第13話 合同式入門*
翌日の午後三時、理工棟の適当な教室で予定通り慈道の講義は始まった。慈道は教卓の上に暗号理論入門と書かれた大学ノートを置いて、教壇に上がる。アリサと柴山は前から三番目の列の机に座っており、ノートを開き筆記用具を持って構えている。相変わらずアリサの服装に派手さはないが上品さや清楚さが浮き出ている。一方、柴山は明度の強いジャージ姿であった。
「そもそも合同式って知ってる?」
慈道はアリサに尋ねた。
「ちょっと苦手なんですよね」
つまりかなり苦手、という風に慈道は受け取った。
「高校数学では発展のところで紹介されていますけど、必修ではないみたいですよ」
教職を志望する柴山は、高校の学習指導要領に少しばかり知識がある。
「そうか。なら、簡単に説明しよう。数学において、異なるものを同じとみなす行為はしょっちゅうおこなわれる。例えば、このチョークの両端を同じも点とみなせば、輪っかができるだろ」
「え……? な、なるほど……」
いきなり雲行きが怪しい。
「柴山君、この説明ミスったかな?」
「んー、微妙ですねー」
柴山は腕を組んで、少しばかり頬をゆるませながら言った。
「まあいずれ分かるさ。幾何の話はやめておこう。ありきたりではあるが、カレンダーの話をする。今日は何日だっけ?」
「27日です」
「つまり、今日は2015年10月27日火曜日ということだな」
慈道は黒板に今年10月のカレンダーを書き始めた。
「となると10月1日は木曜日。仮に9月30日は10月0日とする。カレンダーを縦にみると、水曜日は0日、7日、14日、21日、28日となる。これらの共通点は分かるかな?」
慈道はアリサにらしくない口調で尋ねる。
「7 の倍数ですよね」
「そう。これは簡単だ。それじゃあ、木曜日は1日、8日、15日、22日、29日だ。これらの共通点はどうだろう?」
「……多分ですけど、 7k + 1 という形をしているってことですか?」
「お、いい着眼点だ。それで正解といってもいいだろう。言い換えるならば、 7 で割ったときの余りがすべて 1 に等しいということ」
「そっか」
「木曜日は余り 1 のグループと呼べる。となると水曜日は 7 の倍数のグループだったわけだが、言い換えれば余り 0 のグループだ」
「金曜日は 7k + 2 と表せるから余り 2 のグループですね」
アリサは乗ってきた。
「そうねえ。このように、一日一日を曜日で分けるということは、 7 で割ったときの余りが同じもの同士を一つのグループとして類別することと同じだ」
「なるほど」
「余りによる分類、これが合同式の考え方。さて、 11 月の 1 日と 8 日は共に木曜というラベルで同一視している。数学的には余りが 1 であるという点で同一視しているわけだが、このことを
1 ≡ 8 mod 7
と表し、『 7 を法として 1 と 8 は合同である』と読む。年配の人で『 1 合同なり 8 モッド 7 』と読む人もいた。『法として』って日本語は正直訳が分からないので、個人的には『モッド 7 で 1 と 8 は合同』と読みたい。このような ≡ を含む式のことを合同式という」
慈道は黒板に以下の内容をかき、黄色い長方形で囲んだ。
<defi>
■合同式の定義: m を正の整数とする。 2 整数 a、 b に対して、 m で割ったときの余りが等しいとき
a ≡ b mod m
とかく。
</defi>
「正直、毎回 mod 7 と書くのは面倒なので、最初に『以下 mod 7 で考える』という但し書きをして省略することが多い」
慈道は黒板に「以下 mod 7 で考える」と記した。
「0、 7、 14、 21 などは余りが共に 0 だからいずれも合同で、普通の等式のように
0 ≡ 7 ≡ 14 ≡ 21 ≡ 28 ≡ …
なんて書き方も当然のようにする。細かいことをいうと、『 0 ≡ 7 ≡ 14 』は『 0 ≡ 7 かつ 7 ≡ 14 』の略記だ。それは結果的に『 0 ≡ 14 』も意味することになるな」
アリサは急いで板書を写しながらコメントを付け足している。
「木曜日のグループ 1、 8、 15、 22、 29 はいずれも 7 で割ったときの余りが 1 でいずれも合同だったので
1 ≡ 8 ≡ 15 ≡ 22 ≡ 29 ≡ …
