第10話 因果律
慈道は下半身に電気ショックを受けて満足に立ち上がれず、仰向けに倒れている。
「……一体何が起こったんですか……」
駆けつけた柴山は両手で目を覆い、僅かに隙間を空けて片目で慈道の顔を見ていた。
「や、奴だ。さ、佐藤、ま、正宏に、やられ、た……」
慈道は連続して発声できずにいた。
「え、本当ですか? て、ことは……」
柴山はハットの男が佐藤であることにようやく気付いた。
「す、すまないが……て、手を貸してくれ」
慈道は依然麻痺した状態で地面に床を付けた状態でなんとか右腕だけを上げた。
「え……アレ触った手ですよね……?」
「い、いいから早く……!」
「そ、その前に、ズボン! ちゃ、ちゃんと閉めてもらえません?」
堪え兼ねた柴山はついに告白する。
「え?」
慈道は下半身が一時的に麻痺しているので、すっかり今の状況を忘れてしまっていた。
「う、うわ!」
慈道は現状でできる最大速度の動きで“ぶつ”をしまい、チャックを閉めた。流石の慈道も顔が真紅に染まっている。そして、ついには世界の終わりだとても言いたげに、後頭部まで床につけて天井を仰いだ。
「し、柴山よ……実はこれまで、結構、かっこつけていたつもりでいたんだが、今度ばっかりはだめだ……もう、この世から消えてしまいたい……」
喋りは元通りになってきたが、精神的ダメージはかなり大きかったようである。慈道は仰向けのまま両手を組んで胸の上に乗せ、静かに目を閉じた。
「ちょ、ちょっと、こんな所でどうする気ですか?」
柴山はしゃがんで慈道の頰を軽く二、三叩く。しかし反応がない。
「早くしないと人が来ちゃいますよ……そしたら、今度は私が……」
無情にも魔の足音が近づいてくるのが分かった。
「人が倒れているって本当かな?」
斎場の職員らしき黒いスーツ姿の男が二人やってきた。佐藤は本当に人を呼んできたらしい。
男子トイレに若い男女がおり、それも片方は横たわっている。この有様を目にした男二人はしばし言葉を失う。そしてその瞬間に、見ためからは想像もできないほどの巨大な動力が、柴山の中で覚醒する。
「うおお!」
柴山は咆哮をして火事場の莫迦力を解放させ、慈道の脇の下に腕を潜らせて胴体を持ち上げた。柴山は顔を真っ赤にしながら時に白い湯気を鼻から出しつつ、斎場の敷地外へと慈道を引きずりながら脱出した。
永田斎場を出てすぐにあるバス停に柴山はひとまず慈道を連れてきた。そこにベンチがあったので座らせる。慈道は背中を丸めながら、ぼんやりと自分の足元を見ていた。
「まったくー、しっかりしてくださいよー」
反応がない。慈道はあしたのジョーのようにすっかり灰になってしまっている。
「だめだこりゃ……」
柴山は溜息をつくと、近くの自動販売機でペットボトルの天然水を購入。キャップを開けて、慈道の口元に向けるもやはりうんともすんとも言わないので、「ああもう!」と声を荒げて、頭に水をかけた。
「うお!」
慈道は途端に我を取り戻す。
「先輩! よかった」
ようやく柴山に笑顔が戻る。
「柴山……なんで俺濡れてるんだ?」
慈道は右手で前髪を抑えていう。
「あ、いや……放心状態だったので、つい……」
「少しやり方ってもんがあるだろうが!」
慈道は柴山のペットボトルを奪おうとするが、うまくかわされる。
「落ち着いてください! 佐藤正宏はどうしたんですか!」
「さ、佐藤? そういえば……見てないか? 帽子を被ってた」
「多分見ました」
柴山は決まりが悪そうにいう。
「お前、みすみす
「……かもです」
「情けない」
慈道は皮肉屋の顔に戻り呆れ果てた顔をしている。
「……情けないのはお互い様ではないでしょうか」
その痛恨の言葉は、慈道に冷静な記憶整理をさせる。そしてたちまち頬全体に熱反応が再び発生する。
「もう嫌だ……お
慈道はベンチの上に体操座りをしてうなだれた。
「こ、こんなに情けない先輩初めてだわ……写真撮っておこうかしら」
大型車のエンジン音が聞こえてきた。
「先輩、バスが来ちゃいました。乗る気はないので行きましょう」
「ほっとけよ……」
「ほーら!」
慈道の肘らへんをつまんで声をかけるが、反応はない。
