握る手を離した。

 その声が今日聞いたどんな言葉よりも優しげに聞こえて、息が詰まる。

「君も、元気で」

 辛うじて発した僕の言葉に振り返った彼女の表情が泣きそうに歪んで見えたのは。その目元が赤く潤んで見えたのは。きっと、気のせいだろう。夕焼けばかり眺めていたせいだろう。僕がそう思いたいだけだろう。きっと、本当にそうなのだろう。

 だって彼女は、こういうときに笑う人間なのだから。


 彼女は口を開きかけ、しかし結局何も言わずに背を向けて電車を降りた。僕の胸の内なんて当たり前に無視して、拍子抜けするほどあっさりと扉は閉まり、小さな揺れと共に動き出す。緩やかに流れ始めた景色に彼女の姿が映る。

 降りて数歩進んだところで立ち止まっていた彼女の後ろ姿は、今まで見てきたものと何ら変わらないように思えた。右肩に鞄をかけ、左手は紺のトレンチコートのポケットに入れて。顔を上げ、背筋はピンと伸びたまま、クセが強くて大変なのだと困ったように笑っていた長い黒髪を風に静かに靡かせて。



 ああ、そうだ。



 脳裏に焼きついて離れない、去り際の彼女の表情で思い出す。

 彼女はいつも謝っていたけれど、最後の最後には必ず『ありがとう』と言っていた。嘘には思えない、その日一番の柔らかな声と表情で。

 まるで、さっきみたいに。


 僕から見えなくなるまで、彼女はそのまま、動くことはなかった。

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末路 足立 ちせ @adachi_chise

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