となる。残りの分もすべて書いてみよう」
慈道は板書を早めて、以下のように数の羅列を書き連ねた。
0 ≡ 7 ≡ 14 ≡ 21 ≡ 28 ≡ …
1 ≡ 8 ≡ 15 ≡ 22 ≡ 29 ≡ …
2 ≡ 9 ≡ 16 ≡ 23 ≡ 30 ≡ …
3 ≡ 10 ≡ 17 ≡ 24 ≡ 31 ≡ …
4 ≡ 11 ≡ 18 ≡ 25 ≡ 32 ≡ …
5 ≡ 12 ≡ 19 ≡ 26 ≡ 33 ≡ …
6 ≡ 13 ≡ 20 ≡ 27 ≡ 34 ≡ …
「
あらゆる整数は 0、1、2、3、4、5、6 のいずれかと合同
ということになる。一般に次のことがいえる」
<thm>
■代表元: mod m で考えると
あらゆる整数は 0、1、2、……、m − 1 のいずれかと合同
</thm>
「薄々気づいていると思うけど、 mod 7 で考えていると、 7 で足したり引いても合同のままだ。もっといえば、 7 を足し続けたり、 7 で引き続ければ、その数に合同なすべての数が出てくる。ということは、一般に b に合同な整数 a はすべて
a = b + 7k (kは整数)
の形で表せる。この性質は非常に重要だ。一般にいうと次のようになる」
<thm>
■合同の言い換え: a ≡ b mod m と次は同値。
a = b + (mの倍数) と表せる
</thm>
「ちなみに引き算をすると
a − b = (mの倍数)
となるので、 a ≡ b mod m の定義を『 a − b が m の倍数である』または『 b − a が m の倍数である』としている本もあるね。恐らく今柴山が勉強している環論のイデアルに由来する定義だ。個人的に、高校生には少し違和感があると思う」
「あ、剰余環の話ですね」
柴山は納得しているようだが、二年生のアリサは、まあ分からない。
「奴の言う剰余環云々は聞き流してもらっても構わない。いずれ分かる」
「またでた! 『いずれ分かる』。先輩の口から百回くらい聞いた気がしますわー」
慈道はやれやれといった感じで、柴山の方を厳しい視線を向ける。
「分かったから。テンポが下がるからお前は少し黙ってろ」
「はいはーい」
「さて、 mod 7 で考えるとき、 a ≡ b となることは
a = b + (7の倍数)
と表せることと同じ。つまり、 7 の倍数が 0 のような役割をもっているということだ。さっきも言った通り、 7 で足し引きしても合同のままだったよな。 0 を足し引きしても変わらないという性質と同じだ」
「簡単に言うと、 mod 7 で考えるということは、 7 を 0 とみなすってことですよね」
柴山が自信ありげに一言入れた。普段は慈道に教わる一方の立場なので、新鮮らしい。
「そういうこと。高校生にはその説明で十分かもな」
慈道も補足的な口出しは容認しているようだ。
「今やっている余りに着目した同一視は、整数の演算規則をそのまま保持しているという点に価値がある。なにを言っているかというと、例えば、 2 と合同な数と 3 と合同な数を足したら、同一視する前の演算規則にのっとって、 2 + 3 すなわち 5 と合同な数になってしかるべきだと思わないか? つまり、
a ≡ 2、b ≡ 3 ならば a + b ≡ 2 + 3
が成り立ってくれても
a = 2 + 7k
b = 3 + 7l (k、lは整数)
と書けるから、辺々加えると
a + b = 2 + 3 + 7(k + l)
となるので、この式は
a + b ≡ 2 + 3
を意味している。大丈夫かな?」
「はい。なんとか」
「よし、それじゃあ、鈴木さんは次のことを説明してもらおうかな」
「え?」
アリサは機敏に反応した。
「掛け算にも同様のことがいえる。つまり、 a ≡ 2 かつ b ≡ 3 ならば ab ≡ 2 × 3 = 6 となる。これを説明してほしい」
慈道はチョークをアリサに向けて、黒板へいざなう。アリサが困惑気味に柴山の方へ目線を移すが、柴山は「あるある」と言って頷いた。
アリサが壇上に立つとチョークを渡され、慈道は最前列の机の上に座って腕を組んだ。
「えっと、つまり、 a ≡ 2、 b ≡ 3 を用いて、 a b = 6 + (7の倍数) と書けることを示せば終わり、ですよね?」