「や・し・ち!」
柴山の声に熱が入る。
「もうなんとでも呼べよ……」
「ああ、なんかイライラしてきたわ」
柴山は吐き捨てるようにいって、腕を組んで歯を食いしばった。
ついにバスが停車すると、柴山は申し訳なさそうに両腕をクロスさせて、運転手に乗る意思がないことを伝える。
バスが出発すると、柴山は途方にくれて、ひとまず周りに人がいないかを確かめている。あまり見られたくない光景である。しかし間もなく、焼香を終えて帰宅しようとする年寄りが近付いてくるのを確認した柴山は、中腰になって慈道の耳元に近づいた。
「先輩、バスに乗らないんだったら本当に乗りたい人に迷惑だから、立ってください」
世間に対しての皮肉を言う代わりに、慈道自身は公共の場で理不尽なことを行わないように心掛けている。口だけの人間と言われないためにだ。
「先輩ったら。パブリックスペースですよ!」
懸命な柴山の呼びかけによって、慈道はゆっくり立ち上がることができた。しかし、ずっと地面を向いたままである。
「偉い偉い!」
柴山はついつい拍手をする。まるで園児をあやす保育士のようである。
「先輩、お腹空きません?」
「うん」
今後二度と聞けないであろうこの「うん」は、恐ろしくあどけない。
「そうだ。先輩の好きなラーメンでも食べに行きましょうよ。世田谷で美味しい店知らないんですか?」
「……知ってる」
ラーメン好きな幼児、慈道。
「どこにあるんですか?」
「駅の東口」
「店の名前は?」
「ラーメン屋“空”。そらと書いてくう」
「オッケーです」
柴山はスマートフォンで検索し始めた。
「じゃあ、行きましょう」
立派な背広を着た子どもとその世話人が、夜の世田谷の街を歩き始めた。
斎場から歩いておよそ二十分。ラーメン屋“空”のカウンター席には、目の色をぎらつかせた二十代から三十代の男で埋め尽くされていた。肥満体質の者も多いが、慈道のように華奢な体型の優男も少なくない。その中で、テーブル席に座る黒いスーツを着たスレンダーな女子大生柴山と、礼服を着て打ちひしがれている慈道の存在は隔離でもされているかのように店内に孤立特異点を与えていた。
慈道が一生このままの状態だったらどうしようという予測不可能な事態に柴山は内面ではあたふたしていたが、それはすぐに杞憂であることが分かった。ニンニクの効いた脂っこい豚骨味噌ラーメンが本来の慈道を取り戻したのである。
「あの野郎、次に会ったらマジで……」
慈道は麺と野菜を乱暴に放り込みながら、もごもごという。食欲はかなりあるらしい。
「マジでどうするんですか?」
「マジで……」
「はい。だから、マジで?」
「マジで……水かけてやる」
柴山はぷっと噴き出す。
「先輩は復讐とか報復とかそういうの似合いませんよ。損な性格かもしれませんけど……いや、損ではないか。私思うんですよ。そういう所が先輩の良い所だって」
「基本的に争いは好まないが、向こうから仕掛けられたら黙っているのもなあ」
「私の前だからって別にかっこつけなくてもいいですよ」
「べ、別にかっこつけてないさ」
「喧嘩を売られたら買わなきゃ男がすたるですか? 先輩らしくありませんよ」
「しかしだな。これだけの
最後の方は特にもごもごして聞き取りづらい。
「なるほどー。私に気を遣ってくれているわけかー」
柴山はからかうように言う。
「うるさいな。それよりちゃんと残さず食えよ」
柴山の丼には野菜がてんこ盛りだった。
「分かってますよ。“ちょい”増しって言ったのに……麺は少なめにして正解でした」
「ところで、奴は俺に会いに来たらしい。話しかけて来たのも実は向こうからだ」
「そうなんですか?」
柴山は驚きの顔をみせるが、すぐにしかめた。
「ああ。俺たちの意図で斎場に誘導させたようにみえて、そうなるように意図されていたんじゃないかと思えるようになってきた。よく海外ドラマであるんだよ。自分の意思でやらせているようにみえて、実は裏で誰かがそうなるように仕向けていたことが」
「もしかして私たちはおちょくられてるのでしょうか?」
