第12話 素数学者

 数論学者井上昭一がTwitter上で最後に残した「一つの法則が見つかった。それが証明されたならば、システムが崩壊の域へと導かれるだろう」という意味深なツイートに、慈道は見覚えがあったようである。慈道の知識量はそれなりで、「どこかで見たことある」といった発言には定評がある。それを知っているがゆえに柴山はつい声を出してしまったのである。

「ああ。しかし、どこでだったか思い出せん。うーむ」

 慈道は腕を組んで唸り、足を組み始めた。

「このシステム云々の発言は、井上昭一先生最後のツイートなんですよ」

「ふむ。それ以降音沙汰ないってことは、その証明に命を燃やしたってことになるのかな……」

「どうでしょう。先輩。井上先生の書斎の金庫に何が入っているか、チャレンジしてみませんか?」

「なんで俺が? 単純に学問推進の一環としてRSA暗号のレクチャーは喜んでやるが、この金庫破りは鈴木さんのための試練だろ。俺が手を貸したら意味がなくなる。メッセージにもあったぞ。“若くて純粋な知恵を振り絞って”と。俺みたいな不純物の多い汚れた精神をもった人間じゃまずいだろ……」

「自分のことをよくそこまでdisれますね。こういうのって、結構興味湧いたりしないんですか?」

「んー、例のパスワードのヒントとやらを解読する謎解きは暇つぶしにやってもいいが、井上先生が残したとされる新しいアルゴリズムにはそんな興味ないな」

「なんでですか?」

「ある人が解けたって言い張るなら、それを自力で解いてみたいというのが一つ。もう一つは、素因数分解の画期的なアリゴリズムが発見されたとすると、さっきお前も言ってた通り、RSA暗号がセキュアじゃなくなってしまうという点だ。世界のIT業界はかなりパニックになると思うぞ」

「先輩はほとんどパソコン使わないじゃないですか」

「お前、それを本気で言っているんだったら見損なったぞ。たとえ俺が使わなくても大多数の人間が使っているんだ。パンピーが困るようなことに加担するわけにはいかないだろうが」

「で、ですよね。ごめんなさい」

 柴山は自分の軽率な発言が少し恥ずかしかったようであった。がさつで身なりのいい加減な慈道の方が何倍も清廉な考えだったからである。

「この手の問題はドラマでもよく取り上げられる。テレ朝の『相棒』でもやっていた。ある数学者がリーマン予想を証明したついでに素数の法則にも気づいてしまったという設定でさ。結局セキュアな社会を見据えて、その研究ノートは胸の中にしまっておこうとしたのだが、友だちがそれを公開しようと提案して口論になったんだ。言うことを聞かないものだから、その数学者はつい友だちを殺してしまった。最終的に、その研究ノートは燃やされましたとさ。まあ、実際は頭の中に入っていると思うけどな」

「人殺しにも発展するくらいの研究なんですか?」

 アリサは少し驚いてみせた。

「まあフィクションだよ。ただ、その話の中では、どっかの国の工作員がその研究を手に入れるために色々嗅ぎ回っていた。現実でもCIAとかFBIはこの手の研究は興味があるんじゃないかな。この前、アステロイド商事で情報漏洩の事件があったろう。あれはRSA暗号の鍵生成プログラムの欠陥であんなことになったらしいよ」

 佐藤正宏の受け売りである。

「システムに関係していたSEは解雇。さらにアステロイド商事の信用は株価と共にがた落ちで、リストラも考えているっていう噂ですね」

 柴山が補足した。

「つまり、暗号が破られることは社会に物凄く影響を与えるということだな。『NUMBERS』って海外ドラマでも似たようなネタを扱っていた。リーマン予想の研究をしている男の娘を誘拐して、アルゴリズムと引き換えに娘を返す、っていう筋書き。どういう仕組みか分からんが、RSA暗号を復号することによってアメリカの……連邦なんとか理事会ってサイトに侵入して公定歩合の引き上げを不正に取得して大儲けするって話」

「そ、そんなこともできるんですか?」

 アリサは驚いている。瞳の模様をみると、不安や恐怖というよりも興味や関心の度合いが強いようにみえる。

「まあ、ドラマの話だよ。あるコンピューターに不正アクセスすることと暗号理論って関係ないんじゃないかと思っているんだけど、知り合いに専門家がいないのでよく分からんが……ちなみに、この手のドラマって、リーマン予想を解決するとRSA暗号が破られるっていう印象を与えがちだが、実際はそれほど関係ないらしい」

「そういえば、以前、NHKスペシャルでやってましたね。リーマン予想は素数のもつ難しさの一つの表れっていう流れで、素数の難しさは暗号技術にも応用されていますって来るから、リーマン予想を解決すると暗号理論が破られるっていう誤解をなんとなく招きやすいっていう」