「そうそう」
慈道はそう言って軽く頷く。
「さっきと同様、
a = 2 + 7k
b = 3 + 7l
と表せるので、両辺を掛け合わせて
a b = (2 + 7k)(3 + 7l)
= 6 + 2・7l + 3・7k + 7・7kl
= 6 + 7(2l + 3k + 7kl)
= 6 + (7の倍数)
となるから、 a b ≡ 6 です」
アリサは証明を書き終えるとゆっくり回って慈道の方に「合ってます?」と弱々しい声で尋ねた。
「合ってるよ。もっと自信を持った方がいい」
「頭では分かってるつもりなんですけど、なんか緊張しちゃいますね」
「先輩の目線がいやらしいからじゃないですか?」
「おい、黙れよ」
柴山はくすくす笑う。アリサも微笑しながらゆっくり席につく。チョークをおく仕草や教壇を降りる様まで、柴山とは異なる可憐さがあったので、慈道は目線を外しながらも見とれていた。
「ほい。というわけで、一般には次が成り立つ」
<thm>
■合同式の演算規則: mod m で考える。
和の法則 a ≡ b、c ≡ d ならば a + c ≡ b + d
積の法則 a ≡ b、c ≡ d ならば a c ≡ b d
</thm>
「ちょっと大げさに和の法則、積の法則なんて名前を付けてみたが、性質1とか、性質2なんて言い方するよりも分かりやすいと思って勝手に付けてみた。これらの性質は合同式の左辺同士、右辺同士を足したり掛けたりしても合同式が成り立つという解釈もあるが、『左辺の a と c をそれぞれ b、 d に置き換えても合同である』という見方もできる。さっき柴山が言っていた“ 7 を 0 だと思う”精神で、 7 で足し引きしても合同といえるから、 10 ≡ 3 は当たり前。そして、熟練者は
100 = 10 × 10 ≡ 3 × 3 = 9 ≡ 2 ∴ 100 ≡ 2
といった計算を当たり前のようにしている。これは途中の 10 × 10 における 10 を 3 に置き換えているわけだ。この変形は
10 ≡ 3、10 ≡ 3 だから 10 × 10 ≡ 3 × 3
という積の法則に由来している。ちょっと複雑だが
365 = 300 + 60 + 5
= 3 × 100 + 6 × 10 + 5
という計算で、 100 ≡ 2、 6 ≡ − 1、 10 ≡ 3 だから、一斉に置き換えて
3 × 100 + 6 × 10 + 5
≡ 3 × 2 + (− 1) × 3 + 5
= 6 − 3 + 5
= 8
≡ 1
としてもよい。ただ、こうしていい理由を説明するのは簡単だが面倒だ」
「よく先輩は、『面倒と難しいを履き違えている奴が多い』ってぼやいてるわ」
柴山はアリサの耳元で囁く。
「いいかな。実際のところ積の法則より
3 ≡ 3、100 ≡ 2 だから 3 × 100 ≡ 3 × 2
6 ≡ (− 1)、10 ≡ 3 だから 6 × 10 ≡ (− 1) × 3
和の法則より、左辺右辺同士を足し合わせて
3 × 100 + 6 × 10 ≡ 3 × 2 + (− 1) × 3
この式と 5 ≡ 5 を和の法則によって足し合わせて
3 × 100 + 6 × 10 + 5 ≡ 3 × 2 + (− 1) × 3 + 5
となる。結果だけをみれば、 100 ≡ 2、 6 ≡ − 1、 10 ≡ 3 を一斉に置き換えたようにみえたってわけ。こんなことを高校生に言ってもこんがらがるだけだから、単純に『合同な部分は置き換えてよい』といった指導をしていることが多いのではないかと想像する」
「なるほど、確かに大学生になってからは証明ばっかりだったので、こういった議論は受け入れ易くなってる気がします」
アリサはすっきりとした顔で言った。
「学問にも適正年齢ってのがあると思うんだよな。年齢を重ねて分かるようになることも多い。もしかしたらそれは反復した結果ってだけなのかもしれないけど」
「今の高校生は、物理、化学、生物、地学のどれか三つを、文系理系問わず履修しないといけないそうですよ。一つの科目につき二単位だけですけど。それで、高校一年生で物理をいきなり勉強している高校も少なくないとか。数学でやる前に三角比が登場して四苦八苦しているなんて話もあるらしいです」