「かもな。一応、傍受していることは認めたけど、好きでやっているわけでもないとも言っていた。確かに、奴には執着心というものが感じられなかった。ふわふわしているというか」
「本当に掴みどころがありませんよね。他になにか言ってました?」
「……井上昭一は素因数分解の新しいアルゴリズムを発見しているという噂があるらしい」
「へえ、そういう話をしたんですね。もしかして、それを使えばRSA暗号が破れるってことですか?」
柴山の顔が
「かもしれないな。あくまで噂だが。佐藤が斎場へやって来たのはそのアルゴリズムを狙ってのことかと一瞬思ったのだが、別に通夜に来たところでなにかが分かるわけでもないよな。正直、奴のつかみどころのない行動パターンは、お前以上にたちが悪くてよく分からない。これぞカオス理論の核心だ」
「ひとまず井上家について色々嗅ぎ回っているってことでしょうかね」
「分からん」
これまでのことを振り返っても、ほとんどのものが憶測や仮設の域を越えず、真実が一体なのかを見定めるのが困難になりつつあった。
「奴の件に関して、これからどうする?」
「……ひとまず保留でしょうかね。私も少しだけですけど、関わるのが怖くなってきました」
「同感だ。正直、奴は得体が知れない」
「ですよね」
「ただ一つ、思うことがある。莫迦げた発想かもしれないが……」
慈道は途中にも関わらず箸を置いて少し屈み、両肘をついて手を合わせた。柴山はその様子を見て姿勢を改める。
「奴は俺たちが今後関わろうとしなくても、必要とあらば向こうから勝手に関わってくる気がする」
「うーん。エックスファイルですか?」
「さあね」
二人は酷く消化不良をきたしながら食事を続けた。
ラーメン屋を後にした二人は、そのまま電車に乗って八王子へ戻る。柴山はすっかり疲れ果てて、慈道の右隣で眠ってしまっていた。一方で慈道は考えを巡らせていた。柴山に打ち明けていない佐藤とのやりとりについてである。
(彼女を助けたことによって、因果が狂ったと言っていた。それで修正をしなければならないとも。彼女とはすなわち自殺をはかった女子高生のことだろう。三つの試練。それを乗り越えなければ彼女が死ぬ……よく海外ドラマで、起こるべきことを無理に変えたことによって別の所に歪みができてしまう、なんて話があるが……特に人の生と死は等価。誰かが生きるということは誰かが死ぬということ……井上昭一は肝臓癌を宣告されていたと聞いている。つまり、女子高生と井上昭一の間に因縁はないはずだ)
超常現象を好む慈道は数学科らしからぬ思考もしがちである。
(ということは、あの女子高生の代わりにこれから誰かが、ということになるのだろうか。佐藤は彼女と言った。つまりあの女子高生が結局死ぬということだろうか? 死の運命からは決して逃れられない、みたいな謎理論もありがちだ。いや待てよ。そうだ。俺の「彼女って誰だ?」という問いに奴は「決まっているだろう。だからこうして二人だけで話している」と答えた。二人だけ。つまり……柴山に聞かれては決まりが悪い内容……まさか、まさか……)
慈道はすやすやと眠っている柴山の方を見た。
(莫迦らしい。ドラマの見過ぎだ。俺は数学を専門にしている人間。道理に合うものだけを認めるんだ)
慈道は縁起でもない憶測をして胸が高鳴っていた。そしてそれを抑えたかったのかもしれない。自然と柴山の膝上にある左手を軽く握ってみた。案外柔らかかったので、慈道は多少の勇気を振り絞り、ほんの少しだけ力を込めた。そして、気恥ずかしさもあってか、左上を向いて吊革広告の方へ目をやる。
嫌な想像をした慈道の手からは冷汗が出ていて、浅い眠りに落ちていた柴山の脳は静かに再起動していた。そして、一体誰が自分の手に触れているのかを確認しようとしたのであろう。しかし、目を開けようと試みるぎりぎりの所でそれを中断し、微小な笑みを浮かべて再び眠りにつこうとした。
慈道は柴山が起きても気まずくならないよう、自らも眠ることに決めた。
所で、スタンガン事件以来、慈道は手を洗っていないことを二人ともすっかり忘れていた。
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