第8話 諦/締

 井上昭一が亡くなった翌日に通夜は行われることになった。どのニュースや新聞を見ても井上昭一が亡くなったことは取り沙汰されていなかった。近親者の間で粛々と執り行う意向のようである。そんな中、佐藤正宏がやってきたとなれば、柴山のメッセージを傍受していた可能性は高いとみえる。

 佐藤正宏を捕捉するには、早めに葬儀場に出向いて焼香をし、香典返しを受け取る出口あたりで張り込むのがよいと慈道と柴山は企てていた。それゆえに、二人は世田谷区にある葬儀場の最寄り駅に、通夜開始一時間前の夕方五時に待ち合わせをしていたのだが……

「俺としたことがやっちまった……」

 おかしな礼服姿の男がそう呟き、五時二十七分に電車を降りて、帰宅ラッシュに巻き込まれながら慣れない足取りで切符を片手に改札口へ向かう。

 それにしても、礼服をまとったその男が慈道弥七だと言ったら、彼を知る者は肝を抜かすだろう。汚らしい無精髭は綺麗に取り除かれており、髪の毛も解かされていて、皺ひとつない礼服をまとっている。光沢を抑えてある汚れ一つない革靴の金額は、あの汚らしいサンダル何枚分であったのであろうか。社会不適合者の慈道弥七が通夜に参列するということで、常識的な身嗜みだしなみでやってきたのだ。しかし、ただひとつ致命的な点があった。彼はネクタイをしていなかったのである。

 慈道は改札を出て突き当たりの壁際に黒いスーツに身を包むショートカットの女性を確認した。柴山明美である。改札口が一箇所しかない小さな駅なので、すぐに見つかった。以前慈道に下品といわれたのを気にしてか、礼節を弁えてか茶髪は落とされていた。

「おい! 遅いぞ!」

 当たり前だが、柴山の口調は厳しかった。

「す、すまん。さ、三十分も遅れ……」

 慈道は言葉が思うように流れてこずにせき止めてしまう。急いで来て息を切らせていたのもあるが、それよりもスーツ姿の柴山に釘付けになってしまったという点の方が大きい。元々体を動かすことが好きな柴山のプロポーションは美しかった。そして、スカートではなくパンツを履いているので、その引き締まった女体曲線が、一層可微分な滑らかさと美しさを際立たせている。普段からスポーツウェアで大学にやってくることが多いので、そのギャップに慈道は心を奪われているのである。

「ああ! なんでネクタイしてないの!」

 柴山は慈道の異変にいち早く気づき、声高に子を叱るように叫んだ。

「いや、その、慣れないもんで、一時間かけてこの様だった……」

 先輩としての威厳はまるでなかった。

「い、一時間も? 昨日、店で一緒に練習したじゃないですか!」

「あんなん、一回で覚えられるわけないだろ!」

 慈道も開き直っている。

「ああもう、莫迦……」

 柴山は目眩めまいを催したか、一瞬ふらつく。

「ネクタイは持ってきてるんでしょうね」

「ああ、ほら」

 慈道は伊達巻のように丸めた黒のネクタイをポケットから取り出した。

「貸してください」

「こ、ここで?」

「そうするしかないでしょ! はい、上着脱いで!」

 慈道は渋い顔をして上着を脱ぎ始める。

「はい、これ持って!」

 柴山が小さめの黒いフォーマルバッグを手渡した。帰宅ラッシュで人通りの多い改札口前で、おかしな二人組が、ネクタイを締めはじめる。

「あれ? どうするんだっけ?」

 最初は手際がよく見えたのだが、肝心の所でストップが入る。少し雲行きが怪しい。

「おい、お前も分かってないんじゃないかよ!」

「私だってネクタイしたことありませんから、慣れてないんですよ!」

 柴山はスマートフォンでネクタイの締め方を検索し始めた。

 手間取りそうだと思った慈道はきょろきょろして周りの様子を伺う。立ち止まりこそしないが、通りがけに物珍しそうに視線を向けては、苦笑いをして去っていく者が多い。慈道は恥ずかしさで頰に熱を帯びてきた。柴山は画面に夢中なので、周囲の状況は見えていない。

「おい、早くしろ!」

 慈道は小声で急かすが、なんとも情けなく無様である。

「少し黙っててください」

 その後、柴山は何回か締めてみるも、大剣と小剣――ネクタイの太い側と細い側――のバランスが合わず何度かやり直すこととなった。結局約十分少々かけて、満足いく形になった。

「オッケーでしょう」

 柴山は満足そうに頷いてみせた。そして、ふと周囲を見ると、待ち合わせで改札口付近に立ち止まっている数名と目線が合った。

「ほら、さっさと行きますよ!」

 ようやく自分らの異常行動に気付いた柴山は逃げるように大股で歩き始める。慈道も慣れない足取りでそれに続いた。

 駅を出た二人は一旦立ち止まり、柴山はスマートフォンで斎場の場所を再確認し始めた。すっかり太陽は地に潜り込んでしまっている。

「おい、これ」

「あ、すいません」

 慈道はバッグを柴山に返すと、上着に腕を通して下襟を掴んで整え、特に意味もなく夜空を当てもなく見上げていた。その姿を見て柴山は少しぼうっとしていたようだった。

「どうした?」

 慈道が尋ねると柴山はすぐに我に返る。

「あ、いや……ちゃんと髭剃ったんですね」

 柴山は慈道の口周りをじろじろ見る。

「さすがに俺もそれぐらいは弁えてるさ。ちゃんと直前に風呂も入った」

「感心感心」

「さすがに俺を舐めすぎだろ」

「いやいや……」

 柴山は笑って誤魔化す。

「はい、背筋伸ばして!」

 突然柴山が声を張ると、反射的に慈道は気をつけをした。

「うん! 結構決まってるじゃないですか」

「そ、そりゃどうも」

 柴山の朗らかな表情は、異性に対してまだまだ蒼いといえる慈道の心をくすぐった。

「そういや、ネットの方はどうだ?」

「井上先生が亡くなったことは、ネット上では騒がれていないようですよ」

「そうか。だったら手筈通りってことだな」

「ええ。誰かさんのせいでだいぶ狂いましたけど」

「と、所でさ、例えば Google で『井上昭一 死亡』とかで検索するとするじゃん。そしたら、Googleに井上昭一が亡くなったんじゃないかって勘繰られないか?」

「……実は、私も似たようなこと思うことあるんですよ。例えば、『不倫 バレない方法』とかで検索した人って、きっと不倫してますよね。検索ワードを解析することによって、結構個人情報が筒抜けになってるんじゃないかって思うんですよねえ」

「情報化社会って怖いねえ」

「そうですね、って、そんな話はまた後で。とにかく一刻も早く斎場に向かいましょう」

「へいへい」

 二人は並列に歩き始めた。

 大学の者が見ればいつものおかしな二人が一緒に行動している、程度にしか映らないだろう。二人を知らない一般人からすれば、明らかに特別な間柄にある恋人同士にしか見えないだろう。

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