柴山が思い出したように言った。
「まじか。その学習指導要領ってのは文部省が決めているんだろ?」
「文部科学省! 略して文科省です。何年前の人ですか、あなたは」
「おう、そうだった」
「この人、JRを国鉄って言ったり、iPodをウォークマンって言ったり、プレステをファミコンって言ったり、ちょっと遅れてるの」
柴山は囁くとまではいかないものの気持ち小声でアリサに告げる。
「聞こてるぞ。古き良きものも大事にしないとな!」
「そのくせ、『円周率は π より 2π にすべきだ!』とか、『恒等式とかってマジ意味ないよな!』とか、数学の歴史や高校数学の内容にケチつけたりするんだからもう……」
「数学のことについては嘘をつきたくないんだ」
慈道は低い声で言った。
「数学が本当にお好きなんですね」
アリサが大人の対応をした。
「いいえ。ただの我が
柴山はあっさりそう切り捨てた。
「う、うるさいな。話を戻すが、ゆとり教育なんて言葉が流行って散々言われていたが、詰め込めばいいって問題でもないよな。ガウスの有名な格言にもあるぞ。『少なくても熟したものを』。意訳すれば『狭くとも深くあれ』だ。理系の人はただでさえ国立受けるにも古典や地歴もやらなきゃならんのに大変だよな。特に大学で数学だけを勉強したいと思ってる人はなおさら」
「本当ですよねー。それに加えてアクティブラーニングとか、ICT教育ですからねー」
「日本の教育改革は柴山、お前にかかってるぞ! もっと専門性を追求するようなシステムにしてくれ」
「私にそんなことが可能だったらいいんですが……って先輩、アリサが置いてかれてますよ」
「あ、ごめんごめん」
「そんな気になさらず。お二人はやっぱり仲がいいんですね」
アリサはまったく気にも留めておらず、にこやかに答える。
「まあ、確かにコイツがいなかったら俺はマジで友達ゼロだったかもしれんしな……」
「そんなありがたーい友達をコイツ呼ばわりですからね。少しは感謝しなさいよー」
「へいへい」
「なーんか雑だなあ」
アリサは口に手を当てて、笑いを誤魔化そうとしていた。
「おい、そんなことより合同式の続きだ。もう三十分くらい経っている気がする。一時間ちょいじゃRSA暗号までいかないぞ」
慈道はチョークを構えて、アリサは慌てて板書の用意をする。
「和の法則と積の法則ときたら、次は差の法則と
<thm>
■合同式の演算規則 2: mod m で考える。 n を正の整数とする。
差の法則 a ≡ b、c ≡ d ならば a − c ≡ b − d
冪の法則 a ≡ b ならば a^n ≡ b^n
</thm>
「これらの法則は、和と積の法則から簡単に出てくるからそれほど高級感はない。 c ≡ d に − 1 ≡ − 1 を掛ければ − c ≡ − d だから、和の法則より
a + (− c) ≡ b + (− d) ⇔ a − c ≡ b − d
で差の法則が出る。また、積の法則を繰り返し使って
a × a ≡ b × b ⇔ a^2 ≡ b^2
a^2 × a ≡ b^2 × b ⇔ a^3 ≡ b^3
a^3 × a ≡ b^3 × b ⇔ a^4 ≡ b^4
という調子でやっていけば、冪の法則も出る。厳密には当然帰納法を用いる」
アリサのノート進行具合を見ながら慈道は間を開けている。
「合同式において分数は扱わない。それと割り算は完璧ではない。例えば、
a c ≡ b c ならば a ≡ b
は成り立つとは限らない。実際、そうだな…… mod 10 で考えると
3 × 5 ≡ 9 × 5 であるが 3 ≡ 9 ではない
そもそも a で割るということは、 a x ≡ 1 となる x で掛け算をすることだ。このような x が存在するどうかの話は、互いに素という概念が必要になる。それについての話はもうちょっと後に回すことにする。ひとまず合同式の定義と基本的な性質について説明したので、誕生日の曜日を求めるってやつをやってみよう。サマーウォーズの主人公は誰々ちゃんの誕生日が何曜日かを瞬時に求めていたよな。あれがどういう理屈で行われているかを説明する」
「お、これは面白そう」
柴山はそう言って姿勢を正した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます