第2章 暗号理論
第11話 贈物
慈道弥七は午前十時過ぎに大学へやってくると、理工棟に囲まれた中庭にある巨大な
「あれ、この前と全然……噂には聞いていましたが、ホームレスみたいですね……」
長身で栗色のロングヘアーを束ねたアリサが、ベンチで横になる慈道を見て哀れむように言う。
「否定できないのが辛いわー」
柴山が額に手を当て溜め息をつく。
普段はベンチの上に座って足を組んで頬杖をしながら瞑想をするがごとくうたた寝をする慈道だが、十月の下旬になり、少し肌寒くなってきたこともあって、彼はベンチの上で完全に横になり、胎児のように体を丸めて肌寒さに抗っているのである。汚らしいサンダルは乱雑に脱ぎ捨てられている。新聞紙をかけてしまったら、それは浮浪者と見分けがつかない。
「起こすための呪文とかあるんですか?」
アリサが尋ねる。
「呪文かー、考えたこともなかったな。いつもは普通に耳元で『おい起きろ!』かな」
「先輩なのに結構雑じゃないですか?」
「いいの、いいの。そうだ。ちょっと面白そうだから、アリサが起こしてみて」
「はあ。それじゃあ」
アリサは少し屈んで、慈道の耳元に顔を近づけ、未知の生物に触れるように肩を二、三度人差し指で突っついてから「すみませーん。起きてくださーい」と囁いた。
慈道は「ん?」ともらしてから首をきょろきょろ動かしてから、眩しそうな顔をして、「お……柴山か……」と低い声で言った。アリサは動き出そうとする慈道から一歩下がって姿勢を正した。
「今度はどんな問題だ……」
慈道はあくびをしながらそう言って、ベンチの上であぐらをかき、右手で口周りの無精髭をなでた。瞳孔が閉じ始めた慈道は目の前の女性をようやく映像として認知し始める。
「ど、どちら様?」
声が裏返っていた。
「鈴木アリサです」
「あ! 井上昭一の。そっか今日だったか……」
眠気が一気に冷めた慈道は、あたりを見回して柴山の姿も確認する。
「あ、やっぱりいたか」
「いちゃいけませんか?」
柴山の口調は厳しい。
「そ、そんなことはありませんよ」
慈道は慌てて無理に丁寧な言葉遣いをする。
「だいたいもう秋なんですから、サンダルも止めたらどうです? 今の時期、この大学でサンダル履いてるの先輩だけですよ」
「まあ、これは俺のポリシーだな。靴下を洗わずに済むという利点もある。もうしばらくは頑張ってみるさ」
「アリサ。これが、慈道弥七先輩です」
柴山が慈道の方に掌を向けて改めてアリサに紹介する。
「ど、どうもー」
慈道は後頭部に手を当てながら照れ臭そうに、会釈をする。
「鈴木アリサです。慈道さん。この度は、祖父の通夜に参列してくださり、本当にありがとうございました」
鈴木は
「いえいえ。そ、葬儀の方はと、と、トドコオリナク?」
慈道が初めて使う日本語であった。
「ええ。お陰様で」
アリサはニコッと答えた。慈道はその愛らしい表情を見て思わず口元がほころびそうになるが、すかさず口周りのよだれを手で
「まあまあ、立ち話もなんだ。とりあえず座ろうぜ」
慈道がこれまでしたこともない気遣いである。
「では失礼」
柴山が率先してベンチの真ん中に座ると、それに同調してアリサは彼女の右隣に座った。アリサの仕草には気品があり、また、母親がファッションデザイナーというのもあってか、派手さはないものの長身に見合う上品な衣装に身を包んでいる。さらさらのロングヘアーからは薄っすらとラベンダーのような香りが流れてきて、鼻の粘膜を軽く刺激するのであった。慈道にとって寝覚めにはちょうどよかった。
慈道はふとジャージ姿の柴山の方を見て「プッ」と噴き出した。中高と陸上競技部に所属していた柴山は引き締まったプロポーションを今でも保持しており、近所のジムでアルバイトをしていることもあって、今日のようにスポーツウェアで大学へやってくることも珍しくない。装いも仕草も上品なアリサを目の当たりすると、柴山の佇まいにはどうしても貧相の二字しか出てこない。
「なに?」
面白くなさそうに柴山は威圧的に反応した。
「べ、別に」
慈道は慌ててベンチに座った。
「それより、俺に相談したいことってなんだい?」
元々今日は、アリサの方から柴山を通して慈道に相談があるという約束なのであった。
「遺産相続とか、そういう面倒な話じゃないだろうな。行列はできるが、法律相談は門外漢だ」
ジョークのつもりだったらしいが、誰も笑っていなかった。
「まさかー。アリサ、例のメールを」
「はい。このメッセージを読んでいただけますか?」
アリサはダルメシアンのアニメ画がプリントされている可愛いらしいケースのスマートフォンを慈道に手渡した。
「えーなになに?」
そこにはこう書いてあった。
「鈴木アリサ様。井上昭一先生の弁護士、相沢
親愛なるアリサへ。よく学んでいるか。お前が数学を学ぶと知って私はとても嬉しい。そんなアリサに最後の贈り物だ。きっと将来役に立つだろう。贈り物は私の書斎にある電子式の金庫に封印してある。しかし、物理的なもので破壊しようなどと思わないこと。でなければ、贈り物に価値はなくなるからだ。もしその気があるならば、若くて純粋な知恵を振り絞って勝ち取ってほしい。金庫のパスワードのヒントは
6,036,874,075,441,016,874,423,820,128,016,670,617,645,079
だ。鍵はお前自身。試練は全部で三つ。それでは体に気をつけて。また来世で会おう。
井上先生からの伝言は以上になります。このメッセージに関する質問は一切返答し兼ねますのでご理解ください。それでは失礼します」
慈道はそのメッセージを見て、眼が疲れたふりをして動揺をなんとか隠そうとした。突っ込み所は多いが、特に“試練は全部で三つ”の部分に慈道は最も目を奪われたに違いない。
「なにこの数字の羅列」
「暗号です。多分」
柴山はさらっという。
「小磯君の所に行ってこい!」
小磯君こと小磯健二は映画『サマーウォーズ』のRSA暗号を解読できる主人公のことである。
「代わりに先輩の所に来ました」
「これを俺に復号しろ、と」
暗号化された文を元に戻すことを復号という。
「はい」
「無理でしょ。普通、暗号の復号は人間がやるものじゃない。コンピューターがやるものだ。そして俺は大学一コンピューターが苦手である自信がある」
「そこをなんとかお願いします」
「あのな。この……何桁だこれ?」
「四十三桁です」
「四十三桁の数字がなんらかの暗号だとしたら、暗号化するための鍵が知らされているはずなんだ」
「復号するための鍵、じゃないんですか?」
「ああ、一から話さないと分からないよなあ。共通鍵暗号にせよ公開鍵暗号にせよ、暗号化のための鍵と復号のための鍵は存在する」
「なんですかその共通鍵暗号とか公開鍵暗号っていうのは?」
「お前、RSA暗号っていう単語は知っているくせにそれがなんなのかまったく知らないんだな」
「あ、いや……サマーウォーズを観た後にちょこちょこっとググってみただけなので」
柴山は恥ずかしそうなそぶりをみせる。
「まずお前らに言いたいことは、RSA暗号がどういう理屈で成り立っているのかを知るべきだ。そうすれば、こういった暗号を復号しろ、という要求がいかにナンセンスか分かるはずだ」
「じゃあ、レクチャーをお願いします」
「……またこのパターンか。言っておくが、俺は応用数学専門じゃないから、暗号理論に関しては素人だぞ」
「でもこの前、RSA暗号は背伸びした高校生でも分かる理論だって言っていましたよね」
「……言ったっけ?」
「絶対に言いました」
柴山が優勢であった。
「まあ、確かに……実は合同式を勉強した高校生でも分かるんだけど……ただ、今すぐ教えろって言われても少し難しい。俺の家に眠っている暗号理論の講義ノートが発掘されればおそらく可能なんだが……多分一時間ちょいくらいで説明できる」
「やった!」
柴山は両の拳を握ってガッツポーズをする。
「ちょっと待て。俺はやるなんて一言も言ってないぞ」
「よろしくお願いします」