「ああ、あったな。まだデジアナ変換が生きていたときだ。まあ、暗号方式ってRSAだけじゃないけどな」

 少し難しい単語が飛び交って学部二年生のアリサは圧倒されているようだった。

「で、結局手伝ってくれないんですか?」

 柴山は本題に戻そうとした。

「えー? んー、そうだなー。謎解きは好きだけどなあ」

「とりあえず金庫を開けてから、その先に進むか進まないか考えればいいんじゃないですか? もし本当に本当だったら踏み込まないようにすればいいだけですし」

「それもそうなんだが……」

 この時、慈道の脳裏には佐藤の言葉が再生された。

「私の方からもお願いできませんか? 祖父が命を賭けた研究を是非この目で見てみたいんです。確かにこれは祖父から私への試練なのかもしれませんが、今の私一人じゃ絶対無理です。勿論、ただ謎を解いてください、なんて言いません。私も一緒に勉強したいんです。だから、暗号理論の基礎から是非慈道さんにレクチャーをして欲しいんです。それに、柴山先輩から慈道さんのことは聞いてます。慈道さんなら信頼できると。だから、できれば三人でこの謎を解き明かしたいんです」

 慈道はふと柴山の顔を伺うと、照れ臭そうに知らん顔をされる。

「しょうがないな。鈴木さんのために人皮剥くか」

「ありがとうございます!」

 初めてアリサは明るい表情をみせた。思えば、通夜のときから儚げな印象を抱き続けていた慈道にとって、それはこの上ない大発見であった。

「先輩、さっすがー」

 調子のいい柴山の軽い声は聞き慣れてきて、最近では逆にむかついているようである。

 ところで、慈道がこの件に関して前向きになっている最もな理由は、アリサの熱意というよりも、井上昭一からのメッセージである三つの試練に興味を示していることにある。

「で、私も井上先生のTwitterを眺めてみて、ちょっと気になるキーワードがあってツイートを記録してみたんです」

 柴山は得意げにタブレットの画面を切り替えて慈道に見せつける。そこにはこうあった。

「ユークリッドやアルキメデスは素数学者ではないが、エラトステネスは素数学者のようだ」

「まあ、当然だが、素数学者は少ないみたいだ」

「おお、ラグランジュも一応素数学者。しかしちょっと弱いかな」

「残念ながらオイラーは素数学者ではない」

「さすがは数学王。ガウスは完璧な素数学者だ」

「ざっと有名な数学者を調べていたが、素数学者はこれくらいかな。残念ながら私は素数学者ではないようだ(笑)」

 著名な数学者が名を連ねている。

「なんだこの、素数学者って言葉は?」

「勝手な想像ですけど、素数について目覚ましい結果を残した数学者のことじゃないですか?」

「ユークリッドつったら、素数が無限にあることを初めて証明した人じゃないか? 素数学者じゃないのか」

「井上先生いわく」

「ガウスが完璧な素数学者であることは誰しもが認めるだろう。彼の数論についての功績は最強と言える。エラトステネスは素数ふるいで有名だから、まあ分かる。ラグランジュも四平方定理など数論の分野で有名だから分からなくはないが、他にもフェルマーとか、オイラー、リーマンなど、素数学者を名乗るに相応しい人は結構いると思うんだがなあ」

 フェルマーは周知の通りフェルマーの最終定理で有名な数学者であり、数論に関する多くの業績を残している。オイラーもオイラーの公式や、多面体定理、バーゼル問題などで、彼の名を冠する多くの定理や公式が残されている。自然対数の底、すなわちネイピア数にアルファベットの e を当てたのは、オイラーが最初であるとされている。リーマンはリーマン予想を提示した張本人で、今も尚、素数の魅力に虜にされた数学者は躍起になってその解決に勤しんでいることであろう。

「井上先生も素数学者ではないらしいですからね。先輩に考えてほしいのは、この不自然さですよ。一体どういう基準で素数学者とよんでいるのかという点を追求してほしいんです」

「こういう数学史を知らないと分からなそうな謎解きは苦手だなあ。だって本質的に数学と関係ないもん。あまり数学者の歴史とかは興味ないしな」

「井上先生って結構なぞなぞやクイズが好きらしいんですよ。こういう意味不明なところにきっとヒントがあるんだと思います」

「そうか。まあ、色々謎はあるが、最初の一歩はRSA暗号の仕組みからだ。明日適当な教室で教えるから、時間空けといてよ」

「オッケーです」

 柴山はいつもの軽い調子で答える。

「よろしくお願いします」

 アリサは上品に会釈をする。

「あ、それとさ……」

 慈道は気まずそうに改まる。

「も、もしよかったら、鈴木さんの携帯電話の番号を教えてくれない?」

「あ、はい。是非」

 アリサは快く受け入れた。

「ほほー。先輩もナンパな男になってきましたなー」

 柴山は口調を変えて茶化してきた。

「お前は黙ってろ」

 慈道はいたって真剣な面持ちである。

 異性と関わりを持とうとする慈道を、柴山は特にそれほど気にしていないらしい。むしろ、閉鎖的な人間だった慈道の成長ぶりに感心しているようであった。

「じゃ、俺からいきますよ。090……」

「え?」

 アリサはたじろいだ。

「先輩! AirDropでいけますよ」

 柴山は笑いをこらえながら小声で教える。

 慈道はガラケー時代の頃から、番号の交換などしたことがなかったので、赤外線通信のような発想がまるでなかった。

「なんだっけそれ?」

「この前教えたじゃないですかー」

 慈道の機械操作に順応するための道のりはまだまだ長いようである。

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