第9話 乱
駅から歩くこと十五分。慈道と柴山は井上昭一の葬儀が執り行われる永田斎場に辿り着いた。
永田斎場は東西に伸びた横長の建物で淡い煉瓦色の外壁に包まれている。東側には三つの式場、西側には二つの炉前ホールがあり、建物中央には事務所や化粧室、会議室などが設けられている。各式場の収容人数は百人ほどで、本当に遺族のみで行う家族葬をするには若干広い斎場といえる。斎場の南側は一般乗用車がおよそ四十台は停められる駐車場があり、駅からやってきた参列者はそこを経由して正面入口に辿り着く。
慈道と柴山は斎場入りして、井上家式場という案内に従い、式場前のロビーにやってきた。二人が想定したよりもずっと参列者は多かったようである。もう既に通夜は始まっており、耳を澄ますと僧侶のお経が聞こえてくる。受付を済ませた一般の参列者は、式場の大扉の前で二列ないし参列に並び、やや
「大々的に知られていないはずなのに……人多くないか? 意外と敷地も広いし。もう少しこぢんまりとしたものを想像していたんだが」
「……ですね。我々一般人の近親者と、著名人の近親者では意味合いが違うんでしょう」
二人は少し近付いて前を向きながら小声で会話する。
「確か、息子だか娘だかも有名人なんだってな」
「はい。長女の鈴木エレナさんは有名なファッションデザイナー、長男の井上
「長男もハーフなんだろ?」
「はい。男の子が生まれたら井上先生に、女の子が生まれたら奥さんに名前の決定権があるとか、そんな感じじゃないでしょうか」
「ふむ。それにしても、数学者の子孫にしては似つかわしくない職種だね」
「そうなんですよ。だから、数学科に進んだアリサはだいぶ井上先生に可愛がられたらしいですよ」
「ふーん」
慈道は何かを思索している。ふと柴山が首を横に向けると「ちょっと! ポケット!」とたしなめるようにいった。
「あ、悪い」
慈道は両のポケットから手を出した。あまりにも日常的な行為で、無意識のことであった。
「本当は先頭に並ぶはずだったのに……誰かさんが誰かさんが誰かさんが遅れた」
柴山は大扉前の行列をみてぼやく。
「すんませんね。よし、お前は普通に焼香してこい。俺は出口で待ってるから」
「先輩はお焼香しないんですか?」
「確か鈴木さんには行かないって話になってるよな。とりあえずお前が出口にやってくるまでは待機しているつもりだ。もし、前の方に佐藤正宏が並んでいれば挟み撃ちにできる」
「うーん……やっぱりいいです」
柴山は控えめに言った。
「え?」
慈道は柴山の方を向いた。
「なんかいざここに来てみてちょっと不謹慎かなって思うようになりました。先輩の言う通り、佐藤正宏はどちらかといえば善人。放っておくのはどうかと思いますけど、やるんなら別の機会にしたいです。やっぱり井上先生の前で失礼ですよ」
柴山の声はか細く、羞恥心が感じられる。
「まあな」
「だから、一緒にお焼香しましょう」
慈道は、そんなこと言ったら十万もはたいて買った礼服一式が無駄になる、と嫌味を言おうとしたがさすがに飲み込んだ。
「なら。今日は大人しく井上先生の冥福を祈るとするか」
「はい」
沈みきった柴山の表情には、ほんの僅かな晴れ晴れしさが刹那に映った。
「よし、行こうぜ」
珍しく慈道が先だって動いた。
「ええ」
柴山は今日に限って凛々しく見える慈道の黒い背中についていった。
二人は受付で香典を渡し、焼香の列に並ぶ。式場内は、四人が同時に焼香できるように広めにとった通路が親族席と一般席を隔てている。
「こちらからは四列でお願いします」
大扉から数メートル手前の所で、係が右手の親指を折って小さな声でいった。
慈道と柴山は前に並んでいた二人の参列者と同じ列になった。慈道は一番左、柴山は左から二番目に並んでいる。こうすれば、遺族に向かって礼をする際、慈道は柴山の真似をすればよいだけになる。