沈黙を守っていたアリサがいいタイミングでとどめを刺した。
「はあ、しゃあない。鈴木さんに免じてやってみるか」
「よっしゃ! 先輩ありがとうございます」
このように、柴山の勢いに負けて講義だけでは補えない分野について慈道が解説することはしょっちゅうあった。この前の夏休みは、ガロア理論をレクチャーした。
「で、気になるんだが、金庫の中の贈物って一体なんなの?」
「お、いい質問ですねー」
柴山はニヤッとして答えた。
「井上先生が素因数分解に関する新しいアルゴリズムを発見しているという噂、ありましたよね」
「やっぱりそれか」
「ネット上では以前から噂されていたそうです。Twitterで井上先生自身がそれをほのめかす発言を多々しているんですよね」
「へえ、年配の数学者でもTwitterってやってるんだな。確か、『せんずり』って意味だっけ」
「『さえずり』ですよ! 莫迦!」
さすがに柴山の突っ込みは素早かった。柴山は中指の第二関節を突き出して慈道の太ももを強打した。
「い、痛……あれ? 俺最初から『さえずり』って言ったよね?」
慈道はアリサに同意を求めた。
「え? いや……よく聞こえませんでした」
無難な回答である。
「柴山はなんて聞こえたんだよ?」
「……大学のハラスメント相談所に訴えようかしら」
「じょ、冗談だって」
「あの、頼みますから真面目にやってくださいよ……」
柴山が噴火するすぐ手前にまできているのを慈道は肌で感じ取った。
「分かってる。分かってるって……」
柴山は咳払いをして仕切り直す。
「問題のツイートがネット上でまとめられているんですよ。ちょっと見てください」
柴山は手提げからタブレットを取り出して、慈道にウェブページの画面を見せる。
「どれ」
画面にはこうあった。いずれも井上昭一のツイートらしい。
「最近少し気になることがあって、それのことばかり考えている」
「追求すればするほど、絵空事に思えるものが現実のものになりそうで恐ろしい」
「最近は素因数分解についてのことばかり考えています」
「久々にMathematicaのコードを書いているが、色々と忘れてしまっているな。Pythonで書こうかな」
「孫がサマーウォーズなる映画を観ていて、「じいやもこれできる?」と聞かれた。「おじいちゃんにできないことはないぞ!」と返したら「じいやすげー!」と言われた。年甲斐もなく少し嬉しい」
「最近手がけている新しいアルゴリズムを試してみた。ちょっと走らせてみる」
「これは、もしかすると……」
「一つの法則が見つかった。それが証明されたならば、システムが崩壊の域へと導かれるだろう」
慈道は眉をひそめていつになく真剣な表情で見入っている。
「どう思います?」
柴山が尋ねた。
「井上昭一もサマーウォーズ観たんだな。この孫って鈴木さんのこと?」
柴山を邪魔そうに慈道は大きく乗り出してアリサの方に首を向ける。
「いえ、いとこでしょうね。叔父の子どもです」
喪主を務めた井上昭一の長男、井上恭介の子どものことであろう。
「確かにこれを見る限りでは、素因数分解に関するなんらかの理論を発見しているともとれるな。最後の方の『これは、もしかすると……』の続きが気になるけど、これは『もしかすると勘違いだったかも』の省略かもしれないよな」
「でもその後は『一つの法則が見つかった。それが証明されたならば、システムが崩壊の域へと導かれるだろう』じゃないですか。これはまさに素因数分解の法則性に気付いたってことじゃないでしょうか。RSA暗号が破れるイコールシステムの崩壊……」
「証明はできていないらしいが」
「なぜだか分からないが、こうするとうまくいく的な奴じゃないですか。数学でよくありがちな」
「確かにありがちだ。というかこの文句、どこかで見た記憶があるんだよな」
「ほ、本当ですか?」
柴山は叫びのような声をあげた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます