紙の花びら
更級ちか
紙の花びら
学校へ来たら、教室の後ろに掲示されている習字の作品が、昨日のものとは変わっていた。
『無我夢中』。
二週間前に書いたものだ。その前は、『小鳥の声』だった。
生徒の作品は、上下二段組に、左上から右へ出席番号順に飾られていて、私の字は下段の右端にあった。それを見た私は愕然とした。
変に目立っていたからだ。
型通りに、バランスよく四文字を書いたみんなが、急に羨ましくてたまらなくなった。
机に置いた鞄から、立ったまま筆箱やノートを取り出していると、後ろの席の河野が言った。窓側から三列目の、一番後ろの席。
「渡利って、字が上手いんやね」
どこか感心している彼の声に、私は驚きを隠せなかった。
「習字、習いよん?」
喜びと安堵感で、つい頬が緩んでしまう。
「うん」
「いま何段?」
思いがけない問いに、うろたえた私は目を泳がせた。
「八級」
「八級?」
河野は驚いた様子で聞き返し、更に質問を重ねてきた。
「いつから習いようと?」
「去年から」
落ち着いた声で、私はそう答えることが出来た。
「そうなんだ。凄いね」
目を細めた彼に言われると、なぜかお世辞のようには聞こえない。
そのことが、私は素直に嬉しかった。
体を教室の前に向けようとすると、以前同じ部活に入っていた夏樹と目が合う。
彼女は明らかに、私を睨み付けていた。
何がそんなに気に障ったのか、少し考えて気付く。
どうして忘れていたのだろう。
小学生の頃から、字のことでみんなに褒められるのは、いつも夏樹だった。
帰り際、私は下駄箱の前で怪我をした。靴の中に、五ミリほどのガラス片が入っていたからだ。
それを知らずに、私は思いっきり踏みつけてしまった。
黒板の上の時計の針は、八時十五分を指している。
なぜ自分の前の席に人だかりが出来ているのか、康太はすぐその理由に思い当たった。
教室の後ろに掲示されている習字の作品が、なぜか一人だけ『小鳥の声』に戻っていたからだ。
右端の下段。渡利のものだ。
乱暴に破られたのか、紙の左上の方が少しだけ斜めに残っている。
「嘘やろ」
渡利の机の上にあったのは、河野康太が覚悟していた以上のものだった。半紙は散り散りに引き裂かれ、まるで白と黒の花びらが落ちているようだ。
先に来た誰かが繋げたのか、小筆で書かれた学年とクラス、それに氏名の部分は読めるようになっている。
一年五組 渡利祥子。
「何でこんな」
呟きの余韻をかき消したのは、ドアを開ける音ではなく、みんなが息をのむ音だった。
渡利が来たのだ。
セーラー服姿の彼女は、なぜか右足を少し引きずっている。
「何、どうしたん?」
笑顔で近づいてきた渡利の表情は、散乱したものを目にした途端、一瞬で
確認するように、彼女は視線を上へ向ける。
その間、誰も声を出さなかった。
「ごめん、座っていい?」
渡利が座ると、康太は彼女の右脇に場所を移動した。
「昨日さ、帰るときに、靴の中にガラスの破片が入っとったんよね」
渡利は俯いて右の上靴を脱ぎ、その下に履いている白い靴下もはぎ取った。
かかとに
「酷い」
誰かの言葉に、渡利は悲しげに微笑んでみせた。
脱いだ靴下のかかと部分は白かったが、椅子の下にある右上靴の中底には、小さな赤い染みが出来ている。
「保健室に行った?」
康太の問いに、祥子は首を横に振った。
「ううん、そのまま帰ったけん」
だったらどうして、上靴の中底に血が付いているのか。
染みの部分を注視していた康太は、渡利祥子から冷たい視線を投げかけられていることに気付いた。
そこで康太は確信した。こいつは嘘を吐いている。
渡利は下駄箱の前でガラスを踏んだ後、また教室へ戻ってきたのだ。自分の作品を、ばらばらに引き裂くために。
疲れた表情を見せた渡利は、ふと廊下の方に目をやった。
視線の先にいたのは、遠巻きにこちらの様子を伺っている進藤夏樹だった。進藤はなぜか、青ざめた顔をしていた。
紙の花びら 更級ちか @SarashinaChika
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