いざ式場入りすると、僧侶の読経がより鮮明になり、遺族の放つ霊的なアウラをより強く感受できるようになる。慈道はほとんと部外者であるゆえに、その特異な空気感を客観的にとらえることができる。そして、本当に自分がいてよいものなのか疑わしく感じるようになっていた。
最前列の四人が焼香を終える度に、慈道たちは井上昭一の眠る祭壇へと離散的に近づいていく。普段からだらしのない慈道も堂々とした立ち振る舞いであった。
ついに焼香の時がやってくると、前の参列者を参考に、まずは四時の方向を向いて喪主を筆頭とした遺族に一礼する。このとき、慈道は初めて井上昭一の子孫を肉眼で見ることができた。
喪主と印字された喪章をつけた男性は、肌の白いがっしりとした体型の男であった。井上昭一の長男で作家の井上
焼香を終えた慈道と柴山は香典返しを受け取って順路に従い、二人が通ってきた斎場中央にあった正面入口ではなく、ロビー南側にある出口のすぐ外で一息入れていた。一応後から出てくる参列者が佐藤正宏かどうかを確認しているようではあるが、二人とも彼のことについての話は一切しない。
「緊張しちゃいましたね」
「そうだな」
「なんか、ちょっと場違いな感じもしました」
「お前もか」
「ちょっと軽はずみな感じがして、スパイドラマの真似事してる自分が情けないです」
「人一人が死ぬってことは、それなりのことってことだ」
慈道の達観した皮肉めいた意見も少しは取り入れねば、そんな面持ちで柴山は恐縮しているようだった。
慈道は横に長い斎場の端にある喫煙コーナーで、一服している色黒の若い大男が気になっていた。葬儀場の職員かと一瞬思わせるが、仕事をする気は一切見せない。しかし、井上昭一ゆかりの人物とも思えないので、一際異彩を放っていたのである。身長は百八十をいうに超えていて脚も長く、短髪で眉毛はきりっとしている。慈道とは何もかもが正反対の男である。
「どうしました?」
柴山が声をかける。
「あ、いや」
とはいっても他人と干渉しない慈道である。大男の記憶などすぐに脳の隅っこに埋められてしまうことだろう。
「もう帰るんだよな」
「そうですね」
「ちょっとトイレに行ってくるから、これ頼む」
慈道は香典返しを柴山に手渡す。
「了解です」
「確か、入口から入ってすぐの所にあったよな」
「はい」
慈道は自宅でネクタイを締めるのに四苦八苦している以前からずっと我慢をしていたのである。慈道は再び斎場の正面入口から入ってトイレに駆け込んだ。中には誰にもいない。小便用のトイレが並列に五つあり、慈道は一番奥の方で用をたす。
「ふう、余剰次元があればおもらし問題は解決できるのにな」
誰もいないことをいいことに、かなりマニアックな発言をする慈道。すると足音が聞こえてきたので、慈道はすぐに背筋を伸ばして、正面を向いた。この状況では普通、一番手前のトイレを利用するのが普通だと慈道は考えているが、あろうことか、その男は慈道の隣に立って正面になにかを置き、用を足し始めた。
慈道は気まずくなって目線は正面に向けたままだ。
「さすがは井上昭一先生の葬儀だ。コネクションが凄い」
聞き覚えのある声が、それも独り言には思えなかったので、慈道は吸い寄せられるように横を向く。
「お、お前は」
なんと喪服姿の佐藤正宏であった。佐藤の正面には黒いハットが置かれている。
「こんばんは。先輩」
佐藤も慈道の方を向いてにこっとする。
「お前……嘘ついたよな」
「それはお互い様」
「大学でなんとかスポットを設置したのはお前だろ」
「Wi-Fiスポットのこと? さあ、それはどうかなあ」
佐藤は正面を向いた。口調がけやき公園で会ったときとまるで異なり、別人のようである。
「それを利用して、学生のメッセージを傍受している。そうだろ?」
「またその話ですか? いい加減にしてくださいよ」
「なら一体どうやってこの場所でお通夜があることを知った?」
「新聞記事で見たんですよ」
「それはおかしい。俺も新聞で確認したが井上昭一のことはお悔やみ欄にも入っていない。親族か、それに近しい者でなければ知らないはずだ」
「例えば、僕が井上先生の娘である鈴木エレナさんの元で働いているのかもしれない」
「ならば、新聞記事うんぬんの話はナンセンスになる」
「そりゃそうだ。なるほど……僕ははめられたということか」
かなり支離滅裂な会話だが、佐藤はこれといって焦ってる様子もなく、淡々と言葉を重ねるだけである。慈道は首を傾げてから厄介そうな顔をして正面を向く。
「ところで、君は僕になにをさせたい?」
「……別に俺は気にしちゃいないが、柴山が言うんだ。人のプライバシーを覗くのはやめろ、と」
「柴山さんらしい。彼女は清く美しい心を持っている」
「なんだそりゃ。まさか狙っているのか?」
佐藤は鼻で笑った。
「それは因縁が許さない」
「難しい言葉を使うな」
「信じてもらえないかも知れないが、別に僕は好きで傍受をしているわけじゃない」
「今、認めたな?」
「そんなことはどうだっていいんだ。僕のすべきことは他にある」
「一々お前の言っていることは鼻につく。一体なにを企んでいる?」
「君は、知りたくもない事実を知ってしまったらどうする? それを無視できるかい? 知ってしまった故に束縛される生活を虐げられることに我慢ができるかい?」
「俺はそれが嫌で人と距離をとっている」
「なるほど。ただ、最近の傾向はそうでもないようだが?」
「うるさいな。俺と人生相談をしにきたのか」
「退屈かな。それならば、もう少し興味をそそるような話をしよう。君は井上昭一が素因数分解の新しいアルゴリズムを発見したという噂を知っているかい?」
「知らん」
慈道と柴山は佐藤を責め立てるためにやってきたのに、いざ対面してみると言葉が出てこず、一向に彼のペースにはまってしまっている。
「ここ数ヶ月、先生はその研究に没頭しているという。これが本当だとしたら、それは凄いことだ」
「もしかして、お前の狙いはそれか? 先生の研究を手に入れるためにここへやって来たというのか?」
慈道は再び首を横に向けた。とっくに用は出し切っている。
「先輩。今夜はあなたに大事なことを伝えるためにここへ来たんですよ」
佐藤は正面を向いたまま淡々と喋っている。
「一体何をだ」
慈道は苛立ちを隠せない。
「少しだけ因果の流れが乱れている」
佐藤の口調が突然変わった。
「インガ?」
「彼女を助けたのが原因で、歯車が少し狂い始めてしまった。だから修正を行わなければならない」
「何を言っているんだお前は?」
「間も無く君に三つの試練が訪れる。心の試練、勇気の試練、そして力の試練。それらをすべて突破しなければ……」
佐藤はチャックを閉めた。
「しなければ……?」
「彼女は死ぬ」
佐藤は冷たく言った。
「彼女って誰だ?」
佐藤はついに慈道と目線を合わせる。
「決まってるだろう。だからこうして二人だけで話している」
突拍子もない。客観的にそれは明確なのだが、佐藤の深遠な表情に偽りは見出せなかった。
「わけがわから……ぎゃあ!」
バチバチと電流音が流れた。佐藤はどこからか取り出したスタンガンを慈道の
「すんませんね、先輩」
悪気がなさそうに、佐藤はハットを被って颯爽と逃亡した。
「ま、待……」
慈道は足元が覚束なくなり、ぷるぷる震えながら、ついに仰向けに倒れてしまう。
トイレの外では痺れを切らしてやってきた柴山が爪先で床を何度も叩いていた。そんな中、ハットで顔を隠した佐藤が突如現れ、声色を使って柴山に声をかける。
「大変だ。中で人が倒れてたぞ。急いで僕は事務の人を呼んでくるから」
「え? 本当ですか?」
佐藤は柴山の問いには答えず、走って行ってしまった。
「ちょ、ちょっと……うーん、やむを得ない!」
柴山は意を決して男子トイレに特攻した。
「きゃああ!」
初な女性の二重の叫び声が永田斎場のトイレに鳴り響いた。
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